「姉さま、黒砂糖がもう少なくなっています。塩もそろそろ……」
薬箱の整理をしていた露子が、材料が減っていることに気づく。それを聞いた綾子が、包帯となる白布をまとめていた手を止めた。
妹のそばに行き、薬箱の中身を確認する。確かに、いくつかの薬の原料が少なくなっていた。
「兄上、薬の買い出しに行ってまいります」
なぜ頼ろうとしないのか。弦太郎は読んでいた本を閉じ、
「一緒に行くよ。ここは都だ。女子供だけじゃ危ないからね」
と答える。
「兄上がいらっしゃったところで、何も変わらないと思いますが」
容赦ない妹の言葉が飛んできた。
「都の塩は高いのですね……」
銭袋を眺めながら、綾子が落ち込む。
「鉢の里には海があったからね」
ほとんど銭が要らず、かなり安価で買えていた塩も、都では貴重な銭を使って高価で買わなければいけない。それだけで、綾子の機嫌が悪くなってしまう。
「いいではありませんか、姉さま。その分塩を使う医術には、薬代を多くいただけばいいのです」
「薬代を払えない人も多いのですよ。父様と母様は、薬代を払えない人への医術を基本としていました」
その娘が、よくここまでの守銭奴となったものだ。
「ここは都なんだ。鉢ノ里よりも、薬代を払える人は多いと思うよ」
「そのようなお方に、旅の医術師が医術を行えるとでも?」
綾子の言葉はもっともだ。早く策を講じなければと、弦太郎は思う。
「しばらくは節約生活ですよ」
「宿暮らしなのに、どこで節約するというのですか?姉さま」
「都の宿は高いからね」
露子の言う通り、旅籠では一泊二食付きの値段が基本。この5日間、隠れるようにほとんど宿から出なかった彼らには、節約するところもない。
「兄上、しばらく都に滞在するおつもりなら、長屋を借りませんか?」
「へぇ、意外だな。綾なら、銭が尽きる前に里に帰ろう、とか言い出すかと」
「今のまま帰っても、父様のような医術を行うには限りがあります。職人を見つけて道具を作っていただかなければ」
医術を何よりも大切にする、彼女らしい返答だ。確かに、職人を早く見つけるにこしたことはない。
「そうだな。じゃあ、都で診療所でも開くか」
「それでは、目立つのでは?」
「そうですよ、兄さま。里の診療所で作って持ってきたお薬にも限りがあります。都で医術を行っては、里の診療所に置いてきた薬を作る道具を、一から揃えなければ」
「……目立つことをするのは、いつも綾と露なんだけどね」
兄妹が受け継いだ医術で、必ず必要となる特別な薬。特別な製法でしか作れず、作るためにはたくさんの道具を使う。それには時間もお金もかかってしまうのだ。
姉妹に怒られた弦太郎は、不満そうにつぶやいた。
「わぁ、あれ綺麗!」
その時、露子がとある店に駆け寄っていった。店先に飾られたたくさんの風車が、くるくると回っている。
「露、好きなのを買おうか」
「本当ですか? 兄さま」
嬉しそうな露子に、
「……節約だと申し上げたばかりではありませんか」
綾子は呆れたような声を出す。
「そう言わずに。ほら、綾も好きなのを選んで」
「わたしは、そんなもので遊ぶほど幼くありません」
兄に子ども扱いされたことに唇を尖らせる綾子に、弦太郎は笑って隣を見た。
「じゃあ、綾にはこっちかな」
その手に握られた綺麗な櫛に、綾子は一瞬目を輝かせるも、その値段を見てはっと視線を逸らす。やはり興味はあるらしい。たしかに高価だが、買えなくはないはずなのに。
「そんなものを買うくらいなら、薬になるものを買います」
「そう言うなよ、綾。ほら」
露子に買うついでに、もう1つ風車を買い、弦太郎が綾子に渡した。
綾子はそれを受け取り、ふっと息を吹きかける。カラカラと軽い音を立ててくるくる回る。その横顔は、どこか楽しそうだった。
「兄上、覚えておられますか?」
「何を?」
風にあおられて回る風車を見ながら、兄妹は静かに言葉を交わす。
「まだ幼い頃、旅の風車売りが里に来た時、父様に買っていただきました。確か、露が生まれて間もない頃だったと」
「あぁ、そうだったね」
父との思い出。医術を抜かせば、かなり少ない。
「その時、父様がおっしゃっていました。父様の故郷には、これよりももっとずっと大きい風車があって、それが焚火よりも明るいでんきというものを作り出すのだと」
「一度見てみたいね。そんな大きなもの、どうやって回るんだろう」
きっと人の息では回らないだろう、と弦太郎は付け足す。
「わたしもそう思います。……露、あまり遠くに行ってはいけませんよ」
「はーい!」
風車を持って走り回っていた露子を呼び戻し、兄妹は宿に戻った。
弦太郎は父の医学書に向き合っていた。
綾子が言ったように、その内容はほとんど頭に入っている。しかし、読んでおいて損はない。それに飽きも来ないのだから。
ふと顔を上げると、露子が薬箱を整理する横で、綾子がぼんやりしていた。
その視線の先には、どうやら窓辺に置いてある風車があるようだ。
疲れているのだろう。旅を始めてからひと月近く、ゆっくり休めていないのはわかっている。
