余命後に蘇った彼女と僕の日々、あるいはその音楽について

2.
 クラスメイトたちとお昼を食べきって食堂を出ると、すぐに背の低い中等部生に声をかけられた。学校で話すのは意外とないので珍しいなと思った。
「瀬川先輩、すみません、今いいですか?」
 なにもべつに学校と外で使い分けなくてもいいんじゃないかと常々思うのだが、本人曰くクラスの女子の微妙な問題もあるのだといつか言われたことがある。正直よくわからないが、どうにも自分はその辺の事情を察しきるのが昔から苦手だったので、本人に任せることにしていた。
「お前、まさかさっきの純愛ぴゅあぴゅあ発言の裏でこんな……」
「美月の妹だよ」
 陽菜はどうやら食堂のなかで自分たちを見つけて食べ終わるまで待っていたようだ。

 美月と陽菜が姉妹だということは校内では意外と知られていないらしい。
 美月とて、クラスでかなり人気があり、ましてや一年間休学していたというある意味ではセンセーショナルな話題の持ち主なので学年全体で名前を知らない生徒はいないと思う。
 だが中等部も高等部も合わせて学園全体での知名度という点では、「天才女子中学生ピアニスト」の陽菜の方があると美月は言っていた。
「お姉ちゃんは?」
「さあ、他の友達と別のところでご飯食べてるんじゃないか?」
「なるほど」
 陽菜はいまだ外向きの顔を崩さずに言った。
「ちょっと校舎裏に来てもらっていいですか?」
 


                    ***

「いつもどおり話してくれればいいのに、なんでそんな眉間に皺を寄せてるんだよ」
 クラスメイトたちには先に教室に戻ってもらって、わざわざ校舎裏にまで僕は陽菜と来ていた。陽菜は暑さをしのぐため日があたらず少し湿ったずっと影になっている地面を選んで立つと口を開いた。
「べつにいつもどおりでしょ? 話し方はまあアレかもしれないけど。どっちかというと奏が意識してるからじゃない?」
 そうなのだろうか。まあでも確かにいつもどこか怒った感じというか、眉根を寄せているのは学校の外であってもそうなのはそうか。ただやはり声の響きというか、なにかがそれでも微妙に違う印象なのは間違いないと思うのだが。
「というか、そんなことはいいの。聞きたいのはお姉ちゃんのことなんだけど」
 僕は陽菜の口から聞いた「お姉ちゃん」という言葉の響きで、彼女が自分がいつものよく知っているモードになったと感じた。さっきの食堂でやりとりしたときの「お姉ちゃん」の言葉の響きよりこちらのほうが自分には百倍いい。
「お姉ちゃん、どう?」
「どうって?」
「奏から、見てて前と変わったことはない?」
 僕は陽菜の問いかけにすぐに答えずに考えてみた。
 正直にいうと、それは結構難しい質問だと思った。
「一年ぶりの外での暮らしだぞ、そりゃ何にも変わってないっていう方がへんだろ」
「それはそうなんだけど」
 陽菜はさっきまでの勢いを少し落としながら、自信がなさそうに声のトーンを下げた。
 もちろん、自分としても陽菜の心配はわかる。
 この一年の生活は美月にとってとても大きな出来事だった。うまくいえないが、それがなにか美月にとって暗い影を落としたり、なにか将来に対して悲観的なものを残していやしないか、心配なのだろう。
 それはわかる。

「前と同じようにはいかないさ。むしろ、前と同じように見えるんだったら、それは美月がこっちを心配させないように無理してるんじゃないかって考えないといけないんじゃないか」
 美月はよく笑う。そしてとても強い。でもだからこその弱さもきっとある。優しさゆえによく笑い、強い人がもつ、そんな弱さが。そんなことはわかっている。わかりきっている。
 よく笑い、そして強い人が持つ弱さは、他人の前で笑うことをやめらず、そして弱さを見せられないことだ。美月の場合はそれが見栄や虚栄心でもなんでもなく、ただ他人を慮っての優しさだ。だから、他人は一層心配になる。
 きっといつも笑ってなくてもいいんだよ、弱さを見せてもいいんだよ、と言っても、ありがとうとやはり微笑んで、相手を安心させようとする弱さを演技でもなんでも無意識に見せようとしてしまう。
 やはりそれも優しさがゆえに。
「わかってるよ」
 陽菜は足元の陰で暗くなった地面をスニーカーで掘り返しながらもどかしそうに言った。
 そう、陽菜もそれくらいわかっているのだ。
「逆に家の方ではどうだ? それに検査もまめにいってるんだろ?」
 退院して、俊明さんがいうところのドキドキラブコメ展開の自分の居候生活は退院後三週間ほどが経ち美月の生活リズムが戻ってきたかなというところで、僕は自分の家に戻っていた。
「検査はそうだね、今のところ問題はなにひとつないらしいよ。お父さんも、なにせ他の人にはないめちゃくちゃ珍しい症例だから、二週に一回ほどでかなり頻度を多くして診てるけど、今の結果が今月の終わりまで続くようなら、一月に一回に減らして、それも大丈夫そうなら、三月に一回、半年に一回、一年に一回と変えていけるはずって言ってる」
 僕はうなづいた。
 美月の検査は自分も付き添える限り付き添っていたし、どうしても無理なときは陽菜に行ってもらったりと二人でサポートするようにしていた。それは入院期間中と変わらずあたりまえにやっていた。
 いまこうして陽菜と話しているのだって、どことなく美月のサポートチームのミーティングみたいなものだ。
「家でも、なにか具体的にどうってことはないんだけど。お姉ちゃんって受験生でもあるじゃん。だから将来ってどういうふうに考えているのかなって。お姉ちゃん、退院してまだ一度もピアノ弾いてないんだよね」
 美月の内面、感情、不安、将来への本人なりの見え方、そんなもの他人の自分たちが結局わかるはずもない。それはこれまでだってそうだったし、そんなもの病気とか関係なく誰だってわからない。でもやっぱり不安になる。
 それは僕たちが美月の足元を掴んだ死神の腕を知ってしまったからだった。どうしてもまた美月のどこかにそれをみてしまうからだった。
「お姉ちゃんってずっと音大目指してたじゃん。でももう諦めちゃったのかな。そりゃ音大目指している高校生にとって一年のブランクはめちゃくちゃでかい。でもわたしはお姉ちゃんに諦めてほしくないし、もし卒業したあとに一年でも二年でも、ううん、別にもっとかかっても全然支えるつもりだよ」
 陽菜は後ろめたいのかもしれない。
 陽菜は本当にお姉ちゃんが大好きで、ピアニストとしての目標もいつも目の前の姉だった。美月はもっと遠くを目標にしなさいといつも言っていたみたいだけど、それでも頑固に美月を目標にし続けた。
 でも、所詮、美月と陽菜の歳の差は三年だけだ。10代のピアニストにとってこれくらいの年齢の差は大きい目で見ればほとんどないようなものだし、残酷な話だけど、陽菜のピアノの実力は入院中の一年であっさりと美月を追い越してしまった。
 目標にしていた、最大の憧れだったピアニストよりも先を進んでしまった。もちろん美月が悪いわけでもないし、陽菜が悪いわけでもない。でもその事実がもしかしたら美月のピアノへの情熱を挫いてしまったのだとしたら。
「お姉ちゃん、ピアノ辞めないよね」
 陽菜の声には涙声が混じっていた。
 ポツポツと初夏の校舎裏の地面に雨が溢れた。
 天才女子中学生ピアニストか。
 僕は口に出さずに呟いた。陽菜は美月の入院中にピアノを止めないにしても、少し中断しようとしたことがある。でも、それは美月が一番嫌がった。そして陽菜もそれが一番美月を傷つけることをすぐに理解った。
 だから、結局陽菜はピアノを中断しなかった。
「美月がピアノを辞めたとしても、それは俺たちが口を挟むことじゃないよ、本人の自由だ」
 陽菜は涙顔を隠さずにこちらを見上げた。だから僕は誤解がないようにすぐに天才女子中学生ピアニストをできるだけ落ち着かせるように笑いながら言い継いだ。
「でも、だからこそ、どんな選択をしようと、どんな将来を美月が選ぼうと俺たちはそれを肯定してやろうぜ」
 そうだ、結局、僕たちにできることはそれくらいしかない。
 僕たちが美月にできることは。
「それがどんな結果になろうと、どんな選択だろう、どんな将来だろうと、俺たちなりに真剣に受け止めて、そんで見守ってやろう、一生美月の側にいてやるためにさ」
 僕はこの言葉が決して傲慢なものでないことを祈った。
 僕たちが他人のためにできること。
 それが存在することを校舎の隙間から見える太陽に祈った。
 陽菜は黙って足元を見て僕の言葉を飲み込んでいるようだった。それから笑った。それがどういう意味の笑いなのかはわからなかった。
「そうだね、ありがとう、奏。わたしはたぶん、この先もピアノを辞めれないと思う。もちろんお姉ちゃんがどういうふうになってもお姉ちゃんを支えるつもりではいる。でも、たぶんだからこそお姉ちゃんのためにわたしはこれからもピアノをやめれないと思う」
 聞く人によってはある意味陽菜の言葉は傲慢に聞こえるのかもしれない。他人のためにピアノを弾くなんて。でもそうじゃないことを少なくとも僕はわかる。陽菜にとってピアノを弾くことは姉のためなのだ。それが自分のためにピアノを弾くということなのだ。陽菜にとって姉のためにピアノを弾くことが自分のためにピアノを弾くということなのだ。
 「だから、入院のときも、春先にお姉ちゃんが危なくなったときも、ありがとう。正直、わたしたちだけじゃなくて、奏がいてくれてほんとうによかったし、感謝してる。わたしたちだけだったら、もしかしたらなにかが壊れてたかもしれないってときどき怖くなる」
 
