人生はどうしてこんなに受難に満ちているのだろう。残暑が厳しい朝日を浴びながら、寮から校舎までの道のりを歩く蒼は自分の運命を呪っていた。
「ねえ、仁。今日私の家に泊まりにこない? 親が出張でいないんだ」
「え、ちょっと美希ずるい。ダメだよ仁をひとりじめは! ねえ仁、私とカラオケ行く約束はいつにする?」
 きゃあきゃあとうるさい黄色い声にうんざりとしながら、足取り重く両腕に三年女子をくっつけている仁の後ろを歩いているからだ。
「嬉しいお誘いですけど、先輩受験はいいんですか? 内部推薦もやばいってこの前言ってませんでした?」
「仁と遊ぶのは別。別の日にがんばる。仁が泊まってくれたら私がんばれるから!」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですが」
 にこにこと笑いながら答える仁に、蒼は反吐が出る思いがする。いったいどんな思考をしていれば本性をここまで隠せるのだろう。
 登校中の他の生徒の視線を感じて、居心地の悪い思いをしながら、蒼は心の中でため息をついた。
 仁と同室になって十日が過ぎた。
 仁と兄弟のように仲のいいふりをするという生活は、想像以上に過酷だった。彼は寮の中だけでなく校舎でも蒼をかまうからだ。
『じいさんと通じているのは教師なんだ。教師たちに俺と蒼が仲よくやっているところを見せないと意味がない』
 その一環として、毎朝一緒に登校することになっている。
 どうせ行く場所は同じなんだからべつになんでもないと彼は言うが、蒼にとってはそんな簡単な話ではない。
 彼が蒼とふたりきりで登校するのを周りが放っておくわけがなく、毎朝寮の門のところで取り巻きたちが待っている。そしてこうやって彼女たちを連れて一緒に登校することになるのだ。
 声が大きくきゃあきゃあと騒ぐから、自然と人目につきやすい。誰からも気にも止められず林の木より存在感がなかった少し前までの登校時間とは大違いだ。
「ただ残念ですけど、今日は蒼の勉強をみる約束をしているんです。彼、夏休み明けの実力テストの結果が芳しくなくて。先生に頼まれたので」
 仁が蒼を振り返り、申し訳なさそうに彼女たちからの誘いを断った。
「えーそんなぁ」
「仁、最近そればっかり」
 彼女たちは恨めしそうにチラリと蒼を睨んだ。
 彼がこうやって、蒼を理由に彼女たちとの遊びの誘いを断るのは、もう何度目かになる。そもそも仁が彼女たちの誘いに乗っているところは、この十日間では一度もなかった。そのたびに蒼を言い訳にするのだから彼女たちの不満はつのるばかりである。
「そんなにこの子の面倒を見なくちゃならないの?」
 さっき泊まりを断られた方の女子、美希が、わざとらしく頬を膨らませる。
 仁が立ち止まり、さりげなく彼女たちの腕を解く。そしてつられて足を止めた蒼の方へ歩み寄り肩を抱いてにっこりと笑った。
「ルームメイトだからね。もう彼は僕の弟だ」
 唐突な彼の行動に瞬きを繰り返し、蒼はすぐ近くにある整った横顔と極上の笑みを見上げる。少し茶色い彼の髪に朝日が透けて綺麗だった。
 遠くから見ても完璧だが、近くで見てもまったくその印象が崩れないのはさすがだ。女子のみならず男子にも人気があるのも納得だ。
 でも中身はその真逆。
 人の弱みにつけ込んで、無理やり言うことを聞かせる悪魔なのだと蒼は自分に言い聞かせ、不覚にもドキッとしてしまった自分を戒めた。
「ね? 蒼」
 王子さまスマイルで仁は蒼に同意を求める。そして蒼の耳に唇を寄せて囁いた。
「ほら、ちゃんとしろって。ここでマスクを奪われたいのか?」
 その言葉に蒼は、慌てて口を開いた。
「え⁉︎ えーっと……」
 その拍子になぜかゴフッと咽せてしまう。ゴホゴホとしているとファスナーが半分開いていた鞄から、ペンケースが飛び出して地面に落ちた。
「あ!」
 拾おうとして手を伸ばし身体を傾けると、さらに教科書がばさばさと落ちていく。地面に荷物をぶちまけてしまった。
「す、すみません……」
 気まずい思いでそう言うと、仁の口元が少し緩み、笑いを堪えているような表情になった。
