1.
どこから思い出そうかな。
あるいはもっと前の方から思い出すこともできるだろう。
あるいはもっと後ろの方から思い出すこともできるだろう。
でも、まずはやっぱり君が死ぬ少し前から思い出し始めようか。
残響のような君の命の響きが消え去る、その少し前から。
✴︎✴︎✴︎
「ねえ、奏、起きて、そろそろ始まるよ」
暗闇から声がして、ゆっくりと瞼を開けて光を取り戻す。
まだ日は沈んでないというのに部屋は薄暗い。
そうだ、その日は曇りだった。
僕は彼女の声に応えるように身を起こす。
空調と入院患者の退屈しのぎのテレビの音が徐々に僕を目覚めた世界に馴染ませていく。
僕はゆっくりと世界を把握していく。
いつのまにか心地よく設定された空調設備の風に包まれるように丸椅子のうえで眠りこけてしまっていたらしい。
「なんの夢を見ていたの?」
「べつになんにも」
「ふーん」
美月はつまらなさそうにベッドの上のリモコンを棚のテレビモニターに向けた。パッとデジタル式の薄型テレビが明滅して次々と世界が切り替わっていく。くだらないお笑いコンビがくだらないテレビコマーシャルの言葉を喋っていた。
目的の番組は五分後からでまだ放送は始まっていなかった。
お笑いコンビは「《O・J》、《O・J》」としきりに連呼して、相方が「《O・J》ってなんやねん」というと、「そら《オレンジ・ジュース》やなあ」ともう一人の相方が答える、よくわからない不条理なコントをやっていた。
「パパ、来ないねえ」
美月が不満そうに、というか不安そうにテレビを観ながらいった。
今日は土曜日の休診日で診察もないはずだった。
大方急ぎの仕事かなにかなのだろう。
もっとも休診日とはいえ、休みの日というわけではないのだろうから、いくら家族とはいえそんなに簡単に仕事を抜けられないのかもしれない。大人の世界の”仕事”というやつはまだ高校生の僕らにはちっともその実情がわからない。
「呼んでこようか?」
美月の父なら自分も知らない関係ではないから、許されそうな気がした。
「いいよ」
美月はそういって僕の申し出を断った。
薄暗い室内で場違いに騒ぐテレビをぼうっと見る横顔を見ていると、なんだか美月も大人になったなと自然とそんなことを考えている自分に僕は気づいた。でも、それがいいことなのかそうでないのか自分にはわからなかった。
美月はもう一年近く学校に行っていなかった。
僕と美月は長い付き合いだけど、最近はどこか達観しているというか、いつものように子どもっぽいことを言ったとしても、それはどこか演技めいているというか、変わらない自分を演出しているように思えた。
何かを諦めたり、受け入れたりする美月を見るとその度に自分の内側に感じるこの感じはなんだろう。
それはある意味とても悲しくて、寂しくて、そしてこの身近な少女が大人のようにみえてきて悔しさとともに少しドキりとさせられてしまう。
こんな状況でも美月の心が穏やかであるならば、それはいいことだ。
でもやっぱり、今の状況に慣れてきたり、受け入れていてほしくもない。
わからない。僕は彼女にどんな心持ちでいて欲しいんだろう。だんだんそんなふうに考えているとわからなくなる。こんなふうに自分の身近な誰かがゆっくりと死の方向に引っ張られていくのを自分ははじめて経験している。わからないのはある意味あたりまえなのかもしれない。それはそう、あたりまえなのかもしれないけど。
カーテンの外の暗い世界では雨が降り続いている。
どこか遠くの雲のうえでは、誰かが騒いでいるのかときどき雷が光って、その音が微かに聞こえてくる。
二人の話し声と場違いなテレビの音以外、物音ひとつしない静かな病室。
こんな時間が一番自分には泣きたいような気がするのはどうしてなんだろう。
「あ、始まったよ!」
美月がなぜか心配そうに枕を両腕で抱きしめてテレビを覗き込む。
夕方過ぎの情報番組。いつもは流行りの他愛もないJ-POPのランキングを、他愛もない女性アイドルがお笑い芸人と紹介しているだけなのに、今日はプロデューサーのなんの気まぐれか、小さな特集コーナーでピアニスト特集をやるのだという。
国内国外で配信ランキング一位を独占している映画音楽家やらいま台湾で活躍する若いイケメンピアニスト。それから最後は、ヨーロッパの世界的権威ある国際コンクールで入賞の快挙を果たした天才女子中学生ピアニスト。
「ほらほら、奏、ちゃんと顔映ってるよ!」
テレビの女子中学生ピアニストは特別にウィーンの音楽大学から招待されていた。
中継はどこかのヨーロッパの音楽大学の音楽室の前からだった。
天才女子中学生ピアニストはピアノを弾くには用意できる最高のその環境で、ソナタやトロイメライを優雅にカメラに向かって弾きこなしていく。
「陽菜、上手くなったなあ」
美月がその言葉をどんな気持ちで呟いているのか、僕にはわからなかった。
「美月だって、退院したらまた練習を始めたらいい」
この言葉は正解だったのだろうか。
ときどき自分の言葉がひどく美月を傷つけていないか不安になる。
励ましているつもりでも、寄り添っているつもりでも、その逆をしているんじゃないかって不安になる。
テレビで呑気にもタレントがピアノを弾き終えたピアニストに質問を投げかけている。
──いつから、ピアノを?
