それから、僕らがその日を決めるまでに長い時間はかからなかった。
 美月は夏休みのある日の夜に僕に電話をかけてきて、ただ一言だけいった。
「明日にしようと思う」
 僕も電話越しの美月のその言葉を聞いて、それ以上話すことはないと思って、一言だけ言葉を返した。
「わかった」
 それから、「僕は明日、どこにいけばいい?」と最後に美月に確認した。
「いろいろ考えたんだけど、前に退院したときに三人でいったショッピングモールがいいかなって、あの日、楽しかったから」
「いいと思う」
 僕は言葉少なに返事をして、それからなんだかもう僕たちは互いのなかで使い果たして言葉をすっからかんにしてしまったみたいに大した話もせずに電話を終えた。
 次の日、僕がショッピングモールのフードコートで何も頼まずにただ人混みのなかに紛れていると、僕を見つけた陽菜が、「奏」と人混みに負けないように僕の名前を呼ぶのが聞こえた。
 僕はその声をした方に振り返ると、二人の姉妹が笑ってこちらに向かって立っていた。
 僕は二人に合図するように手を挙げると、二人はこちらに歩み寄ってきた。
 夏休みのフードコートはいつかのときなんかよりももっともっと人が多くて、初デートの恋人たちや子ども連れの家族が、笑ったり泣いたり、怒ったり、ありきたりな、だけどどこまでも特別に幸せな与えられた時間を過ごしていた。
 僕と美月と陽菜はそんな様子をいつまでも見ていた。いつまでも。
 やがて陽菜が「お腹すかない? お姉ちゃん、ラーメンセット食べない? 今日は妹様が奢るよ」と言った。
美月は珍しいこともあるもんだと破顔して笑ったが、言った。
「大丈夫。代わりに、お水を汲んできてくれない」
 陽菜は美月のその言葉を聞くと、いつものように強がっていた顔を少しだけ不安にさせて姉に確認した。
「本当にいいの? お姉ちゃん」
 美月は黙って頷いた。
「わかった」
 それから陽菜は席を立って、冷水機まで小走りで走っていった。
「なんか、あんなふうにフードコートで走ってる妹をみてると、感慨深いものがあるなあ」
「お姉ちゃんとしてはやっぱりそういうもんかね」
 僕は美月の最後の会話に付き合った。
「陽菜ってほんとかわいいよね、奏もそう思うでしょ」
「まあ」
「あー! 彼女のまえで他の女の子のことをかわいいって言った!」
「なんというトラップ。人類はこんな愚かな争いを幾度繰り返してきたのであろうか」
 僕はそんなふうに真面目腐った声でふざけた。
 美月はそんな僕を見て笑った。僕も笑った美月を見て笑った。
 幸福ないつものフードコートだった。
 ありきたりで平凡で、だからこそ特別な、僕らに与えられた幸福な時間そのものだった。
 美月がポケットから、ピルケースを取り出す。
 それから一錠だけラムネみたいな粒を取り出す。
「はあ、これってすっごい苦かったりするのかなあ、パパって優しいけど気が利かないタイプだからなあ」
 「優しさというのは苦味でできているのだよ、美月サン」
 僕は美月がこぼした言葉にそう返した。
 美月は僕の言葉に微妙な表情でこちらを見た。
「なんだよ」
「べつにー」
 あとでこのことも僕は思い出したりするのかな、僕は声に出さずにそんなことを思った。
 美月は僕の内心を知ってか知らずか言った。

「この薬、飲んだらすっごく眠くなるらしいの、それで目が覚めたら……」
 美月は言葉を詰まらせた。だから僕はその続きを言った。
「目が覚めたら、黄泉の国から復活して、月に代わってお仕置きするんだろ?」
 美月は僕の言葉を聞いて驚いたように僕を見た。
 それから、いつものように笑っていった。
「なにそれ、ありえんくらいに滑ってるじゃん!」
「お前のギャグだろ!」
 僕らはまた笑った。
「奏」
 美月が僕の名前を呼んだ。
「なに?」
「ありがとう」
 僕は返事に迷った。でも結局なんのつまらないありきたりの答え方しかなかった。
「どういたしまして」
 やがて陽菜が一杯だけ水を紙コップに注いで持ってきた。
 美月は妹にから静かにコップを受け取った。
「はー」
 美月は少しだけ躊躇っていた。
「やっぱり、奏が飲む?」
「別にいいけど」
 美月は時間を引き延ばすように大袈裟に言った。
「別にいい?! これ、飲まなきゃ、わたし死んじゃうんだよ! あんたは最愛の彼女を殺す気か!」
「てゆうか、それ、俺が飲んだらどうなるんだろうな」
「あ、死んじゃうらしいよ、パパが言ってた。あたし以外の正常な脳の人が飲むと、ただの毒だからあっさり死んじゃうらしい」

「え、ほんとかよ! お前、俺を殺す気か!」
「ひっひっひっひ」
「……」
「……奏」
「うん?」
「飲むよ……」
「うん」
「ほんとにほんとに飲むよ」
「……うん」
「てやー!」
「え、ほんとに飲んだの?」
「飲んだ! 飲んじまったぜ!」
「あ、え、なんていうか、えー……」
「あ、これ、ほんとだ、ほんとにまじで眠くなるね……」
 美月はテーブルのうえの僕の手を取った。それから自分の指を絡めると強く握った。でも眠気のせいなのか、全身に力が入らなくなるのか、すぐに力は抜けていった。僕は美月の手を強く握り返した。
「ありがと、怖いから、わたしが眠るまでそうして握ってて」
「うん」
 なぜだか、美月の声を聞いていると僕まで眠たくなってきたような気がした。ここ何年か、ずっと続いてきた緊張の糸が最後の最後で切れてしまったのかもしれない。
 美月は少し眠そうな僕に気づいて抗議した。
「……こら……、彼女の一世一代の晴れ舞台の日に先に眠るやつが……おるか……」
 美月の声が小さく、かぼそくなっていく。
「わかったよ、こっちは最後まで起きてるよ」
「……それで……よいのじゃ……」
 美月の声がだんだんとフードコートの子どもたちの声に紛れていく。
 目が覚めたら、彼女が食べるものはなにかな?
 やっぱりラーメンセットだろうか。
 僕は子どもたちの声を聞いてそんなことを考えていた。

「奏……」
「なに?」
「キスして」
「いや、君、隣りで妹がすごい目でこっちを見とるんじゃが」
「見せつけてやろうぜ……」
「おお……」
「仕方ねえな、やれやれ」
「あ、ついに言ったな、そのセリフ」
「……」
「……」
「えへへ、じゃあ、おやすみ、奏」
「……おやすみ」
「なーんちゃって! キッスで眠る逆眠り姫と思った? 残念、美月ちゃんでした」
「はよ、ねろ!」
「え?」
「あ……」
「それが最後の言葉なんだ……」
「あわわわわわ」
「嘘だよ、じゃあ今度こそほんとにおやすみ」
「うん……」
「……」
「……おやすみ、美月、いい夢を」


                     ***

「おはよう、お姉ちゃん」

「……」
「どうしたの? 誰か探しているの?」
「すみません、なんだか起きたら、急にここに座ってて、でも……、あの……、さっきまでここに誰かいませんでしたか?」

「……ううん、ここにはあなたしか座ってなかったよ」