 一方であとのふたりはしらけたような表情である。蒼がぶちまけた荷物を見て美紀が呟いた。
「ださ……」
「そんなこと言わないで。蒼はこういうちょっと抜けてるところが可愛いんだよ」
 仁がさりげなくフォローをして、散らばった教科書とペンケースを拾い集めた。
「はい、蒼」
「……ありがとうございます」
 蒼が受け取る横で、女子ふたりがばつが悪そうな表情になった。
「行こう、遅れるよ」
 仁が言ってまた一行は歩き出す。
 前を行く三人の背中を見つめながら、蒼はまたやってしまったとため息をついた。
 しぶしぶではあるものの兄弟のように仲のいいふりをするという取引はした。でもやっぱり演技をするのは苦手で、どうも自然にふるまえているとは言いがたい。さっきみたいに仁に突かれるまで反応できないことが多かった。しかも今みたいに失敗することもある。
 ——だから嫌だと言ったんだ。
 一方で、仁の方はさすがだった。完璧にオンとオフを切り替えて、外では蒼を大切なルームメイトとして接している。
 でも不思議なのは、彼がそんな蒼に対して本気で怒っているようではないことだ。今みたいに"ちゃんとやれ"と言うことはあるけれど、失敗しても後からそれについて文句を言われたりしたことは一度もない。どちらかというと今みたいにおもしろがっていることが多かった。
 弱みを握られているのだから、ほかにも理不尽な要求があるかもしれないと身構えていたが、そんなこともまったくない。
 全校生徒にじろじろと見られながら昇降口につくと、ようやく彼らとはお別れだ。
「じゃあね、蒼。また放課後に」
 仁がにこやかに手を振って、二年の教室がある東の方へ向かっていく。美希たちも名残惜しそうに階段を上っていった。
 蒼はホッとして、靴を下駄箱へ入れる。廊下には、登校中の生徒に向かって大きな声で挨拶をしている教師が立っていた。
「おはようございます」
 ぺこりと頭を下げて蒼は前を通り過ぎようとする。
「おい、マスクのお前、一年だな? 挨拶が聞こえなかったぞ」
 教師が廊下に響き渡る大きな声を出した。蒼はドキッとして足を止める。この場でマスクをしているのは自分だけだ。
 ジャージ姿のその体育教師は生活指導も兼ねていて、理不尽に厳しいので生徒たちから恐れられている存在だ。目をつけられたらやっかいだ。
「すみません、おはようございます」
 蒼はさっきよりもはっきりと挨拶をした。
 だがそれで彼は納得しなかった。
「お前、具合が悪いのか?」
「……いえ、大丈夫です」
「なら、そのマスクを取れ。そんなマスクをしてるから声が聞こえづらいんだ」
 その言葉に、蒼は言葉に詰まって黙り込んだ。頬がカッと熱くなり、頭の中はパニックだ。
 廊下を通り過ぎる生徒たちが、チラチラとこちらを見ている。こんなところでマスクを外せるわけがない。かと言って『外したくない』と主張しても教師は納得しないだろう。彼は、どんな時も生徒を従わせなくては気が済まない。
「おい、聞いてるのか! 早くしろ。予鈴が鳴るぞ」
 背中を冷や汗が伝う。このままでは無理やり取らされることになる。いや、力ずくで奪われる可能性だってある。そしたらガタイのいい体育教師に蒼が敵うはずがない。
 八方塞がりの状況に蒼が目を閉じた時。
「マスクの着用を禁止する校則はないはずですよ、先生」
 涼やかな声がふたりのやり取りに割って入る。
 驚いて目を開くと、教師から蒼を庇うように仁が立っていた。
 教師が不愉快そうに眉を寄せた。
「体調に問題がないのに、マスクをしてるのがおかしいだろう」
「それは先生の価値観ですよね。それを生徒に押し付けるのはよくないと思います」
「価値観などという大袈裟なものではない。常識だ」
 教師が苦々しい表情になった。
「だからそれを常識だと思うのが先生の価値観だと言っているのです。マスクは体調が悪い時にだけするものじゃないという考え方もありますから」
 皆が恐れる相手なのにまったく怯む様子もなく仁は毅然として言い返す。
 周りの生徒たちが遠巻きに成り行きを見守っている。