──きっかけはなんだったの?
天才女子中学生ピアニストは答える。
──幼稚園のときからで、きっかけはお姉ちゃんが弾いていたのがかっこよくて……。
その答えを聞いて、美月はこちらに露骨にニヤッと笑った。
「ふふ、奏もお姉ちゃんの偉大さがこれでわかったか。妹は姉の背中を見て育つのだよ」
「はいはい、そうでございますね、偉大なピアニストさま」
「陽菜からこんなことが聞けるなんてね、もう思い残すことはないね」
僕は美月の軽口に何も答えられない。
動揺を隠そうとすぐに何か言葉を探したけど結局見つからなかった。
静かな病室でテレビの音だけが響き続ける。
「ごめん……」
美月の声が病室にぽつりと落ちた。
どうせだったら、今ここに雷でも落ちて全部燃やしてくれれば良いのに。
「何か飲み物を買ってくるよ」
僕は結局耐えきれなくなって部屋を出た。
病室の扉を閉めると、部屋と同じで節電のために明るさを抑えられた薄暗い廊下に出た。
それから耐えきれず壁を背に屈み込んだ。
病室からは彼女の声は何も聞こえない。
ため息も、嗚咽の涙も、ただ何度も触れた気まずい静寂だけが聴こえる。
馬鹿馬鹿しくて腹の立つテレビタレントの声がテレビからやけに大きく響いた。
──ご家族も著名なピアニストなんですよね。
──はい、もともと母もピアニストで。
一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。
どうしてこうなった?
誰が悪い?
美月が一体何をしたっていうんだ?
ただ無邪気に家族とピアノが大好きなだけの女の子がどうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
こんなことはもしかしたら、ある意味世界ではありふれた悲劇の一つなのかもしれない。
でもこんな辛くて、苦しいことが世界のなかでありふれた悲劇であるなら、この世界はなぜこんなに残酷なのだろう。
「頼むよ、神さま」
本当は神様こそが残酷だ。
僕はそれを知っている。それでも僕はそう祈らずにいられなかった。
残酷で、イタズラ好きで、救いもなければ慈悲もない。
きっとそれが僕らの世界の神さまだ。
きっとそのことが一番残酷なんだ。
残酷なのは耐え難い痛みや過酷な現実ではなく、それが存在しながら、でもそこから救われるような奇跡を神さまは与えないということ。奇跡なんて信じても無駄だ。けれど、僕らは僕ら自身でどうにかできるほどの強さも与えられていない。
だから、それでも僕らは祈らずにいられない。
奇跡を願って、それを求めずにはいられない。
絶対にそれは与えられないとしても、それでもやっぱりそれを与えることができるのは神さまだけなのだから。
どうか奇跡を。
もし叶うのなら、自分はなんだって捧げたって良いと思った。
この指先でも、目でも、耳でも、心でも、魂でも、ただ美月に恩寵が与えられるなら、自分の人生の全てを、神さま、あなたに渡すよ。
ただ自分は美月とこの世界で一緒に存在していたいだけなんだ。
そのためだったら、なんだって捧げる。
どこから思い出そうかな。
あるいはもっと前の方から思い出すこともできるだろう。
あるいはもっと後ろの方から思い出すこともできるだろう。
でも、まずはやっぱり君が死ぬ少し前から思い出し始めようか。
残響のような君の命の響きが消え去る、その少し前から。
✴︎✴︎✴︎
「ねえ、奏、起きて、そろそろ始まるよ」
暗闇から声がして、ゆっくりと瞼を開けて光を取り戻す。
まだ日は沈んでないというのに部屋は薄暗い。
そうだ、その日は曇りだった。
僕は彼女の声に応えるように身を起こす。
空調と入院患者の退屈しのぎのテレビの音が徐々に僕を目覚めた世界に馴染ませていく。
僕はゆっくりと世界を把握していく。
いつのまにか心地よく設定された空調設備の風に包まれるように丸椅子のうえで眠りこけてしまっていたらしい。
「なんの夢を見ていたの?」
「べつになんにも」
「ふーん」
美月はつまらなさそうにベッドの上のリモコンを棚のテレビモニターに向けた。パッとデジタル式の薄型テレビが明滅して次々と世界が切り替わっていく。くだらないお笑いコンビがくだらないテレビコマーシャルの言葉を喋っていた。
