「最近はおとなしくやっているみたいじゃないか、仁。やっぱり寮に入れて正解だったな。お前はひとりっ子だから、下級生の面倒を見るという経験をするのも悪くないだろう」
天井の高いホールのような広さの筧家の食堂にて、長いテーブルの真ん中に座り、食後のコーヒーを飲みながら祖父が機嫌よく言う。
味のしない紅茶を飲んでいた仁は、手にしていたカップを置いた。
三か月に一回、筧家の本家で開かれる一族の食事会である。筧家の長である祖父を筆頭に、二十人ほどいる一族が一同に会する場である。
ここにいるのは全員親族だが家族の集まりというよりは企業の会議のような雰囲気だ。皆その月にあった出来事を祖父に報告することになっている。祖父から尋ねられたことには、嘘偽りなく答えなくてはならない。
それは祖父の長男である父のひとり息子で、祖父のお気に入りとされている仁も例外ではない。
向かいに座る両親が少し心配そうな表情でこちらを見ているのを感じながら、仁はにっこりと笑みを浮かべた。
「貴重な経験をさせていただき感謝しています。同室の阿佐美蒼くんとは気が合って登校は一緒にしていますし、放課後は僕が勉強をおしえています。彼、先日の実力テストの結果がよくなくて先生に頼まれたんですよ」
「おお、仁にしてはやるじゃないか」
祖父が満足そうに髭を揺らした。
「その阿佐美くんというのはどこの家の子なんだ?」
「普通の一般家庭の子ですよ」
「そうか、素行は問題ないか?」
「問題ありません。どちらかというとおとなしいタイプの子です」
それどころか、学園で一番と言っていいくらい地味でクラスメイトでさえも存在を忘れていたくらいだ。
「おとなしい子か、だがそれでは仁には物足りないんじゃないか」
「そんなことは……よく知るとおもしろいところがある子ですから」
首を横に振って、仁は蒼のことを思い浮かべる。
口数が多いわけではないが、彼といてつまらないと感じたことはなかった。それどころか、当初の予想に反してこの状況を悪くないと思っている自分がいる。
仲がいいふりをしようという取引を持ちかけた時、彼が演技は苦手だと言っていた。それを仁は、断るためのでまかせだと思っていたけれど、どうやらそうではないようだ。人前で仁と話をするたびに、あたふたと挙動不審になっている。
本当のところ彼については別に演技などしなくてもそのままでもかまわない。仁の方の振る舞いは完璧なのだから、多少彼の言動が変でも、照れているか慣れていないだけだろうと周囲は受け止める。
けれど蒼の慌てる様子がおかしくて、ついつい仁は彼をからかってしまう。
『おい、ちゃんとやれマスクを奪われたいのか?』
そう囁くと、大きな目が開かれ慌ててなにかを言おうとする。真っ白い肌が赤くなるのがマスクの隙間からでもわかる。
「あら、よっぽど仲良しになったのね。仁がそんな風に笑うなんて珍しい」
向かいの席で母がにっこりと笑ってそう言った。
その言葉に、仁は驚いて瞬きをする。
自分では笑っていたつもりはなかったが、蒼とのやり取りを思い出していて無意識のうちに頬が緩んでいたのだろうか?
