人生はどうしてこんなに受難に満ちているのだろう?
 残暑が厳しい朝日を浴びながら、寮から校舎までの道のりを歩く蒼は自分の運命を呪っていた。
「ねえ、仁。今日私の家に泊まりにこない? 親が出張でいないんだ」
「え、ちょっと美希ずるい。ダメだよ仁をひとりじめは! ねえ仁、私とカラオケ行く約束はいつにする?」
 きゃあきゃあとうるさい黄色い声にうんざりとしながら、足取り重く両腕に三年女子をくっつけている仁の後ろを歩いているからだ。
「嬉しいお誘いですけど、先輩受験はいいんですか? 内部推薦もやばいってこの前言ってませんでした?」
「仁と遊ぶのは別。別の日にがんばる。仁が泊まってくれたら私がんばれるから!」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですが」
 にこにこと笑いながら答える仁に、蒼は反吐が出る思いがする。いったいどんな思考をしていれば本性をここまで隠せるのだろう。
 登校中の他の生徒の視線を感じて、居心地の悪い思いをしながら、蒼は心の中でため息をついた。
 仁と同室になって十日が過ぎた。
 仁と兄弟のように仲のいいふりをするという生活は、想像以上に過酷だった。彼は寮の中だけでなく校舎でも蒼をかまうからだ。
『じいさんと通じているのは教師なんだ。教師たちに俺と蒼が仲よくやっているところを見せないと意味がない』
 その一環として、毎朝一緒に登校することになっている。
 どうせ行く場所は同じなんだからべつになんでもないと彼は言うが、蒼にとってはそんな簡単な話ではない。
 彼が蒼とふたりきりで登校するのを周りが放っておくわけがなく、毎朝寮の門のところで取り巻きたちが待っている。そしてこうやって彼女たちを連れて一緒に登校することになるのだ。
 声が大きくきゃあきゃあと騒ぐから、自然と人目につきやすい。誰からも気にも止められず林の木より存在感がなかった少し前までの登校時間とは大違いだ。
「ただ残念ですけど、今日は蒼の勉強をみる約束をしているんです。彼、夏休み明けの実力テストの結果が芳しくなくて。先生に頼まれたので」
 仁が蒼を振り返り、申し訳なさそうに彼女たちからの誘いを断った。
「えーそんなぁ」
「仁、最近そればっかり」
 彼女たちは恨めしそうにチラリと蒼を睨んだ。
 彼がこうやって、蒼を理由に彼女たちとの遊びの誘いを断るのは、もう何度目かになる。そもそも仁が彼女たちの誘いに乗っているところは、この十日間では一度もなかった。そのたびに蒼を言い訳にするのだから彼女たちの不満はつのるばかりである。
「そんなにこの子の面倒を見なくちゃならないの?」
 さっき泊まりを断られた方の女子、美希が、わざとらしく頬を膨らませる。
 仁が立ち止まり、さりげなく彼女たちの腕を解く。そしてつられて足を止めた蒼の方へ歩み寄り肩を抱いてにっこりと笑った。
「ルームメイトだからね。もう彼は僕の弟だ」
 唐突な彼の行動に瞬きを繰り返し、蒼はすぐ近くにある整った横顔と極上の笑みを見上げる。少し茶色い彼の髪に朝日が透けて綺麗だった。
 遠くから見ても完璧だが、近くで見てもまったくその印象が崩れないのはさすがだ。女子のみならず男子にも人気があるのも納得だ。
 でも中身はその真逆。
 人の弱みにつけ込んで、無理やり言うことを聞かせる悪魔なのだと蒼は自分に言い聞かせ、不覚にもドキッとしてしまった自分を戒めた。
「ね? 蒼」
 王子さまスマイルで仁は蒼に同意を求める。そして蒼の耳に唇を寄せて囁いた。
「ほら、ちゃんとしろって。ここでマスクを奪われたいのか?」
 その言葉に蒼は、慌てて口を開いた。
「え⁉︎ えーっと……」
 その拍子になぜかゴフッと咽せてしまう。ゴホゴホとしているとファスナーが半分開いていた鞄から、ペンケースが飛び出して地面に落ちた。
「あ!」
 拾おうとして手を伸ばし身体を傾けると、さらに教科書がばさばさと落ちていく。地面に荷物をぶちまけてしまった。
「す、すみません……」
 気まずい思いでそう言うと、仁の口元が少し緩み、笑いを堪えているような表情になった。
 一方であとのふたりはしらけたような表情である。蒼がぶちまけた荷物を見て美紀が呟いた。
「ださ……」
「そんなこと言わないで。蒼はこういうちょっと抜けてるところが可愛いんだよ」
 仁がさりげなくフォローをして、散らばった教科書とペンケースを拾い集めた。
「はい、蒼」
「……ありがとうございます」
 蒼が受け取る横で、女子ふたりがばつが悪そうな表情になった。
「行こう、遅れるよ」
 仁が言ってまた一行は歩き出す。
 前を行く三人の背中を見つめながら、蒼はまたやってしまったとため息をついた。
 しぶしぶではあるものの兄弟のように仲のいいふりをするという取引はした。でもやっぱり演技をするのは苦手で、どうも自然にふるまえているとは言いがたい。さっきみたいに仁に突かれるまで反応できないことが多かった。しかも今みたいに失敗することもある。
 ——だから嫌だと言ったんだ。
 一方で、仁の方はさすがだった。完璧にオンとオフを切り替えて、外では蒼を大切なルームメイトとして接している。
 でも不思議なのは、彼がそんな蒼に対して本気で怒っているようではないことだ。今みたいに"ちゃんとやれ"と言うことはあるけれど、失敗しても後からそれについて文句を言われたりしたことは一度もない。どちらかというと今みたいにおもしろがっていることが多かった。
 弱みを握られているのだから、ほかにも理不尽な要求があるかもしれないと身構えていたが、そんなこともまったくない。
 全校生徒にじろじろと見られながら昇降口につくと、ようやく彼らとはお別れだ。
「じゃあね、蒼。また放課後に」
 仁がにこやかに手を振って、二年の教室がある東の方へ向かっていく。美希たちも名残惜しそうに階段を上っていった。
 蒼はホッとして、靴を下駄箱へ入れる。廊下には、登校中の生徒に向かって大きな声で挨拶をしている教師が立っていた。
「おはようございます」
 ぺこりと頭を下げて蒼は前を通り過ぎようとする。
「おい、マスクのお前、一年だな? 挨拶が聞こえなかったぞ」
 教師が廊下に響き渡る大きな声を出した。蒼はドキッとして足を止める。この場でマスクをしているのは自分だけだ。
 ジャージ姿のその体育教師は生活指導も兼ねていて、理不尽に厳しいので生徒たちから恐れられている存在だ。目をつけられたらやっかいだ。
「すみません、おはようございます」
 蒼はさっきよりもはっきりと挨拶をした。
 だがそれで彼は納得しなかった。
「お前、具合が悪いのか?」
「……いえ、大丈夫です」
「なら、そのマスクを取れ。そんなマスクをしてるから声が聞こえづらいんだ」
 その言葉に、蒼は言葉に詰まって黙り込んだ。頬がカッと熱くなり、頭の中はパニックだ。
 廊下を通り過ぎる生徒たちが、チラチラとこちらを見ている。こんなところでマスクを外せるわけがない。かと言って『外したくない』と主張しても教師は納得しないだろう。彼は、どんな時も生徒を従わせなくては気が済まない。
「おい、聞いてるのか! 早くしろ。予鈴が鳴るぞ」
 背中を冷や汗が伝う。このままでは無理やり取らされることになる。いや、力ずくで奪われる可能性だってある。そしたらガタイのいい体育教師に蒼が敵うはずがない。
 八方塞がりの状況に蒼が目を閉じた時。
「マスクの着用を禁止する校則はないはずですよ、先生」
 涼やかな声がふたりのやり取りに割って入る。
 驚いて目を開くと、教師から蒼を庇うように仁が立っていた。
 教師が不愉快そうに眉を寄せた。
「体調に問題がないのに、マスクをしてるのがおかしいだろう」
「それは先生の価値観ですよね。それを生徒に押し付けるのはよくないと思います」
「価値観などという大袈裟なものではない。常識だ」
 教師が苦々しい表情になった。
「だからそれを常識だと思うのが先生の価値観だと言っているのです。マスクは体調が悪い時にだけするものじゃないという考え方もありますから」
 皆が恐れる相手なのにまったく怯む様子もなく仁は毅然として言い返す。
 周りの生徒たちが遠巻きに成り行きを見守っている。
「これ以上、校則にない先生の中の常識で彼のマスクにこだわるなら、学園長にお願いして、正式に話し合いの場を持ちましょう」
 その内容に、教師の方が少し怯んだ。そもそもが理不尽な要求なのだ。正式に話し合いをして勝てる自信がないのだろう。
「……筧こそ、なぜこの一年にこだわるんだ」
 めんどくさそうにため息をついた。どんな理不尽な話でも仁が関わらなければ、彼は生徒を従わせることができる。実際ずっとそうしていて、それに仁が口出ししているという話は聞いたことがない。
「あれ? 先生、ご存知ないんですか? 彼、僕のルームメイトなんですよ。つまり学園内では僕たちは兄弟なんです。彼のマスクに口出しするなら、これからは僕を通してからにしてください」
 爽やかに仁が答え、教師は頬を歪めた時、廊下に予鈴が響き渡る。助かったという表情になったのは教師の方だった。こちらに向かって顎をしゃくる。
「まぁ今日はいい。行け、予鈴だ。おい、お前たちもさっさと教室へ行け!」
 周りで足を止めて見ていた生徒たちにそう言って職員室の方向へ去っていく。
 蒼はホッと息を吐いた。
 助かった……。
 心の底から安堵する蒼の肩をポンポンと叩いてから、仁も廊下を歩いていく。ハッとして蒼は彼の背中に声をかける。
「ありがとう……ございました」
 仁はこちらを振り返らずに手をひらひらとさせた。
 背の高いその背中に蒼の鼓動がトクンと小さく音を立てた。
 彼が自分をかばうのは、蒼がここでマスクを取れば自分が蒼を脅せなくなるからだ。蒼自身のためではない。それはわかっているけれど、それでも絶体絶命のピンチから救ってもらったのは事実だ。
 教室へ入り自席に座ると、すぐに三人の女子に囲まれる。
「おはよーマスクくん」
「ねえ、今日も仁先輩と登校したんだね。こっから見えてたよ。肩を抱かれてたじゃん。羨ましい~」
 この三人はクラスの中でも、以前から仁を見ては騒いでいた面子だ。蒼が仁のルームメイトになってからは、毎日毎日蒼が登校するとこうやって蒼を取り囲む。仁の情報を聞き出そうとするのだ。
「ねえねえ、今日こそ仁先輩の寝顔撮ってきてくれたよね?」
 その問いかけに、蒼はため息をついた。
「……そんなことできるわけないだろ」
 これも毎日のことだった。
「いいじゃん別に減るもんじゃなし。ねーお願い! 噂では仁先輩と遊んだ子はいるけど寝てるところって誰も見たことがないんだって!」
「寝顔見れたら私たちがはじめてなんだよ! きっとすっごくきれいだよね」
「ねー! 見たーい!」
 蒼そっちのけで盛り上がっているところで本鈴が鳴る。三人は「明日は絶対だよ」と勝手な約束を押し付けて散っていった。
 毎朝のこのやり取りはいつになったら終わるのかと、うんざりしながら蒼は鞄から教科書を出した。
 そもそも仁の寝顔を撮るなんて蒼にはできないことのだ。
 ルームメイトになったあの日から、今日まで彼はあの部屋で夜を過ごしてはいない。毎夜ふらりとどこかへ出かけてしまい、帰ってくるのは朝方だ。蒼も彼が寝ているところを見たことがなかった。
 就寝前の点呼の際にいなければ罰を受ける決まりになっているが、三年の寮長が先生に報告している様子はない。
 おおかた、たくさんいる女友達のところにでも行っているのだろう。
 さっきは美希の誘いを断っていたけれど、仁が頼めば喜んで彼を泊める相手など掃いて捨てるほどいるだろうから。
 今朝のように女子を腕にぶら下げて夜の街を歩くところが目に浮かぶ。
 ……と、そこでどうしてか蒼の胸がモヤっとする。
 そしてそのことを不思議に思った。
 なぜだろう?