目的の番組は五分後からでまだ放送は始まっていなかった。
お笑いコンビは「《O・J》、《O・J》」としきりに連呼して、相方が「《O・J》ってなんやねん」というと、「そら《オレンジ・ジュース》やなあ」ともう一人の相方が答える、よくわからない不条理なコントをやっていた。
「パパ、来ないねえ」
美月が不満そうに、というか不安そうにテレビを観ながらいった。
今日は土曜日の休診日で診察もないはずだった。
大方急ぎの仕事かなにかなのだろう。
もっとも休診日とはいえ、休みの日というわけではないのだろうから、いくら家族とはいえそんなに簡単に仕事を抜けられないのかもしれない。大人の世界の”仕事”というやつはまだ高校生の僕らにはちっともその実情がわからない。
「呼んでこようか?」
美月の父なら自分も知らない関係ではないから、許されそうな気がした。
「いいよ」
美月はそういって僕の申し出を断った。
薄暗い室内で場違いに騒ぐテレビをぼうっと見る横顔を見ていると、なんだか美月も大人になったなと自然とそんなことを考えている自分に僕は気づいた。でも、それがいいことなのかそうでないのか自分にはわからなかった。
美月はもう一年近く学校に行っていなかった。
僕と美月は長い付き合いだけど、最近はどこか達観しているというか、いつものように子どもっぽいことを言ったとしても、それはどこか演技めいているというか、変わらない自分を演出しているように思えた。
何かを諦めたり、受け入れたりする美月を見るとその度に自分の内側に感じるこの感じはなんだろう。
それはある意味とても悲しくて、寂しくて、そしてこの身近な少女が大人のようにみえてきて悔しさとともに少しドキりとさせられてしまう。
こんな状況でも美月の心が穏やかであるならば、それはいいことだ。
でもやっぱり、今の状況に慣れてきたり、受け入れていてほしくもない。
わからない。僕は彼女にどんな心持ちでいて欲しいんだろう。だんだんそんなふうに考えているとわからなくなる。こんなふうに自分の身近な誰かがゆっくりと死の方向に引っ張られていくのを自分ははじめて経験している。わからないのはある意味あたりまえなのかもしれない。それはそう、あたりまえなのかもしれないけど。
カーテンの外の暗い世界では雨が降り続いている。
どこか遠くの雲のうえでは、誰かが騒いでいるのかときどき雷が光って、その音が微かに聞こえてくる。
二人の話し声と場違いなテレビの音以外、物音ひとつしない静かな病室。
こんな時間が一番自分には泣きたいような気がするのはどうしてなんだろう。
「あ、始まったよ!」
美月がなぜか心配そうに枕を両腕で抱きしめてテレビを覗き込む。
夕方過ぎの情報番組。いつもは流行りの他愛もないJ-POPのランキングを、他愛もない女性アイドルがお笑い芸人と紹介しているだけなのに、今日はプロデューサーのなんの気まぐれか、小さな特集コーナーでピアニスト特集をやるのだという。
国内国外で配信ランキング一位を独占している映画音楽家やらいま台湾で活躍する若いイケメンピアニスト。それから最後は、ヨーロッパの世界的権威ある国際コンクールで入賞の快挙を果たした天才女子中学生ピアニスト。
「ほらほら、奏、ちゃんと顔映ってるよ!」
テレビの女子中学生ピアニストは特別にウィーンの音楽大学から招待されていた。
中継はどこかのヨーロッパの音楽大学の音楽室の前からだった。
天才女子中学生ピアニストはピアノを弾くには用意できる最高のその環境で、ソナタやトロイメライを優雅にカメラに向かって弾きこなしていく。
「陽菜、上手くなったなあ」
美月がその言葉をどんな気持ちで呟いているのか、僕にはわからなかった。
「美月だって、退院したらまた練習を始めたらいい」
この言葉は正解だったのだろうか。
ときどき自分の言葉がひどく美月を傷つけていないか不安になる。
励ましているつもりでも、寄り添っているつもりでも、その逆をしているんじゃないかって不安になる。
テレビで呑気にもタレントがピアノを弾き終えたピアニストに質問を投げかけている。
──いつから、ピアノを?