「まあ、気が合うならよかったじゃないか。だが、深入りはするなよ。お前はいずれ筧グループを背負って立つ人間だ。学生の間はともかくとして、社会へ出れば付き合う人間は厳選する必要がある」
祖父が釘を刺す。
「……それはもちろん」
蒼を思い出してどこか浮き立っていた気持ちが急速に冷えていくのを感じながら仁は頷いた。
「おじいさまの言うとおりにしてよかったな。本当は少し不安だったけど」
「本当ね」
両親が安堵したように笑い合っている。
仁はふたりにもにっこりと笑いかけるが、口の中に苦いなにかが広がっていくのを感じていた。
生まれてからずっと、両親と祖父、仁はこの関係を続けている。
名家の生まれだったというだけでなく起業家としても有能だった祖父の力で筧家は莫大な財力を手にした。ゆえに一族の中で誰も彼に逆らえる者はいないのだ。
だが、その長男で跡取りとして指名されている父は気が弱く祖父ほどの手腕を発揮できていない。一時は弟である叔父に跡取りの座を奪われそうになっていたという話だが、祖父は長男を差し置いて次男を跡取りに据えることを嫌がった。そして父に課した至上命題が、優秀な後継者を作ることだった。
母も祖父のその意向を知った上で選ばれた、政略結婚だったのだ。
つまり仁は、ふたりにとって今の生活を確保するための人身御供のようなもの。仁が祖父が満足する力を発揮できなければ、育てている価値がない。
幸いにして仁にはずば抜けた能力と人望があった。必要とされることは、一度聞けばすぐに頭に入るし、祖父から教わった帝王学も身についた。亡くなった祖母から受け継いだ容姿は人を惹きつける力がある。
祖父がやれやれというようにため息をついた。
「生活が少し乱れているのではないかという報告を受けた時は、どうしたものかと思ったが、まあお前なら大丈夫そうだな。だがもうしばらく寮で過ごせ。あまり出たり入ったりするのも外聞が悪いだろう」
「もちろんです。寮の生活は案外気にいているんです」
仁は頷くと、かぶせるように口を開く者がいる。
「父さん、うちの和臣も学園ではよくやっていますよ。生徒会の役員もしていますから。また成績が上がりました」
父の弟である叔父だ。彼の息子和臣も相澤学園の二年生だ。同い年だということもあって生まれた時から仁と彼はなにかと比べられている。
叔父は、和臣が仁より優秀であれば、今からで父を蹴落とせると踏んでいるようだが、今のところ和臣は祖父の納得いく成果は出せていない。
叔父の隣に座る和臣が暗い目でじっとりと仁を睨んだ。
幼い頃は仲良くなりたいと思っていたが、今はそれも諦めた。周囲から常に比べられている状況では、はじめから無理な話なのだろう。
和臣から目を逸らし、仁は心の中でため息をつく。
——いつからだろう?
常に穏やかな笑みを浮かべて、周囲が望む自分を演じるたびに、息苦しさを覚えるようになったのは。
小さな頃は何かができるたびに褒められるのが嬉しかった。
『お前が筧家の跡取りだ』と言われるのが、誇らしくてたまらなかったのに。
自分の存在意義はそれだけなのだと気がついた頃からだろうか……。
祖父と叔父のやり取りから意識を外して窓の外の空を見る。
高い天井まである繊細なデザインの窓枠がまるで牢獄のように感じられた。自分を捕えるこの屋敷から早く出たいと思うけれど、出たところでなにも変わらないのもわかっている。自分が自分である限り、牢獄はどこまでも続いていて、この息苦しさは変わらない。
けれどそういえば、と蒼は少し前のことを思い出す。
学園の旧校舎にある写真部の部室はなぜか呼吸が楽だった。普段あまりよく眠れない仁が、あの時はぐっすりと眠れたのだ。
埃っぽくて冷房の効きもよくなく、固いベンチの上だったというのに。
いやそもそも……と、仁はあの時の自分を不思議に思う。
誰かがそばにいるのに眠くなるというのが、仁にとってはあり得ないことなのだ。自分以外の人間は誰も信用していない。
けれど考えてみれば、蒼ははじめから他の人間とはまったく違っているように感じたのだ。
第一印象は、暗いやつ。
こんなやつと同室なんて最悪だと思った。ただ、だからこそ"やりやすそうだ"とも感じていた。
仲間がいないやつほど仁にとっては都合がいい。孤独な気持ちに付け込んで、うまく懐柔できれば、窮屈な寮生活から早く抜け出せる。
だが予想に反して、彼は仁を強く拒否した。
『あんただって、本性を隠してるじゃないか。バラされてもいいのかよ』
黒目がちな大きな目に睨まれたその刹那、仁の背中がぞくりとした。
名家の生まれで将来を約束された自分の周りにはいつもイエスマンしかいなかった。皆気持ち悪いくらいにニコニコして、仁に気に入られようとする。のっけから敵意を剥き出しにされたのは、生まれてはじめてだったのだ。
……不快だとは思わなかった。
むしろその逆で、もっと彼を知りたいという強い欲求に突き動かされるのを感じて、それがどういう種類の気持ちなのか深く考えることもせずに、取引を持ちかけたのだ。
とはいえ、それはあくまでも好奇心から来る気持ちのはず。必要以上にかまうのは、珍しいおもちゃで遊ぶような感覚だったはずなのに。
……なぜ自分はあの日、蒼といる時間を心地いいと感じたのだろう?
