午後九時。
夕食を終えて就寝時間までの自由時間、蒼はどこか落ち着かない気持ちで自室の机に向かっている。広げているのは数学の問題集。課題ではなく次の定期テストに向けての準備だ。
夏休み明けの実力テストは散々だった。
前日に仁とルームメイトになり、しかも取引を引き受けるという出来事があったからだ。あまりのことにあの日の夜はまったく眠れなかった。
一睡もできずに挑んだのだから、当然といえば当然だ。
次はなんとしても挽回しろと担任教師に言われている。蒼としてもそのつもりだ。地元には戻りたくない蒼が、遠くの大学を受験するには親を説得できるだけの成績をキープしている必要がある。
この時間は他の寮生も勉強をしていることが多いから、寮は静まりかえっている。それでも蒼が集中できていないのは、仁が部屋にいるからだ。
彼は自分のベッドに寝そべって、スマホを眺めている。それだけならまだいいがさっきからどこか不機嫌なのである。
むろん蒼とふたりの時の彼がにこやかだったことはない。口が悪くて一方的だ。でも今はそれとも違うような、どこかふてくされたような態度だった。
原因に心当たりはない。
土曜日の今日、彼は実家に用がある言って、襟付きの白いシャツにジャケットを羽織り朝から出かけていった。
蒼の方はとくに予定はなかったから、普段通り午前中は部屋で過ごした。そして午後は、カメラを持って寮を取り囲んでいる林へ行ったのである。
木々の間から覗く空や、季節の色を写す葉、昆虫や風景をカメラに収める。カメラは小学生の頃祖父からおしえてもらった蒼の唯一の趣味だ。ファインダー越しに見る世界は、自分がいるつまらない現実と同じとは思えないくらい美しい。
進学先に相澤学園を選んだのは、寮生活ができるというだけでなく学園自体が緑に囲まれていたからでもある。
特に用がない休日の蒼のルーティーンである。
カメラを手に午後の時間を林で過ごし満足して戻ってみると、てっきり今日は戻らないと思っていた仁が部屋にいたのである。そしてその時から彼はどこか不機嫌モードなのである。
寮で食事をする際は仲良しであることをアピールするために一緒に食べると決めているが、今日はひとりでさっさと済ませて部屋へ戻ってしまった。寮長から喧嘩をしたのかと尋ねられたくらいだ。
とは言っても、もともとふたりは親しく口をきくわけでもないのだから実害があるわけではない。ここまで蒼が戸惑っているのは、この時間になっても彼が部屋にいることだ。普段ならとっくに抜け出している時間帯だ。
この時間にふたりで部屋にいること自体がはじめてで、なんとなく落ち着かないというわけだ。ベッドに寝そべる仁をチラリと見て蒼はペンを走らせるがあまり頭に入ってこなかった。
そこへ。
「……お前、今日どこに行ってたんだよ」
ふいに仁が口を開いた。
「え?」
聞かれたことの意味をすぐには理解できずに、蒼が振り返って首を傾げると、仁が手にしているスマホから片目だけを覗かせた。
「夕方に帰ってきただろ。どこにいたんだって聞いてるんだよ。テスト勉強、ほったらかしていいと思ってんのか」
その言葉で、ようやく蒼はなぜ彼が不機嫌なのかを理解する。蒼が出かけていたのが不満なのだ。
夏休み明けの実力テストの結果が散々だったことを受けて、蒼は仁に勉強を教わることになっていた。担任が仁に頼んだのだ。仁はそれを快く引き受けていた。
もちろん実際におしえてもらっているわけではない。代わりに彼が使っていたノートをもらった。これが驚くほどよくできていて、彼がいかに効率よく勉強しているかがよくわかる。蒼はそれを見ながら、今までより格段に効率よく勉強を進めることができている。直接教えてもらわずとも十分だ。
彼は、せっかく勉強時間が取れる土曜日に蒼が勉強をせずに出かけていたことを怒っているのだ。蒼の成績が上がらなければ、仁がちゃんと教えられていないということになる。
「テストなら大丈夫です。先輩のノートすごくわかりやすいから、普段の時間の半分でも十分だと……」
「あーそうじゃなくて!」
