「気にしなくていい……って、いや、気にするだろ、普通に! なあ、くま吉!?」

 もちろん、くま吉は返事なんかしない。いつも通りのつぶらな瞳で俺を見つめてくれるだけだ。
 それでも今は、くま吉がいてくれてよかった。

「雅人の家で雅人と二人きりなんて、別に意識することじゃない。することじゃない、けど……いやでも、あいつもわざわざ言ってきたしなあ」

 気にしなくていい、と言いつつ、あいつは事前に二人きりだということを念押ししてきた。そのことになにか意味があるんじゃないか、と気になって仕方ない。
 手を繋ぐのも、ハグをするのも、別に平気だ。でももし、それ以上のことを求められたら? それでも俺は、ちゃんと応じられるんだろうか。
 雅人に本心を悟られずにやっていけるんだろうか。

「……俺とキスしたいとか、思うのかな、あいつ」

 そう言われたら、俺はどんな顔をすればいいんだろう。考えたって答えなんて分からないのに、ぐるぐるとずっと考えてしまう。
 もう、お泊りは明日だっていうのに。

「いや、なるようになるだろ。恋人とか友達とかそういうの以前に、俺と雅人なわけだし」

 うん。そうだ。なにも問題ないはず。きっといつもみたいに楽しいお泊り会になる。

「そうだよな、くま吉!?」

 やっぱり返事はない。分かってはいたけれど、今だけは返事がほしかった。





「いらっしゃい、裕ちゃん」

 玄関のドアを開けた裕樹は既に部屋着姿だった。シンプルなグレーのスウェットで、去年から着用しているものだ。

「おじゃまします。あ、お菓子持ってきたから」
「別にいいのに。ありがとう」
「さすがに持って行けって母さんがうるさいから」

 遊びに行くだけなら何も言われないけれど、さすがに泊まりとなると話は別だ。今日は、母親がデパ地下で買ったクッキー缶を持ってきた。

「ご飯とかどうしよっか。家にあるものは自由に食べていいし、なんか買いに行ってもいいけど」
「ピザは?」
「あ。いいね。夜はピザにしよっか」

 コーラを飲みながらピザを食べて、映画を見ながら夜更かしする。泊まりの時の定番コースだ。
 本当はデリバリーで注文したいけれど、割高になるからいつも近くの店舗へ買いに行っている。
 家だと滅多にピザなんて食べないし、パーティーという感じがして楽しい。

「今日はめちゃくちゃ楽しもうね、裕ちゃん」





「さすがに、そろそろ寝ようか」

 時刻は午前2時過ぎ。せっかくのお泊り会とはいえ、そろそろ限界だ。

「だな。部屋行くか」

 食事はさすがにリビングでとろう、ということになって、今日はかなりの時間をリビングで過ごした。大きいテレビで見るホラー映画は大迫力で、俺も雅人も、何回も叫んでしまった。
 気が抜けるくらい、いつもと変わらないお泊り会だった。

 雅人の部屋に移動した頃には、俺の目は半分閉じかけていた。昨日は緊張であまり眠れなかったから、疲れがたまっているのだろう。

「ねえ、裕ちゃん」
「なに?」
「今日、一緒にベッドで寝ない?」
「……えっ?」

 雅人の部屋に泊まる時は、いつも客用布団を用意してもらっていた。小さい頃は一緒にベッドで眠っていたのだろうけれど、小学校高学年くらいからは、シングルベッドは狭かったから。

「だってほら、今から布団敷くの面倒くさくない?」
「それはまあ……確かに?」
「詰めたらいけるでしょ」

 そう言って、雅人はベッドに寝転がってしまった。

 ……別に、一緒に寝るだけだ。なにかがあるわけじゃない。俺も雅人も、たぶんすぐ寝るだろうし。

 どくん、どくんとうるさい心臓を無視してベッドへ入る。眠れないことはないけれど、やっぱりシングルベッドは狭い。
 常に肩同士がくっついてしまうし、寝返りをうつだけでもかなりお互いの邪魔になってしまうだろう。

「裕ちゃん。なんでそっち向くの」

 眠いからか、雅人の声はいつもよりとろんとしている。肩を掴んで、強制的に身体の向きを変えられてしまった。

 いや、二人で寝る時に向かい合って寝るか? 狭すぎるだろ。恋人ならそういうもんなわけ?

 混乱している間に、ぎゅ、と強く抱き締められた。冷房のおかげで部屋が涼しいから、単純に人肌が心地いい。

「裕ちゃん」

 耳元で名前を囁かれると変な感じがする。とっさに顔を遠ざけると、裕ちゃん、とまた名前を呼ばれた。
 寝る直前だから、雅人は眼鏡をかけていない。整った顔立ちがいつもよりもはっきり見える。

「一個だけ、お願いがあるんだけど」
「……な、なんだよ」

 この状況でこんなことを言われたら、緊張しない方がおかしい。
 俺の心臓は、爆発しそうなほど騒いでいる。

「キス、してもいい?」

 雅人の手が伸びてきて、そっと俺の頬を包んだ。真剣な目が、見たことのない色で俺を見つめている。

 雅人は、俺とキスしたいんだ。

「……いいよ」
「ありがとう」

 雅人の唇がゆっくり近づいてくる。とっさに目を閉じて、唇が重なり合うのを待った。
 それは本当に一瞬のことだった。単なる皮膚と皮膚との接触だ。ただ、雅人の唇はほんの少しだけ湿っていた。

「ありがとう、裕ちゃん」
「……別に。俺たち、付き合ってるんだし」
「うん、そうだね」

 言いながら、雅人が枕元においてあったリモコンで部屋の電気を消した。





「裕ちゃん、起きて。朝だよ」

 何度か身体を揺さぶられ、ようやく意識がはっきりしてくる。それでも起き上がるまでにはかなりの時間を要した。

「朝ご飯どうする? 食パンとかならあるけど」
「あー、そうだな、食べるか」
「了解。でもその前に俺、一個裕ちゃんに話があるんだよね」
「……なんだよ、朝から」

 雅人はなかなか続きを話さない。しびれを切らした俺がなあ、と催促すると、雅人が震えた声で言った。

「俺たち、別れようか」