「これ以上、校則にない先生の中の常識で彼のマスクにこだわるなら、学園長にお願いして、正式に話し合いの場を持ちましょう」
 その内容に、教師の方が少し怯んだ。そもそもが理不尽な要求なのだ。正式に話し合いをして勝てる自信がないのだろう。
「……筧こそ、なぜこの一年にこだわるんだ」
 めんどくさそうにため息をついた。どんな理不尽な話でも仁が関わらなければ、彼は生徒を従わせることができる。実際ずっとそうしていて、それに仁が口出ししているという話は聞いたことがない。
「あれ? 先生、ご存知ないんですか? 彼、僕のルームメイトなんですよ。つまり学園内では僕たちは兄弟なんです。彼のマスクに口出しするなら、これからは僕を通してからにしてください」
 爽やかに仁が答え、教師は頬を歪めた時、廊下に予鈴が響き渡る。助かったという表情になったのは教師の方だった。こちらに向かって顎をしゃくる。
「まぁ今日はいい。行け、予鈴だ。おい、お前たちもさっさと教室へ行け!」
 周りで足を止めて見ていた生徒たちにそう言って職員室の方向へ去っていく。
 蒼はホッと息を吐いた。
 助かった……。
 心の底から安堵する蒼の肩をポンポンと叩いてから、仁も廊下を歩いていく。ハッとして蒼は彼の背中に声をかける。
「ありがとう……ございました」
 仁はこちらを振り返らずに手をひらひらとさせた。
 背の高いその背中に蒼の鼓動がトクンと小さく音を立てた。
 彼が自分をかばうのは、蒼がここでマスクを取れば自分が蒼を脅せなくなるからだ。蒼自身のためではない。それはわかっているけれど、それでも絶体絶命のピンチから救ってもらったのは事実だ。
 教室へ入り自席に座ると、すぐに三人の女子に囲まれる。
「おはよーマスクくん」
「ねえ、今日も仁先輩と登校したんだね。こっから見えてたよ。肩を抱かれてたじゃん。羨ましい~」
 この三人はクラスの中でも、以前から仁を見ては騒いでいた面子だ。蒼が仁のルームメイトになってからは、毎日毎日蒼が登校するとこうやって蒼を取り囲む。仁の情報を聞き出そうとするのだ。
「ねえねえ、今日こそ仁先輩の寝顔撮ってきてくれたよね?」
 その問いかけに、蒼はため息をついた。
「……そんなことできるわけないだろ」
 これも毎日のことだった。
「いいじゃん別に減るもんじゃなし。ねーお願い! 噂では仁先輩と遊んだ子はいるけど寝てるところって誰も見たことがないんだって!」
「寝顔見れたら私たちがはじめてなんだよ! きっとすっごくきれいだよね」
「ねー! 見たーい!」
 蒼そっちのけで盛り上がっているところで本鈴が鳴る。三人は「明日は絶対だよ」と勝手な約束を押し付けて散っていった。
 毎朝のこのやり取りはいつになったら終わるのかと、うんざりしながら蒼は鞄から教科書を出した。
 そもそも仁の寝顔を撮るなんて蒼にはできないことのだ。
 ルームメイトになったあの日から、今日まで彼はあの部屋で夜を過ごしてはいない。毎夜ふらりとどこかへ出かけてしまい、帰ってくるのは朝方だ。蒼も彼が寝ているところを見たことがなかった。
 就寝前の点呼の際にいなければ罰を受ける決まりになっているが、三年の寮長が先生に報告している様子はない。
 おおかた、たくさんいる女友達のところにでも行っているのだろう。
 さっきは美希の誘いを断っていたけれど、仁が頼めば喜んで彼を泊める相手など掃いて捨てるほどいるだろうから。
 今朝のように女子を腕にぶら下げて夜の街を歩くところが目に浮かぶ。
 ……と、そこでどうしてか蒼の胸がモヤっとする。
 そしてそのことを不思議に思った。
 なぜだろう?
 仁が帰ってこないから今のところ夜はひとり部屋だった時とあまり変わらずに過ごせている。その方がいいに決まっているというのに。
「はい、おはよう。朝の会はじめるぞ〜立ってるやつ座れー」
 教卓に立つ担任教師が皆に呼びかけているを聞きながら、蒼はさっき仁が拾ってくれたペンケースをじっと見る。
 なぜこんな気持ちになったのか、自分の心の中を探るけれど、いつまで経っても答えには辿りつかなかった。