自分で自分のことがわからないのははじめてだ。
訝しむ仁のポケットで、スマホが振動する。取り出して確認すると美希だった。"会いたい"というメッセージだ。
今日はあらかじめ用事があると伝えてあるが、それでも諦められないのだろう。ここのところ蒼を言い訳にして片っ端から誘いを断っていたから、フラストレーションが溜まっているのかもしれない。一度だけ"遊んだ"相手だが最近の行動は目に余る。自分はけして恋人にはならないとはじめに約束したことを忘れているようだ。
「どうした仁、急用か?」
祖父に尋ねられて、仁は少し考える。しばらくして口を開いた。
「急用ではありませんが。ルームメイトの彼からです。今部屋でひとりで自習をしているようですが、わからないところがあるみたいで。土曜日は落ち着いて勉強をおしえてあげられる貴重な時間ですから、できれば直接答えてあげたいのですが」
「ああ、それならそうしてやれ」
「ありがとうございます。では、失礼します」
仁はこれ幸いと、両親と叔父家族に会釈をして席を立ち、食堂を出た。
「仁さま、寮に戻られるなら、車を手配いたします」
長い廊下を玄関に向かって歩いていると、使用人が仁の後をついてきた。
「いいよべつに、歩いて帰れる距離だから」
「ですが、それでは私が叱られます」
「じゃあ、カモフラージュにからの車を走らせたら? 俺は歩いて帰るから」
そう言い捨てて、返事を聞かずに屋敷を出た。足早に玄関ポーチを抜けて前の通りへ出て空を見上げる。少しだけ呼吸が楽になる。
筧家の屋敷は、相澤学園と相対する位置の高台にある。学園に向かうにはいったん坂を下りて街の中央を走る線路を超えて向こう側の丘まで上る必要がある。
ジャケットのポケットに手を入れて仁は歩きだす。屋敷から離れるにつれ、呼吸が楽になっていくのを感じた。
とはいえ、また学園に帰れば同じこと。
笑顔の仮面を顔に貼り付けなくてはならない。
坂を下りて、駅に近づくにつれだんだんと人が多くなる。仁を見て振り返る人がいることに気がついて、仁は忌々しい気持ちになった。
この街では、筧家の人間は顔が知られている。それでなくても祖母譲りのこの容姿は人目を引くのだ。
生まれたときから死ぬまでの人生のレールがあらかじめ敷かれている立場にいて、常に注目されている人生を送ってきた。こうやって見られるのは慣れているが、時々どうにも我慢できずに、すべてを壊したくなることがある。
ジュニアハイスクール時代をすごしたロサンジェルスから高校進学のために帰国した頃、頻繁に女と遊んでいた時期があった。
行為自体を楽しいとは思わなかったけれど、祖父や両親の期待する自分ではない時間を過ごすことが、心地よかったのだ。でもそれもすぐにつまらなくなっていった。彼女たちからもまた、"完璧な自分"を求められていると気がついたからだ。
もうとっくの昔に女と遊ぶのは止めにしたにもかかわらず、未だにあっちこっちで遊んでいると言われている。おそらくは一度関係を持った者たちが、まだ続いているように振る舞っているからだ。
彼女たちにとっては事実はともかくとして、仁と会っているということがステイタスになる。
女と会わなくなってからの仁は、毎日夜の街を彷徨うようになった。フードを深くかぶり顔を隠せば誰も自分が筧仁だとわからない。皆が自分を無視して通り過ぎる。それが最高に心地いい。微笑みを浮かべて優しい言葉を吐かなくても息をしていられる……。
駅のロータリーに差し掛かると、駐輪場で話をしている女子高生ふたりがこちらをちらちらと見ているのに気がついた。隣の公立高校の制服を着ているから直接話をしたことはないはずだが。
「あの……! もしかしてジンさん……ですか?」
内心でうんざりとしながら、仁は足を止めてにっこりとした。
「そうだけど。どっかで?」
「この前MIKIって人のSNSに出てませんでした? すごいカッコいいって拡散されてたから覚えてて」
そういえば少し前に美希が仁と撮った写真をアップしていいかと何度か聞かれたことを思い出す。きつい言い方ではないけれどきっぱりと拒否したが、勝手に載せていたのか。
仁自身はSNSはやっておらず興味もなかったから、確認していなかったが。
「……そう」
「あの、一緒に写真とってもらえませんか?」
頬を染めてふたりは言う。
仁は頬に力を入れて心の底から残念だという表情を作った。
「申し訳ないけど、そういうの今は断ってるんだ。SNSに載ると学校がうるさいからさ」
「そうですか……。あのMIKIって人は彼女ですか?」
「ううん、違うよ。友達。じゃあね」
優しい声でそう言って彼女たちに手を振り、仁は踏切に向かって歩き出した。
心の中で舌打ちをする。