仁が頭をぐしゃっとして、蒼の言葉を遮った。
「どこにいたんだって聞いてんだけど」
「どこにって……林ですけど」
「……林?」
仁が眉を寄せた。
「寮の周りの林に写真を撮りに行ってたんですよ。休みの日はよく行きます」
なぜ彼が自分の居場所を知りたがっているのかわからないままに、蒼は事情を説明する。すると彼は不意を突かれたような表情になり、静止したまま瞬きをしてから、安堵したような表情になった。
「写真か、なんだ……」
「それがどうかしましたか?」
「いやべつに……」
掠れた声で答えて、咳払いをした。
「そういえばお前写真部だったっけ」
今更そんなことを言って身体を起こす。さっきまでのピリピリとした空気は、なくなったように思えた。
「でも林なんかでなにを撮るんだ?」
「植物とか空とか」
「空……写真部って人を撮るのかを思ってた」
「俺、自分が好きじゃないものは、撮りたくないんですよ」
蒼の写真の話になど興味があるとも思えないのに、意外にも彼は興味深そうに聞いている。そして手を差し出した。
「見せて」
「……は?」
その手を見て蒼の口から変な声が漏れる。まさかそこまで言うとは思わなかった。
「い……嫌です。本当に空とか葉っぱを撮ってるだけなので面白くありませんし」
自由気ままに撮っているだけだから、他の人が見てインパクトがある写真はない。十中八九つまらないと言われるだろう。
「なんで俺の感想を、お前が勝手に決めるんだよ。いいから見せろって」
強引に言って彼は手を差し出している。
しかたなく蒼は鞄から写真を保管してあるタブレットを取り出した。
画面を開いてベッドに座る彼に差し出すと、仁はスマホを置いて、タブレットを受け取った。そのまま画面をスライドせて中の写真を見つめている。
さすがにそれをじっと見ているのは恥ずかしくて、蒼はまた机に向かい問題集を広げた。勉強を再開しようとするが意識は背後の彼に向いたまま、つまらないからもういいと言われるのを待っている。
けれどいつまでたっても彼はなにも言わなかった。あまりにも長い沈黙に、寝ているのかと思い蒼はそっと振り返る。
仁はひたすらタブレットを見つめていた。真剣なその眼差しに、蒼の鼓動がトクンと鳴った。
「つ、つまらないですよね。空とか木とかばっかだから……」
恐る恐る蒼は言う。
この状況をいったいどういう捉えればいいかがわからなかった。学園の中心にいる人気者の彼が、蒼が撮ったなんの変哲もない写真を熱心に見ているなんて。
仁がタブレットに視線を落としたまま答えた。
「そう? 俺には綺麗に見えるけど。……てか現実の世界はくそだけど、写真にするとこんなに綺麗なんだな……同じ世界とは思えねー」
後半は蒼に言ったと言うよりは心の声がそのまま出たように、小さな声で呟いた。お世辞でも茶化しているようにも思えない彼の言葉に、蒼は息が止まりそうな心地がする。
"現実の世界はつまらないけれど、ファインダー越しの世界は美しい"
蒼が感じていたこととまったく同じことを口にしたからだ。
仁はまた黙り込んでタブレットに夢中になっている。ひとつひとつ時間をかけてじっと見て、また別の写真を開くということをいつまでも飽きずに繰り返している。
その時。
静かな部屋にムーンムーンという振動音が鳴り響く。ベッドの上に放り出したままになっている仁のスマホだ。振動の長さから着信のようだ。おおかた彼の取り巻きたちからだろう。
蒼は心底落胆する。彼がスマホに出れば、この時間は終わりを迎える。彼は蒼の写真などに興味を失ってしまう……。
けれど仁はスマホをチラリと見ただけで出ようとはしなかった。
「……出なくていいんですか? 友達からじゃないですか?」
問いかけると、面倒くさそうに顔を歪めた。
「いい。……あいつら、だるいんだよ」
そのままゴロンと横になってタブレットを眺めている。
そのどこかさみしげな眼差しに、蒼の胸がギュッとなった。そして今まで考えもしなかったある疑問が頭に浮かんだ。
どうして彼は本性を隠し、過剰なまでの王子さまを演じているのだろう?
