余命後に蘇った彼女と僕の日々、あるいはその音楽について

5.
 揺れる休日のバスが小刻みにリズムを刻んでいく。
 特急が止まるターミナル駅から電車は各駅に切り替わりそこからさらに七八駅くらい乗り過ごした駅だっただろうか。
 街中の喧騒はすっかりとどこかの地点で消え去って、僕ら三人はあっというまに非日常的な夏の田舎道や田んぼ道がよく似合う土地に運ばれた。
 
 電車を降りると次にバスに乗った。
 ちょうど電車が来る時間と合わせてバスは来たが、さりげなく乗る前に時刻表をみると、一本逃がすとつぎは五十分ほど先で、一日の本数も限られているようだった。
 バスのなかでは、誰も話さず静かな時間が続いた。
 バスは街の中心の果ての郊外のさらに果ての土地で夏の緑のあいだを抜けていった。
 それから目的の停留所に到着の二十分前くらいだったろうか、ようやく陽菜が僕らの空気を変えるように話した。
「お母さんもなんでこんな遠いところにしたんだろうね。いちいち毎回来るのが大変ったらないよね」
 美月は陽菜の言葉を受けて返した。
「あれじゃない? あんまりすぐ来れるようなところだと、陽菜がしょっちゅう来ちゃうから、やっぱりわざと遠いところにしたんでしょ」
「えー、どっちかというと、お姉ちゃんでしょ、それ」
 僕は休日に姉妹のじゃれあいを聞いていると、少しだけここ何日かの緊張が緩んだ気がして、朝が早かったこともありバスの揺れにそのまま身を委ねそうになった。
 僕は兄とこんな他愛もないやりとりをした時間は一度でもあったろうか。
 甘ったるいような眠気の感覚は、いつのまにか僕の無意識に問いかけていた。
 僕と兄でこんな会話をした記憶はない。ないけれど、もしかしたら記憶にもない小さい頃なら一度くらいあるのかもしれない。僕はなぜかそんなことを思った。記憶にはなくとも、そんなことが。
 どんなに忘れていたって、最後には本当の意味ではなにも忘れることはできない。
 そういえば、いつか美月がそんな言葉を言っていた気がする。でも、それは美月の言葉ではなくて誰の言葉だったっけ。
 僕はうつらうつらとバスと一緒に協奏曲を奏でながら、思い出そうとしていた。
 けれど、バスの停止ボタンが押されて、僕たちの協奏曲と追憶はそこで唐突なフェルマータに入った。
「奏、そろそろ着くから起きないとダメだよ」
 美月の声が閉じられた瞼と耳に割って入って聞こえた。


                   ***

 バスが止まったのは山道の入り口の駐車場だった。
 そこから数分歩くと山道の入り口の看板が立っていた。美月によれば、ここから歩き始めて十五分かからないくらいとのことだった。
 最後、結構歩くよと美月に事前に言われていた意味が僕はようやくわかった。できるだけ涼しい格好がいいよと言われて薄手のシャツを一枚重ねただけにしていたので電車やバスのなかは少し肌寒かったが、外を歩いた途端、夏の日差しは木々の葉の隙間からでも暴力的に熱く、みるみる服に汗を染み込ませていった。
 美月は半袖のブラウスにデニムのショートパンツで、陽菜は白のシャツとサロペットのようなものを着ていた。二人とも見知った道らしく山道を迷わずに登っていった。
 とはいえ美月は訪れるのが久々だったようで、加えて暑さも受けて少し登るのが辛そうだった。
「大丈夫か?」
 僕は先頭を歩く陽菜をしんがりとして後ろから声をかけた。
「大丈夫……、じゃない! ちょっと休憩!」
 美月はそう言って立ち止まるとカバンから駅のコンビニで買っておいたペットボトルを開けて勢いよく飲んだ。
 夏の日差しをうけて、喉元を上下してただ水を飲む美月の姿に僕はなぜか少し気恥ずかしい気がして目を逸らした。美月と初めて会った中学のときから同じ高校に入って今日までに美月はそのぶん大人になっていた。
 あたりまえのことだけど、僕たちの慌ただしく少し通常とは違う高校生活のなかでそんな当たり前のことに気がつくのを僕は忘れていた。山の虫たちは僕たちをけたたましくなにかにせきたてていた。
「水、欲しいの?」
 美月が飲み終わるとこちらにボトルを渡そうとしてきたが、僕は自分のがあるからいいよと断った。

                   ***

 それから僕らは半袖で時折触れる木々の葉っぱや寄りつく羽虫たちをものともせずに進む陽菜になんとかついていって山道を登り切った。
「こんな遠かったっけ?」
 陽菜も最後の方には流石に疲れたようで、最後の階段道で少し弱音をみせたが、すぐに到着を後ろの僕らに伝えた。
「着いた!」
 僕と美月が二人で陽菜に追いつくと、目の前に背の高い木々に囲まれた木材とコンクリートが合わさった教会が現れた。
「わたしとお父さんは去年の春前に来てるから半年ぶりだけど、お姉ちゃんは二年以上前?」
「あー、そうかも。入院前に来たのが最後だから、なんかわりと最近も来た感じあるんだけど、もうそんな経ったんだね」
 僕は二人の会話を隣りで聞きながら、教会の外観を観察した。
 建物は小ぶりで一階建ての一軒家よりは確実に大きいが二階建てとまではいえなさそうな大きさだった。山道のなかにポツンと立っている姿は屋根に十字架が掲げられていなければ、もしかしたらちょっとしたコテージか、あるいは小洒落た喫茶店と勘違いしてしまうかもしれなかった。
 陽菜が様子見とばかりに教会に近づいて、そっと扉を開ける後ろをついて僕らは建物の中に入った。
 一足その聖域に足を踏み込めばひんやりとした空気が肌に触れて、外界との差を一瞬で感じた。アナクロな雰囲気とは裏腹にどこかで空調が作動しているのだろう。しかし音は一切せずに静まりかえっていて、騒がしくすることは自然と憚られる雰囲気があった。
 ただそれも強圧的なものではなく、場の雰囲気が心地よく自らを敬虔とさせているがゆえで、緊張感は感じつつもけして不快なものではなかった。
 礼拝者は自分たち以外にはいないようで、教会特有の木製の椅子には腰掛ける人は誰もいなかった。祭壇の奥からは小さいながらステンドグラスの窓が二つあって、左右両方から室内へ虹の光りが差し込んでた。