週明けすぐにでも美希のアカウントから自分の写真を消させなくては。
忌々しい気持ちで電車が通り過ぎるのを睨む。
遮断機が上り、踏切を渡ると視線の向こう丘の上に学園の建物が見えた。
息苦しい屋敷を抜けてきても、あそこへ戻れば所詮は同じ世界。笑顔をうかべ、くだらない話をする。
学園へ続く歩道の真ん中で仁は足を止めた。心と身体が鉛のように重たくて、坂を上れる気がしなかった。
その時。
「あっ……!」
仁の隣で母親と手をつないでいた小学生一年生くらいの女の子がつまずいて声をあげる。幸いこけずに済んだが、鞄の中身が仁の足もとに散らばった。図書館の本ばかりだった。
「もう、気をつけなきゃ」
母親が小言を言って立ち止まる。仁に向かって頭を下げた。
「すみません」
「いえ、大丈夫です」
仁は答えて本を拾い女の子に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
恥ずかしそうに答えて女の子は本を受け取る。隣で母親が困ったように笑った。
「ありがとうございます。この子慌てん坊で」
ふたりはもう一度、仁にぺこりと頭を下げて去っていった。
本が地面にぶちまけられた光景は、少し前の登校時の出来事を彷彿とさせる。恥ずかしそうにしていた女の子が蒼の姿と重なった。
次に仁は、丘の上の学園の建物を見上げる。
今日は土曜日。寮生たちとっては貴重な自由時間だ。街へ繰り出し映画やカラオケに行く者もいる。けれどおそらく蒼は外出はしていないはず。
部屋で勉強をしているか、あるいはカメラの手入れをしているかもしれない。
静かな寮の一室で机に向かう蒼の姿を思い浮かべ、仁はすうっと息を吸う。そしてゆっくりと吐き出して、学園へ続く坂道に向かって歩きだした。
天井の高いホールのような広さの筧家の食堂にて、長いテーブルの真ん中に座り、食後のコーヒーを飲みながら祖父が機嫌よく言う。
味のしない紅茶を飲んでいた仁は、手にしていたカップを置いた。
三か月に一回、筧家の本家で開かれる一族の食事会である。筧家の長である祖父を筆頭に、二十人ほどいる一族が一同に会する場である。
ここにいるのは全員親族だが家族の集まりというよりは企業の会議のような雰囲気だ。皆その月にあった出来事を祖父に報告することになっている。祖父から尋ねられたことには、嘘偽りなく答えなくてはならない。
それは祖父の長男である父のひとり息子で、祖父のお気に入りとされている仁も例外ではない。
向かいに座る両親が少し心配そうな表情でこちらを見ているのを感じながら、仁はにっこりと笑みを浮かべた。
「貴重な経験をさせていただき感謝しています。同室の阿佐美蒼くんとは気が合って登校は一緒にしていますし、放課後は僕が勉強をおしえています。彼、先日の実力テストの結果がよくなくて先生に頼まれたんですよ」
「おお、仁にしてはやるじゃないか」
祖父が満足そうに髭を揺らした。
「その阿佐美くんというのはどこの家の子なんだ?」
「普通の一般家庭の子ですよ」
「そうか、素行は問題ないか?」
「問題ありません。どちらかというとおとなしいタイプの子です」
それどころか、学園で一番と言っていいくらい地味でクラスメイトでさえも存在を忘れていたくらいだ。
「おとなしい子か、だがそれでは仁には物足りないんじゃないか」
「そんなことは……よく知るとおもしろいところがある子ですから」
首を横に振って、仁は蒼のことを思い浮かべる。
口数が多いわけではないが、彼といてつまらないと感じたことはなかった。それどころか、当初の予想に反してこの状況を悪くないと思っている自分がいる。
仲がいいふりをしようという取引を持ちかけた時、彼が演技は苦手だと言っていた。それを仁は、断るためのでまかせだと思っていたけれど、どうやらそうではないようだ。人前で仁と話をするたびに、あたふたと挙動不審になっている。
本当のところ彼については別に演技などしなくてもそのままでもかまわない。仁の方の振る舞いは完璧なのだから、多少彼の言動が変でも、照れているか慣れていないだけだろうと周囲は受け止める。
けれど蒼の慌てる様子がおかしくて、ついつい仁は彼をからかってしまう。
『おい、ちゃんとやれマスクを奪われたいのか?』
そう囁くと、大きな目が開かれ慌ててなにかを言おうとする。真っ白い肌が赤くなるのがマスクの隙間からでもわかる。
「あら、よっぽど仲良しになったのね。仁がそんな風に笑うなんて珍しい」
向かいの席で母がにっこりと笑ってそう言った。
その言葉に、仁は驚いて瞬きをする。
自分では笑っていたつもりはなかったが、蒼とのやり取りを思い出していて無意識のうちに頬が緩んでいたのだろうか?