 僕は陽菜が感じた恐怖を想った。美月の心臓が止まったときに、自分が遠い海の向こうにいて、側にいないことを思い知らされた恐怖を想像した。
 それはまるで自分の中心から指先が凍りつくような、そんな感覚だった。
 それは本当に陽菜にとって恐ろしいことだったのだろう。
「どういたしまして、天才女子中学生シスコンピアニストさん、これからもよろしく」
 僕は陽菜の尊厳を守るように最後に笑って言ってやった。
「は、シスコンは奏、お前だろ?」
「え、いや……、それは普通にお前だろ……、俺と美月は兄妹じゃないんだから……」
「そういう問題じゃなくてえ」
 どういう問題だよ。
「あ、そうだ、なあ陽菜ひとつ聞きたいんだけど、美月に「好き」って言った方がいいのか? なんかクラスのやつに言ったことないって言ったら、言えって言われたんだけど、そういうもん?」
「は? 言ってないの、それ?」
 陽菜は信じられないほど下手くそな演奏を聞いたときみたいに目を丸くして言った。
「え? あ、うん、そうだけど」
「それで奏、あんた、お姉ちゃんの家に泊まって、しかもさっき一生側にいるとか言ったの?」
「あ、え、やっぱり不味かったのかな……」
 陽菜はどんな演奏ミスをしたときの音楽教師よりも恐ろしく冷たい声で僕を指導した。
「いえよ、それは。ルール違反だから、それ」
 とかくこの世のルールは難しいものだった。
3.
 放課後。
 美月から話があるといわれて、人がいなくなったあとの教室で待ちながら、僕は昼に校舎裏で陽菜と話したことをぼんやりと反芻していた。グラウンドからは運動部が一心不乱に迷うことなくボールを追いかけている声が響いていた。
 将来か。
 僕はそんな言葉を考える。
 美月の将来、そして自分の将来、考えてみればそんなことをもう考える時期になっていて、そして今日まで考えていなかったのは遅かったのかもしれない。でもそれは美月も自分もある意味では仕方のないことだと思う。
 美月にしてみれば、この一年は何年先の将来よりも、数ヶ月先、一月先、一週間先、明日のことを考える日々だった。それは必ずしも将来を悲観してとかそういう抽象的ではなく、具体的な生活のことだった。
 では自分はどうだろう。
 自分にしたって、それは同じだった。いつのことからか自分にとって未来のことを考えるというのは美月について考えることとほとんどイコールだった。それは美月の死がとても近づいていた時間ですらそうだった。美月がいなくなったあとのことなど考える発想すらなかった。
 もし、いま。自分はふとそう思う。
 もし、あのとき美月が蘇らなかったら、あのまま自分のもとを去っていたら、自分はそのあとどんなふうにして生きるつもりだったのだろう。
 それは考えても仕方のないことだ。
 美月は結果的に死ななかった。
 彼女は蘇った。でも、もし……。
 一生美月の側にいる。どういうわけだか今日はそういう言葉を口にすることが多かった。美月がこれからどんな状況になろうと、どんなことを選ぼうと自分はその選択を尊重して、その運命を見守る。助けてやるとか、導いてやるなんてそんなおこがましいことはとうてい自分には考えられない。
 ただ自分ができることは側にいるだけ。
 自分ができることはそれだけで、そして自分がしたいことはそれだけだ。それだけではダメなのだろうか。
 それだけで良いのだろうか。
 わからない。それで良いとか、それで悪いとかってなんなのだろう。
 いや、やっぱりそれは良いとか悪いとかではないのだろう。
 ただそう望むか望まないかだけだ。
 退屈しのぎの思考はぐるぐると同じところを回っているだけだった。
 美月も自分と同じだろうか。美月は自分の将来に何を望むだろう。
──お姉ちゃん、ピアノ辞めないよね。
 陽菜の言葉が頭に響く。
 美月はピアノを求めるだろうか。
 あるいは自分が美月の側にいることを望むのと同じように、彼女もまたこれからずっと自分といることを望むだろうか。
 わからない。そんなことわかるはずもない。
 仮に、そう、仮に彼女が自分と共に生きることを選ばないのであれば、自分と生きることを望まないときが来るのであれば、そのとき自分はどうすればいいのだろう。
 何を選択すれば良いのだろう。
 美月の選択を尊重する、彼女の運命を見守る。そんなことが本当に自分にできるのだろうか。側にいて彼女を見守っていたい。
 でも、それすら許されなければ?
 わからない。どうすれば良いのだろう。そもそも美月は本当に自分のことが好きなのだろうか? というか、なぜ自分はそこを疑っていなかったのだろう。なぜ自分は今日までそのことを疑問に思っていなかったのだろう。
 もう初夏だというのに、唐突に自分の指先が冷たくなるのを感じた。
 自分は美月に好きと口にされたことがあったろうか。
「いやあ、本当は嫌いなんだよねえ」
「ひょわあん!」
 教室の扉が唐突に開いた。美月だった。
「なに奏ってそんな声出るんだ? なんでそんなにびっくりしてんの? 放課後待っててっていったじゃん……」
「いや、ちょっと考えごとして気が抜けてたから……」
「そうだったんだ。あ、もしかしてこんな夕方に幽霊だと思ったとか? はっはっは、残念でした、美月ちゃんでした! 黄泉の国から月に代わってお仕置きよ!」
 思わぬ声を出してしまったことを誤魔化すように僕は美月に突っ込んだ。これで誤魔化せるといいのだけど。
「いや、だからそれ、滑ってるって」
「滑ってないよ! 滑ってるといったら、さっきの奏の変声のほうがバナナの皮で滑ったみたいな……」
「えーと、美月、『本当は嫌い』ってなんのこと?」
 驚き声のことにまた話題が及びそうになったので、僕は話を強引に逸らした。
「ん? あー、数学だよぉ。今日の補講! 『美月さんはいつも一生懸命で先生嬉しくなっちゃう、きっと数学もピアノと同じで美しく完全なものだから、美月さんも好きになれるのね、オホホホ』だって。そんなわけねえじゃん、ぜんぜん、わかんねえし、好きじゃねえよお、数学が美しい? 美しくねえよお、数学が完全でも、こっちの頭は完全じゃねえんだよお。ねえ、奏さあん、お願いいたしますから、これからもこの哀れなオンナに数字の交響曲を教えてくだせえ」
「あ、そういうことね。なるほど、オッケーオッケー、いつでも任せなさい」
「アレ? なんか今日は奏、妙に素直だな」
 そうカナー、僕はいつでも純粋まっすぐ、素直な好青年ダヨー。
 僕はなんとかそんなふざけた調子で誤魔化した。
「それで話ってなに?」
「あ、そうだった、ねえ、奏さあん、あなたはなにか大事なことを忘れていないでしょうか? とーっても、とーっても、大事なことですヨ」
 美月はチッチッと顔の前で人差し指を振った。
 なんだろう、僕は一生懸命、記憶のなかを探ってみたが、思い当たるものがまるでなかった。
「うーん、なんだろうな、大事なこと……大事なこと……。あ、美月、明日、また検査だから忘れないようにしろよ、明日の検査で問題なかったら、定期検査の回数減らせるんだろ?」
 「あ、うーん、そんな水臭い話じゃなくてですね」
「水臭いって、大事なことだろ?」
「あ、はい、そうですね……、ってそうじゃなくて! もー、しょうがないなあ、はい、これ!」
美月はポケットから取り出した、ホウレンソウのゆるキャラがあしらわれた包装紙にラッピングされた手のひらに載るくらい箱を目の前に掲げた。
 なんだっけ? このホウレンソウのキャラ?
 あ、そうだ、最新の新型女子中学生のあいだでバズってるボケナス野菜のホウレンソウ君だ。
「ホウレンソウ君だね」
「いや、そこじゃなくて……このボケナス! プレゼントだよ! プレゼント!」
「なんで?」
「なんでって、奏、今日誕生日じゃん」
「あ! まあ誕生日なんて自分以外平日だから、忘れちゃうよなあ」
「奏……お前……、お前悲しいやつよノオ……」