 仁が帰ってこないから今のところ夜はひとり部屋だった時とあまり変わらずに過ごせている。その方がいいに決まっているというのに。
「はい、おはよう。朝の会はじめるぞ〜立ってるやつ座れー」
 教卓に立つ担任教師が皆に呼びかけているを聞きながら、蒼はさっき仁が拾ってくれたペンケースをじっと見る。
 なぜこんな気持ちになったのか、自分の心の中を探るけれど、いつまで経っても答えには辿りつかなかった。
「あーだるい」
 窓辺に置かれた古いベンチ。何代も前の学生が使っていた資料が床に山積みにされている中に、腕で顔を覆った仁が横たわっている。
 それを横目に見ながら、蒼は部屋の中央の大きな机で、少し居心地の悪い気持ちでカメラの調整をしていた。
 今この部屋にいるのは、仁と蒼はふたりだけ。だから仁の方はすっかり裏モードである。制服のネクタイをくつろげて『だるい』と繰り返している。
 とは言ってもここは寮の部屋ではない。
 古くてめったに人が来ない旧校舎にある写真部の部室だ。
 他の部の部室は三年前に建てられた新しい特別棟にあるのに、写真部だけが旧校舎のまま放置されているのにはわけがある。
 写真部は、部員のほとんどが幽霊部員という学園の中でも異質な存在なのだ。以前は活発に活動していたのだが年々部員が減り一時期は、廃部寸前までいった。今は部活はしたくないが推薦入学を受けるために部活に入っているという実績がほしいという生徒のために存在している。だから蒼が入学するまでの数年間は部としての活動実績はなく部室をわざわざ移す必要がなかったのだ。
 春に入部した際に活動をしたいと蒼が顧問に言うと、驚きつつ鍵を渡してくれた。以来、蒼は放課後時々ここへ来て自分で撮った写真の整理をしたりカメラの手入れをしたりしている。
 普段は蒼以外の人間が来ないこの部屋に、今、仁がいるのはさっきホームルームを終えて、旧校舎までの道のりを歩いている際に捕まってしまったからだ。
 寮と旧校舎は反対方向。どこへ行くのかと尋ねられて誤魔化すことができなくて、正直に事情を話した。するとついてきたというわけだ。取り巻きを連れていなかったのが不幸中の幸いだ。
 窓辺でぐったりとしている仁を、蒼は気まずい気持ちでチラリと見る。仁が疲れているのは、朝、蒼のために体育教師とやり合ったことが原因なのだ。
 あの後、今日一日、蒼の方はとくになにもなかったが、仁の方はどうやらそうではなかったらしい。
 体育の時間に、件の教師からなにかと理由をつけてグラウンド多く走らされ、筋トレもやらされるという嫌がらせを受けた。校則に載っていないからと、蒼のマスクの件を突っぱねた腹いせか、授業の一環だと繰り返し言われたらしい。そう言われてしまえば従わないわけにはいかない。だから彼は疲れているというわけだ。
「昨日ほとんど寝てねーのに、あのゴリラ」
 呟いて、彼は目を閉じている。
 蒼はカメラの手入れをしていた手を止めた。それもこれも自分を助けてくれたからだと思うと、さすがに申し訳ない気持ちになる。
「俺のせいですみませんでした」
 声をかけると、仁が腕を外してこちらを見る。その視線に、蒼は"そうだお前のせいだ"と言われるだろうと身構えた。その通りなのだから、なにを言われても仕方がないと覚悟するけれど。
「……べつにお前のためだけじゃねえよ。俺、あいつ嫌いなんだ。教師だからっていっつも好き放題しやがって」
 意外にも柔らかな言葉が返ってきて驚いて瞬きを繰り返す。
 仁が首を傾げた。
「なに?」
「いや……意外だったから」
「意外ってなにが?」
「えーっと、脅しの材料がなくなるから仕方なく助けてくれたのかと……」
 尋ねられて蒼は思っていることをそのまま口に出してしまう。
 すると仁は一瞬静止して、次の瞬間噴き出した。
「お前、どれだけ俺を最低なやつだと思ってるんだよ……!」
 笑いながらそう言って、くっくと肩を揺らしている。
 その笑顔に蒼の胸がドキンと跳ねた。彼の笑顔を見るのははじめてではない。人前では常ににこやかだけれど、今はその笑顔とは違っているように思えた。
「だ、だって……! でも……す、すみません」
 慌てて蒼は言い訳をする。やっかいな教師と対立してまで助けてくれたのに、あまりにも失礼な言い方だったかもしれない。
 とはいえ、彼はべつに気を悪くしたわけではないようで相変わらずただ愉快そうに笑っている。
「俺、お前に結構優しくしてやってるつもりなんだけど。まぁいいや、ちょっと寝る。帰る時起こせ。ほったらかしにして帰るなよ」
 そう言って仁は、口もとに笑みを浮かべたまま目を閉じる。それを蒼は不思議な気持ちで見つめていた。
 彼の表の顔は王子さま、裏の顔は悪魔だと思っていたけれど、少し思い違いをしているように感じたからだ。
 この十日間が最悪だったことは間違いない。
 仁とルームメイトになったことで蒼は完全に注目の的。仁が一緒にいないところでも常に誰かに見られている。蒼が望む静かな生活とはほど遠い。
 けれど考えてみれば、彼自身からは初日以来、とくにひどいことを言われたりされたりはしていない。
 初日にマスクを奪われた際も、彼ははじめは真摯に謝っていた。蒼が嫌がるそぶりを見せたからか、あれ以来、蒼がひとりでいることやマスクをつけている理由についてあれこれ聞かれることもない。
 注目されることによって、他の生徒から蒼が暗いとか仁のルームメイトとして相応しくないと揶揄されることもけれど、それについてもさりげなく庇ってくれている。今朝も、鞄の中身をぶちまけた蒼を馬鹿にした美希のことを黙らせてくれた。
 さっきまでは、頃合いをみて部屋から出ていってほしいと彼に言うつもりだった。蒼にとって部活の時間は、校舎の中でひとりになれる癒やしとも言える時間だ。誰にも邪魔されたくはない。
 でも今は、どうしてかはわからないけれどそんな気分にはなれなかった。
 ——まぁ、いいか。寝てるだけだし。
 そう結論を出した時、喉の渇きを感じて、蒼は一旦カメラを置く。鞄からペットボトルを取り出してキャップを開けマスクを外して水を飲んだ。
 再びマスクを着けようとして手を止めしばらく考える。普段この部屋にいる時は、マスクを外して作業する。ひとりだからだ。
 今は仁がいるけれど……。
 蒼は再び仁を見る。窓から差し込む日の光の中、気持ちよさそうに眠る彼は少し暑いのか、だらしなくシャツのボタンを外している。茶色い髪も乱れていた。
 今朝教室で女子たちが言っていた言葉が頭に浮かんだ。
『噂では仁先輩と遊んだって子はいっぱいいるけど、寝てるところって誰も見たことがないんだって』
 ただの成り行きではあるけれど彼は蒼の前で素顔を晒している。今は無防備に寝顔まで見せているのだ。
 蒼は、すうっと息を吸ってゆっくりと吐いた。人前でマスクを外した時に感じる動悸と息苦しさはもうなかった。
 彼の眠りを妨げないようにマスクを静かに机に置いて、音を立てないようにカメラを手に取った。
「最近はおとなしくやっているみたいじゃないか、仁。やっぱり寮に入れて正解だったな。お前はひとりっ子だから、下級生の面倒を見るという経験をするのも悪くないだろう」
 天井の高いホールのような広さの筧家の食堂にて、長いテーブルの真ん中に座り、食後のコーヒーを飲みながら祖父が機嫌よく言う。
 味のしない紅茶を飲んでいた仁は、手にしていたカップを置いた。
 三か月に一回、筧家の本家で開かれる一族の食事会である。筧家の長である祖父を筆頭に、二十人ほどいる一族が一同に会する場である。
 ここにいるのは全員親族だが家族の集まりというよりは企業の会議のような雰囲気だ。皆その月にあった出来事を祖父に報告することになっている。祖父から尋ねられたことには、嘘偽りなく答えなくてはならない。
 それは祖父の長男である父のひとり息子で、祖父のお気に入りとされている仁も例外ではない。
 向かいに座る両親が少し心配そうな表情でこちらを見ているのを感じながら、仁はにっこりと笑みを浮かべた。
「貴重な経験をさせていただき感謝しています。同室の阿佐美蒼くんとは気が合って登校は一緒にしていますし、放課後は僕が勉強をおしえています。彼、先日の実力テストの結果がよくなくて先生に頼まれたんですよ」
「おお、仁にしてはやるじゃないか」
 祖父が満足そうに髭を揺らした。
「その阿佐美くんというのはどこの家の子なんだ?」
「普通の一般家庭の子ですよ」
「そうか、素行は問題ないか?」
「問題ありません。どちらかというとおとなしいタイプの子です」
 それどころか、学園で一番と言っていいくらい地味でクラスメイトでさえも存在を忘れていたくらいだ。
「おとなしい子か、だがそれでは仁には物足りないんじゃないか」
「そんなことは……よく知るとおもしろいところがある子ですから」
 首を横に振って、仁は蒼のことを思い浮かべる。
 口数が多いわけではないが、彼といてつまらないと感じたことはなかった。それどころか、当初の予想に反してこの状況を悪くないと思っている自分がいる。
 仲がいいふりをしようという取引を持ちかけた時、彼が演技は苦手だと言っていた。それを仁は、断るためのでまかせだと思っていたけれど、どうやらそうではないようだ。人前で仁と話をするたびに、あたふたと挙動不審になっている。
 本当のところ彼については別に演技などしなくてもそのままでもかまわない。仁の方の振る舞いは完璧なのだから、多少彼の言動が変でも、照れているか慣れていないだけだろうと周囲は受け止める。
 けれど蒼の慌てる様子がおかしくて、ついつい仁は彼をからかってしまう。
『おい、ちゃんとやれマスクを奪われたいのか?』
 そう囁くと、大きな目が開かれ慌ててなにかを言おうとする。真っ白い肌が赤くなるのがマスクの隙間からでもわかる。
「あら、よっぽど仲良しになったのね。仁がそんな風に笑うなんて珍しい」
 向かいの席で母がにっこりと笑ってそう言った。
 その言葉に、仁は驚いて瞬きをする。
 自分では笑っていたつもりはなかったが、蒼とのやり取りを思い出していて無意識のうちに頬が緩んでいたのだろうか?