「まあ、気が合うならよかったじゃないか。だが、深入りはするなよ。お前はいずれ筧グループを背負って立つ人間だ。学生の間はともかくとして、社会へ出れば付き合う人間は厳選する必要がある」
祖父が釘を刺す。
「……それはもちろん」
蒼を思い出してどこか浮き立っていた気持ちが急速に冷えていくのを感じながら仁は頷いた。
「おじいさまの言うとおりにしてよかったな。本当は少し不安だったけど」
「本当ね」
両親が安堵したように笑い合っている。
仁はふたりにもにっこりと笑いかけるが、口の中に苦いなにかが広がっていくのを感じていた。
生まれてからずっと、両親と祖父、仁はこの関係を続けている。
名家の生まれだったというだけでなく起業家としても有能だった祖父の力で筧家は莫大な財力を手にした。ゆえに一族の中で誰も彼に逆らえる者はいないのだ。
だが、その長男で跡取りとして指名されている父は気が弱く祖父ほどの手腕を発揮できていない。一時は弟である叔父に跡取りの座を奪われそうになっていたという話だが、祖父は長男を差し置いて次男を跡取りに据えることを嫌がった。そして父に課した至上命題が、優秀な後継者を作ることだった。
母も祖父のその意向を知った上で選ばれた、政略結婚だったのだ。
つまり仁は、ふたりにとって今の生活を確保するための人身御供のようなもの。仁が祖父が満足する力を発揮できなければ、育てている価値がない。
幸いにして仁にはずば抜けた能力と人望があった。必要とされることは、一度聞けばすぐに頭に入るし、祖父から教わった帝王学も身についた。亡くなった祖母から受け継いだ容姿は人を惹きつける力がある。
祖父がやれやれというようにため息をついた。
「生活が少し乱れているのではないかという報告を受けた時は、どうしたものかと思ったが、まあお前なら大丈夫そうだな。だがもうしばらく寮で過ごせ。あまり出たり入ったりするのも外聞が悪いだろう」
「もちろんです。寮の生活は案外気にいているんです」
仁は頷くと、かぶせるように口を開く者がいる。
「父さん、うちの和臣も学園ではよくやっていますよ。生徒会の役員もしていますから。また成績が上がりました」
父の弟である叔父だ。彼の息子和臣も相澤学園の二年生だ。同い年だということもあって生まれた時から仁と彼はなにかと比べられている。
叔父は、和臣が仁より優秀であれば、今からで父を蹴落とせると踏んでいるようだが、今のところ和臣は祖父の納得いく成果は出せていない。
叔父の隣に座る和臣が暗い目でじっとりと仁を睨んだ。
幼い頃は仲良くなりたいと思っていたが、今はそれも諦めた。周囲から常に比べられている状況では、はじめから無理な話なのだろう。
和臣から目を逸らし、仁は心の中でため息をつく。
——いつからだろう?