 美月はどうも僕の言葉を聞いて、わりと本気で悲しんでいるらしい。そしてちょっと怒った。
「コラ、自分を大事にできない人は他人も大事にできないんだぞ! ちゃんと他人を大事にせえ!」
 僕は美月の言葉に、美月らしさを感じて笑った。
 自分を大事にできない人は他人も大事にできないか。その月並みな言葉を自分ではなく他人に言う奴はいいやつだ。
「うん、まあとにかくありがとう」
 僕はボケナス野菜のホウレンソウくんの箱を受け取った
「うむ。本当は奏のために一曲弾いてあげようかと思ったんだけど、やっぱりまだちょっと怖くて……」
 ピアノのことだ。陽菜は美月が退院後にまだ一度もピアノを弾いていないと言っていた。陽菜はもしかしたら、美月がピアノに対する関心をなくしたんじゃないかと言っていたが、これを聞く限りどうにもそれは違っているようだった。
「まあ無理する必要もないだろ、そんな無理してやる演奏なんてなんの意味もないだろうし」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
 美月の症状がそもそも最初に発症したきっかけはピアノを弾いているときに感じた頭痛だった。それから演奏中の頭痛が酷くなって、そして入院という流れだった。美月がピアノを弾くのに抵抗感を感じるのは無理もない話だと思った。
「でも、やっぱりまた近いうちに再開するよ。怖いけど、弾きたくないわけじゃないし、ていうか弾きたいし、やっぱりわたし、ピアノ好きだもん」
「それは義務感とか惰性じゃなくて?」
 わかりきったこと。僕はきっと美月がまっすぐ僕の大好きな彼女の瞳になって答えてくれることを期待して聞いた。
「うん。義務なんかじゃないよ。わたしが好きだから弾くの」
 そうだ、この瞳だ。
 この瞳が、この表情が、この声が、そしてその指先が自分は大好きなのだと僕は思った。
 僕はそれを伝える。
「好きだよ、美月の演奏」
 美月は僕の言葉に嬉しそうに、そして照れ臭さを隠すように大袈裟に笑った。
「へへん、知ってるよーだ」
 それから、美月は僕に言った。
「奏もわたしのピアノ、これからもずっと一生隣りで聴いててね」
「約束する」
 冗談、めかして答えようと思ったけど思いつかなくて、真っ直ぐな言葉になってしまった。でもたまにはそういうのもいいかなと思った。
「あらためて18歳のお誕生日おめでとう、奏。これからもよろしくね」
4.
 雨の少ない六月はそんなふうにして終わっていった。
 それから暑さは本格的にやってきた。僕らはようやくゆっくりとまた日常を取り戻そうとしていたと思っていた。
 まっすぐに前に。
 でも違っていた。僕らが前に進むための準備期間だと思っていた時間はもう一度やってくる嵐のなかの束の間の時間だった。
 僕らが直進運動だったと思っていたものはゆっくりと振れる振り子運動だった。
 そして振り子はまた片側に振れ切って、再び逆方向へと戻ろうとしているのだった。
 ゆっくりと振り子がまた元に戻っていく。



                    ***

 
 七月も二週目が過ぎて後半になった。美月はこれまで一週に一度だった検査を二週に一度の頻度に減らして、その七月の二度目の検査を受けていた。
「七月の最初の検査結果も退院して今日までと変わらないね。脳のMRIなどで変化のある箇所はみられないし、まして脳波図においても異常なパターンはない。あのガンマ波を越える波形である第六の波形も現れていない」
 俊明さんは診察室で丸い回転椅子に座る患者に問診した。
「美月自身の方はどうだい? また肩の痛みや背中側に連なるような頭痛は感じてないかい? それ以外でもなにかいつもと違う感じとかは?」
 美月は目の前の医師の問いかけに考え込んで、心当たりを見つけ出そうとする。
「もちろん、思い当たらないなら、それでいい。というか、それに越したことはない」
 俊明さんは手をぱっと振りながらいった。
「奏くんもどうかな? 美月を見ていていつもと変わったこととかないかな」
「うーん、そうですねえ、ちょっと頭が良くなったような?」
 僕は少し場の空気を和らげようと両手を上げていってみた。
「ちょっとー、どういうことそれー」
「いいことじゃん」
 しかし冗談ではなく、実際美月の成績はかなりよかった。一年中断していたところを取り戻そうと他のクラスメイトよりも補講も含めて多めに取り組んでいるゆえなのか一学期の中間はかなりの結果だったし、今はちょうど期末に向けてのテスト前で、一緒に準備しているが、隣りで見ていても大したものだった。
 もっとも数学だけは相変わらずなので、まあそれも変わらないといえば変わらないのかもしれなかったが。
「なるほど。学業成績が向上したか……」
 俊明さんは僕の冗談を真に受けたのか、それとも戯れにのってくれたのか、ふむふむと言いながらカルテにメモを残しそうとした。
「ちょっと、パパまで……」
「ははは、いや、すまんすまん、娘の学業が順調なら、親としては願ったり叶ったりだよ」
 美月は目の前の優しい父親に膨れっ面を見せた。それは娘が父の気を引くための甘えに隠した不安だったのかも知れない。
 父はそんな娘を安心させるように、頭を優しく撫でた。
「美月、君がこの頭で一年間起きたことは、この広い世界のなかで、これまで三例しか報告がなかったものだ。そして君は一度死んでからまた蘇り、そしてここまで回復した。はっきりいって、ここまでくるともはや、君の症例はその三例の事例すら越えて完全に未知のケースだ」
 僕は美月の隣で穏やかで娘とよく似た少し楕円の父の瞳を覗き込んだ。

「君の前例の三例のケースはいずれも不幸な終わり方をしている。けれど、君のケースは繰り返すが、この三例のケースをもはや越えている。だから、君のこれからはまだ未確定だし、油断しすぎるのも確かによくないが、だからといって心配しすぎる必要もないんだよ」

「わかった」
 美月はそういって、父親から気恥ずかしそうに目を俯かせ視線を外した。
 でも、僕は俊明さんの目の中に一瞬だけ不安をみたような気がした。
 心配しすぎる必要はない。
 それは俊明さん本人が自分にも言い聞かせるために発したように思えてしまったのだ。

                    ***

 それから週明けの月曜日。
 僕たちはまたテスト勉強のために放課後に美月の家にいた。テスト期間なのは中等部の陽菜も同じで僕らはリビングのカーペットにペタリと座り込んで冷房を浴びながら三人でノートやら参考書を広げていた。
「ambigous」「あいまいな」
「androgynos」「両性具有の」
「spontaneous」「自発的」
「undergo」「を経験する」
「swallow」「飲み込む」
 全部正解。陽菜がノートを開きながら、美月に告げた。
「お姉ちゃんって、こんなに英語得意だったっけ? まあ数学よりはマシなのか」
「お姉ちゃんの偉大さを思い知ったか」
「はいはい。じゃあ、次ね。っても、これはわかるか」
「Andante」
 隣で二人のやりとりを聞いていて、僕は思わず参考書を読みながら笑ってしまった。
これは音楽をやっていれば、覚えているとかそういう話ではないレベルだ。
「はい、お姉ちゃん、『Andante』だよ」
 メガネをかけた陽菜が答えを急かすように言った。
 美月は笑いながら、固まっていた。
「えーと、そうだね……。えーと、なんだっけ……。難しいね、初めて聞く単語かも」
「え?」
 陽菜が不思議そうな声を出す。僕は少し胸騒ぎを覚えたような気が直感的にして、参考書から視線を外して、二人を見た。
「なに言ってんの? お姉ちゃん、『Andante』だよ。譜面で百回くらいみた単語でしょ」
 美月は陽菜に言われて、目を丸くした。
「え、そうだっけ? 初めて聞くけどなあ。『Andante』だよね。アルデンテーじゃなくて、ええと、アンデルセンーでもなくて、はは……」
 美月は冗談を言って誤魔化そうとしたが、それでも陽菜が動揺して、少し詰めるように問いかけてしまった。
「どうしたの、お姉ちゃん、『Andante』だよ! 音楽家ならわかるでしょ?」
 美月は妹の若干不安に彩られたわずかな怒気を孕んだ声にますます動揺して、答えが出ないようだった。