「まあ、気が合うならよかったじゃないか。だが、深入りはするなよ。お前はいずれ筧グループを背負って立つ人間だ。学生の間はともかくとして、社会へ出れば付き合う人間は厳選する必要がある」
 祖父が釘を刺す。
「……それはもちろん」
 蒼を思い出してどこか浮き立っていた気持ちが急速に冷えていくのを感じながら仁は頷いた。
「おじいさまの言うとおりにしてよかったな。本当は少し不安だったけど」
「本当ね」
 両親が安堵したように笑い合っている。
 仁はふたりにもにっこりと笑いかけるが、口の中に苦いなにかが広がっていくのを感じていた。
 生まれてからずっと、両親と祖父、仁はこの関係を続けている。
 名家の生まれだったというだけでなく起業家としても有能だった祖父の力で筧家は莫大な財力を手にした。ゆえに一族の中で誰も彼に逆らえる者はいないのだ。
 だが、その長男で跡取りとして指名されている父は気が弱く祖父ほどの手腕を発揮できていない。一時は弟である叔父に跡取りの座を奪われそうになっていたという話だが、祖父は長男を差し置いて次男を跡取りに据えることを嫌がった。そして父に課した至上命題が、優秀な後継者を作ることだった。
 母も祖父のその意向を知った上で選ばれた、政略結婚だったのだ。
 つまり仁は、ふたりにとって今の生活を確保するための人身御供のようなもの。仁が祖父が満足する力を発揮できなければ、育てている価値がない。
 幸いにして仁にはずば抜けた能力と人望があった。必要とされることは、一度聞けばすぐに頭に入るし、祖父から教わった帝王学も身についた。亡くなった祖母から受け継いだ容姿は人を惹きつける力がある。
 祖父がやれやれというようにため息をついた。
「生活が少し乱れているのではないかという報告を受けた時は、どうしたものかと思ったが、まあお前なら大丈夫そうだな。だがもうしばらく寮で過ごせ。あまり出たり入ったりするのも外聞が悪いだろう」
「もちろんです。寮の生活は案外気にいているんです」
 仁は頷くと、かぶせるように口を開く者がいる。
「父さん、うちの和臣も学園ではよくやっていますよ。生徒会の役員もしていますから。また成績が上がりました」
 父の弟である叔父だ。彼の息子和臣も相澤学園の二年生だ。同い年だということもあって生まれた時から仁と彼はなにかと比べられている。
 叔父は、和臣が仁より優秀であれば、今からで父を蹴落とせると踏んでいるようだが、今のところ和臣は祖父の納得いく成果は出せていない。
 叔父の隣に座る和臣が暗い目でじっとりと仁を睨んだ。
 幼い頃は仲良くなりたいと思っていたが、今はそれも諦めた。周囲から常に比べられている状況では、はじめから無理な話なのだろう。
 和臣から目を逸らし、仁は心の中でため息をつく。
 ——いつからだろう?
 常に穏やかな笑みを浮かべて、周囲が望む自分を演じるたびに、息苦しさを覚えるようになったのは。
 小さな頃は何かができるたびに褒められるのが嬉しかった。
『お前が筧家の跡取りだ』と言われるのが、誇らしくてたまらなかったのに。
 自分の存在意義はそれだけなのだと気がついた頃からだろうか……。
 祖父と叔父のやり取りから意識を外して窓の外の空を見る。
 高い天井まである繊細なデザインの窓枠がまるで牢獄のように感じられた。自分を捕えるこの屋敷から早く出たいと思うけれど、出たところでなにも変わらないのもわかっている。自分が自分である限り、牢獄はどこまでも続いていて、この息苦しさは変わらない。
 けれどそういえば、と蒼は少し前のことを思い出す。
 学園の旧校舎にある写真部の部室はなぜか呼吸が楽だった。普段あまりよく眠れない仁が、あの時はぐっすりと眠れたのだ。
 埃っぽくて冷房の効きもよくなく、固いベンチの上だったというのに。
 いやそもそも……と、仁はあの時の自分を不思議に思う。
 誰かがそばにいるのに眠くなるというのが、仁にとってはあり得ないことなのだ。自分以外の人間は誰も信用していない。
 けれど考えてみれば、蒼ははじめから他の人間とはまったく違っているように感じたのだ。
 第一印象は、暗いやつ。
 こんなやつと同室なんて最悪だと思った。ただ、だからこそ"やりやすそうだ"とも感じていた。
 仲間がいないやつほど仁にとっては都合がいい。孤独な気持ちに付け込んで、うまく懐柔できれば、窮屈な寮生活から早く抜け出せる。
 だが予想に反して、彼は仁を強く拒否した。
『あんただって、本性を隠してるじゃないか。バラされてもいいのかよ』
 黒目がちな大きな目に睨まれたその刹那、仁の背中がぞくりとした。
 名家の生まれで将来を約束された自分の周りにはいつもイエスマンしかいなかった。皆気持ち悪いくらいにニコニコして、仁に気に入られようとする。のっけから敵意を剥き出しにされたのは、生まれてはじめてだったのだ。
 ……不快だとは思わなかった。
 むしろその逆で、もっと彼を知りたいという強い欲求に突き動かされるのを感じて、それがどういう種類の気持ちなのか深く考えることもせずに、取引を持ちかけたのだ。
 とはいえ、それはあくまでも好奇心から来る気持ちのはず。必要以上にかまうのは、珍しいおもちゃで遊ぶような感覚だったはずなのに。
 ……なぜ自分はあの日、蒼といる時間を心地いいと感じたのだろう?
 自分で自分のことがわからないのははじめてだ。
 訝しむ仁のポケットで、スマホが振動する。取り出して確認すると美希だった。"会いたい"というメッセージだ。
 今日はあらかじめ用事があると伝えてあるが、それでも諦められないのだろう。ここのところ蒼を言い訳にして片っ端から誘いを断っていたから、フラストレーションが溜まっているのかもしれない。一度だけ"遊んだ"相手だが最近の行動は目に余る。自分はけして恋人にはならないとはじめに約束したことを忘れているようだ。
「どうした仁、急用か?」
 祖父に尋ねられて、仁は少し考える。しばらくして口を開いた。
「急用ではありませんが。ルームメイトの彼からです。今部屋でひとりで自習をしているようですが、わからないところがあるみたいで。土曜日は落ち着いて勉強をおしえてあげられる貴重な時間ですから、できれば直接答えてあげたいのですが」
「ああ、それならそうしてやれ」
「ありがとうございます。では、失礼します」
 仁はこれ幸いと、両親と叔父家族に会釈をして席を立ち、食堂を出た。
「仁さま、寮に戻られるなら、車を手配いたします」
 長い廊下を玄関に向かって歩いていると、使用人が仁の後をついてきた。
「いいよべつに、歩いて帰れる距離だから」
「ですが、それでは私が叱られます」
「じゃあ、カモフラージュにからの車を走らせたら? 俺は歩いて帰るから」
 そう言い捨てて、返事を聞かずに屋敷を出た。足早に玄関ポーチを抜けて前の通りへ出て空を見上げる。少しだけ呼吸が楽になる。
 筧家の屋敷は、相澤学園と相対する位置の高台にある。学園に向かうにはいったん坂を下りて街の中央を走る線路を超えて向こう側の丘まで上る必要がある。
 ジャケットのポケットに手を入れて仁は歩きだす。屋敷から離れるにつれ、呼吸が楽になっていくのを感じた。
 とはいえ、また学園に帰れば同じこと。
 笑顔の仮面を顔に貼り付けなくてはならない。
 坂を下りて、駅に近づくにつれだんだんと人が多くなる。仁を見て振り返る人がいることに気がついて、仁は忌々しい気持ちになった。
 この街では、筧家の人間は顔が知られている。それでなくても祖母譲りのこの容姿は人目を引くのだ。
 生まれたときから死ぬまでの人生のレールがあらかじめ敷かれている立場にいて、常に注目されている人生を送ってきた。こうやって見られるのは慣れているが、時々どうにも我慢できずに、すべてを壊したくなることがある。
 ジュニアハイスクール時代をすごしたロサンジェルスから高校進学のために帰国した頃、頻繁に女と遊んでいた時期があった。
 行為自体を楽しいとは思わなかったけれど、祖父や両親の期待する自分ではない時間を過ごすことが、心地よかったのだ。でもそれもすぐにつまらなくなっていった。彼女たちからもまた、"完璧な自分"を求められていると気がついたからだ。
 もうとっくの昔に女と遊ぶのは止めにしたにもかかわらず、未だにあっちこっちで遊んでいると言われている。おそらくは一度関係を持った者たちが、まだ続いているように振る舞っているからだ。
 彼女たちにとっては事実はともかくとして、仁と会っているということがステイタスになる。
 女と会わなくなってからの仁は、毎日夜の街を彷徨うようになった。フードを深くかぶり顔を隠せば誰も自分が筧仁だとわからない。皆が自分を無視して通り過ぎる。それが最高に心地いい。微笑みを浮かべて優しい言葉を吐かなくても息をしていられる……。
 駅のロータリーに差し掛かると、駐輪場で話をしている女子高生ふたりがこちらをちらちらと見ているのに気がついた。隣の公立高校の制服を着ているから直接話をしたことはないはずだが。
「あの……! もしかしてジンさん……ですか?」
 内心でうんざりとしながら、仁は足を止めてにっこりとした。
「そうだけど。どっかで?」
「この前MIKIって人のSNSに出てませんでした? すごいカッコいいって拡散されてたから覚えてて」
 そういえば少し前に美希が仁と撮った写真をアップしていいかと何度か聞かれたことを思い出す。きつい言い方ではないけれどきっぱりと拒否したが、勝手に載せていたのか。
 仁自身はSNSはやっておらず興味もなかったから、確認していなかったが。
「……そう」
「あの、一緒に写真とってもらえませんか?」
 頬を染めてふたりは言う。
 仁は頬に力を入れて心の底から残念だという表情を作った。
「申し訳ないけど、そういうの今は断ってるんだ。SNSに載ると学校がうるさいからさ」
「そうですか……。あのMIKIって人は彼女ですか?」
「ううん、違うよ。友達。じゃあね」
 優しい声でそう言って彼女たちに手を振り、仁は踏切に向かって歩き出した。