露子も幼いながら理解しているのか、姉に無理やり手伝わせることもしない。
そのまま眠るならそれでいいと、弦太郎が再び医学書に視線を戻した時、
「お客さん、ちょいといいですか?」
襖の外から宿の女将の声がした。
「お客さんに会いたいと仰る方が来ていますよ」
「わざわざありがとうございます。通してください」
鉢ノ里で生まれ育った兄妹に、都での知り合いはいない。宿に泊まる彼らを訪ねる人間もいないどころか、誰にも居場所を伝えていない。いったい誰が。
「失礼します」
襖が開いて、入ってきたのは複数の男たちだった。
「あなた方は……?」
全く見覚えのない人間たちに、弦太郎は驚きながら迎える。
視界の隅で、露子が姉を揺すり起こすのが見えた。
「私です! 覚えていませんか?」
先頭にいた偉そうな初老の男の後ろから、見覚えのある男が飛び出してくる。
「あぁ、あの時の」
弦太郎は彼を見てようやく笑顔を見せた。
都の道で倒れた患者を救った時に居合わせた医術師だった。
「央ノ都医術所の医術師、伊藤俊之助にございます」
「伊藤様、お久しぶりでございます」
弦太郎の視線が先頭の男に向くと、伊藤は慌てて紹介する。
「このお方は、央ノ都医術所をまとめていらっしゃる、滝川純庵先生です」
「それは……ご高名な医術師とお見受けいたしますが、存じ上げず、申し訳ございません」
医術所、しかも都の名をつけた医術所を任されているということは、相当腕のいい医術師に違いない。が、父の医術を知らない人間ならば、きっと医術道具を作る職人にも詳しくないだろう。
「失礼ですが、あなたのお名前は?」
偉そうに見えた滝川純庵は、人懐っこい笑顔で口を開いた。
「これは失礼いたしました。鉢ノ里で胡ノ山療養所という診療所を開いております、弦と申します」
「弦殿でございますか。このような形で突然お訪ねして、申し訳ない」
本来は苗字付きの本名があるが、ここで本名を名乗るのは得策ではないと判断した。
良家の人間しか持たない苗字を持っている理由を問われたところで、答えられないのだから。
綾子と露子が黙ってお茶を準備し、綾子はさりげなく医学書を手に取る。
「そちらは?」
「妹のお綾とお露でございます。外に出しましょうか」
「あぁ、いや。伊藤の話では、壱町で医術を行ったのは、そちらの女性と」
「えぇ、お綾です」
綾子は医学書を抱いたまま、少しだけお辞儀をし、滝川純庵を見つめた。
「失礼ですが、何をお持ちになっているのですか?」
綾子の警戒心を察してか、滝川純庵は丁寧に質問した。
「……父から受け継いだ医学書にございます」
綾子が警戒しながら真顔のまま答える。
「見せていただいても?」
「誰にも見せないように言われていますので」
父の言葉を忠実に守る綾子は、当然それを拒否する。
「お父君から?」
「はい」
「では、お父君とお話させてはいただけませんか?」
「……それは……」
これには綾子が口ごもる。
「父は去年亡くなりました。高齢でしたので」
弦太郎が助け舟を出した。すると、露子が俯いて姉にすり寄る。
露子にとって、父は唯一の親だった。その死から立ち直るのに、かなりの時間がかかった。今もまだ十分ではないのだろう。
「綾、医学書を滝川先生にお見せしなさい」
「……!」
綾子がぎょっと弦太郎を見た。
「兄上……」
「父上亡き今、私が主だ。主の私が良いというのだから、お見せしなさい」
「……わかりました。どうぞ」
そう言われては逆らえないと思ったのか、はたまた別の理由か。綾子は渋々医学書を差し出す。
「随分新しいもののようですね。いつ書かれたものですか?」
「それは、父が書いたものと聞いております。おそらく父が祖父から受け継いだものが別にあると思いますが、私どもが持っているのはそれだけでございます」
弦太郎の説明を受けて、滝川はそれを開く。
「これは……!」
滝川が息を飲む。
「なんと書いてあるのですか?」
そう、父の字は独特だ。というよりも、まるでこの国の言葉ではない。
読み方を教わった兄妹にだけ通じる暗号、といっても過言ではないほどに。
「あぁ、申し訳ございません。父の字は少々特殊で。私は読めますのでお教えすることはできるのですが、それには時間がかかってしまいます。滝川先生に、そのようなお時間があられるようには……」
「では、医術学問所で教えてはいただけませんか?」
「なりません!」
突然露子が声を上げた。
「父さまがないしょと言われたのです! 兄さまであっても、父さまのお言葉に逆らってはいけません!」
「露」
父のことを思いだしたのだろう。泣きながら訴える露子の口を、綾子が手で塞ぐ。
「申し訳ございません」
「……この場で返事をというわけではありません。どうぞ話し合われてください」
滝川は笑顔だった。
「もし医術所に来ていただければ、近くに家をご用意いたしましょう。ささやかながら、お礼もさせていただきます」
泣きじゃくる露子を綾子が抱きしめ、弦太郎は丁寧に彼らを見送った。