「『Andante 歩くように』だ」

 僕は助け舟のつもりで、場を仕切り直すように二人に割って入った。
「二人とも、少しやりすぎなんじゃないか。vivaceでやるのもいいけど、まだテストまでもう少しあるんだから、それこそAndanteでいいだろ。ちょっとPAUSEだ」
 僕は冗談に聞こえるようにわざと怪しい音楽教師のような話しかたで言ってみた。陽菜は思わず、語気が強くなったのを誤魔化すように、僕の提案に乗った。
「そうだね、少し休憩にしよ。あーあ、頭がわけわかんない英単語ばっかりだから、やはりね、音楽に愛された天才女子中学生ピアニスト足るものしょーもない世俗の知識なんかじゃなくて、崇高な音楽で頭を充さなきゃ」
 そういって、机のスマホを操作して、お気に入りの演奏曲を再生した。
 それは去年ヨーロッパの映画祭で音楽賞を受賞したとある映画音楽の標題曲だった。僕が配信サイトでその映画を見つけて、劇伴が良かったので二人にも観るように勧めたのだった。美月はまだ観ていないらしいが、陽菜はついこのあいだ観て気に入ったらしかった。
 曲はミステリー映画にふさわしく、序盤から怪しげなタッチで進行していった。
「うん、やっぱり出だしの展開がいいよね。この表題曲ラストにも使われてて、何気に伏線になってるんだよね」
 陽菜がのんびりとそう言った。美月も釣られるように感想を言う。
「ほんとだ、これ、いい曲だね。さりげない対位法で実は女の方が殺人犯ってのを暗示しているんだね。芸が細かいね」
「なんだ、美月ももう配信みたのか」
 僕は映画の最大のオチについて言及した美月に言った。
「え、あ、ごめん、まだだけど?」
「え? だって、いま女の方が犯人だって」
 美月は僕に言われてようやく自分が何を言ったか気づいたらしかった。
「え、ああ、無意識。なんか曲を聴いてたら、赤いコートの女が短剣を持っているのが見えた気がして。はは、なんかやけに具体的だね」
「具体的も何も、それ、映画のラストシーンなんだけど……、ふつうそんなことまでわかる?」
 陽菜が不気味そうに美月の言葉にいった。
「なんか昔からそういうところあったんだけど、最近はほんとに曲聴くと浮かぶイメージがすごくはっきりしてきて……」
「お姉ちゃん、それは天才がいうやつじゃん」
「えっへん」
 僕は二人のやりとりみて、場の空気がいつものものに戻っていったのを感じて安堵した。
 けれど、やはり胸騒ぎは消えなかった。
 もちろん、演奏を聴いてある景色やイメージが浮かぶというのは音楽家として多かれ少なかれないことではない。だが、まさか観たことのない映画のストーリーまで解ってしまうというのは、それはもう感性とかのレベルを越えて、ほとんど超能力みたいな力だ。
 僕は部屋の冷房が一気に下がった気がした。そういえば美月が最初に症状が出たときも、急激に演奏に対する感性が上がったのだった。
「さて、じゃあ、お茶でも飲んだらまた始めますか」
 美月はそういって、シンクにいってアイスティーを入れようとした。僕は心配を紛らわすために立ち上がって手伝おうとした。
 すると、すぐにグラスが割れる音がした。みるとキッチンの床には割れたガラスと注がれるはずだった氷がフローリングにだらしなく広がっていた。
「お姉ちゃん、大丈夫? 指怪我してない?」
 陽菜が慌てて、美月に声をかけた。しかし美月には聞こえていないようだった。
 美月はグラスを落とした手を目を丸くさせて、まるで他人の指先のようにずっと見続けていた。


                      ***

 
 それから僕らは協力して、グラスを片付けるともう勉強という雰囲気じゃなくて解散することになった。
 僕は帰る前に美月に言った。
「今日、久々に泊まろうか?」
「ううん、大丈夫、今日は奏、帰りなよ、テスト勉強まだ残ってるんだしさ」
「そんなこといいだろ、自分のことをまず考えてくれ」
 美月は首をまた振ってさっきからずっと苦笑いを崩さなかった。
「ごめんね、今日は帰ってほしいの。ちょっと一人で部屋で落ち着きたいの」

 僕と美月のあいだに気まずい沈黙が流れた。
 自分と美月がなにかをいうより先に陽菜が割って言った。
「奏は今日は帰んなよ。大丈夫、わたしもいるし、なんかあったら電話するからさ」
 僕は言いかけた言葉を飲み込んで、陽菜に言った。
「すまん」
「奏が謝ることじゃないよ」
 そう言ったのは美月の方だった。
5.
 美月は嫌がったらしいが、その日の夜に、陽菜は帰宅した俊明さんに今日のことを伝えた。
 俊明さんは、陽菜の話を聞くと、わかったと一言いい、それから、八月になったら行う予定だった検査を一週間繰り上げてまた今週の土曜日に行なおうと美月に提案した。
 僕は陽菜から、そのことを夜に電話で聞かされ、土曜日の再検査は奏も付き添ってほしいと頼まれた。
 僕は「あたりまえだろ」と陽菜に返した。


                      ***

 土曜日。僕たちは再び俊明さんが待つ病院に三人で向かった。
 美月は着くなり、すぐに脳波測定の検査に入った。またお決まりのMRI、CT、脳波測定などだった。
 僕と陽菜は検査を待つあいだに俊明さんの診察室に呼ばれた。
 僕は美月のいないところで俊明さんと話すのに嫌な思い出が蘇った。美月の最初の入院検査のときに俊明さんと僕でナースステーション横のプレイルームで話したときのことを僕は思い出していた。
 俊明さんは僕たちが診察室に入るとすぐにカルテや資料を出して説明した。
「先週の美月の検査結果だ」
 僕は俊明さんから美月の脳波図を渡された。

「きちんといおう。美月の脳波図からピーク時ほどではないが、入院時に観測されていた波形と同じ波形が検出されている」
 俊明さんは感情を交えずに言う。
「つまり、美月の脳で、扁桃体と海馬を中心に、微弱だが例の第六の波形が再び観測されているんだ。このことが感情や記憶の異常となりその症候を引き起こしていると考えられる。今美月の脳は感情と記憶を結びつける機能の過剰な活発化が再び始まろうとしているんだ」
 奏くん、俊明さんは僕にそう呼びかけた。
「美月に現れている第六の波形を観測した症例はこれまで世界的に三例だと言ったね。そして一度心停止してその一時間後に蘇った美月は、もはやこの三例の症例ケースを越えて独自の領域に入っていると」
「はい」
 僕は俊樹さんの言葉に答えた。
 俊明さんは僕の返事を確認して続けた。
「症例ケース1は脳のなかでも、匂い、つまり嗅覚を司る第一脳神経から内嗅皮質において最も特徴的にこの特異な波形が観測されている。そして第二の症例ケースにおいては視床下部、ここは感情と関係の深い箇所だが、そこが中心となって第六の波形が観測された」
 
 隣りの陽菜は部屋に入ってからなにも言わずにただ黙っていた。
「繰り返すが、第四症例となる美月の症例はもはや他の三つの症例とは、大幅に異なる状況となっている。けれど、前例となる三例のうち、一例だけ異常脳波が観測されている脳部位が極めて酷似している例があるんだ」
 僕は俊明さんの説明を理解していることを示すために言った。
「三例目ですね? 今回の美月の脳波と類似しているのが、その三つ目の症例なんですね」
 俊明さんは頷く。
 唇をギュッと引き結び、手元の紙束を握る手は少し緊張したように強まっていた。
「そのとおりだ。三つ目の症例では、扁桃体を中心とした系、つまり記憶だ。記憶を司る脳部位を中心とした箇所から第六の波形が主だって観測された。この症例患者では、主症状として記憶力の異常な発達が見られた。そしてそれに付随するように情動の混乱、自己認識の不安定化などが発生した。そして……」
 俊明さんは手元の紙をめくりながら話した。髪の擦れる不協和音が耳に響くたびに僕は頭蓋骨の奥の柔らかな部分に直接触れられ、そして心臓が鼓動とともに傷つけられるような気がした。
「そして最終的に最初の二症例と同様に、この第三の症例も異常波形が神経ネットワーク全体に伝播し、脳の各部位が互いに異常な信号を送り合い始めた。まるで自己崩壊のように、脳全体がオーバーフローに陥り、最終的には機能不全に至ったんだ」
 俊明さんは第三の症例をそんなふうに説明した。隣りでずっと顔を上げずに俯いていた陽菜が口元だけ動かして小さく囁いた。
「お母さん」
 俊明さんはその小さな声に気がついて、話すのを一瞬やめた。それから陽菜は相変わらず顔を床に向けたまま言った。
「お母さんは最後はなにも忘れられなくなっていた」
 俊明さんは頷いた。そして最後に手元の紙を診察台のうえに置くと、僕の方に向き直って言った。
「そうだ、この美月の症例に最も近いケースは、わたしの妻……」
 それはつまり……、僕は俊明さんの話す言葉を聞きながら、声に出さず当たり前のことをなぜかぼんやりと頭で確認しようとした。
 しかし俊明さんがはっきりとそれを口にした。
「それはつまり、美月の母親だ」