 心の中で舌打ちをする。
 週明けすぐにでも美希のアカウントから自分の写真を消させなくては。
 忌々しい気持ちで電車が通り過ぎるのを睨む。
 遮断機が上り、踏切を渡ると視線の向こう丘の上に学園の建物が見えた。
 息苦しい屋敷を抜けてきても、あそこへ戻れば所詮は同じ世界。笑顔をうかべ、くだらない話をする。
 学園へ続く歩道の真ん中で仁は足を止めた。心と身体が鉛のように重たくて、坂を上れる気がしなかった。
 その時。
「あっ……!」
 仁の隣で母親と手をつないでいた小学生一年生くらいの女の子がつまずいて声をあげる。幸いこけずに済んだが、鞄の中身が仁の足もとに散らばった。図書館の本ばかりだった。
「もう、気をつけなきゃ」
 母親が小言を言って立ち止まる。仁に向かって頭を下げた。
「すみません」
「いえ、大丈夫です」
 仁は答えて本を拾い女の子に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 恥ずかしそうに答えて女の子は本を受け取る。隣で母親が困ったように笑った。
「ありがとうございます。この子慌てん坊で」
 ふたりはもう一度、仁にぺこりと頭を下げて去っていった。
 本が地面にぶちまけられた光景は、少し前の登校時の出来事を彷彿とさせる。恥ずかしそうにしていた女の子が蒼の姿と重なった。
 次に仁は、丘の上の学園の建物を見上げる。
 今日は土曜日。寮生たちとっては貴重な自由時間だ。街へ繰り出し映画やカラオケに行く者もいる。けれどおそらく蒼は外出はしていないはず。
 部屋で勉強をしているか、あるいはカメラの手入れをしているかもしれない。
 静かな寮の一室で机に向かう蒼の姿を思い浮かべ、仁はすうっと息を吸う。そしてゆっくりと吐き出して、学園へ続く坂道に向かって歩きだした。
 午後九時。
 夕食を終えて就寝時間までの自由時間、蒼はどこか落ち着かない気持ちで自室の机に向かっている。広げているのは数学の問題集。課題ではなく次の定期テストに向けての準備だ。
 夏休み明けの実力テストは散々だった。
 前日に仁とルームメイトになり、しかも取引を引き受けるという出来事があったからだ。あまりのことにあの日の夜はまったく眠れなかった。
 一睡もできずに挑んだのだから、当然といえば当然だ。
 次はなんとしても挽回しろと担任教師に言われている。蒼としてもそのつもりだ。地元には戻りたくない蒼が、遠くの大学を受験するには親を説得できるだけの成績をキープしている必要がある。
 この時間は他の寮生も勉強をしていることが多いから、寮は静まりかえっている。それでも蒼が集中できていないのは、仁が部屋にいるからだ。
 彼は自分のベッドに寝そべって、スマホを眺めている。それだけならまだいいがさっきからどこか不機嫌なのである。
 むろん蒼とふたりの時の彼がにこやかだったことはない。口が悪くて一方的だ。でも今はそれとも違うような、どこかふてくされたような態度だった。
 原因に心当たりはない。
 土曜日の今日、彼は実家に用がある言って、襟付きの白いシャツにジャケットを羽織り朝から出かけていった。
 蒼の方はとくに予定はなかったから、普段通り午前中は部屋で過ごした。そして午後は、カメラを持って寮を取り囲んでいる林へ行ったのである。
 木々の間から覗く空や、季節の色を写す葉、昆虫や風景をカメラに収める。カメラは小学生の頃祖父からおしえてもらった蒼の唯一の趣味だ。ファインダー越しに見る世界は、自分がいるつまらない現実と同じとは思えないくらい美しい。
 進学先に相澤学園を選んだのは、寮生活ができるというだけでなく学園自体が緑に囲まれていたからでもある。
 特に用がない休日の蒼のルーティーンである。
 カメラを手に午後の時間を林で過ごし満足して戻ってみると、てっきり今日は戻らないと思っていた仁が部屋にいたのである。そしてその時から彼はどこか不機嫌モードなのである。
 寮で食事をする際は仲良しであることをアピールするために一緒に食べると決めているが、今日はひとりでさっさと済ませて部屋へ戻ってしまった。寮長から喧嘩をしたのかと尋ねられたくらいだ。
 とは言っても、もともとふたりは親しく口をきくわけでもないのだから実害があるわけではない。ここまで蒼が戸惑っているのは、この時間になっても彼が部屋にいることだ。普段ならとっくに抜け出している時間帯だ。
 この時間にふたりで部屋にいること自体がはじめてで、なんとなく落ち着かないというわけだ。ベッドに寝そべる仁をチラリと見て蒼はペンを走らせるがあまり頭に入ってこなかった。
 そこへ。
「……お前、今日どこに行ってたんだよ」
 ふいに仁が口を開いた。
「え?」
 聞かれたことの意味をすぐには理解できずに、蒼が振り返って首を傾げると、仁が手にしているスマホから片目だけを覗かせた。
「夕方に帰ってきただろ。どこにいたんだって聞いてるんだよ。テスト勉強、ほったらかしていいと思ってんのか」
 その言葉で、ようやく蒼はなぜ彼が不機嫌なのかを理解する。蒼が出かけていたのが不満なのだ。
 夏休み明けの実力テストの結果が散々だったことを受けて、蒼は仁に勉強を教わることになっていた。担任が仁に頼んだのだ。仁はそれを快く引き受けていた。
 もちろん実際におしえてもらっているわけではない。代わりに彼が使っていたノートをもらった。これが驚くほどよくできていて、彼がいかに効率よく勉強しているかがよくわかる。蒼はそれを見ながら、今までより格段に効率よく勉強を進めることができている。直接教えてもらわずとも十分だ。
 彼は、せっかく勉強時間が取れる土曜日に蒼が勉強をせずに出かけていたことを怒っているのだ。蒼の成績が上がらなければ、仁がちゃんと教えられていないということになる。
「テストなら大丈夫です。先輩のノートすごくわかりやすいから、普段の時間の半分でも十分だと……」
「あーそうじゃなくて!」
 仁が頭をぐしゃっとして、蒼の言葉を遮った。
「どこにいたんだって聞いてんだけど」
「どこにって……林ですけど」
「……林?」
 仁が眉を寄せた。
「寮の周りの林に写真を撮りに行ってたんですよ。休みの日はよく行きます」
 なぜ彼が自分の居場所を知りたがっているのかわからないままに、蒼は事情を説明する。すると彼は不意を突かれたような表情になり、静止したまま瞬きをしてから、安堵したような表情になった。
「写真か、なんだ……」
「それがどうかしましたか?」
「いやべつに……」
 掠れた声で答えて、咳払いをした。
「そういえばお前写真部だったっけ」
 今更そんなことを言って身体を起こす。さっきまでのピリピリとした空気は、なくなったように思えた。
「でも林なんかでなにを撮るんだ?」
「植物とか空とか」
「空……写真部って人を撮るのかを思ってた」
「俺、自分が好きじゃないものは、撮りたくないんですよ」
 蒼の写真の話になど興味があるとも思えないのに、意外にも彼は興味深そうに聞いている。そして手を差し出した。
「見せて」
「……は?」
 その手を見て蒼の口から変な声が漏れる。まさかそこまで言うとは思わなかった。
「い……嫌です。本当に空とか葉っぱを撮ってるだけなので面白くありませんし」
 自由気ままに撮っているだけだから、他の人が見てインパクトがある写真はない。十中八九つまらないと言われるだろう。
「なんで俺の感想を、お前が勝手に決めるんだよ。いいから見せろって」
 強引に言って彼は手を差し出している。
 しかたなく蒼は鞄から写真を保管してあるタブレットを取り出した。
 画面を開いてベッドに座る彼に差し出すと、仁はスマホを置いて、タブレットを受け取った。そのまま画面をスライドせて中の写真を見つめている。
 さすがにそれをじっと見ているのは恥ずかしくて、蒼はまた机に向かい問題集を広げた。勉強を再開しようとするが意識は背後の彼に向いたまま、つまらないからもういいと言われるのを待っている。
 けれどいつまでたっても彼はなにも言わなかった。あまりにも長い沈黙に、寝ているのかと思い蒼はそっと振り返る。
 仁はひたすらタブレットを見つめていた。真剣なその眼差しに、蒼の鼓動がトクンと鳴った。
「つ、つまらないですよね。空とか木とかばっかだから……」
 恐る恐る蒼は言う。
 この状況をいったいどういう捉えればいいかがわからなかった。学園の中心にいる人気者の彼が、蒼が撮ったなんの変哲もない写真を熱心に見ているなんて。
 仁がタブレットに視線を落としたまま答えた。
「そう? 俺には綺麗に見えるけど。……てか現実の世界はくそだけど、写真にするとこんなに綺麗なんだな……同じ世界とは思えねー」
 後半は蒼に言ったと言うよりは心の声がそのまま出たように、小さな声で呟いた。お世辞でも茶化しているようにも思えない彼の言葉に、蒼は息が止まりそうな心地がする。
"現実の世界はつまらないけれど、ファインダー越しの世界は美しい"
 蒼が感じていたこととまったく同じことを口にしたからだ。
 仁はまた黙り込んでタブレットに夢中になっている。ひとつひとつ時間をかけてじっと見て、また別の写真を開くということをいつまでも飽きずに繰り返している。
 その時。
 静かな部屋にムーンムーンという振動音が鳴り響く。ベッドの上に放り出したままになっている仁のスマホだ。振動の長さから着信のようだ。おおかた彼の取り巻きたちからだろう。
 蒼は心底落胆する。彼がスマホに出れば、この時間は終わりを迎える。彼は蒼の写真などに興味を失ってしまう……。
 けれど仁はスマホをチラリと見ただけで出ようとはしなかった。
「……出なくていいんですか? 友達からじゃないですか?」
 問いかけると、面倒くさそうに顔を歪めた。
「いい。……あいつら、だるいんだよ」
 そのままゴロンと横になってタブレットを眺めている。
 そのどこかさみしげな眼差しに、蒼の胸がギュッとなった。そして今まで考えもしなかったある疑問が頭に浮かんだ。
 どうして彼は本性を隠し、過剰なまでの王子さまを演じているのだろう?