 自然と惹かれるように祭壇のほうに歩もうとすると、祭壇脇から礼服姿の男がでてきた。僕は入ってきたことを咎められるかと身構えたが、すぐに陽菜と美月がご無沙汰してますと頭を下げた。
「こちらこそご無沙汰しています。美月さんはいらっしゃるのはいつ以来でしたでしょうか?」
 神父は両手を前に組み合わせて話しかけてきた。
「ちょうどその話をさっきしてました。多分最後に来たのは入院する前だから二年くらい前だと思います」
 神父はどうやら美月の事情について知っていそうだった。
 僕は神父がそのまま美月の体調や近況なんかについて尋ねるかと緊張した。しかし神父はそちらに話題を振らず、「お父さんは今日はいらっしゃらないのですか」と美月に尋ねた。
「はい、父からはくれぐれもよろしくとのことでした。今日は日曜日ですが、仕事の都合がつかなかったみたいで、でもまた母の命日には必ず伺うと伝えておいて欲しいとのことでした」
 陽菜が珍しくよそ行きの口調で神父に答えた。
「そうですか。ご健康ならなによりです。それでは良い祈りの時間としてください。皆さまに神のご加護があらんことを」
 そういって、神父はまた祭壇の脇から部屋に戻った。
 神父が退室したあと、陽菜が説明した。
「神父さんはお母さんとお父さんのちょっとした知り合いなの」
「へえ」
 なんだかすっかり神父の雰囲気に飲まれてしまった感じのある僕に美月は神様の前で隠すように笑った。
「奏ってこういう場所苦手? ちょっと緊張してるでしょ」
 僕は目を逸らして、美月の問いかけを誤魔化した。
「求めよ、さらば与えられん、だね」
「また適当なこといって、バチが当たるよ」
「神様は美月様より寛大な心をお持ちなのです」
 僕は美月の言葉に冗談で返しつつも、自分のいった聖句を頭のなかで反芻せずにはおれなかった。
 求めよ、さらば与えられん、か。
 僕たちは何を求めて、そして何を与えられたのだろうか。
「あ、奏が真面目な顔している。神の恩寵はこんな人にまで、偉大だなあ」
「それで今日はここに祈りに来たってこと?」
 僕は真面目腐った顔を見られた気恥ずかしさを誤魔化すように言った。
「それもあるけど、ここにはアレがあるからね」
 美月が陽菜に目線を送った。陽菜は「ああ、アレね」と頷いた。
「アレって?」
「ピアノ。ここの教会、お母さんがよく仕事で行き詰まったりしたらよく来てたの。悩める作曲家が神にも縋りに来たっていう感じなのかな」
 そういえば、と僕は思い出した。
 美月の母親はキャリアの後半では宗教的な調べに近づいていったという批評を読んだことがある。僕はその批評を読んだとき事情を知らないのでとくに気にも留めていなかったが、そこにはこの場で作曲家として曲へのインスピレーションを得ていたという事情もあったのかもしれない。
「休みの日になるとさ、お母さんが私たちを連れてきて、外で遊ばせているあいだにここでよく曲を作ってたの」
 美月は祭壇の隣りにあるピアノを愛おしそうに触れた。
 そのピアノは古そうな型だったが、それでもきちんと艶を失われずに丁寧に扱われていることが伺われた。きっとさっきの神父が粗末にせずに、大切に扱っているのだろう。美月が鍵盤を軽く触れて音を出しても調律もしっかりなされており、現役として使用されているようだった。
「教会って、パイプオルガンとかじゃなくてピアノのところもあるんだ」
「ここの教会は由緒は古いんだけど、建物自体はここ十数年くらいのあいだで建て直ししてるから結構新しいんだ。建て直すまえはちょっとしたパイプオルガンがあったらしいんだけど、建て替えのときにどうしてもお金が足りなくて残せなかったんだって、でも神父さんがツテを辿ってこのピアノを代わりに置いたの」
 僕の感想に陽菜がそんなふうに答えた。それから美月が引き取るように続けた。
「今日はね、このピアノを弾きたくてきたの」
「大丈夫なのか?」
「確かに古そうだけど、調律はしっかりしてるし……」
 美月が言ったのを遮って僕は言った。
「そうじゃなくて……」
 美月の症状はピアノを弾く能力と相関していると俊明さんは言っていた。僕は美月がピアノを弾くことがなにかのトリガーにならないか心配だった。美月は僕のいわんとせんとしていることを理解したらしくて、応えた。
「一曲くらいなら、きっと大丈夫。それに最後だから」
 僕は美月がピアノを愛おしそうに撫でるその指先を見つめた。
 最後。美月はただ一言そういったのだ。
「そっか。わかった」
 それじゃあ、お二人とも審査員をよろしく、演奏後に拍手はいらないからね。
 美月はそういって笑ってピアノの前に厳かな儀式のように、なんてことのないように座った。
 そっと鍵盤に彼女の指先が触れる瞬間、僕は緊張とともに一瞬この場所にいる誰かが僕らを見守っているような気がした。その手がほんの少しだけ震えたように思うと、美月はそっと目を閉じてゆっくりと最初の一音を弾いた。
 祭壇の十字架が着席した僕らを黙って見下ろしていた。

                     ***

 