                     ***


 俊明さんの話を診察室で聞いていると、診察室の内線が鳴った。俊明さんは看護師からの連絡を聞くと、美月の検査が終わったらしい、と僕らに告げた。
「美月は今、どこですか?」
 俊明さんは答えた。
「美月は今、寝ているよ。たぶん、今週はあまり寝れていなかったんだろう。検査が終わって緊張の糸が切れたんだ、心配しなくても大丈夫だ。看護師長が空いているベッドを使わせてくれているようだ、病室を教えるよ」
 俊明さんは僕と陽菜に病室の部屋番号を告げた。
「すまないが検査結果を早く確認したいから、中座させてもらうよ。先に美月の病室で待っていてくれ、本人のいるところでこの続きは話そう」
 俊明さんと僕たちはそういって診察室を出て、別れた。
 僕たちは俊明さんから告げられた番号の病室に向かった。診察室がある棟から離れた場所で以前入院していた棟とも異なって三階だった。
 僕と陽菜は病室に向かうまで会話はなく、エレベータのなかではシャフトを上がるわずかな音が間延びしたように響いた。
 それからフロアの廊下を進んで、美月のいる病室に辿りついた。
 俊明さんがいったように美月はベッドの上で横になって寝ていた。
 陽菜は声をかけようとしたが、僕は彼女の腕をひいて、それを制した。いまは美月を安らかにさせておくべきだと思ったのだ。
 陽菜は僕の意図を理解すると検査のまえに姉から預かっていたライトグリーンのハンドバッグを棚のうえの置いた。それからそっと起こさないように両手でベッドのサイドレールを握ってその表情を覗き込んだ。
 美月はただ意識を深く落として、その寝顔には不安も苦痛もなく穏やかそのものだった。
「わたしたちが小学生のときにママが病気で死んじゃったのは聞いてるよね」
 陽菜は静かに眠っている美月には届かないように小さな声で話した。
「ああ。陽菜は美月がお母さんと同じ症状だって知っていたのか?」
 陽菜は僕の質問に首を振った。
「ううん。お父さんからその話は今日初めて聞いた。でも、お姉ちゃんみてたら、なんとなく近いなっていうか、思わせるようなところはあったから、なるほどなって思った。たぶん、お姉ちゃんもおんなじような感じだと思う」
 陽菜はベッドの姉から目線を逸さなかった。
「ママが病気だってわかったとき、最初はそんな深刻なことだと思ってなかったの……。ママが仕事でずーっと集中して曲を作っているときも同じようなことってよくあったから」
 陽菜はそう切り出して自分の記憶を辿っているようだった。
「ママの症状が出始めたときもちょうどこの前のお姉ちゃんみたいにすごく細かいことを覚えていたり、なのにすごく当たり前のことを逆に忘れたり、全然思い出せなかったり、頭のなかの記憶がグチャグチャになってるみたいだった。最初はママのいつもの天然なのかなって思ってたんだ」
 陽菜は思い出すように目を細め、苦笑いを浮かべた。
「でも、そのときママが一晩かけて作った曲を聴かせてもらったんだ。そうしたら、その曲、どこかで聴いたことがあるなと思ったら、二十年前にママがデビューしたときに作った曲と一音も違わずに同じだったの。でも、ママ自身は全然それに気づいてないみたいで、お姉ちゃんと二人でおかしいなって」
 陽菜は当時の不安が蘇ったのかベッドのサイドレールを強く握った。
「そのときは、まあ、ママも昔作った曲を忘れちゃってるのかなって……。でもね、だんだん様子が変わっていったの。ママが突然、記譜の方法や楽譜の読み方を忘れて、私たちに聞いてきた。ママは音楽のすごい基本的なことをすっかり忘れちゃったの。それでも、なぜか曲だけは作れるみたいで、でも、その曲もやっぱり昔の作品とまったく同じだったり、同じフレーズを何度も繰り返したり、ひどいものだと無秩序でなんの調性もない音符の羅列が何小節も続いたりしていた」
 はっきりいって、あの頃のママはちょっと不安定なところもあって怖かった。
 陽菜は記憶の狭間にそう付け加えた。
 異常波形が神経ネットワーク全体に伝播し、脳の各部位が互いに異常な信号を送り合い始めた。まるで自己崩壊のように、脳全体がオーバーフローに陥り、最終的には機能不全に至った。僕は俊明さんのさっきの説明を反芻していた。
「そのうち、ママは参考にしたいからって私たちに過去の演奏を頼むようになったの。あのときの何年何月のあの演奏のあの一音をもう一度鍵盤で押してみてくれない? って、すごく具体的に頼まれた。私たちが楽譜を見てその一音を弾いても、ママは、それじゃない、もっとこうだったって……。私たちは何度も何度も弾くんだけど、何が違うのかわからなくて、でもママはすごく必死に、あのときの音を再現してほしいのって、どうしても譲らなくて……」
 陽菜は言葉を詰まらせて、一度唇を噛んだ。
 僕は母さんに父と全く同じ演奏をするように怒鳴りつけられた日々が脳裏に蘇った。
 母さんは最後には何もかも忘れて、自分を喪った。
 けれど美月の母は何もかも忘れられずに、自分を喪っていったのだ。
 僕はそこにとても嫌な皮肉を感じた。それはとてもとても嫌な皮肉だった。
「それでパパがママを病院で診て、ママの入院が決まったの。ママはそれから忘れられなくなっていった。大事なことも、どうでもいいことも、全部が頭に詰め込まれて……忘れることができなくなっちゃったの。だんだん記憶に支配されていって、たくさんの思い出や過去が押し寄せて、それを思い出している自分というのが定まらなくて、わからなくなっちゃうことが頻繁に起きた。ママは押し寄せる記憶のなかである日は二〇年前の二十歳の自分、でも別の日には子どもの時の六歳の自分になったりした」
 陽菜は母親の最後の様子を話した。
 僕は陽菜の話を聞きながら、美月の母親に生じた感覚を想像してみた。
 それはまるで目や耳が自分に無数に増えたようだった。あらゆる楽器で鳴らした音が一斉に一つしかない脳に流れ込む。どれが自分が聴いている音か、鳴らしている音がなにもわからなくなって、やがて聴いている自分が誰かもわからなくなってしまう、そんな感覚。
「最後に死んじゃうまえには、これまでの感じた記憶の感覚も全部思い出して忘れられなくなって、今自分が聴いている音が、過去にかつて聴いていた記憶の音と区別がつけられなくなって、自分がいまいつどこで生きてるかわからなくっなっちゃった」
 やがて記憶のなかで現在も過去も、時間が喪われる。最後には未来すらも。
 陽菜は最後に僕にこう問いかけた。
「お姉ちゃんはいまなにか夢を見ているのかな」
 美月はいま暗闇のなかで何をみているのだろうか。
 僕は美月の寝顔を見て、彼女がいまいる場所のことを想像した。
 美月はいまなにか夢でもみているのだろうか。
 それとも何もみずにただ真っ黒な光景を見ているのだろうか。
 あるいはハレーションを起こしたような真っ白。
 真っ白な闇を。
 その白い光で埋め尽くされた景色ではどんな音が響いているのだろうか。
 土曜日の午後の病室はほとんど見舞客もいなくて、静かで風が吹く音も聴こえなかった。そしてようやく僕らの話し声に気がついて美月は目を覚ました。
 目覚めたばかりの美月の目は虚ろでただ外界を写すだけの鏡のようだった。