──きっかけはなんだったの?
天才女子中学生ピアニストは答える。
──幼稚園のときからで、きっかけはお姉ちゃんが弾いていたのがかっこよくて……。
その答えを聞いて、美月はこちらに露骨にニヤッと笑った。
「ふふ、奏もお姉ちゃんの偉大さがこれでわかったか。妹は姉の背中を見て育つのだよ」
「はいはい、そうでございますね、偉大なピアニストさま」
「陽菜からこんなことが聞けるなんてね、もう思い残すことはないね」
僕は美月の軽口に何も答えられない。
動揺を隠そうとすぐに何か言葉を探したけど結局見つからなかった。
静かな病室でテレビの音だけが響き続ける。
「ごめん……」
美月の声が病室にぽつりと落ちた。
どうせだったら、今ここに雷でも落ちて全部燃やしてくれれば良いのに。
「何か飲み物を買ってくるよ」
僕は結局耐えきれなくなって部屋を出た。
病室の扉を閉めると、部屋と同じで節電のために明るさを抑えられた薄暗い廊下に出た。
それから耐えきれず壁を背に屈み込んだ。
病室からは彼女の声は何も聞こえない。
ため息も、嗚咽の涙も、ただ何度も触れた気まずい静寂だけが聴こえる。
馬鹿馬鹿しくて腹の立つテレビタレントの声がテレビからやけに大きく響いた。
──ご家族も著名なピアニストなんですよね。
──はい、もともと母もピアニストで。
一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。
どうしてこうなった?
誰が悪い?
美月が一体何をしたっていうんだ?
ただ無邪気に家族とピアノが大好きなだけの女の子がどうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ?
こんなことはもしかしたら、ある意味世界ではありふれた悲劇の一つなのかもしれない。
でもこんな辛くて、苦しいことが世界のなかでありふれた悲劇であるなら、この世界はなぜこんなに残酷なのだろう。
「頼むよ、神さま」
本当は神様こそが残酷だ。
僕はそれを知っている。それでも僕はそう祈らずにいられなかった。
残酷で、イタズラ好きで、救いもなければ慈悲もない。
きっとそれが僕らの世界の神さまだ。
きっとそのことが一番残酷なんだ。
残酷なのは耐え難い痛みや過酷な現実ではなく、それが存在しながら、でもそこから救われるような奇跡を神さまは与えないということ。奇跡なんて信じても無駄だ。けれど、僕らは僕ら自身でどうにかできるほどの強さも与えられていない。
だから、それでも僕らは祈らずにいられない。
奇跡を願って、それを求めずにはいられない。
絶対にそれは与えられないとしても、それでもやっぱりそれを与えることができるのは神さまだけなのだから。
どうか奇跡を。
もし叶うのなら、自分はなんだって捧げたって良いと思った。
この指先でも、目でも、耳でも、心でも、魂でも、ただ美月に恩寵が与えられるなら、自分の人生の全てを、神さま、あなたに渡すよ。
ただ自分は美月とこの世界で一緒に存在していたいだけなんだ。
そのためだったら、なんだって捧げる。