 鍵盤によって持ち上げられたハンマーがそっと弦に降りて、その音は響く。
 それからゆっくりと天使が舞い降りる。
 柔らかく、優しく、穏やかで緩やかなパッセージ。
 怒りも悲しみもない。
 ただ静かで平穏なこの幸福な時間を祈る響き。
 今日の彼女との日々に。
 今日までの彼女の日々に。
 そして今日からの彼女の日々に。
 たとえ、それがどんなものであっても。
 起きたこと全てを認めて、全てを受け入れるような喜びにただ頭をたれるような。
 どんな日も、たとえどんなに辛い日々でも。
 全てが誰かから渡された大切な願いだって。
 そう信じるための、そう信じさせられる、そう祈る、そんな響きだった。
 僕は前にもこの曲を聴いたことがあった。
 美月が退院した日に陽菜がショッピングモールのストリートピアノで弾いた曲だ。たった数ヶ月前のことなのに随分と昔のことのように感じられる。
 でも、僕は覚えていた。そうだ、美月は確かこんなことを言っていた。
──ねえ、奏、この曲、きいたことないでしょ?
 僕はあの日もこんなふうに陽菜の演奏を見ながら隣で囁く美月の声を聴いていた。

──この曲はね、ママがちっちゃいときに私たちのために作ってくれた曲なんだよ。
 僕は頷く。
──この曲のタイトルはね、『与えられた幸いの日々』
──まんまだな。
 僕は言った。でも美月は満足そうに陽菜の演奏を聴きながら言った。
──でも、良い題だと思う、わたしは。
6.
 美月が演奏を終えると僕たちは教会を出て、外を歩いた。
 僕たちは黙ったまま、ただたんたんと敬虔な墓石が連なるあいだの道を一歩一歩歩いていく。教会に着くまでは汗が止まらないほどの暑さだった気温も午後のピークを過ぎると地上よりもわずかに標高の高いこの場所の風で落ち着きを見せたようだった。
 それから前を歩く美月と陽菜が歩みを止めると僕は目的地に到着したことを理解した。目の前の黒い御影石のかたちはシンプルでやや傾斜のついた真四角の墓石が夏の午後の光りを受けていた。
 藤咲望美。その墓石にはアルファベットでそう刻まれていた。美月と陽菜の母親の名前だった。
 陽菜が持ってきた鞄から献花を取り出すと墓石の前にそっと置いて離れた。
「久しぶり、ママ」
 美月は黒の御影石にそう語りかけた。その石の艶めきは僕にはどことなくピアノのそれを思わせた。僕は二人が目を閉じて手を合わせるのを見ると、みようみまねで手を合わせて目を閉じた。
 静かな夏の時間だった。
 ただ虫たちが背後の茂みで鳴きわめくなかで一瞬葉を揺らす風の音がした。
 僕は美月の母親に会ったことはない。
 けれどその風の音を聴いて、なんとなく美月と同じような笑い方をするような人だったんじゃないかと思った。
 美月は祈りの時間を終えると、閉じていた目を開けて一歩だけ進んで、僕らより墓石のほうに近づいた。
「今日は二人とも遠いところに連れてきちゃって、ごめんね。でも、どうしても二人とここに来たかったの、最後にさ」
 美月はそっと慎重に付け足すように言った。
「奏、これ」
 美月はそういって、鞄から一冊ノートを取り出した。僕は黙って、受け取った。一ページだけ捲るとなかに引かれた五線紙のうえに手書きでいくつもの音符と休符が描かれていた。ピアニストならそれだけでここに何が書かれているかわかる。これは楽譜だ、それもピアノのための。一ページ目のうえには曲のタイトルが書かれている。
 僕はノートから視線を上げて再び美月の表情に視線を戻した。
「これは……」
「奏に持っていてほしい」
 美月の目はまっすぐでそこにはいつもの冗談もいつもの笑った表情もなかった。でもそれは悲しみや嘆いているわけでもなかった。
 ただ美月はこちらをまっすぐと見つめていた。
 こんな表情もするんだな。
 僕はそんなことを思うとなぜか涙が溢れて止まらなくなるのを感じた。まだ彼女が涙を流していないのに、先に泣くべきではないとわかっているのに、それでもこれから美月がいうことが僕にはわかって、どうしても涙が止まらなかった。
「ごめん」
「大丈夫、謝らないで」
 責めるわけでもなく、咎めるわけでもなく美月は穏やかに言った。
「奏、あのね。わからないけど、たぶん、ママも今のわたしとおんなじ状況だったんだと思う。自分の生命か、それとも大切な人のこれまでの記憶と未来の記憶その二つのどちらか選ばないといけない状況だったんだと思う」
 美月の声がどこか遠くから響いているような気がした。目の前にいるのに、でも真剣に一音たりとも逃さずに聴かなければダメだと僕は目を閉じなかった。
「ママがここにいるってことは、ママは選ばなかったんだ、ううん、違うよね、ママも選んだんだ。ママは大切な人たちとの記憶を失うより、大切な人との未来を失うよりも、それを自分の命よりも抱えて、そういう人生にしようって選んだんだ」
 隣で嗚咽が聴こえる、陽菜も堪えきれずに泣いていた。陽菜は手で涙を拭うこともせず、ただ両手の拳をぎゅっと握り込めていた。

「ママの選択は娘のわたしにとってはちょっと残酷だったかな。わたしはママが記憶を失っても、わたしたちと生きていてほしかった。でももしかしたら、それも一つの残酷な選択なのかもしれない。ごめんね、奏、結局どっちを選んでもあなたには残酷な選択になっちゃうね、それはわかってるんだ」
 美月の声が掠れてくる。それでも美月は俯かずにまっすぐとこちらを見つめている。僕も決して目を逸らさない。逸らすもんか。