 口は悪いかもしれないが、本当の彼も優しいところがある。あれほどまでに外面を優しく見せなくてもいいように蒼には思えるのに……。
 とは言っても、蒼がそう思うのは自分がごく普通の一般的な家庭で育ったからなのかもしれない。
『現実の世界はくそ』
 彼のいる世界では、ありのままの彼でいることが許されないのだろうか……。
 また机に向い蒼はペンを走らせる。けれどやっぱり内容は頭に入ってこなかった。マスクもしていないのに、なぜか頬が火照っている。ベッドに寝そべりタブレットをスライドさせている仁の気配を感じる背中が、どうしてか熱かった。
「思った以上によかったよ。安心した。この調子だともっと上も狙えるかもしれないな」
 夕日が差し込む放課後の生徒指導室で担任教師が蒼に向かって笑顔を見せる。机を挟んだ向い側の席に座っている蒼は、ホッと息を吐いた。
「ありがとうございます」 
 中間テストの結果を受けて呼び出されたのである。
「実力テストの結果を見たときはどうしようかと思ったが、なんとかなりそうだな」
「あの日は本当に調子が悪くて……ご心配をおかけしました」
 気まずい思いで蒼は答えた。
「やっぱり同室の筧に勉強を見てもらったのがよかったのか?」
「……そうですね。とても丁寧におしえてくれて、かなり助けになりました」
 実はこれは本当のことだった。
 担任から頼まれてすぐは、ノートを貸してくれただけだった仁が、どうしてか途中から直接教えてくれるようになったのだ。
 理由についてはわからない。けれど蒼の写真を見せたあの土曜日から彼の気が変わったのは間違いない。
 あの日仁は、就寝時間までタブレットを見て、そのままベッドで眠りについたのだ。
 そしてそれ以来、夜に出かけたことは一度もない。学校から帰ってくると蒼とともに部屋で過ごし、そのまま部屋で朝を迎える。自由時間は蒼の勉強を見たり、タブレットの写真を眺めたりしている。
 タブレットに保管してある蒼の写真は一部だから、もう何度も見たはずなのに、まったく飽きる様子はない。
 同室になってもひとり部屋と変わらない生活をしていた蒼にとっては、はじめての共同生活と言ったところだが、不思議と窮屈に感じることはなかった。
 それどころか、蒼は机に向い勉強をして彼がベッドで寝そべって写真を見ている時間を、どこか心地よく感じている。
「まあ、この調子で期末も頑張ってくれ。筧が教えてくれている効果もあるなら、彼の担任にも報告しておこう」
 担任はそう話を締めくくった。
「はい。先輩にはとてもお世話になっているのでお願いします」
 はじめて取引の役割をキチンと果たせたような気がすると思いながら、蒼は席を立った。彼の担任が仁の祖父に報告をすれば、彼が模範的な生活をしているというアピールになる。
「失礼しました」
 廊下へ出て、そのまましばらく考える。どうしてか妙な落胆を覚えたからだ。
 仁の評価を上げるのが取引の目的なのだから、これでよかったはず。でもそしたら、彼は祖父から帰宅を許されて寮を出ていってしまうのだ。
 そうなったら、自分はもう二度と仁とあのような時間を過ごすことはないだろう。もともと彼と自分は住む世界が違う人。同室でなければ、蒼など半径五メートル以内に近寄ることすらないのだから……。
「蒼、なにやってるの? 呼び出し?」
 声をかけられてハッとする。振り返ると、仁が立っていた。後ろに美希と二年の男子を連れている。確か孝也という名前だったような。
「中間の結果がよかったから、褒められていたんです。この調子だって言われました」
 蒼は事情を説明する。同室の生徒が問題を起こしたら、内容によってはルームメイトも指導を受けることがある。悪いことで呼び出されたわけではないとすぐに伝える必要がある。
「テストよかったんだ。やったね」
 仁がにっこりと笑った。
「先輩が教えてくれたおかげです」
「蒼が頑張ったからだよ」
 うしろにいる美希と孝也の手前、ふたりはよそいきのやり取りをする。取引をはじめてから約一カ月、ようやく蒼も少しは自然に振る舞えるようになってきた。
「ねえ、仁。この子の成績が上がったなら、家庭教師はもういいでしょ。そろそろ遊ぼうよー」
 美希が仁の腕を取り、胸をあてるように抱きしめる。その光景に、蒼の胸がちくりと痛んだ。
 じゃあそうしようと彼は答えるのだろうか?
 また夜遊びが再開する……?
「そういうわけにはいかないよ。期末で落としたら意味がない」
 あくまでも口調は柔らかく、けれどほんの少し嫌そうに、仁が彼女の腕を振りほどいた。普段とは違うその仕草に、美希が驚いたように目をパチパチとさせた。
 美希の代わりに孝也が口を開いた。
「仁。俺らと遊ぶくらいはいいだろ? 今度の土曜、都立の女子と遊ぶんだけど、仁も来いよ」
「ちょっと、それって合コンでしょ? ダメだよ仁を連れてったら」
 美希が目をつり上げるが、孝也は意に介さない。
「なんでお前が怒るんだよ。関係ないだろ。頼むよ仁。仁がいると女子の参加率が違うんだよ。お願い! 親友を助けると思って」
 彼は仁に向かって手を合わせる。そして今度は蒼を見た。
「なんなら、マスクくんも一緒に来てくれてもいいよ。マスクくんも女の子と遊びたいよね。前から思ってたけど君、意外と目が可愛いよね。もしかしてマスクの下はイケメンだったりして……」
 そう言う彼が近づいてきて蒼を覗き込むように近くでじっと見つめる。ぎょっとして蒼は後退りをした。
 親しくない相手に近くでじっと見られるのは気持ちのいいものではない。蒼の素顔に興味を持っている相手が、その気になればマスクを奪える距離にいるというのは恐怖ですらある。案の定、彼は蒼の方へ手を伸ばす。
「ねえ、ちょっと顔を見せ……」
 パンッ!
 手をはたく音が放課後の廊下に響き渡る。
 蒼のマスクを奪おうとした手を妨げたのは、仁だった。
「マスクを勝手に取ろうとするのは失礼だと思うよ」
 口調はあくまでも丁寧だが、その目は鋭く彼を睨んでいる。いつものにこやかな雰囲気は微塵もなかった。
 そんな仁を見るのは、はじめてなのだろう。彼はあっけに取られている。冷たい仁の視線に慌てて手を引っ込めた。
「あ……そ、そうだよな。ごめん」
 蒼も驚いていた。生活指導のゴリラはともかくとして目の前の彼は仁の友達。その彼にまで、蒼のマスクのことで強く言い返すなんて。
 仁が彼に向かってにっこりと笑った。
「悪いけど、僕は合コンにも行かないから。たまには自分たちの力で女の子を集めてみたら? 僕目当ての女の子と遊んだって意味ないでしょ。じゃあ蒼の勉強をみないといけないから、僕たちはここで」
 そして蒼の腕を取る。
「行こう、蒼」
「え? あ……!」
 仁に引っ張られて、蒼は廊下を彼らが向かっていたのとは反対方向に歩き出す。
「ちょっとあんた、仁怒っちゃったじゃん。マスクくんのマスクを取るのはダメなんだって! 知らないの? 仁がゴリラとやり合ったの」
「え? そうなの?」
 美希たちがヒソヒソとやり取りをしているのを聞きながら、蒼は自分の前を行く大きな仁の背中を見つめていた。
「いいんですか、あんなことして」
 旧校舎の写真部の部室にて、窓辺のベンチに寝そべっている仁に向かって蒼は問いかける。
 彼は無言で窓の外を眺めている。
 美希たちを置いて校舎を出たふたりはそのまま旧校舎へやってきた。
 蒼に部室の鍵を開けさせて、窓際のベンチに寝そべっている。ここのところ放課後は、ふたりでこの部室で過ごすことが多かった。とは言っても、蒼がカメラの手入れや写真の整理をしている横で、仁は寝ているだけだけれど。
「友達、驚いてるみたいでしたけど」
 本当にさっきの彼の態度は意外だった。蒼が知る限り彼はいつも周りに紳士的で穏やかに接している。
 確かに、蒼から見て孝也の言葉は、あまり気持ちのいいものではなかった。仁を女子を集めるために利用しているともとれる内容だ。それでもおそらく今までの仁ならば、にこやかに角が立たないように答えていたはずだ。
 マスクの件にしたってもう少し柔らかく間に入れただろう。
 彼の守ってきた評判が崩れてしまわないかと心配になる位だった。
「マスクの件は助かりましたけど……遊びに行かなくていいんですか?」
 放課後だけではなく夜も出かけていないなら、今まで毎日のように遊んでいたであろう彼らが不満に思うのも理解できる。
「先輩最近毎日ここに来てるから……」
「……ここ、空気が綺麗なんだよ。だからよく眠れる」
 彼はそう言って、目を閉じた。
 少し不思議なその言葉に、蒼は首を傾げる。
 空気が綺麗……?
 この部屋は薄暗くて狭くて、何年もまともに掃除をしていないから、ほこりっぽい。お世辞にもきれいな場所とは言い難い。
 仁が目を開いてこちらを見た。
「なにお前、女の子と遊びに行きたかったの? 俺が断ったのが不満?」
「そ、そんなわけないじゃないですか。だいたい土曜は俺も予定がありますし」
「予定って、写真を撮りに林に行くこと?」
「……まあそうです」
 気まずい気持ちで蒼は答える。
 そんなの予定のうちに入らないと思われているだろう。
 けれど彼は、少し考えてから意外な言葉を口にした。
「それ、俺も行く」
「……へ?」
「俺も行くって言ってんだよ。今週はそのつもりでいろ」
 目を丸くする蒼に一方的に言い放ち、彼は目を閉じすぐに寝息を立てはじめる。
 唖然としたまま、蒼は彼の寝顔を見つめた。
 いったい彼がなにを考えているのかさっぱりわからなかった。
 一緒に過ごすことが多くなってから知ったことだが、彼はよく寝る。放課後、部室にいる時は大抵ベンチで寝ていて、夜もタブレットを手にしたまま眠りについている時もある。
 意外と睡眠時間がたくさん必要なタイプなのかもしれない。それならば休日は、蒼がいない部屋でゆっくり昼寝でもすればいいのに。
 とはいえ、彼と一緒に林で過ごすということ自体を嫌だとは思わなかった。林の中での大切な時間、綺麗な世界をカメラに収めるその瞬間を彼と共有する。想像するだけで胸の鼓動が速くなるのを感じた。
 気持ちよさそうに寝息を立てる彼を横目に、蒼はカメラの手入れを終える。そして、試しに電源を入れてレンズのズームの調子を確認した。
 なにか対象物をと考えて視線を彷徨わせていると眠っている仁が目に入る。夕日が差し込む窓辺で資料に囲まれながら眠る彼の姿は綺麗だった。
 無意識のうちに蒼は彼の寝顔にレンズを向け、ピントを合わせる。そのまま思わずシャッターを切った。
 ピピッという電子音が静かな部屋に響き渡る。その音にはっとして、蒼は動きを止める。背中を冷たい汗が伝い落ちた。
 ——俺、今なにをした?
 自分がしたことの意味がわからず、蒼の頭が混乱する。
 少し前に仁に言った自分の言葉が頭に浮かぶ。
『俺、好きなものしか撮りたくないんです』
 これは蒼が固く守っていることだった。中学一年の頃、蒼がカメラをやっていると知った担任にクラス行事の写真係を頼まれたことがある。だが蒼はそれを断った。クラスメイトたちをまんべんなくと撮るという行為が受け入れがたかったのだ。
 そのくらいできるだろうと言われたが、蒼にとっては大切なことだったのだ。カメラを通した世界だけが、ありのままの自分を受け入れてくれる。
 それなのに好きでもないものを撮ってしまうと、その世界が壊れてしまうような気がするから。
 だから蒼はいつもどんな時もかたくなに納得のいくものしか撮らないと決めていたのに……。
 どくんどくんと心臓が鳴る。
 自分の中の仁に対する気持ちが変化しているのはわかっていた。悪魔だと思っていたけれど話してみるとそうではない、優しいところがある人物で、自分はそんな彼を以前のように嫌いだとは思わない。それどころか彼と過ごす時間を心地いいと感じている。友人と言うにはあまりにもいびつな関係だが、他とは明らかに違う存在だ。
 ——でももしかして、それだけではなかった……? 