口は悪いかもしれないが、本当の彼も優しいところがある。あれほどまでに外面を優しく見せなくてもいいように蒼には思えるのに……。
とは言っても、蒼がそう思うのは自分がごく普通の一般的な家庭で育ったからなのかもしれない。
『現実の世界はくそ』
彼のいる世界では、ありのままの彼でいることが許されないのだろうか……。
また机に向い蒼はペンを走らせる。けれどやっぱり内容は頭に入ってこなかった。マスクもしていないのに、なぜか頬が火照っている。ベッドに寝そべりタブレットをスライドさせている仁の気配を感じる背中が、どうしてか熱かった。
夕食を終えて就寝時間までの自由時間、蒼はどこか落ち着かない気持ちで自室の机に向かっている。広げているのは数学の問題集。課題ではなく次の定期テストに向けての準備だ。
夏休み明けの実力テストは散々だった。
前日に仁とルームメイトになり、しかも取引を引き受けるという出来事があったからだ。あまりのことにあの日の夜はまったく眠れなかった。
一睡もできずに挑んだのだから、当然といえば当然だ。
次はなんとしても挽回しろと担任教師に言われている。蒼としてもそのつもりだ。地元には戻りたくない蒼が、遠くの大学を受験するには親を説得できるだけの成績をキープしている必要がある。
この時間は他の寮生も勉強をしていることが多いから、寮は静まりかえっている。それでも蒼が集中できていないのは、仁が部屋にいるからだ。
彼は自分のベッドに寝そべって、スマホを眺めている。それだけならまだいいがさっきからどこか不機嫌なのである。
むろん蒼とふたりの時の彼がにこやかだったことはない。口が悪くて一方的だ。でも今はそれとも違うような、どこかふてくされたような態度だった。
原因に心当たりはない。
土曜日の今日、彼は実家に用がある言って、襟付きの白いシャツにジャケットを羽織り朝から出かけていった。
蒼の方はとくに予定はなかったから、普段通り午前中は部屋で過ごした。そして午後は、カメラを持って寮を取り囲んでいる林へ行ったのである。
木々の間から覗く空や、季節の色を写す葉、昆虫や風景をカメラに収める。カメラは小学生の頃祖父からおしえてもらった蒼の唯一の趣味だ。ファインダー越しに見る世界は、自分がいるつまらない現実と同じとは思えないくらい美しい。
進学先に相澤学園を選んだのは、寮生活ができるというだけでなく学園自体が緑に囲まれていたからでもある。
特に用がない休日の蒼のルーティーンである。
カメラを手に午後の時間を林で過ごし満足して戻ってみると、てっきり今日は戻らないと思っていた仁が部屋にいたのである。そしてその時から彼はどこか不機嫌モードなのである。
寮で食事をする際は仲良しであることをアピールするために一緒に食べると決めているが、今日はひとりでさっさと済ませて部屋へ戻ってしまった。寮長から喧嘩をしたのかと尋ねられたくらいだ。
とは言っても、もともとふたりは親しく口をきくわけでもないのだから実害があるわけではない。ここまで蒼が戸惑っているのは、この時間になっても彼が部屋にいることだ。普段ならとっくに抜け出している時間帯だ。
この時間にふたりで部屋にいること自体がはじめてで、なんとなく落ち着かないというわけだ。ベッドに寝そべる仁をチラリと見て蒼はペンを走らせるがあまり頭に入ってこなかった。
そこへ。
「……お前、今日どこに行ってたんだよ」
ふいに仁が口を開いた。
「え?」
聞かれたことの意味をすぐには理解できずに、蒼が振り返って首を傾げると、仁が手にしているスマホから片目だけを覗かせた。
「夕方に帰ってきただろ。どこにいたんだって聞いてるんだよ。テスト勉強、ほったらかしていいと思ってんのか」
その言葉で、ようやく蒼はなぜ彼が不機嫌なのかを理解する。蒼が出かけていたのが不満なのだ。
夏休み明けの実力テストの結果が散々だったことを受けて、蒼は仁に勉強を教わることになっていた。担任が仁に頼んだのだ。仁はそれを快く引き受けていた。
もちろん実際におしえてもらっているわけではない。代わりに彼が使っていたノートをもらった。これが驚くほどよくできていて、彼がいかに効率よく勉強しているかがよくわかる。蒼はそれを見ながら、今までより格段に効率よく勉強を進めることができている。直接教えてもらわずとも十分だ。
彼は、せっかく勉強時間が取れる土曜日に蒼が勉強をせずに出かけていたことを怒っているのだ。蒼の成績が上がらなければ、仁がちゃんと教えられていないということになる。
「テストなら大丈夫です。先輩のノートすごくわかりやすいから、普段の時間の半分でも十分だと……」
「あーそうじゃなくて!」