「でも、わたしが言えるのはわたしの選択はママと違うってこと。わたしはママと違う。わたしは生き続ける。わたしはわたしの道を選ぶよ。ごめんね、奏、本当にごめんね、あなたと本当にこの先も生きていきたかった、本当に本当に生きていきたかった。ごめんね、本当にごめんね」
 僕らはすでに涙を堪えることする諦めていた。
「僕も美月と生きていたいよ」
 だから、どこにもいかないでほしい。僕のことを忘れないでほしい。でも、それだけは言わなかった。それが僕にできることだから。それだけが僕が彼女にしてあげられることだから。それが僕の彼女についての選択だから。
 僕にとっての、彼女にとっての選択だから。
「奏と一緒にいたい。この先も、この先も、ずっとずっとずっと一緒にいたい。あなたのことを忘れたくない。ずっとずっとこれまでのことをこれからのことどんな些細なことも楽しいことも嬉しいことも、辛いことも悲しいことも、腹が立つことも、なんでもないこともぜんぶぜんぶあなたとの思い出を忘れたくない。それがわたしの今日までの人生で、そしてこれからの人生であってほしいから。だからわたし忘れたくない。あなたのこと忘れたくない」
「うん」
「でも、だからわたしは生きなくちゃいけないの。あなたのことが大切だから、あなたとの今日までをほんとうにほんとうに大事にしたいから、本当に本当に大事なものだと思うから、だから、あなたとわたしのために、あなたのことを忘れても、これからの人生が同じじゃなくても、あなたと生きるために、あなたのいない人生を選んで、精一杯生きないといけないの」
 うん、大丈夫、わかってるよ。
 僕の言葉は涙で声になっていなかった。
 美月にはどんなふうに聞こえたろう。
「ありがとう、わたしはあなたのことが大好きだった。ほんとうにほんとうに大好きだったよ、そしてこれからもずっとずっとあなたのことが大好きだよ、どうかそのことを忘れないで、わがままかもしれない、ずるいかもしれない、でもやっぱり忘れないで、わたしのことを忘れないで、この言葉が嘘偽りのないあなたへの誠実なわたしのことばだから、だからどうかお願い」
「ありがとう、僕も美月のことが大好きだったよ、心の底から大好きだったよ、これからもずっとずっと、偽りなく、僕は君を忘れないよ」
 それから僕たちは彼女の母親の墓の前で泣き続けた。どれくらいの時間泣き続けたのかわからない。どれくらいの時間が経ったのかわからない。もしかしたら、それは一瞬だったのかもしれない。それはとてもとても長い時間だったのかもしれない。でも僕たちは泣き続けた。
 最後にようやく僕たちは涙を全て枯れさせると、最後に、この演奏の最後に美月はいつものように泣き腫らした目で笑っていった。
「忘れても良いよって言おうと思ってたのに、失敗しちゃった」
 僕も同じような顔で笑った。
 僕も同じことを考えていたからだ。
 
7.
 それから次の日。その日は一学期最後の日だった。
 僕たちは学校を休んで俊明さんのところへ行った。それから僕と美月は二人で、僕らの選択を俊明さんに伝えた。
 俊明さんは僕らの言葉を聞くと、ただ黙ってしばらく物思いに耽った。
 それから、机のうえに一錠の薬をおいた。
「美月、君の、いや君たちの選択はわかった。理解するよ。では、この薬を……、これが君たちの選択の答えだよ」
 その小さな錠剤は決断というにはあまりにも頼りなくて、まるで子どものお菓子のようにぼんやりとちっぽけで些細なものだった。でも、美月はそれを摘み上げると、指先で少しだけ光にすかして、それから大事にピルケースにしまった。
 俊明さんはその所作を見届けると言った。
「その薬を飲むのはどんなタイミングでも良いよ。今じゃなくても、このあとでも、もう少し先でも、そのタイミングは君たちに委ねるよ」
 僕は俊明さんに尋ねた。
「いいんですか? 病院にいるときに飲まなくても大丈夫なんですか?」
 なんだかこの後に及んでそんなことを気にしている自分がすこし間抜けな気がして僕は自分で自分を笑ってしまいそうになった。けれど、俊明さんは真面目な医師の顔で言った。
「まあ正直にいうと、そうだ。はっきりいってそれは風邪薬とか咳止めとかそんな半端な薬じゃないから、きちんと医師と看護師がいて、万全の体制で見守りながらのんでほしい。というか、もちろんそれでもいい」
 そして次に俊明さんは父の顔で言った。
「でも、そうじゃなくてもいい。その薬を飲むタイミングは君たちに任せる。美月、君のこれからの新しい人生を始める最良のタイミングと場所は君自身が決めたら良い」
「大丈夫なの、お父さん、それあとでお父さんが怒られたりしないの?」
 俊明さんは相変わらず父の表情のままだった。
「怒られるどころか、たぶん、バレたらもっとめんどうなことになる。でもいいよ、君たちが好きなタイミングでその薬を飲んでも、絶対にわたしがなんとか対応してやるよ。なにがあっても、わたしが後始末をつける。だからめんどくさいあほくさいことは考えるな、君たちは君たちのことを考えろ、それが大人になる君たちへできるわたしの最後の仕事だ」
 僕はなかばやけっぱりにすらなっているような俊明さんを見て笑った。この人が美月の医者で、そしてこの人が美月の父親で本当によかったと僕はこのときこころから思った。
 なあ、奏くん。俊明さんは美月でも陽菜ではなく、僕にそう話しかけた。
「忘れられるのと忘れてしまうの、どちらが辛いんだろうな」
 俊明さんは僕が答えるよりも先に続ける。
「あるいは、忘れてしまうこととずっと忘れられないこと、そのどちらが辛いだろう」
 僕は少しだけ考えたが、すぐに答えた。
「それはどちらもです」
 俊明さんは僕をみて笑った。それはどこか僕を対等と認めたような、同じ大人の仲間の一員として認めてくれた、そんなふうに思える笑顔だった。
「わたしの妻は──望美は、忘れないことを選んだ、命に代えてもずっとずっと覚えていることをね。もちろん、美月の場合と違ってまだ前例はなくって、そして異常脳波の出どころも君の今の状態ほどはっきりしていなかった。ほとんどわたしの研究に基づく推論で、だから薬を飲んでも生命が永らえる可能性は今の美月よりは少なかった。それでも可能性はあった。でも、彼女は生命の代わりに最後まで記憶を、忘れないことを選んだ」
 俊明さんは記憶を呼び起こすように目を閉じながら眼鏡を外した。
「わたしはあのとき妻にどちらの選択をしてほしかったか、いまでもわからないんだ。ただ結果として望美は忘れないことを選んだ、そして生きることができる命を選ばなかった。そしてわたしは残された、わたしは最後まで望美の記憶に留まった、けれど彼女はもうわたしの側にはいない。それでよかったのか、悪かったのか、そんなこといまだにわからないよ」
 僕はただ俊明さんの物語になにも言わず、彼の言葉を待った。
「わたしはなんども望美を説得した。たとえ君のもっとも大事な記憶失って、生きるとしても、それでも生き続けてほしいと。でも望美は、美月、君と違って、そちらの選択は選ばなかった。ママは言ったよ『記憶は生きていることそのものだから』と、そう言ったよ。そういって死んでいったよ」