 息を殺して仁を見る。さっきの電子音に彼が気がついていないかを確認する。さいわいにして彼が起きる様子はなかった。
 手元のカメラに保存された仁の寝顔をじっと見つめる。人を被写体にしたのはほとんどはじめてだが、その中の世界も相変わらず美しく思えた。
 そしてそのこと自体に愕然とする。
 彼とルームメイトなるより前、彼に対して抱いていた苦手意識の根底にある気持ちを思い出す。
 彼に関わってはいけないと本能的に感じていたのは、ひとつには目立ちたくなかったから。もうひとつは、誰をも惹きつける筧仁という存在に、自分が惹かれるのが怖かったからだ。
 封印した自分の中の異質な部分を万が一にでも引きずり出されてしまえば、中学の時の最悪な出来事を繰り返してしまう可能性がある。
 それだけはなんとしても避けたかったから。
 それなのに、いつのまにこんな風に彼を想うようになっていたのだろう……?
 カメラを持つ手が震えている。
 今ならまだ間に合うはず。この仁の写真は見なかったことにして消去する。そうすればきっと……。
 画面の中のゴミ箱マークを押すと浮かび上がる『消去しますか?』の文字。
 どくんどくんと自分の鼓動がうるさく鳴るのを聞きながら、蒼はそれを見つめていた。
 木々の間からこぼれる日の光に目を細めて仁は空を見上げる。都会の中にあるとは思えないほどうっそうとした木々の葉はところどころ色づいて秋の装いの準備を進めていた。
 前日の雨のせいか土の匂いが少し濃い。清々しい空気を吸い込むと、自分の中の偽りや行き場のない苛立ちが浄化されていくようだった。
 視線の先では、カメラを手に前を行く蒼がちらちらとこちらを見ている。どうも仁が気になるようである。
 彼にとって土曜日の林散策は、窮屈な学園生活の合間の癒しなのだろう。邪魔をするべきではないと思いつつ、それでも仁は彼とこの時間を共有したかったのだ。
 蒼が撮る世界は、自分が存在するこの世界と同じだとは思えないほど美しく仁の目に映った。
 青い空を背景に重なり合う葉。
 緑の葉先の煌めくしずく。
 瑞々しい青い体のアマガエル。
 自分の背負うすべてのものを捨て去って、この中に入りたいと思うほどに、仁はその世界に強く惹かれた。
 蒼に本気で嫌がる素振りがあれば、ついてくるのはやめようと思ったけれど、昼食を食べた後、準備している様子を見るとそうではないと仁の目には映ったが……。
 カメラを手にしてはいるものの、なにかを撮ることもなく、こちらを振り返りつつ前を行く蒼の足下を見ながら仁は声をかける。
「そんなにこっちばっか見てたら、こけるぞ」
「あっ……と!」
 声をあげて蒼がよろめく。言ったそばから、木の根につまずいてしまったようだった。さいわいにして倒れはしなかったが、相変わらず抜けている。
 仁はくっくと笑った。
「だから言ったのに」
 蒼が口を尖らせた。
「先輩がいきなり声をかけるからですよ」
「かける前に引っかかってたように見えたけど」
 蒼が真っ白い頬をほんのりと染めて反論する。
「違います。先輩に声をかけられたからです」
 彼の素直な反応に、仁の胸に新鮮な思いが広がった。
 考えてみれば誰かとこんな気軽なやり取りをすること自体、仁にとってははじめてのことなのだ。仁がいくら望んでも"筧家の長男"である以上、それ抜きに話をしてくれる者はいなかった。
 蒼だけが、自分をただの人として接してくれる。その彼とふたりきりで林を歩いているということに、心が浮き立つのを感じた。
「今日は何を撮るんだ?」
「とくに決めていません。いつも行き当たりばったりなんですよ。こうやって歩いていいなと思ったものを撮るんです。ぜんぜんシャッターを切らない日もあります」
 カメラを手にしているからか、今日の蒼はどこか饒舌だった。
「こうやって歩きながら、切り取りたい場面を探すんです。宝探しみたいなもんかな」
 話しながら周りを見回す蒼につられて、仁も景色を眺めながら歩いていく。そう言われてみれば、なんてことのない自然の風景が違って見えるから不思議だった。
 足下に広がる濃い土色の中に、木の根が這うように広がっていて奇妙な模様を作っている。頭上には、緑、黄色、赤の無数の葉のグラデーション。まるで蒼の写真の中に入り込んだような錯覚をしてしまいそうだ。その時。
 くしゅん!
 蒼がくしゃみをする。
 改めて彼を見ると、上半身は半袖のTシャツ一枚である。昨日降った雨の影響で、今日は気温がぐっと下がった。そんな格好では肌寒く感じるのは当然だ。
 彼は手にしているカメラの他に、替えのレンズが入っていると思しき四角いバッグを肩から下げている。機材はちゃんと用意しているのに、自分は上着を着ていないのに呆れてしまう。やっぱりどこか抜けている。
「お前、そんな格好じゃ、寒いのは当たり前だろ」
 仁はそう言って自分が着ているパーカーを脱ぐ。仁の方は下に長袖を着ているから、脱いでも平気だ。
「ほら、着てろ」
 パーカーを蒼に差し出すが、彼は首を横に振った。
「大丈夫です。それじゃ先輩が寒……くしゅん!」
 言ったそばからまたくしゃみをする。仁ため息をついてパーカーを広げ、有無を言わさせず彼を包むようにかぶせた。小柄な蒼には仁のパーカーは少し大きい。
「いいから言う通りにしろって。風邪ひかれたら同室の俺も困るだろ。お前本当抜けてるな……。同室の二年がいなくて、よく今までやってこれたな」
 ぶつぶつ言いながら彼の頭にパーカーのフードまで被せると、彼の頬が赤くなった。上目遣いにこちらを見る。
「なんだよ」
「いえ。……なんか先輩らしいなと思って……」
 その言葉に、一瞬仁はドキッとする。
『らしい』という言葉に苦手意識があるからだ。
 いや正確に言うと『らしくない』というべきか。
 友人や教師と一緒にいる時、仁はいつもこの言葉を言われることを警戒している。
 苛立ちを表情に出してしまった時。
 期待される結果を出せなかった時。
『仁らしくないね』と言われるとまずいからだ。
「……俺らしいってなんだよ」
 少し低い声で問いかけると、蒼が口を尖らせた。
「口が悪くて一方的」
 思い浮かべていたことと真逆の答えが返ってきて、仁は思わず噴き出した。
「お前、悪口かよ……!」
 蒼には本当の自分を知られているのだと心の中で確認し、安堵する。
 彼が他の皆のように自分に完璧であることを求めるはずがない。
 かぶせたパーカーの裾を掴んだまま笑っていると、視線の先で蒼が恥ずかしそうに目を伏せた。
「……でも本当は優しい」
 そしてすぐにくるりとこちらに背を向ける。
「じゃあ、これ借ります。ちょっと俺あっちを撮ってきますから。先輩はこのあたりにいてください。ふたりで行ったら虫が逃げるし」
 照れ隠しのようにそんなことを言って、彼は足早で離れていった。
 仁は彼の後を追わずに、近くの岩に腰を下ろして、木々の間であちこちにカメラを向ける蒼を見ていた。
 胸を突かれたような気分だった。
 蒼には、仁の中の奥底にある自分も知らない部分まで知られているような気がする。それは今まで仁が誰にも見せてこなかった部分。本当なら知られてはいけない部分のように思う。けれどどうしてかそれを嬉しいと感じている自分がいる……。
「——い、先輩」
 呼びかけられて目を開くと、蒼が自分を覗き込んでいた。
「こんなところで寝たら先輩こそ風邪をひきますよ」
 考えごとをしているうちにいつのまにか、大きな岩に身体を倒して寝ていたようだ。
「眠いなら、部屋で寝てたらよかったのに」
「眠くなったんだよ、ここ気持ちいいから」
 目をこすりながら仁は言い訳をする。ここのところ以前の不眠が嘘のようにいつでもどこでも眠たくなる。息苦しさを感じることもあまりなくなった。
「……先輩って本当によく寝てますよね」
 蒼があきれたような声を出した。
 その言葉に、仁は瞬きをしてまた考える。そんな風に言われるのははじめてだった。けれど思い返してみれば、蒼と一緒にいる時間が増えてからだ、よく眠れるようになったのは……。
「まぁ、確かに気持ちいいですよね。今日は空気も澄んでいるし」
 蒼が呟いて、なにかを思い出すように口を噤む。そして、ふふふと笑っている。
「なに?」
「先輩、こういうのを空気が綺麗だって言うんですよ。前に部室の空気が綺麗だって言ってたけど」
 部室とは旧校舎の一室のことだろう。
「……俺そんなこと言ったっけ?」
「言いましたよ、あそこどう考えてもほこりっぽいのに」
 確かにあの部屋はお世話にも空気が綺麗とは言い難い。けれど仁にとってはあの部屋も心地のいい場所だった。
 蒼が写真の整理をしたり、カメラの手入れをしている音を聞いていると、今みたいに眠たくなってくる。
 そしてそう自分が感じるところの意味に思いあたる。
「……お前だ」
 呟くと、彼は首を傾げた。
「え?」
 ——蒼がいる場所が綺麗なんだ。
「場所じゃなくて、お前がいるから空気が綺麗だって感じるんだ」
 思ったことをそのまま口にすると、蒼はふいを突かれたような表情になる。なにを言われているかわからないのだろう。
 仁だって変なことを言っている自覚はあるけれど、自分にとっては間違いのない事実だ。
「なんかお前、俺の機嫌を取ろうとしたりしないし……」
 いつも顔に貼り付けている笑顔の仮面を蒼の前では取ることができる。呼吸がしやすくなって景色が美しく見えるのだ。
 仁の言葉に、蒼が一瞬頬を歪め痛ましそうな表情になった。自分を見つめる大きな黒い彼の瞳。その目に、仁の中の弱い部分を見透かされているように感じるけれど、それでもいいと仁は思った。
 しばらくして、蒼は気を取り直したように瞬きをする。そしてその場の空気を変えるようにふっと笑った。
「なんですかそれ。俺、空気清浄器みたいじゃないですか」
 冗談まじりの内容に、仁もつられて笑みを浮かべる。
 身も蓋もない言い方だが、ぴったりのように思える。どこでだろうと、蒼がいれば、灰色に濁った仁の世界は、綺麗に変わる。
「ま、そんなところじゃね? それより写真は撮れたのかよ」
「……まぁ一応」
「見せて」
 有無を言わさせずそう言うと、彼は素直に、仁の隣に腰掛けてカメラの電源を入れた。
 トンボが飛んでいるのを下から撮った写真だった。長くて薄い羽根が日の光に透けている。
「きれー……」
 仁は思わず呟いて、そのまま見入ってしまう。いつも見ている蒼の写真も綺麗だけれど、たった今撮ったものを目にするといつもとは違う感情が沸き起こる。
 自分のいる世界は、紛れもなくこの綺麗な世界と繋がっているのだ。
 祖父が作った自分を取り囲む牢獄は、仁が仁である限りどこまでも続いていると思っていた。永遠に出られないと思っていたけれど、そうではないのかもしれない。
 目の奥が熱くなって鼻がつんとする。泣いてしまいそうになったのを誤魔化すために、蒼の肩にもたれかかる。どこか甘い彼の香りと温もりを心地よく感じて目を閉じた。
「……え、また眠くなったんですか? ……仕方がないなぁ」
 迷惑そうに彼は言うが身体を動かすことはなかった。それをいいことに、そのまま仁は自分の中の彼への気持ちの正体について考える。
 蒼が、自分にとって特別な存在なのは間違いない。
 いつの間にこんな風に思うようになったのか、それについては不明だが、もはやこうやって彼と一緒にいる時間が自分にって必要不可欠なのだと思うくらいだった。
 ——この感情はいったいなんだ?