常に穏やかな笑みを浮かべて、周囲が望む自分を演じるたびに、息苦しさを覚えるようになったのは。
小さな頃は何かができるたびに褒められるのが嬉しかった。
『お前が筧家の跡取りだ』と言われるのが、誇らしくてたまらなかったのに。
自分の存在意義はそれだけなのだと気がついた頃からだろうか……。
祖父と叔父のやり取りから意識を外して窓の外の空を見る。
高い天井まである繊細なデザインの窓枠がまるで牢獄のように感じられた。自分を捕えるこの屋敷から早く出たいと思うけれど、出たところでなにも変わらないのもわかっている。自分が自分である限り、牢獄はどこまでも続いていて、この息苦しさは変わらない。
けれどそういえば、と蒼は少し前のことを思い出す。
学園の旧校舎にある写真部の部室はなぜか呼吸が楽だった。普段あまりよく眠れない仁が、あの時はぐっすりと眠れたのだ。
埃っぽくて冷房の効きもよくなく、固いベンチの上だったというのに。
いやそもそも……と、仁はあの時の自分を不思議に思う。
誰かがそばにいるのに眠くなるというのが、仁にとってはあり得ないことなのだ。自分以外の人間は誰も信用していない。
けれど考えてみれば、蒼ははじめから他の人間とはまったく違っているように感じたのだ。
第一印象は、暗いやつ。
こんなやつと同室なんて最悪だと思った。ただ、だからこそ"やりやすそうだ"とも感じていた。
仲間がいないやつほど仁にとっては都合がいい。孤独な気持ちに付け込んで、うまく懐柔できれば、窮屈な寮生活から早く抜け出せる。
だが予想に反して、彼は仁を強く拒否した。
『あんただって、本性を隠してるじゃないか。バラされてもいいのかよ』
黒目がちな大きな目に睨まれたその刹那、仁の背中がぞくりとした。
名家の生まれで将来を約束された自分の周りにはいつもイエスマンしかいなかった。皆気持ち悪いくらいにニコニコして、仁に気に入られようとする。のっけから敵意を剥き出しにされたのは、生まれてはじめてだったのだ。
……不快だとは思わなかった。
むしろその逆で、もっと彼を知りたいという強い欲求に突き動かされるのを感じて、それがどういう種類の気持ちなのか深く考えることもせずに、取引を持ちかけたのだ。
とはいえ、それはあくまでも好奇心から来る気持ちのはず。必要以上にかまうのは、珍しいおもちゃで遊ぶような感覚だったはずなのに。
……なぜ自分はあの日、蒼といる時間を心地いいと感じたのだろう?
自分で自分のことがわからないのははじめてだ。
訝しむ仁のポケットで、スマホが振動する。取り出して確認すると美希だった。"会いたい"というメッセージだ。
今日はあらかじめ用事があると伝えてあるが、それでも諦められないのだろう。ここのところ蒼を言い訳にして片っ端から誘いを断っていたから、フラストレーションが溜まっているのかもしれない。一度だけ"遊んだ"相手だが最近の行動は目に余る。自分はけして恋人にはならないとはじめに約束したことを忘れているようだ。
「どうした仁、急用か?」
祖父に尋ねられて、仁は少し考える。しばらくして口を開いた。
「急用ではありませんが。ルームメイトの彼からです。今部屋でひとりで自習をしているようですが、わからないところがあるみたいで。土曜日は落ち着いて勉強をおしえてあげられる貴重な時間ですから、できれば直接答えてあげたいのですが」
「ああ、それならそうしてやれ」
「ありがとうございます。では、失礼します」
仁はこれ幸いと、両親と叔父家族に会釈をして席を立ち、食堂を出た。
「仁さま、寮に戻られるなら、車を手配いたします」
長い廊下を玄関に向かって歩いていると、使用人が仁の後をついてきた。
「いいよべつに、歩いて帰れる距離だから」
「ですが、それでは私が叱られます」
「じゃあ、カモフラージュにからの車を走らせたら? 俺は歩いて帰るから」
そう言い捨てて、返事を聞かずに屋敷を出た。足早に玄関ポーチを抜けて前の通りへ出て空を見上げる。少しだけ呼吸が楽になる。
筧家の屋敷は、相澤学園と相対する位置の高台にある。学園に向かうにはいったん坂を下りて街の中央を走る線路を超えて向こう側の丘まで上る必要がある。
ジャケットのポケットに手を入れて仁は歩きだす。屋敷から離れるにつれ、呼吸が楽になっていくのを感じた。
とはいえ、また学園に帰れば同じこと。
笑顔の仮面を顔に貼り付けなくてはならない。