 俊明さんは望美さんを恨んでいるのだろうか、僕は俊明さんの目を見て考えた。けれど、俊明さんの寝不足で疲れた目からその答えはわからなかった。
「人の記憶とは不思議なものだね」
 俊明さんはいつかもそう言っていたことを僕はふと思い出した。
「望美にとって記憶とはなんだったんだろうな」
 俊明さんは考えに疲れ切った目を再び開いて、こちらを見た。それから俊明さんの愛する人が残した娘二人を見て、ふと何かに気がついたように、最後に言った。
「いや、そんな抽象的な話じゃないな。ママはただ君たちと一緒に生きている時間が捨て去ることがどうしてもできないくらいかけがえのなかったんだ。ただそれだけなのかな」
 俊明さんは最後には誰にいうでもなくてつぶやいた。
「『与えられた幸いの日々』か」
 それから、僕らがその日を決めるまでに長い時間はかからなかった。
 美月は夏休みのある日の夜に僕に電話をかけてきて、ただ一言だけいった。
「明日にしようと思う」
 僕も電話越しの美月のその言葉を聞いて、それ以上話すことはないと思って、一言だけ言葉を返した。
「わかった」
 それから、「僕は明日、どこにいけばいい?」と最後に美月に確認した。
「いろいろ考えたんだけど、前に退院したときに三人でいったショッピングモールがいいかなって、あの日、楽しかったから」
「いいと思う」
 僕は言葉少なに返事をして、それからなんだかもう僕たちは互いのなかで使い果たして言葉をすっからかんにしてしまったみたいに大した話もせずに電話を終えた。
 次の日、僕がショッピングモールのフードコートで何も頼まずにただ人混みのなかに紛れていると、僕を見つけた陽菜が、「奏」と人混みに負けないように僕の名前を呼ぶのが聞こえた。
 僕はその声をした方に振り返ると、二人の姉妹が笑ってこちらに向かって立っていた。
 僕は二人に合図するように手を挙げると、二人はこちらに歩み寄ってきた。
 夏休みのフードコートはいつかのときなんかよりももっともっと人が多くて、初デートの恋人たちや子ども連れの家族が、笑ったり泣いたり、怒ったり、ありきたりな、だけどどこまでも特別に幸せな与えられた時間を過ごしていた。
 僕と美月と陽菜はそんな様子をいつまでも見ていた。いつまでも。
 やがて陽菜が「お腹すかない? お姉ちゃん、ラーメンセット食べない? 今日は妹様が奢るよ」と言った。
美月は珍しいこともあるもんだと破顔して笑ったが、言った。
「大丈夫。代わりに、お水を汲んできてくれない」
 陽菜は美月のその言葉を聞くと、いつものように強がっていた顔を少しだけ不安にさせて姉に確認した。
「本当にいいの? お姉ちゃん」
 美月は黙って頷いた。
「わかった」
 それから陽菜は席を立って、冷水機まで小走りで走っていった。
「なんか、あんなふうにフードコートで走ってる妹をみてると、感慨深いものがあるなあ」
「お姉ちゃんとしてはやっぱりそういうもんかね」
 僕は美月の最後の会話に付き合った。
「陽菜ってほんとかわいいよね、奏もそう思うでしょ」
「まあ」
「あー! 彼女のまえで他の女の子のことをかわいいって言った!」
「なんというトラップ。人類はこんな愚かな争いを幾度繰り返してきたのであろうか」
 僕はそんなふうに真面目腐った声でふざけた。
 美月はそんな僕を見て笑った。僕も笑った美月を見て笑った。
 幸福ないつものフードコートだった。
 ありきたりで平凡で、だからこそ特別な、僕らに与えられた幸福な時間そのものだった。
 美月がポケットから、ピルケースを取り出す。
 それから一錠だけラムネみたいな粒を取り出す。
「はあ、これってすっごい苦かったりするのかなあ、パパって優しいけど気が利かないタイプだからなあ」
 「優しさというのは苦味でできているのだよ、美月サン」
 僕は美月がこぼした言葉にそう返した。
 美月は僕の言葉に微妙な表情でこちらを見た。
「なんだよ」
「べつにー」
 あとでこのことも僕は思い出したりするのかな、僕は声に出さずにそんなことを思った。
 美月は僕の内心を知ってか知らずか言った。