 今まで誰にも抱いたことのない生まれてはじめての感情だ。
 彼とふたりのこの時間を誰にも邪魔されたくないと強く思う。ずっとこの綺麗な世界で彼とこうしていたい。そのためには今まで積み上げてきたすべてのものを失ってもかまわない。そう思うくらいに……。
 はっきりとわかるのは、彼が仁以外の他の誰かと同じような時を過ごしてほしくない感じること。彼の綺麗な瞳に映るのは、自分だけであってほしいという願いだった。
 ——こいつ、俺だけのものならないかな。
 静かな林に響くチュンチュンという鳥の鳴き声を聞きながら、仁はそんなことを考えていた。
 十一月に入ると気温がぐっと下がり、寮を取り囲む木々は色づいてカメラを持って出かけるには最高の季節に突入した。
 けれど蒼はこの季節があまり好きはなれなかった。
 カメラの向こうの世界が最高に綺麗なのとは対照的に、現実では超絶苦手なことつまり学園祭があるからである。
「三番テーブルクッキーと紅茶二セット!」
 普段とは違って一部をカーテンで仕切られた一年六組の教室で、慣れない手つきで紅茶を淹れている蒼に、カーテンのむこうから顔を出した女子が言う。
 蒼の隣のクラスメイトが返事をしてメモを取る。そしてそれを蒼の前に並べた。
 ずらりと並んだメモに蒼はうんざりとしてため息をついた。
 相澤学園の学園際は生徒だけでなく他校の学生も遊びにくる街の一大イベントだ。
 蒼のクラスの出し物は、メイドカフェ。メイドの格好をした女子が店員になってクッキーと飲み物を運ぶだけというシンプルな出し物だが、意外と大盛況で、客が引っ切りなしに来る。
 バックヤードの紅茶を淹れる係の蒼は朝からずっと紅茶を淹れっぱなしである。本当は午後の当番は別の生徒なのだが、時間になっても交代に来る気配はない。
 午前中は彼女と他の店を回ると言っていたから、このまま現れないつもりなのかもしれない。
 もともとこういった出し物には一切興味がない蒼にとっては苦行とも言える一日だ。せめて自分の係でない時間は旧校舎にでも逃げ込みたいのだが、それもできないでいる。
「マスクくん、もっとペース上げられない? 客さん外まで並んでるんだけど」
 さっきオーダーを通したクラスメイトに急かされて、蒼をため息をついた。
「無理だって。これ以上は」
 バックヤードは締め切っているため、熱気がこもっていて暑い。マスクをしている蒼の額に汗が浮かんだ。
「俺、朝から休憩してないんだけど」
 ついでにそう反論するが彼女は聞こえていないふりをした。
 ——その時。
 きゃー‼︎
 カーテンの向こう、ホール側から歓声があがる。こちら側の生徒は手を止めて顔を見合わせた。
「なに? 誰か来たのかな?」
 歓声はテーブルのあちらこちらであがっているようだ大騒ぎである。メイドの格好をした女子がカーテンから顔を出して興奮気味に報告をする。
「ねえ! 仁先輩が来てくれたよ! しかも白衣を着てる。やばい! めちゃくちゃカッコいい!」
 バックヤード側のクラスメイトたちも沸き立った。
「マジで⁉︎」
「見たい、見たい」
 自分の役割そっちのけでカーテンの向こうへ行ってしまう。
 蒼は残った男子と顔を見合わせる。これではカフェどころではなさそうだと思った時。
「マスクくん、マスクくん!」
 クラス委員をしている男子が困ったように蒼を呼んだ。
「君ホールへ出てくれないかな」
「え? 俺ホールの係じゃないんだけど」
 接客は苦手中の苦手だ。だからバックヤードにしてもらったのに。
「そうだけど、仁先輩からのご指名なんだ。それに女子が誰が接客するかでもめてるし……廊下まで見物客が集まってるからこのままじゃ収集つかないよ。お願い」
 そんなの知らないと言いたいところだけれど、そういうわけにいかないというのもわかっている。数ある出し物の中で、仁がわざわざ一年六組を選んでやってきたのは、間違いなく蒼のクラスだからだ。
「紅茶っていうオーダーだから、ちょうどいいからそれ持ってって!」
 ちょうど淹れ終わっていた紅茶を指差した。ずいぶん順番を飛ばすことになるが、それでも先に持って行った方がいいくらいホールが混乱しているのだろう。
 仕方なく蒼は、紅茶を乗せた盆を持ってカーテンをくぐった。
 ホールは騒然としていた。中央あたりのテーブルに仁が座ってて、その席の周りをぐるりとメイドの格好をしたホール係が取り囲んでいる。皆、仕事はそっちのけである。
「あれ仁先輩だよね? どうして医者の服着てるの?」
「さあ? でもカッコいい〜」
「写真撮ってもらいたい!」
 廊下から他のクラスの女子たちが鈴なりになって覗いている。
 これでは仕事にならないとクラス委員が思うのも当然だ。
 この中で彼に紅茶を持って行くのは勇気がいることだった。メイド役の女子たちの視線を感じながら、蒼は仁の席へ行く。仁が笑顔になった。
「蒼!」
 その笑顔に蒼の胸がドキンと跳ねる。紅茶を落とさないようにお盆を持つ手に力を入れた。
 ここのところ皆の前で仁が自分に向ける笑顔が以前と違っているような気がする。ふたりでいる時のリラックス中の彼とそれほど変わらないように思えるのは蒼の気のせいだろうか。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
 彼の前に紅茶を置き、くるりと彼に背を向けてそそくさと退散しようとしたところ、シャツを引かれて引き留めらられる。
「冷たいな、このカフェの接客は」
 蒼は振り返ってため息をついた。
「俺、バックヤード担当なのでって言ってましたよね」
「そうだっけ? でも僕、蒼に会いにきたのに」
 その言葉に、周りの女子が色めき立つ。
「いいなあ」
「私もルームメイトになりたい」
「ほんとラッキーだよね」
 その反応に蒼はドキッとして彼に囁いた。
「ちょっと変な言い方しないでくださいよ!」 
 仲がいいふりをするとは言ってもここまでしなくてもいいはずだ。と蒼は思うけれど彼はまったく意に介さず。ニコニコと笑っているだけである。
「でも蒼、たしか係は午前中じゃなかった? 午後も働いてるの? 係を分担しないのは違反だったように思うけど」
 そう言って彼はチラリと後ろを見る。少し離れた場所で成り行きを見守ってたクラス委員がビクッと肩をふるわせた。
 蒼をこき使っていたことがバレたことにびびっているのだ。
「えーっと、確か阿佐美くんはそろそろ休憩時間だったよね」
 わざとらしくそう言った。
 仁がぱっと笑顔になった。
「本当? じゃあこのまま連れて行ってもいいかな?」
「もちろんもちろん」
「よかった。じゃあ蒼行こう」
 紅茶を飲み干して仁が立ち上がる。突然の成り行きに面食らう蒼の腕を取る。
「え? ……だけど」
「いいから早く」
 そのまま女子たちの残念そうな視線を浴びながらふたり教室を後にした。
「ちょっと、どこに行くんですか。先輩は係終わったんですか?」
 廊下を連れだって歩きながら蒼は彼に問いかける。係が終わったにしては彼の格好は妙だった。確か彼のクラスの出し物はコスプレ写真館。いろんな衣装を着て写真を撮れるというものだ。
 でもその実体はいろいろな衣装を着た仁と写真を撮れるというもので、朝から行列ができていたという。クラスの女子も絶対行くと言って気合いが入っていた。今医者の格好をしているということは、係を途中で抜けてきたのではないだろうか。
 彼は蒼の問いかけには答えずに、仁は廊下を足早に進む。そして一瞬人気がなくなったのを見計らってある教室に蒼を引きずり込んだ。
 ぴしゃりとドアを閉めてから、彼は蒼の腕を掴んでいた手を離して振り返る。そして蒼のマスクをそっと外した。
 バックヤードの熱気でほてった頬に、ひんやりとした空気が心地よかった。
「どうせお前のことだから、係を押しつけられてるだろうなと思って助けにきてやったんだよ。顔真っ赤じゃねーか」
 彼の手が蒼の頬に触れる。少し茶色い彼の綺麗な目に見つめられて、蒼は慌てて目を逸らした。そしてそのまま教室を見回す。
「ここは?」
 ドキドキしていることをごまかすようにそう言った。
「俺らのクラスが衣装替えに使ってる部屋。今の時間帯は誰も来ないはず」
「ありがとうございます。助かりました」
 蒼が素直に礼を言うと、彼はふっと笑った。相変わらず口が悪いけど優しい。
「てか、俺が限界だったんだよ。トイレに行くふりをして抜けてきた」
 うんざりとしたようにそう言って、閉まったドアを背にずるずるとそのまま座り込んだ。相当疲れているようである。
 クラスの女子の口ぶりでは彼は朝から写真に応じていたようだ。さっきまでいたのだとしたら疲れていてもおかしくはない。
「大丈夫……ですか?」
 蒼が隣に腰を下ろすと、彼は蒼の肩に頭を預けた。
「大丈夫じゃない、だから空気清浄器に会いにきた」
 そう言って、目を閉じる。
 最近ふたりの間でよく交わされるやり取りだ。
 ふたりで林へ出かけたあの土曜日に、蒼が言った冗談を彼は気に入っていて、時々こうやって口にする。
「ねえ、仁知らない? ちょっと前から姿が見えないんだけど」
「わからない、私たちも探してるんだけど。仁がいないとうちのクラスの展示成り立たないんだけど」
 もたれかかったドアの向こうからそんなやり取りが聞こえて蒼はドキッとして仁を見る。彼も仁は目開けてこちらを見た。
 仁のクラスの女子と美希だ。トイレに行くと言っていなくなった仁を探しているのだろう。
「大丈夫、鍵は閉めた」
 至近距離にある仁の唇がそう動く。
 その内容にはホッとするが、すぐ近くで見つめ合っている状態での秘密めいたやりとりに、蒼の鼓動がスピードを上げた。
「なんか、あの子のクラスに一瞬姿を現したみたいなんだけど、ふたりでどっか行っちゃったみたい」
「あの子ってルームメイトの? もーどこ行ったのよー」
 そんなやり取りをして、女子ふたりは遠ざかっていく。蒼はホッと息を吐いた。
 仁はまた蒼の肩に頭を預けている。皆が自分を探していると知っても出ていくつもりはないようだ。スパイシーなシャンプーの香りをさせる茶色い髪が蒼の頬をくすぐった。胸の奥がきゅっとなって、蒼は制服のシャツの胸のあたりギュッと掴んだ。
 誰も知らない彼の顔を自分だけが知っている。そのことを嬉しく思う自分を止めることができなかった。
 ふたりで林へ行ったあの日から、仁の蒼に対する態度が変わったように感じるのは蒼の気のせいではないはずだ。
 口が悪いのは相変わらず。
 けれど今までよりも蒼をかまう。蒼の勉強を見るだけでなく、リラックスしている時はたわいもない話をしながら蒼をからかうこともある。