6.
 美月が目を覚ますと、すぐに俊明さんが病室に入ってきた。
「お父さん」
 美月は目覚めたばかりのぼんやりとした目で声を発した。
「おはよう」
 俊明さんは美月に少しイタズラっぽく余裕をみせて答えた。
「そんなふうに起き抜けの顔はママそっくりだな。君のママも早起きがあまり得意な人ではなかったね」
 美月は生真面目な父の珍しいからかいを受けて、少し安心したように微笑んだ。
「家族のなかで一番起きないのがパパだって、ママは言ってたよ」
「おや、そうだったかな」
 俊明さんはそんなふうにいうと、ようやく話のきっかけとして、僕と陽菜に使われてないベッドから椅子を持ってくるように言った。
「二人とも座ってくれ、二三分で済む話というわけでもないから」
 それから、俊明さんはまず診察室で僕と陽菜に話したような話をした。
 美月の症状が再発したこと、異常脳波が検出されて、その活動が過剰に活発化を始めていること、そしてそれは脳の記憶領域を中心に起きていること、それはこれまでの症例のうち、三人目の症例患者のパターンと同じであること、そしてその三人目の症例患者は彼女の母親であるということ。
 美月は俊明さんの話を聞いて、感想を漏らした。きっと病院に来て検査中も考えていたのだろう。
「ママとおんなじなんだ。でもなんとなくそんな気がしてた」
「どうしてそんな気がしてたんだ?」
 問診としてなのか、それともそうではないのかわからないが俊明さんは美月に自省を促すように尋ねた。
「症状が出ると、ママのことをなんとなく思い出したから」
「そうか……」
 俊明さんは、それだけいうと説明を再開した。
「君の脳はおそらく、これからも加速するように活発になっていくだろう、ママと同じような経過を辿るなら、おそらく。もちろん必ずしもそうとは限らないし、いまからいうことの可能性についてわたしは100パーセントとも言えない、だから落ち着いて聞いて欲しい」
 俊明さんはそこまでいうと観念したように告げた。
「おそらく、君の脳の症状が進行しきって末期に向かうまでは来年の春までかからない。これから数ヶ月、夏が過ぎて秋くらいまでは進行はそこまで目に見えるほど加速してみえないだろうが、年が明ける一月前くらいから記憶や精神、そして身体についてはっきりと支障をきたしていくだろう」
 美月は何も言わなかった。
「おそらく、そのような状態になれば、もう末期までは早いと思う。記憶領域を中心としていた異常脳波が他の領域にまで完全に伝播して、そして脳の各部が一斉に合唱でも始めるみたいに”共鳴”を始めるはずだ。そしておそらく君の脳はその過剰な合唱に耐えきれず、壊れてしまうだろう。異常脳波の発現部位だけでなく、小脳や脳幹などの生命維持に必要な箇所まで巻き込んでね」
 美月はこの後に及んで笑った。僕はその笑いをみてどこか泣きたいような怒りにも似た身を裂かれる思いがした、もどかしく耐え難いような感情だった。
「合唱か。まるで頭のなかの蛙が一斉に歌い出すみたいだね」
 どうして、どうして美月がこんな目に遭わないといけないのだろう。
 俊明さんは真剣な表情で言った。
「ただし、美月、一つだけ、君の生命を維持するために取れる方法がある」
 僕は俊明さんの言葉を聞いて、混乱した。
 美月の生命を救える方法がある。
「もちろん、この方法には前例がない。だからあくまで理論的にという話になる。だから保証はできない。わたしは君の父親とそして一人の患者をまえにした医師としての誠意として、それは伝えておく。けれど、可能性はある。そしてこの症例を長く研究してきた研究者のわたしとしては必ずしも可能性の低くない方法だと考えている」
 美月はやはり何も言わなかった。ただベッドの上から、僕らをじっと見つめるばかりだった。
「ただし美月、その方法は君の記憶と引き換えになる」
 俊明さんは続けた。
「君の生命は救われる。ただし、君のこれまでの記憶は失われる。そしてその方法は君の未来の記憶まで奪ってしまうと思う」
7.
「生命は救われるけど、記憶は失われるってどういうことですか? 未来の記憶まで失われるって?」
 僕は何も言わずに俊明さんの説明を一方的に聞くだけだった美月に代わってついに耐えきれずに口を挟んでしまった。
 俊明さんは病室用のスツール椅子のうえに座りながら天井を仰いだ。
「これはそんなに難しい話じゃないさ。いいかい、美月の症状の型は、第三の症例と合致し、今回の脳波図測定で、扁桃体と海馬を中心とした記憶回路の異常発火が確認されたんだ。これまでのMRIやPET検査では、ニューロン群の微細な活動まで捉えられず、どの領域が異常を起こしているかは確定できなかった。しかし、今回の脳波測定で異常発火の起点とその活動の連鎖経路を追跡することができ、具体的な部位を特定できた」
 俊明さんは言った。
「美月の症例は今他の症例にこれまでなかったほど長期的なものとなっているがそのおかげで取れる可能性のあるアプローチが一つ浮上してきた。これまでの症例では、死の直前かあるいは死後解剖でしか、判断するしかなかった第六の波形のその出所がかなりの確度でわかっている。出所がわかり、その脳部位がオーバーヒートして異常活動を行っているとわかったなら、対処のしようがある」
「治せるんですか?」
「シンプルな話だ。異常な行動をしている脳の領域がある。それなら、その領域に働きかけその異常を取り去ってやればいい。方法は二つだ。外科的なアプローチか内科的なアプローチだ」
 俊明さんは指を一つ立てた。
「まず一つ目、外科的なアプローチだ。端的にいうと、これは手術だ。美月、この方法では君の脳にメスを入れ、特定のシナプスを切断したうえで、問題となっている脳の記憶領域を切り取る」
 脳の領域を切り取る、僕は医者ではないがそんなことして大丈夫なのだろうかとすぐに思った。俊明さんは僕らの疑問を察して答えた。
「もちろん、大丈夫じゃない。だが少なくとも生命維持そのものに問題はないはずだ。ただ脳内の記憶を担う箇所をそっく取り去ってしまうんだ。当然、君のこれまでの過去の記憶は失われるし、今後も何かを記憶するということは不可能になると思う。いってしまえば、壊れてしまった機械の特定の箇所を部品ごと取ってしまうんだ。当然、その機械からその機能は永久に失われる。だが生命は助かる。これはシンプルだが非常に強力で確実な方法だ」
 僕は俊明さんの説明に言葉を窮した。記憶とその機能を失って生きる、それがあり得ない選択肢なのか、生命と引き換えにして喪うべき代償なのか、それを本人に変わって判断できなかったからだ。
 みっともなく黙り込んでしまった僕に美月はとうとう口を開いた。
「でも、方法はもう一つあるんだよね。それは?」
 俊明さんは頷いた。
「もとよりわたしはこの一つ目の方法は選ぶつもりはない。脳の切除はあまりに大胆すぎる。それは成功すれば生命の維持の確率は高いが、そもそも手術の難易度もはっきり高い。この方法はリスクもデメリットも高い。ハイデメリットでなおかつ、ハイリスクなんだ。二つ目の方法があるなら、わざわざこの方法を選ぶ理由はない」
 俊明さんはもう一本立てる指を増やした。
「だから、二つ目の方法だ。内科的なアプローチだ。一つ目の方法が手術なら、こちらは薬、つまり投薬療法だ。もともとはとある精神病のために開発された薬がある。その精神病は、今の君の脳で起きているトラブルの場所と非常に近いところで起きていることが最近10年で証明されてきていて、もともとはその治療薬として研究開発が進められているものだ。この治療薬の成分を君の脳の記憶領域で働かす。そうすればほとんど手術をするのと変わらない効果を得ることができるだろう」
 手術するのと変わらないのなら、確かにこの二つ目の方法が良いのかもしれない。僕は話を聞きながら、俊明さんの説明の真意を図ろうとした。
「この方法では、君の脳の記憶領域の神経伝達の動きを消してしまう。細かい説明は省くが、この治療薬の成分は、記憶に関与する神経細胞の活動を永久的に消失させる働きを持つんだ。神経伝達物質の受容体をブロックして、興奮性ニューロンの過剰活動を完全に停止させることで、異常発火の回路を静止状態に持ち込む。……しかし、今の技術では、一度この治療薬で神経活動を消失させると、再び同じレベルでの記憶形成を行うことをできなくさせてしまう」
 俊明さんはここで初めて申し訳なさそうな表情を見せた。
「この化学的なアプローチはわたしの中心的な研究分野でもある。研究はまだ依然として課題を多く抱えていて完全なものではない。すまない。そう、だから、この薬で記憶領域の機能を停止させてしまえば、それを復活させる方法はない。残念だが、この投薬療法も手術と同じで不可逆的な治療なんだ」
「手術と変わらないってこと?」
「そうじゃないよ。わたしはそれでもこの二つ目のアプローチをとった方が良いと思っている。そもそも手術は非常に大胆な方法で、生命の維持はできるものの、身体的な後遺症や神経の損傷によって、認知機能全般に障害を残す可能性が高い。だがこの方法なら、そもそも失敗の確率が低くて確実だ。それに大幅に記憶領域を取り去ってしまう手術よりかはもう少し繊細に働きかけることができる。残念だけど、この投薬療法で君が記憶の多くを失うことは避けられない。けれど、手術と違ってこの方法なら、記憶を残す能力をまだほんの少しだけでも残すことができるんだ」
 それなら……、それなら手術ではなくて、投薬療法の方が確実にいい。論理的に考えて、デメリットもリスクも高い手術と、デメリットは高くともリスクはまだ比較的少ない薬の方がいい。
「わたしは手術と薬なら、確実に薬の方がいいと思う」
 俊明さんは僕が考えたことと同じようなことを美月に伝えた。
「お父さんがいう、生命の代わりに差し出すものって、これまでの記憶とこれからの記憶ってこと」
「そうだ。残念だが……、」
 俊明さんは徐々に後ろめたさを告白するように、説明を追加していく。
「残念だが、君の今日までの記憶の多くはいずれにせよ失われる。ここまで習得してきたピアノの能力などもおそらく失われるだろう。そして今後も弾くことはできない。君のピアノの能力はおそらく今回の異常脳波を出す脳部位と強い相関があるのだと思う。ピアノの演奏中に症例の初期症状が現れたのも今にして思えばそこには因果関係があったんだ。もし君が投薬後になお無理にピアノを弾こうとすると消去したはずの記憶領域の神経伝達の働きを蘇らせてしまうかもしれない。そしてそのときには再び異常脳波が予測不可能なかたちで再度現れるだろう」
「それだけ?」
 聡い美月は俊明さんの説明のトリックに気がついているようだった。 
「薬なら、記憶を残す能力を少しだけでも残せるんだよね。でも、じゃあその残せない記憶って何?」
 俊明さんはおそらく美月の症例につきっきりで疲れた顔をなんとか微笑ませた。