坂を下りて、駅に近づくにつれだんだんと人が多くなる。仁を見て振り返る人がいることに気がついて、仁は忌々しい気持ちになった。
この街では、筧家の人間は顔が知られている。それでなくても祖母譲りのこの容姿は人目を引くのだ。
生まれたときから死ぬまでの人生のレールがあらかじめ敷かれている立場にいて、常に注目されている人生を送ってきた。こうやって見られるのは慣れているが、時々どうにも我慢できずに、すべてを壊したくなることがある。
ジュニアハイスクール時代をすごしたロサンジェルスから高校進学のために帰国した頃、頻繁に女と遊んでいた時期があった。
行為自体を楽しいとは思わなかったけれど、祖父や両親の期待する自分ではない時間を過ごすことが、心地よかったのだ。でもそれもすぐにつまらなくなっていった。彼女たちからもまた、"完璧な自分"を求められていると気がついたからだ。
もうとっくの昔に女と遊ぶのは止めにしたにもかかわらず、未だにあっちこっちで遊んでいると言われている。おそらくは一度関係を持った者たちが、まだ続いているように振る舞っているからだ。
彼女たちにとっては事実はともかくとして、仁と会っているということがステイタスになる。
女と会わなくなってからの仁は、毎日夜の街を彷徨うようになった。フードを深くかぶり顔を隠せば誰も自分が筧仁だとわからない。皆が自分を無視して通り過ぎる。それが最高に心地いい。微笑みを浮かべて優しい言葉を吐かなくても息をしていられる……。
駅のロータリーに差し掛かると、駐輪場で話をしている女子高生ふたりがこちらをちらちらと見ているのに気がついた。隣の公立高校の制服を着ているから直接話をしたことはないはずだが。
「あの……! もしかしてジンさん……ですか?」
内心でうんざりとしながら、仁は足を止めてにっこりとした。
「そうだけど。どっかで?」
「この前MIKIって人のSNSに出てませんでした? すごいカッコいいって拡散されてたから覚えてて」
そういえば少し前に美希が仁と撮った写真をアップしていいかと何度か聞かれたことを思い出す。きつい言い方ではないけれどきっぱりと拒否したが、勝手に載せていたのか。
仁自身はSNSはやっておらず興味もなかったから、確認していなかったが。
「……そう」
「あの、一緒に写真とってもらえませんか?」
頬を染めてふたりは言う。
仁は頬に力を入れて心の底から残念だという表情を作った。
「申し訳ないけど、そういうの今は断ってるんだ。SNSに載ると学校がうるさいからさ」
「そうですか……。あのMIKIって人は彼女ですか?」
「ううん、違うよ。友達。じゃあね」
優しい声でそう言って彼女たちに手を振り、仁は踏切に向かって歩き出した。
心の中で舌打ちをする。
週明けすぐにでも美希のアカウントから自分の写真を消させなくては。
忌々しい気持ちで電車が通り過ぎるのを睨む。
遮断機が上り、踏切を渡ると視線の向こう丘の上に学園の建物が見えた。
息苦しい屋敷を抜けてきても、あそこへ戻れば所詮は同じ世界。笑顔をうかべ、くだらない話をする。
学園へ続く歩道の真ん中で仁は足を止めた。心と身体が鉛のように重たくて、坂を上れる気がしなかった。
その時。
「あっ……!」
仁の隣で母親と手をつないでいた小学生一年生くらいの女の子がつまずいて声をあげる。幸いこけずに済んだが、鞄の中身が仁の足もとに散らばった。図書館の本ばかりだった。
「もう、気をつけなきゃ」
母親が小言を言って立ち止まる。仁に向かって頭を下げた。
「すみません」
「いえ、大丈夫です」
仁は答えて本を拾い女の子に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
恥ずかしそうに答えて女の子は本を受け取る。隣で母親が困ったように笑った。
「ありがとうございます。この子慌てん坊で」
ふたりはもう一度、仁にぺこりと頭を下げて去っていった。
本が地面にぶちまけられた光景は、少し前の登校時の出来事を彷彿とさせる。恥ずかしそうにしていた女の子が蒼の姿と重なった。
次に仁は、丘の上の学園の建物を見上げる。
今日は土曜日。寮生たちとっては貴重な自由時間だ。街へ繰り出し映画やカラオケに行く者もいる。けれどおそらく蒼は外出はしていないはず。
部屋で勉強をしているか、あるいはカメラの手入れをしているかもしれない。
静かな寮の一室で机に向かう蒼の姿を思い浮かべ、仁はすうっと息を吸う。そしてゆっくりと吐き出して、学園へ続く坂道に向かって歩きだした。