仁が頭をぐしゃっとして、蒼の言葉を遮った。
「どこにいたんだって聞いてんだけど」
「どこにって……林ですけど」
「……林?」
仁が眉を寄せた。
「寮の周りの林に写真を撮りに行ってたんですよ。休みの日はよく行きます」
なぜ彼が自分の居場所を知りたがっているのかわからないままに、蒼は事情を説明する。すると彼は不意を突かれたような表情になり、静止したまま瞬きをしてから、安堵したような表情になった。
「写真か、なんだ……」
「それがどうかしましたか?」
「いやべつに……」
掠れた声で答えて、咳払いをした。
「そういえばお前写真部だったっけ」
今更そんなことを言って身体を起こす。さっきまでのピリピリとした空気は、なくなったように思えた。
「でも林なんかでなにを撮るんだ?」
「植物とか空とか」
「空……写真部って人を撮るのかを思ってた」
「俺、自分が好きじゃないものは、撮りたくないんですよ」
蒼の写真の話になど興味があるとも思えないのに、意外にも彼は興味深そうに聞いている。そして手を差し出した。
「見せて」
「……は?」
その手を見て蒼の口から変な声が漏れる。まさかそこまで言うとは思わなかった。
「い……嫌です。本当に空とか葉っぱを撮ってるだけなので面白くありませんし」
自由気ままに撮っているだけだから、他の人が見てインパクトがある写真はない。十中八九つまらないと言われるだろう。
「なんで俺の感想を、お前が勝手に決めるんだよ。いいから見せろって」
強引に言って彼は手を差し出している。
しかたなく蒼は鞄から写真を保管してあるタブレットを取り出した。
画面を開いてベッドに座る彼に差し出すと、仁はスマホを置いて、タブレットを受け取った。そのまま画面をスライドせて中の写真を見つめている。
さすがにそれをじっと見ているのは恥ずかしくて、蒼はまた机に向かい問題集を広げた。勉強を再開しようとするが意識は背後の彼に向いたまま、つまらないからもういいと言われるのを待っている。
けれどいつまでたっても彼はなにも言わなかった。あまりにも長い沈黙に、寝ているのかと思い蒼はそっと振り返る。
仁はひたすらタブレットを見つめていた。真剣なその眼差しに、蒼の鼓動がトクンと鳴った。
「つ、つまらないですよね。空とか木とかばっかだから……」
恐る恐る蒼は言う。
この状況をいったいどういう捉えればいいかがわからなかった。学園の中心にいる人気者の彼が、蒼が撮ったなんの変哲もない写真を熱心に見ているなんて。
仁がタブレットに視線を落としたまま答えた。
「そう? 俺には綺麗に見えるけど。……てか現実の世界はくそだけど、写真にするとこんなに綺麗なんだな……同じ世界とは思えねー」
後半は蒼に言ったと言うよりは心の声がそのまま出たように、小さな声で呟いた。お世辞でも茶化しているようにも思えない彼の言葉に、蒼は息が止まりそうな心地がする。
"現実の世界はつまらないけれど、ファインダー越しの世界は美しい"
蒼が感じていたこととまったく同じことを口にしたからだ。
仁はまた黙り込んでタブレットに夢中になっている。ひとつひとつ時間をかけてじっと見て、また別の写真を開くということをいつまでも飽きずに繰り返している。
その時。
静かな部屋にムーンムーンという振動音が鳴り響く。ベッドの上に放り出したままになっている仁のスマホだ。振動の長さから着信のようだ。おおかた彼の取り巻きたちからだろう。
蒼は心底落胆する。彼がスマホに出れば、この時間は終わりを迎える。彼は蒼の写真などに興味を失ってしまう……。
けれど仁はスマホをチラリと見ただけで出ようとはしなかった。
「……出なくていいんですか? 友達からじゃないですか?」
問いかけると、面倒くさそうに顔を歪めた。
「いい。……あいつら、だるいんだよ」
そのままゴロンと横になってタブレットを眺めている。
そのどこかさみしげな眼差しに、蒼の胸がギュッとなった。そして今まで考えもしなかったある疑問が頭に浮かんだ。
どうして彼は本性を隠し、過剰なまでの王子さまを演じているのだろう?
口は悪いかもしれないが、本当の彼も優しいところがある。あれほどまでに外面を優しく見せなくてもいいように蒼には思えるのに……。
とは言っても、蒼がそう思うのは自分がごく普通の一般的な家庭で育ったからなのかもしれない。
『現実の世界はくそ』
彼のいる世界では、ありのままの彼でいることが許されないのだろうか……。
また机に向い蒼はペンを走らせる。けれどやっぱり内容は頭に入ってこなかった。マスクもしていないのに、なぜか頬が火照っている。ベッドに寝そべりタブレットをスライドさせている仁の気配を感じる背中が、どうしてか熱かった。