「そうだね、美月、ごめんね。最初からはっきりいうべきだったね。この薬の方法では、記憶を残す能力を少しだけでも残せる。逆にいうと記憶を残す能力のある部分が欠損する。それはつまり、将来にわたって、記憶できないものが発生するということなんだ」
 そうだ、それだけのはずがなかった。
 もし、それなら手術の説明なんかしなくても、最初から投薬療法の話だけをすればいい。僕だって本当は俊明さんの話を聞きながらわかっていた。
 つまり、手術の話は囮だ。
 少しでも、第二の方法をよく見せるための。
 嘘の苦手な俊明さんの精一杯の嘘にはならない嘘。
「それは?」
 美月は俊明さんに促すように再度尋ねた。
 おそらくその答えはピアノではない。
 僕もまた俊明さんの答えの前に考えた。だって、それはもう俊明さんの説明に登場している。そう、もう美月がいずれの方法でも生命を永らえようとするなら、ピアノが美月の人生から失われることが決まっている。
 だから、ピアノではない。そこにはなおもう一つ代償が求められている。
 俊明さんはその代償を説明した。
「君の情動がもっとも強く働くもの、いってしまえば記憶の作動にもっとも深く結びついている特定のものを記憶することができなくなる。おそらく、無理に”それ”を記憶しようとしたり、認識しようとすると消失させた記憶脳領域が再び活性化され再び第六の波形を出現させてしまうだろう。それは君が君自身の主観的世界で最も感情的に触れているものだ」
 俊明さんの問いかけは抽象的なものだった。
「君が一緒にいて、一番心が動く大切なものはなにかな?」
 美月にとってもっとも大事なもの、それを失うことこそが生命の代償に相応しいもの。
 僕は考えてみた。もし僕だったら?
 もし僕だったら、”それ”は何だろう?
 問うまでもない。答えははっきりしている。
 僕は僕の今日まで、そしてこれからにおいてもなんど問い自らにおいて答えてきた最も大切なものをこの目で見つめた。
 そして、それは美月も同じだった。
「どうしてこういうときに君と目が合っちゃうかな」
 僕たちは笑った。こんなときでも笑ってしまった。笑うしかなかった。
 僕たちは残酷に笑っていた。
1.
 俊明さんは最後に説明した。
 おそらく、それは最後の選択を美月がする前の医者として、そして父親として、大人の最後の誠実な役割として。でも僕には、それがどこか遠い、反響のない無響室で演奏される音楽みたいにひどくぼんやりと、どこか遠くで聴こえるようだった。
 美月、君にこの選択を迫るのは、君が症状を発症したときになんとなく予想していたよ。去年の春に入院が始まって、今年の退院のときまで脳波が主病巣をはっきりとさせて発生していなかったから、今日話したような治療アプローチはできなかった。だけど、おそらく症例の進行が末期になるに近づくにつれ、異常脳波がある閾値を越えるどこかのタイミングで今日の話はすることになっていたはずだ。でも、もうひとつ、やっぱりわたしは君にこの選択肢を提示するのが怖くて話すのを今日まで後ろにおいやってしまったことを認めるよ。投薬を行えば、君の生命は救われるだろう。けれど、その代わりに今日までの、そしてこのあとの君のもっとも大切な人との積み上げていくはずだった未来の記憶を失う。もちろん、薬を飲めば、だ。飲まなければ、君の過去の記憶も未来の記憶も失われることはない。そう、君は選ぶことができるんだよ。残酷で、本当に残酷な選択肢だけど君は選ぶことができる。生命か記憶か。美月、君はもうすぐ18歳だね。だから、自分でこの選択を選ばなくては。
2.
 俊明さんは全てを話しきると、いずれの治療をすることを選ぶのなら、おそらく早い方が良いと思うと最後に付け加えた。
 もはや症状の進行を完全に予測しきるのは不可能だから、いずれにしても早すぎるということはありえない、だから手術でも投薬療法を行うにしても、そしてあるいはそのいずれを選ばないにしても医師である自分に伝えてほしいと。
 俊明さんは、まだ子どもなのにこんな辛い選択を選ばせることになって申し訳ないとも、じっくり考えて決めなさいとも、なんともいわずただ黙って病室を出て行った。
 俊明さんが出て行ったあとも、僕も美月も陽菜も三人のうち、長いあいだ誰も口を開く人間はいなかった。
 それでも、ただ時間が過ぎて日が傾き始めると美月が僕と陽菜に部屋を出るように言った。
「ごめん、一人にさせてほしい」
 美月はただそう感情を伺わせない声で一言だけいうと、僕らのほうに顔を向けるのやめて、窓をみて僕らに意思表示をした。
 陽菜が僕の服の袖を引っ張って退室を促してきた。僕はなにもいわず陽菜と二人で病室を出て行った。
 それから僕と陽菜はいつか俊明さんと話したナースステーションの隣のプレイルームに腰かけた。プレイルームには以前にはなかった。子ども用入院患者のための積み木のような知育玩具のコーナーが隅に設置されていた。
「ここ最近さ、あたし、ずっと考えてたんだ」
 今は子ども患者はいないタイミングなのか、知育玩具のコーナーには誰もおらず積み木はただカーペットに散らかっているだけだった。陽菜はそんな様子を眺めながら行った。
「お姉ちゃんはどうして一回死んで、それでまた蘇ったのかな」
 僕は陽菜に言われて、今年の春に美月の心臓が一度停止したあの日のことを思い出した。あのとき陽菜はいなかった。
「お姉ちゃんの症状、お母さんの症例とおんなじだって、やっぱりそれは遺伝とかなのかな、でもどうしてそれはお姉ちゃんなのかな、どうしてわたしじゃなくてお姉ちゃんなんだろう」
 僕は隣に座る陽菜の表情をみた。
 俊明さんと美月は目がよく似ている。それからよく困ったように笑ったり、どちらかというと他人に対して受け身に立ってコミュニケーションをとる様子とか。
 陽菜はどうなんだろう。陽菜は美月とどこが似ているのだろう。僕はそんなことを考えた。
「もしこの世界の隣にたとえば並行世界みたいなものがあれば、その世界ではお姉ちゃんじゃなくて、あたしの方に症状が出ていたのかも。そうだったら、よかったのに」
 陽菜は自嘲気味に笑っていった。
 僕は陽菜の自嘲を少しでも取り去りたくてそんな言葉を返す。
「それいったら、美月はたぶん本気で怒るぞ。お姉ちゃんを怒らせたら怖いぞ」
「わかってるよ、だから、奏に言ってんじゃん」
 陽菜は僕の冗談めかした言い方を拾うように笑った。
「お姉ちゃんの心臓が止まったって外国で聞かされたとき、こっちの心臓まで一緒に止まりそうになった。どうしてあたしはいま海の向こうにいるんだって、どうしてお姉ちゃんの側にいないんだって」
 陽菜は最初ヨーロッパ渡航を確かに嫌がっていたし、一時は断念しようとしていた。けれども、それでも行こうとしていたのは、美月が妹に行くように頼んだからだ。
「でも、お姉ちゃんがもし自分だったら、そうだったら確かに自分のために将来のチャンスをふいにして欲しくない。それは確かに嫌だ。じゃあ、あたしはどうすればよかったのかな」
 美月はよく穏やかに笑う。
 陽菜はどうだろう。陽菜はどちらかというと、穏やかというより騒がしいやつだ。
 だから、二人の姉妹はもしかしたらあまり似ていないと人は言うのかもしれない。
「お母さんが死んだとき、誰も泣かなかったの」
 けれど、陽菜はそういって笑った。その笑いは僕の知っている人にとてもよく似た表情だった。
 「お母さんが死んで、わたしもお姉ちゃんもお父さんもどん底だった。そりゃ、めちゃくちゃ辛かったよ。でも私たち三人ともたぶんおんなじことを思ったの。他の二人も辛いだろうから、自分だけは泣いちゃダメだ。泣かないでおこうって」
 陽菜の声が歪んだ。泣かないように、涙を見せないようにしようとすれば、一層溢れてしまうものが僕たちにはある。僕たちの内側にあるそこから溢れてくるものはときに涙として、ときにはある一つの響きとして溢れてくる。
 僕の隣で鍵盤の音がした。
「どうして、お母さんもお姉ちゃんもあたしをおいていっちゃうの。どうしてしんどいめにあうのはあたしじゃなくて、あたし以外の人なの、あたし、もうお姉ちゃんが死んじゃうの嫌だ」
 二人はやっぱりよく似ている。なんだかんだで他人のことを考えてしまう。自分を押し殺して、他人の考えを優先してしまう気の弱さも、その優しさも二人のそれはとてもよく似ている。そしてそれがゆえの頑固さも。
「もしいま病気なのがあたしで、もしここに座っているのがお姉ちゃんなら、お姉ちゃんのあたしは、きっと記憶を失っても生きていてほしいと思う。それはいまこの場のあたしだって絶対にそう。お姉ちゃんには死んで欲しくない」
 もし違う世界だったらという他愛もない想像の唯一変更できない二人の姉妹の一致点。
「奏、お姉ちゃんがやばくなったときに隣りにいてくれたのはあんただった。それは本当に感謝してる。もしかしたら隣りに奏がいたからお姉ちゃんは戻ってきてくれたのかもしれない。あのとき隣りにいたのはあたしじゃないんだ」
 僕は何も言わなかった。
「きっとお姉ちゃんが薬を飲んで、これから一緒にいれなくなるのは奏だ。奏もそれはわかってるよね。お姉ちゃんにとって一番大切なもの、それは奏だよ、あたしじゃない。悔しいけど、でもそれはあたしはもう認めている」
 陽菜は意志のこもった目でこちらを見つめてきた。結局その瞳もやっぱり美月によく似ている。
「だから、今回の件でお姉ちゃんと話す権利はあんたにあると思う。そりゃ最終的にきめる権利はお姉ちゃんにあるよ。でもあんたは自分の気持ちを、思いを、あんた自身の願いをお姉ちゃんに伝える権利はあると思う」
 もし、もし、もし。もし、あのときのあの人が自分だったら、もしあのときの自分があの人だったら。自分がそんな状況だったら、あの人が自分の立場だったら、人はそんなことをときおり考える。考えても、その問いの答えはいつもわからない。
 でも考える。そう人が問うことにはどんな意味があるんだろう。それはただの後悔や迷いだけなのだろうか。そこに人がそう問うてしまうことに意味など本当にないのだろうか。
 たとえそんな想像が現実に何の意味を持たないとしても、ただ、いま、この場の、この世界にいる僕らにとって現実が圧倒的にただ確実に何か一つを選ばせてこようとするのだとしても。それに絶対に抵抗できないのだとしても。
「陽菜、ありがとう」
 僕は、僕と美月にとって数歳歳下の少女にお礼を言った。妹キャラなんかじゃなくて、一人の僕らの人生に登場するかけがないの一人の友人として。この世界のかけがえのない存在として、僕は彼女の瞳を見つめ返した。
 少女はやがて涙を拭うと、僕に笑っていった。
「奏、お姉ちゃんの部屋に戻ってあげて、それから二人で話してみて、それがどんな選択でも、間違ってないってこの妹様が世界に向かって保証してあげるから」