『お前、俺の機嫌を取ったりしないし』
 あの日、そう言った仁の目に、蒼の胸は締め付けられた。いつかの日なぜ彼が必要以上に王子さまを演じているのだろうと疑問に思ったことの答えを見たような気がしたからだ。
 彼の方も蒼に対して特別な感情を抱いているのかもしれない。
 完璧な人間など存在しない。
 彼にだって普段の立場を忘れて素顔のままでいられる時間が必要なのだろう。それが自分との時間だというならば、なんとしてもその時間を守りたいと強く思う。
 ……問題は、蒼の中の彼への気持ちが、彼とは違っているということだ。
 結局、蒼は仁の寝顔の写真を消せていない。どうしても消去のボタンを押すことができなかったのだ。そして彼への想いも消せずにいて、しかもそれは日に日に存在感を主張するようになっている。
 消さなくてはと思うけれど、変わっていくふたりの距離がそれを妨げている。
 こうして過ごしている時間に、自分のこの気持ちを彼に知られてしまうのが怖かった。そしたら確実にこの関係は終わりを迎える。それどころかもう二度と彼は蒼と口をきいてくれなくなるだろう。
 かつて好きになったあの彼のように……。
 いつのまにか仁の息遣いが規則的な寝息に変わる。
 心底安堵したように蒼に身を預ける温もりが、これ以上ないくらいに愛おしい。彼のためなら、彼が心から安心できる場所が必要なら、自分の中のなにを差し出してもいいと思う。
 ——でもこの気持ちは、絶対に知られてはいけない。
 なんとしても隠し通さなければならないものなのだ。
 仁の頬を乗せた肩が燃えるように熱くなるのを感じながら、蒼はきゅっと唇を噛んだ。
「なぜわしがお前を呼んだのか、理由はわかっとるな」
 筧家の祖父の書斎にて、窓を背にデスクに座る祖父が仁に向かって厳しい表情でそう言う。
「はい」
 向かいに立つ仁ははっきりとした声で答えた。
 仁の隣のソファには両親が並んで座り心配そうな表情でふたりのやり取りを見守っている。仁が祖父に叱られる際のお決まりのスタイルである。
「我が家はインターネットの類は禁止というのはわかっておるはずだ。お前はまだ学生だが、筧グループの役員と同等の危機意識を持ちなさい。昨今はなにを突かれるかわからんからな」
「はい、申し訳ありませんでした」
 学園祭が終わり、代休を寮で過ごしていた仁に祖父からの呼び出しがかかったのが二時間ほど前。祖父は、仁がどんなに素晴らしい成績を残しても褒めることはあまりないから、小言を言われるであろうことは予想できた。
 はっきり言って憂うつだが、従わないわけにもいかず仁はこうやって帰ってきたというわけだ。
 呼ばれた理由には心当たりがあった。美希のアカウントの自分の写真は気がついてからすぐに消させたが、その前にかなり拡散されていたようだったから、いずれは祖父の耳に入るだろうと思っていたのである。
「友人に、僕の写真をSNSにあげてもいいかと聞かれた際、はっきりと断りました。ですがそれだけでなく写真自体を消してもらうべきでした」
 SNSに自分の写真をあげたのは美希だが、祖父にはどんな言い訳も通用しない。すべて自分の責任として謝罪するのが、一番早く済む方法なのだ。
 その仁の謝罪に一応祖父は納得したようだ。
「気軽に写真など撮らぬように」と付け加えた。
「はい、以後気をつけます」 
「でも父さん、仁だって高校生なんだ。友達と気楽に写真くらいは撮りたいだろう。うちの取締役たちを同じ危機意識を持てというのはさすがに可哀想だ」
 父が仁の父親らしく口を挟む。自身の学生時代を思い出しているようだ。
 祖父がうるさそうに彼を睨んだ。
「女でもか? だいたい仁、あの生徒とはいったいどういう関係なんだ?」
 あの生徒とは美希のことだろう。
「友人です。特別な関係ではありません」
 言い切ると、母が「あらそうなの」とホッとした様子で呟いた。
 筧家の跡取りである仁は、いずれは親が選んだ相手と結婚することになる。その前に、誰かと特別な関係になられると困ると思っているのだろう。この話は耳にタコができるくらい聞かされた。
「仁、くれぐれも……」
「わかってるよ、母さん。心配しなくてもそういう相手は作らないから」
 仁は言い切る。これについては、本当に心配無用だ。自分を偽り誰にも心を許すことがない仁が誰かを愛することなどない。今まで女に興味をもったこともない。
「お前の相手はわしが決める。多少遊ぶくらいは目をつぶるが深入りはせんように」
 祖父の言葉にいつものように頷いた時、仁の胸がコツンと鳴る。今まで抱いたことのない違和感を覚えた。
 祖父が選んだ相手と生涯をともにする。相手を愛しているようなふりをして……。
 以前から何度も言い聞かされていて納得していたはずの自分の未来に強烈な嫌悪感を抱く。相手が誰であろうと、そんなことまっぴらごめんだと思う。 
 ——蒼、以外は。
 自分の中のもうひとりの自分の声を聞いたような気がして、仁の胸がどきりとする。
 彼が撮る美しい世界と、大きくて綺麗な瞳が頭に浮かんだ。
 ——もしかして、この気持ちがそうなのか?
 あまりにも想定外だけれど考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなっていく。相手を尊重して慈しみ、ずっとそばにいたいと願う。仁にそんな相手がいるとしたら、蒼以外にあり得ない。
 蒼のそばで、彼と見る綺麗な世界の中にずっといたい。
 自分はそんな未来を望んでいる。
 ——そうだとするならば、蒼に対するこの想いは……。
「まだ学生だからな。べつに女の子と付き合うくらいはいい。節度とわきまえれば」
 自身も窮屈な人生を歩んできたであろう父が、仁を気の毒そうに見る。
 祖父が咳払いをした。
「まあ、少しくらいはかまわん。どうせ学生時代の人間関係は、社会に出ればすべて切る」
 祖父が締めくくる。その言葉に仁は眉を寄せた。
「すべて……ですか」
「そうだ。そのつもりでいろ。そこから先の付き合いはわしが選んだ人間だけだ」
 この話ははじめて聞いたが、以前の仁ならば聞き流していただろう。そうなったとしてもかまわないような相手としか付き合ってこなかった。
 けれど今の仁には、それでいいとは思えない。蒼と会えなくなるなど、絶対に嫌だった。
「わかったな、仁」
 有無を言わせぬ祖父の視線に、仁の背中がぞくりとする。
 嫌だと言ったところで、聞いてもらえる勝算はゼロ。ましてや相手は男なのだ。到底理解してもらえるわけがない。しかも逆らえば、全力で潰しにかかるだろう。そうすれば、自分達などひとたまりもない。
 今だって、今すぐに寮を出ろと言われてしまえば、蒼との生活は終わりを迎える。
 ——そんなこと耐えられそうにない。
 自分を見る鋭い祖父の視線から目を伏せて、仁はゆっくりと頷いた。
 
 憂鬱な思いを抱えながら、仁は徒歩で寮へ帰る。途中、女子高校生数人に話しかけられたような気がしたけれど無視をした。
 学園の中の門を抜け男子寮までの道を歩きながら、林に視線を彷徨わせる。蒼がいるような気がしたからだ、彼は休日の午後はたいてい林にいる。
 けれどどこにも見当たらない。
 訝しみながら部屋へ戻ると、蒼は部屋にいた。机に向かって勉強をしている。
 仁に気がついて振り返る。
「先輩、おかえりなさい」
 その姿を見ただけで、祖父に会ったことで重苦しく感じていた心がふっと軽くなる。そしてそのことに、さっき思いついたことの確信を深める。
 自分は、蒼のことが好きなのだ。
 彼といることを心から願っているのだと。
 一般的な形ではないかもしれないが、自分にとっては自然なことのように思えた。周りを信用できず自分を偽って生きてきた仁が、素顔でいられるのは彼の側だけなのだから。
「蒼、お前なんで部屋にいるの? 写真を撮りに行かなくていいのかよ」
 彼がここにいたことを嬉しく思いながら、照れ隠しにそう言うと、蒼は頬を赤くして、少し言いにくそうに口を開いた。
「先輩、前に家に帰った後、ちょっと元気がなかったみたいだったから……なんとなく、その……心配で。余計なことだったですよね」
 最後は少し早口に言う。
 そんな彼に、仁の胸は熱いものでいっぱいになった。
「いや……あたり。結構、疲れた」
 そう言って仁は自分のベッドにドカッと座る。
「空気清浄器が必要」
 そう言ってベッドの自分の隣をポンポンと叩くと、彼は素直にこちらへ来てそこへ腰を下ろした。
 その肩に頭を預けると、屋敷で濁った何かが浄化されていくように感じた。
「おじいさん……なにか言ってました?」
 蒼が遠慮がちに尋ねる。
 なんとなく気づかれているようにも思えるが、蒼には仁の家の事情は詳しく話をしていない。それなのに、なぜ祖父の話をするのだとうと考えて、仁は取引のことを思い出した。
 彼は祖父から仁へ帰宅の許可が下りたかどうかを知りたがっているのだ。
 だからその結果を聞きたくて、彼は自分を部屋で待っていたのだ。
 そのことに気がついて、仁の胸に虚しい思いが広がった。彼が自分に肩を貸してくれているのは、取引があるから。仁が彼のマスクの件で脅しているからなのだ。
 仁は自分の運命を呪う。すべてを手にしているようでいて、誰からも本当の意味では愛されない。仁の方も周りを信用していない。
 ようやく心から好きだと思う相手を見つけたのに、それが男で、しかも気がついた時には、すでに傷つけた後だったなんて……。
「……寮の件、なにか言っていました?」
「んー……今日はなにも」
 仁があいまいに答えると、彼は「そうですか」と呟いた。
 その蒼の顔を見ることはできなかった。そこに、落胆の色を見てしまったらどうにかなってしまいそうだ。
「先輩? 大丈夫ですか?」
 問いかけられて目を開くと、彼はこちらをじっと見ていた。
 至近距離で見る彼は綺麗だった。
 黒目がちの大きな目に真っ白いきめ細やかな肌、スッと通った鼻筋に控えめな唇。こんなに綺麗なものはこの世に存在しないと思う。
 思い返してみれば、はじめてここで話をしたあの時、この目に睨まれた時から、自分の恋ははじまっていたのかもしれない。
「蒼」
「はい」
「……お前、もし俺が……」
 ——ずっとここにいたいって言ったらどうする?
 取引をやめたいって言ったら……。
 そんなことを尋ねたら、彼は怒るだろうか?
 それならば、こうしている意味がないと空気清浄器などという冗談にも笑ってくれなくなるだろうか。
「……いや、やっぱりいいや」
 聞けるはずのない言葉を呑み込んで、仁は再び目を閉じる。
 この世界に、存在する人間が、彼と自分ふたりだけだったらいいのにと心から思った。