「思った以上によかったよ。安心した。この調子だともっと上も狙えるかもしれないな」
 夕日が差し込む放課後の生徒指導室で担任教師が蒼に向かって笑顔を見せる。机を挟んだ向い側の席に座っている蒼は、ホッと息を吐いた。
「ありがとうございます」 
 中間テストの結果を受けて呼び出されたのである。
「実力テストの結果を見たときはどうしようかと思ったが、なんとかなりそうだな」
「あの日は本当に調子が悪くて……ご心配をおかけしました」
 気まずい思いで蒼は答えた。
「やっぱり同室の筧に勉強を見てもらったのがよかったのか?」
「……そうですね。とても丁寧におしえてくれて、かなり助けになりました」
 実はこれは本当のことだった。
 担任から頼まれてすぐは、ノートを貸してくれただけだった仁が、どうしてか途中から直接教えてくれるようになったのだ。
 理由についてはわからない。けれど蒼の写真を見せたあの土曜日から彼の気が変わったのは間違いない。
 あの日仁は、就寝時間までタブレットを見て、そのままベッドで眠りについたのだ。
 そしてそれ以来、夜に出かけたことは一度もない。学校から帰ってくると蒼とともに部屋で過ごし、そのまま部屋で朝を迎える。自由時間は蒼の勉強を見たり、タブレットの写真を眺めたりしている。
 タブレットに保管してある蒼の写真は一部だから、もう何度も見たはずなのに、まったく飽きる様子はない。
 同室になってもひとり部屋と変わらない生活をしていた蒼にとっては、はじめての共同生活と言ったところだが、不思議と窮屈に感じることはなかった。
 それどころか、蒼は机に向い勉強をして彼がベッドで寝そべって写真を見ている時間を、どこか心地よく感じている。
「まあ、この調子で期末も頑張ってくれ。筧が教えてくれている効果もあるなら、彼の担任にも報告しておこう」
 担任はそう話を締めくくった。
「はい。先輩にはとてもお世話になっているのでお願いします」
 はじめて取引の役割をキチンと果たせたような気がすると思いながら、蒼は席を立った。彼の担任が仁の祖父に報告をすれば、彼が模範的な生活をしているというアピールになる。
「失礼しました」
 廊下へ出て、そのまましばらく考える。どうしてか妙な落胆を覚えたからだ。
 仁の評価を上げるのが取引の目的なのだから、これでよかったはず。でもそしたら、彼は祖父から帰宅を許されて寮を出ていってしまうのだ。
 そうなったら、自分はもう二度と仁とあのような時間を過ごすことはないだろう。もともと彼と自分は住む世界が違う人。同室でなければ、蒼など半径五メートル以内に近寄ることすらないのだから……。
「蒼、なにやってるの? 呼び出し?」
 声をかけられてハッとする。振り返ると、仁が立っていた。後ろに美希と二年の男子を連れている。確か孝也という名前だったような。
「中間の結果がよかったから、褒められていたんです。この調子だって言われました」
 蒼は事情を説明する。同室の生徒が問題を起こしたら、内容によってはルームメイトも指導を受けることがある。悪いことで呼び出されたわけではないとすぐに伝える必要がある。
「テストよかったんだ。やったね」
 仁がにっこりと笑った。
「先輩が教えてくれたおかげです」
「蒼が頑張ったからだよ」
 うしろにいる美希と孝也の手前、ふたりはよそいきのやり取りをする。取引をはじめてから約一カ月、ようやく蒼も少しは自然に振る舞えるようになってきた。
「ねえ、仁。この子の成績が上がったなら、家庭教師はもういいでしょ。そろそろ遊ぼうよー」
 美希が仁の腕を取り、胸をあてるように抱きしめる。その光景に、蒼の胸がちくりと痛んだ。
 じゃあそうしようと彼は答えるのだろうか?
 また夜遊びが再開する……?
「そういうわけにはいかないよ。期末で落としたら意味がない」
 あくまでも口調は柔らかく、けれどほんの少し嫌そうに、仁が彼女の腕を振りほどいた。普段とは違うその仕草に、美希が驚いたように目をパチパチとさせた。
 美希の代わりに孝也が口を開いた。
「仁。俺らと遊ぶくらいはいいだろ? 今度の土曜、都立の女子と遊ぶんだけど、仁も来いよ」
「ちょっと、それって合コンでしょ? ダメだよ仁を連れてったら」
 美希が目をつり上げるが、孝也は意に介さない。
「なんでお前が怒るんだよ。関係ないだろ。頼むよ仁。仁がいると女子の参加率が違うんだよ。お願い! 親友を助けると思って」
 彼は仁に向かって手を合わせる。そして今度は蒼を見た。
「なんなら、マスクくんも一緒に来てくれてもいいよ。マスクくんも女の子と遊びたいよね。前から思ってたけど君、意外と目が可愛いよね。もしかしてマスクの下はイケメンだったりして……」
 そう言う彼が近づいてきて蒼を覗き込むように近くでじっと見つめる。ぎょっとして蒼は後退りをした。
 親しくない相手に近くでじっと見られるのは気持ちのいいものではない。蒼の素顔に興味を持っている相手が、その気になればマスクを奪える距離にいるというのは恐怖ですらある。案の定、彼は蒼の方へ手を伸ばす。
「ねえ、ちょっと顔を見せ……」
 パンッ!
 手をはたく音が放課後の廊下に響き渡る。
 蒼のマスクを奪おうとした手を妨げたのは、仁だった。
「マスクを勝手に取ろうとするのは失礼だと思うよ」
 口調はあくまでも丁寧だが、その目は鋭く彼を睨んでいる。いつものにこやかな雰囲気は微塵もなかった。
 そんな仁を見るのは、はじめてなのだろう。彼はあっけに取られている。冷たい仁の視線に慌てて手を引っ込めた。
「あ……そ、そうだよな。ごめん」
 蒼も驚いていた。生活指導のゴリラはともかくとして目の前の彼は仁の友達。その彼にまで、蒼のマスクのことで強く言い返すなんて。
 仁が彼に向かってにっこりと笑った。
「悪いけど、僕は合コンにも行かないから。たまには自分たちの力で女の子を集めてみたら? 僕目当ての女の子と遊んだって意味ないでしょ。じゃあ蒼の勉強をみないといけないから、僕たちはここで」
 そして蒼の腕を取る。
「行こう、蒼」
「え? あ……!」
 仁に引っ張られて、蒼は廊下を彼らが向かっていたのとは反対方向に歩き出す。
「ちょっとあんた、仁怒っちゃったじゃん。マスクくんのマスクを取るのはダメなんだって! 知らないの? 仁がゴリラとやり合ったの」
「え? そうなの?」
 美希たちがヒソヒソとやり取りをしているのを聞きながら、蒼は自分の前を行く大きな仁の背中を見つめていた。