3.
 部屋に入ると美月は外を見ていた。
 僕はしばらくそっと外の景色に気を取られ続けている美月を見守った。
 今日は晴れていて、外は静かだった。
 窓は開けていないので風の音は聞こえなかった。
 僕はいつか母さんと過ごしたマンションの午後を思い出した。

「美月」
 僕は演奏前の静寂のなかでそっと一音を鳴らすように名前を呼んだ。そういえばあの日、彼女が病室で蘇ったときもこんなふうに彼女の名前を呼んだ気がする。
 美月は名前を呼ばれてようやく気がついたのか、こちらを振り返った。
「今日は晴れてるんだね」
「今日は?」
「うん、お母さんが死んだ日は雨だったから」
「ああ、そうなんだ」
 僕はてっきり、美月が春に心臓が止まった日のことを言っているのだと思っていた。
「運動会とか、遠足とか、楽しい日に決まって雨になる人は雨男とか雨女じゃない? じゃあ悲しい日にちゃんと雨になる人はなんていうのかな」

「逆雨女とか?」
「じゃあ、あたしが死ぬときにも雨が降ったら、それだ。逆雨女」
「まだ死ぬとは、決まってないだろ」
「いや、むしろ奏のほうなのかな。わたしが逆雨女じゃなくて、奏が逆雨男ってことになるのかな、うーむ」
「死ぬとは決まってないだろ!」
 最悪の出だし。
 演奏会ならこのあとの最後まで地獄の時間が決まるのが確定したような音だった。
 相手に怒りをみせれば、自分に怒りが返ってくる。そういうものだ。
 美月はぼくの言葉を飲み込むように怒鳴った。
「じゃあ今日までのことをどうしたらいいの! 奏のことぜんぶぜんぶ忘れればいいの? 記憶を失っても、生きてさえいればいい? 今日までの自分は失っても、また明日から自分を作って生きていけばいい? 勝手なこと言わないでよ! 奏はいないんでしょ? わたしの前からいなくなっちゃうんでしょ? 簡単に言わないでよ! わたしの人生から消えるなんて簡単に言わないでよ!」
 僕は美月を落ち着かせるために両腕で彼女を抱きしめた。
 美月の身体は震えていた。
 でも僕の腕も震えていた。
 身体が、全身に流れる血液が、神経が、心が、きっとそのどちらでもない二人のあいだにあるものがまるで張り詰めた弦のように震えていた。
「簡単に言えるわけないよ」
 僕の声も震えていた。
 僕は美月の震えを鎮めるために全力で強く抱きしめたつもりだった。
 でも僕の震えが伝わって、僕らの震えは結局大きなものになってしまった。
 それから美月はその震えが彼女の奥に伝わって、大きな、大きな声で泣き出した。
「ごめん」
 それはどちらが言った言葉だったろうか。
「死なないでよ、どこにもいかないでよ、どこにもいかないで僕のそばにいてよ」
 いつのまにか僕の視界も声も歪み切っていった。
「死にたくないよ、忘れたくないよ、わたしのことを忘れないでよ。わたしのことをずっと忘れずに一緒にいてよ」
「忘れないよ、だからずっとずっと一緒に生きようよ」
 答えになっていない。僕らに突きつけられた二択の答えになっていない矛盾した回答。
 けして弾くことのできない、けれど五線譜に書かれた楽譜。
「これからもそばにいようよ。ずっと」
 窓の七月の雲はぼんやりと僕らの病室に薄い影を送る。
 僕らは弱かった。
 神様のまえで、僕らはただ震える小さな楽器だった。
 震える弱さ、死への恐ろしさ、忘れていく切なさ、僕らはそれを受け入れる強さも乗り越える強さもなく、ただ僕らは弱く、それを見つめていまは一つの楽器として、せめてもの祈りとして、一番深い場所で、響かせるしかなかった。
 それ以外に僕らにできることはなかった。