「この薬、飲んだらすっごく眠くなるらしいの、それで目が覚めたら……」
 美月は言葉を詰まらせた。だから僕はその続きを言った。
「目が覚めたら、黄泉の国から復活して、月に代わってお仕置きするんだろ?」
 美月は僕の言葉を聞いて驚いたように僕を見た。
 それから、いつものように笑っていった。
「なにそれ、ありえんくらいに滑ってるじゃん!」
「お前のギャグだろ!」
 僕らはまた笑った。
「奏」
 美月が僕の名前を呼んだ。
「なに?」
「ありがとう」
 僕は返事に迷った。でも結局なんのつまらないありきたりの答え方しかなかった。
「どういたしまして」
 やがて陽菜が一杯だけ水を紙コップに注いで持ってきた。
 美月は妹にから静かにコップを受け取った。
「はー」
 美月は少しだけ躊躇っていた。
「やっぱり、奏が飲む?」
「別にいいけど」
 美月は時間を引き延ばすように大袈裟に言った。
「別にいい?! これ、飲まなきゃ、わたし死んじゃうんだよ! あんたは最愛の彼女を殺す気か!」
「てゆうか、それ、俺が飲んだらどうなるんだろうな」
「あ、死んじゃうらしいよ、パパが言ってた。あたし以外の正常な脳の人が飲むと、ただの毒だからあっさり死んじゃうらしい」

「え、ほんとかよ! お前、俺を殺す気か!」
「ひっひっひっひ」
「……」
「……奏」
「うん?」
「飲むよ……」
「うん」
「ほんとにほんとに飲むよ」
「……うん」
「てやー!」
「え、ほんとに飲んだの?」
「飲んだ! 飲んじまったぜ!」
「あ、え、なんていうか、えー……」
「あ、これ、ほんとだ、ほんとにまじで眠くなるね……」
 美月はテーブルのうえの僕の手を取った。それから自分の指を絡めると強く握った。でも眠気のせいなのか、全身に力が入らなくなるのか、すぐに力は抜けていった。僕は美月の手を強く握り返した。
「ありがと、怖いから、わたしが眠るまでそうして握ってて」
「うん」
 なぜだか、美月の声を聞いていると僕まで眠たくなってきたような気がした。ここ何年か、ずっと続いてきた緊張の糸が最後の最後で切れてしまったのかもしれない。
 美月は少し眠そうな僕に気づいて抗議した。
「……こら……、彼女の一世一代の晴れ舞台の日に先に眠るやつが……おるか……」
 美月の声が小さく、かぼそくなっていく。
「わかったよ、こっちは最後まで起きてるよ」
「……それで……よいのじゃ……」
 美月の声がだんだんとフードコートの子どもたちの声に紛れていく。
 目が覚めたら、彼女が食べるものはなにかな?
 やっぱりラーメンセットだろうか。
 僕は子どもたちの声を聞いてそんなことを考えていた。

「奏……」
「なに?」
「キスして」
「いや、君、隣りで妹がすごい目でこっちを見とるんじゃが」
「見せつけてやろうぜ……」
「おお……」
「仕方ねえな、やれやれ」
「あ、ついに言ったな、そのセリフ」
「……」
「……」
「えへへ、じゃあ、おやすみ、奏」
「……おやすみ」
「なーんちゃって! キッスで眠る逆眠り姫と思った? 残念、美月ちゃんでした」
「はよ、ねろ!」
「え?」
「あ……」
「それが最後の言葉なんだ……」
「あわわわわわ」
「嘘だよ、じゃあ今度こそほんとにおやすみ」
「うん……」
「……」
「……おやすみ、美月、いい夢を」


                     ***

「おはよう、お姉ちゃん」

「……」
「どうしたの? 誰か探しているの?」
「すみません、なんだか起きたら、急にここに座ってて、でも……、あの……、さっきまでここに誰かいませんでしたか?」

「……ううん、ここにはあなたしか座ってなかったよ」
 僕はいま今日までのことをすべて思い出した。
 僕はいま美月と僕に関係する今日まで全ての記憶を思い出した。
 ここから先思い出すことは何もなかった。
 僕はいま美月の母親のまえの墓石で傘も放り出して、ただ雪に打たれている。
 冷たくて、静かで、触れるたびに僕の内側の熱で溶けて、それは染み込んでいった。
 美月はあのあとフードコートで目を覚まして、俊明さんがいったように全ての記憶を手放した。それまであったことも家族のこともも、そして僕とピアノのことも。
 でも、全て忘れたとしても、未来に記憶は紡いでいける。
 僕とピアノ以外のことは。
 夏休みが明けると、美月と陽菜は転校していた。それは陽菜から聞かされていた。
 俊明さんによれば、僕のことを思い出せるものは忘れて間もないいまはできるだけ完全に消し去ったほうがいいとのことだった。忘却をある程度の期間、定着させないといけないとのことだった。しばらく経てば、それもある程度の許容範囲というものも出てくると思うが、少なくとも記憶を手放した直後はそうしたほうがよく、そして僕の痕跡というか記憶があっちこっちにベタベタとある学校は当然転校したほうがいいとなるのは自明だった。
 陽菜も俊明さんも僕のことを気にかけて、しばらく電話をくれたり、美月のいないところで、せめて三人でも食事でもしようと声かけてくれた。でも、それも数回すると僕のほうから断るようになった。僕自身がそのほうがいいと思ったからだ。そのほうが美月のためなのか、僕のためなのか、それはわからなかったけど。
 そうして夏休みが終わって、秋が通り過ぎ、やがて年も明けた。それからさらに数ヶ月時間が経って、今日は春が訪れる前の最後の冬の日だった。
 思えば、美月のことでなにかがおきるときはいつもこのあたりの季節だった。最初に症状が出て入院が決まったのもこの時期だったし、美月が一度死んでしまったのも去年の今頃だった。
 べつにそれがあったからというわけでもないが、僕は今日、なんとなく彼女の母親の墓に来てしまった。未練がましいというか、みっともないというか、我ながら思うが、それでも夏休み明けから、僕はかなり頑張ったので、これくらいは許してほしい。
 美月がいなくなって、晴れて高校三年生であるという事実がはっきりして、僕は大学生になるべく猛勉強……、とはいかなくて、やっぱりどこか気が抜けたように何事にもやる気は起きなかった。
 それでもまあ浪人生になることだけはなんとか回避できそうで、とりあえずいまの未練がましい美月との思い出ばかりのこの土地は春から出ることはできそうだ。
 たぶん、それが今のぼくにできる最良のことだ、たぶん。
 僕は改めて藤咲望美と書かれた雪に覆われた墓石を眺めた。
 僕たちの選択は、間違っていたのだろうか、正しかったのだろうか。
 もちろん、そこに正しい答えなんてあるわけがない。
 だからそう問うことはただ自分によって、僕は自己憐憫で温まりたいだけだ。
 そんな問いを口にしてしまうことが人の愚かさなのだとしたら、だったらせめて僕は物言わぬ墓石に、僕たちの選択は僕たちにとってどういう意味だったのだろうか、そんなふうに問いかけたい気がした。
 もちろん、その答えも返ってくるわけがない。
 墓石はただ黙って古い記憶が新しい記憶に重ねっていくみたいに雪が降り積もるだけだった。
 一度会ってみたかったな、僕はなんとなくそう思う。
 きっとあの家族によく似て、きっとあの家族のなかで、輪をかけてお人好しで、よく笑うんだろうな。きっと美月に似ているところもたくさんあるんだろうな。
 藤咲望美。母親か。
 僕はあたまのなかでその名前を反芻した。
「久しぶり」
 後ろで美月の声がした。
 僕は振り返った、馬鹿げていると思いながらも、それでも振り返った。
「……陽菜」
「お姉ちゃんかと思った? 残念、妹ちゃんでした」
「なんでここに?」
 我ながら、間の抜けた質問だと思った。むしろここにいておかしいのは、ここにいるべきではないのは自分の方なのだ。
 でも、陽菜は笑わずにいった。
「今日、お母さんの命日だから」
「そうか、そういえば確かにこの時季だったか」
 細かい日付までは知らなかった。でも確かに記憶をさらえば、冬のどこかだったと美月と陽菜の会話のなかにわかるものがあったはずだ。
 僕は自分がミスを犯したと苦く思った。
 いや、もしかしたら無意識に会えるかもしれないと思って来てしまったのかもしれない。もし、そうなら……、
「最悪だ」
 思わず、声に出てしまっていた。
 でも、陽菜は僕の言葉を聞いて、わりと真剣めに怒ってくれた。
「コラ、何を一人で自己回転してんのかわかんないけど、自虐すんな! あんたも胸張って生きないとこっちまで幸せになれなさそうな感じがするじゃん」
 僕はひさびさに懐かしい論理を聞いた気がした。
「その論理ってお前んちの家族よく使うよな」
「どういうこと?」
 僕はずいぶん久しぶりに笑った気がした。
「いや、わからないならいい」
「なんだよ、それー、半年ぶりに会ったら、奏、性格悪くなってね?」
「お前こそ、半年ぶりにあったら、でかくなってるじゃん」
「こら、妹キャラに押し込めんな!」
 それから、陽菜は僕に向かって少し姉を思わせるような顔で笑った。
「あたしはあんたの妹キャラじゃなくて、親友キャラだからな」
 陽菜が恥ずかしそうに俯いた。
 僕は僕の大切な人にとっても最愛の友人に、雪のなかの地面を掘り返すように素直な気持ちを表現した。
「……ありがとよ」
 僕はこの雪が降り頻る墓地のなかで少しだけコートの下が暖まったような気がした。しかし、陽菜は照れ隠しに叫ぶのだった。

「寒っ……いかん、あたしまでグレートボケナス野郎になるところだった」
「なんだよ、グレートボケナス野郎って……」
「言っておくけど、あたしは妹の隣りでお姉ちゃんにキスした男のことは一生忘れてやらんからな!」
「あ、あれかー……」
 さて、困ったな、あんな小っ恥ずかしい思い出どうしたものか。でも、僕は結局笑って強がった。
「へへん、一生覚えてトラウマにしやがれ」
「キー、この恨み一生晴らさでや」
 それから陽菜は申し訳なさそうに、会話を打ち切るように言った。
「奏、悪い、お姉ちゃん、待たせてるから」
 僕は陽菜がいうことを皆までいわず理解した。
「ああ、俺はもういくよ」
 陽菜は立ち去ろうとする、自分に最後に言った。
「おい、奏!」
 僕は立ち止まって、陽菜の方を振り返った。
 陽菜は墓石の前を少しだけ横切ると、僕が放り投げた傘を拾ってきた。
「風邪ひくから、傘はちゃんと差していけ」
 僕は笑って、この親友から傘を受け取った。
 それから雪が降りしきって視界がわるいなか、行きとは違う道で離れた。
 やがて墓石も陽菜も見えなくなると雪のなかで声がした。
「陽菜ちゃん、さっきまで誰と話してたの?」
「ちょっと、昔の知り合いとね……。ていうか、お姉ちゃん、だからちゃん付けはやめて……」

                      ***

 それから僕はもう足跡も轍もない先の見えない雪のなかをずっと歩いた。歩けば歩くほど、雪はひどくなって、吹雪となっていった。
 僕はいつのまにか知っている場所に勝手に足が向かったのか、いつか三人で訪れた教会に辿りついてた。
 僕は教会のなかにたどり着くと、中に入った。
 教会の中はいつかのように空調が効いていて、暖かかった。前回美月と陽菜が懇意にしていた神父はいまはいないようだった。
 僕は前回訪れたときと同じでどこか惹きつけられるように祭壇まで足が進んだ。
 僕は祭壇まで来ると十字架を見た。
 それからコートの内側にしまい込んでいたノートを一冊取り出した。
 ノートの一ページ目には開くと細やかな字で『与えられた幸いの日々』と書かれていた。
 僕はその楽譜を見ているとだんだんと教会の雰囲気にあてられたのだろうか、柄にもなく祈りを捧げていた。
 どうか、どうか幸いを。
 彼女の日々に。
 せめて、自分のいない彼女の日々が少しでも楽しく、そして暖かでありますように。
 そんなふうに祈って、僕は苦笑いをした。
 やっぱり未練がましいな、自分が祈らなくとも、きっと彼女はこれから普通に幸せになっていくだろう。自分がいなくても彼女が幸せでありますように、だなんて。
 それこそ、バチが当たりそうなほど傲慢か。
 そんなふうに思って、教会を出て下山しようとすると、扉が開いた。
 それはよく知った顔だった。半年ぶりでもちっとも変わらない顔だった。

 少女は、先客がいたことに少し気まずく一瞬思ったようだったが、それでもすぐに笑って言った。
「すみません、妹と墓参りに来てたら、雪がひどくて、ご一緒させてもらってもいいですか?」
 答えあぐねていると、後ろから陽菜の声がした。
「お姉ちゃん、一人でそんなに進んだら、遭難しちゃうでしょ、道、わかんないでしょ……」
 陽菜は最後まで言い終わらず、自分に気がついたようで、わざとらしくあちゃーという顔をした。
「いやあ、すみません、どこの誰か知らないけど、お姉ちゃんに教会のこと話したら、せっかくだから雪宿りしようってきかなくって、はは」
「陽菜ちゃん、すごいね、わたし、教会なんて初めて、ん? 初めてじゃないのか?」
「うん、初めてじゃないよ」
 陽菜に訂正されて、少女はうーむと眉間に皺を寄せた。
「ごめんなさい、わたし、ちょっとよんどころない事情で、記憶喪失ってやつなんですよ」
 よんどころない事情で記憶喪失か、僕は記憶を失ってもいかにも彼女らしい言い方に思わず笑った。

「もしかして、あなたは陽菜のお友達? もしかしてわたしとも実は知り合いだったりしますか?」
 少女は期待を込めて目で僕に言った。
 僕は目の前の少女に穏やかに微笑むように答えた。
「いいえ、あなたと会うのは初めてですよ」
 そうですか、残念、と少女はガッカリしたように言った。
「さあ、お姉ちゃん、そろそろいこ、お父さんからタクシー捕まえたってスマホで連絡来てるよ」
「えー、もうちょっとだけ……」
 少女は名残惜しそうにこの場に留まる理由を見つけたそうにした。それから、僕の手元のノートを見て、声を上げた。
「あ、それ、ピアノの楽譜ですよね? もしかして、あなたもピアニストですか?」
「あなたも?」
 僕は少女の言い方に少し引っ掛かりを覚えて尋ね返してしまった。少女は答えた。
「ええ。わたしは弾けないんですけど、妹がピアニストなんです。あ、そうだ、せっかくなら妹のために一曲弾いてあげてくれませんか? 妹は音大の受験勉強をまだ中学生なのにもうやってて……」
 きっとこの時間は陽菜が特別に作ってくれた時間だろう。本来であれば、そもそも自分とあまり長い時間接触すべきではないはずだ。僕は返答に困って、陽菜の方を見た。
 でも、陽菜は最初は困った顔をしたが、何を思ったか、その表情を思い直したものに変えて笑っていった。
「まあ、一曲くらいなら勉強に聴かせてもらおうかな」
 僕は陽菜の言葉に驚いて言った。
「いいんですか? 本当に? お父さんがタクシーで待ってるんじゃないですか?」
「まあ、ここまで来れば毒をくらわばなんとやらですよ。一曲くらいなら、大丈夫です、ここまで来たらもうどうとでもなれですよ。きっと神様のお目溢しのワンちゃんってやつです」
 陽菜はそう言って、少女の後ろで気づかれないように僕にだけウィンクをした。
 まいった、どうもこの場を誤魔化す方法はないらしい。
「じゃあ、一曲だけですよ」

 あげく僕は言ってしまった。
 少女は嬉しそうに笑って、教会の椅子に妹と一緒に腰かけた。
僕は祭壇の隣のピアノ椅子に腰掛けた。それから鍵盤蓋を持ち上げて、鍵盤を見つめた。何年ぶりの感触だろうか。そもそも演奏なんていまの僕にできるのだろうか。
 僕は演奏前に少しだけ鍵盤に触れてみた。たちまち僕のなかで、僕の指先がなにか目覚めるような気がした。
 忘れてしまおうとしたって本当はなにも忘れることはできない、か。
 僕はそんなことを思った。
 少女はニコニコとこちらを見つめて演奏を待っている。
 隣の妹はちょっとだけひやひやしている。
 僕はそれをみて少しだけ緊張がほぐれた。
 冷たい雪の祈りの場所でその楽器は響いた。
 僕はただこの場で無心に、願うように、祈るように、その鍵盤を鳴らした。
 僕が白鍵を、黒鍵を鳴らすたびにハンマーが持ち上がり、記憶を叩き起こすようにその弦は震えた。少しだけ悲しむように、少しだけ寒さに震えるように、少しだけ喜びに震えるように。
 ステンドグラスからは演奏の一瞬だけ見せた晴れ間で虹のスペクトラムで祭壇を充した。
 短く、そしてどこまでも長い演奏が教会で鳴り続けていた。

 混じり気のない雲の欠片が剥がれて地上のあらゆるもののために舞い散り続けていた。
 やがて、演奏が終わった。
 僕にとってのたった一人の観客が拍手した。
「初めて聴く曲でした」
 観客は言った。
「でも、わたし、あなたの演奏がすごく好きです」
 僕も観客の賞賛に笑って答えた。
「ぼくもあなたが好きな僕の演奏が好きです」
 それから少女は妹とともに雪のなかの教会をあとにした。
 触れる雪はどこまでも冷たく、そして何かを思い出させるように暖かかった。

                                       了

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