音を立てて閉まるドアを、蒼はしばらく見つめていたが、ふーっと長い息を吐いてベッドにどさっと倒れ込んだ。
世界がひっくり返ったような感覚だった。
つい数時間前、終礼が鳴るまでは二学期も一学期と同じような静かな学園生活になると信じていたのに。
「これじゃ、ここに来た意味がないじゃないか」
天井を睨んで呟いた。
手にしている、仁から奪い返した黒いマスクをじっと見つめる。この学園に来てから、人にじっと見られている状態でこのマスクを取ったのははじめてだ。
誰もいないこの部屋の中でだけ、気兼ねなくマスクを外すことができたのに。
もちろん二年生と同室になる決まりは入学前からわかっていた。たまたまひとりで使えていたのはただのラッキーだ。だから誰かと同室になるのは仕方がない。
でもそれがよりによって仁とだなんて。最悪の一言だ。
人あたりのいい彼は、女子のみならず男子にも人気がある。ほかの寮生からしたら羨ましいと思われるのだろう。
でも蒼にとってはどんな理由であれ自分に注目が集まるのはなにより嫌なことなのだ。恐怖といってもいいくらいに……。
目を閉じると、脳裏に中学時代の忌まわしい記憶が蘇った。
蒼がマスクとつけないと外に出られなくなったのは、中二の秋の出来事がきっかけだ。
もともと、人に自分の気持ちを伝えることが苦手で、自ら誰かに話しかけることすらほとんどない蒼にも、その出来事が起こるまでは友人といえる存在の人物が何人かいた。家が近所で幼稚園から一緒に過ごした佐藤良樹のおかげだった。
良樹は、明るく活発でなにごとにも積極的、何もかも蒼とは正反対の性格だったがどうしてか気が合って、蒼の手を引いて人の輪の中につれていってくれたのだ。
本当のところ、蒼にとって良樹以外の友人と一緒にいることはあまり好きではなかったが、彼と一緒にいられるのは嬉しかった。
——違和感を持ちはじめたのは、中学に入った頃。
友人たちの和の中にいることに苦痛を感じはじめたのだ。正確に言うと年齢が上がるにつれて増えてきた女子の話にまったく共感できず話を合わせるのが難しくなっていた。
適当に合わせることすらできなくて、その話題が出るとトイレに行ったり用事を思い出したふりをしてさりげなくその場を離れるようにしていた。
ただその時は自分の中の違和感の正体を見つけることはできなかった。いずれ成長すれば興味を持てるようになるかもしれないとも思っていた。
だがそうではなく、自分は彼らと決定的に違うのだと気づかされたのが、中二の秋の出来事だ。
その日は、体育祭に向けて放課後も学校全体が準備の真っ最中、塾に行くため一足先に下校することになっていた蒼は、誰もいない教室でひとりたたずんでいた。視線の先には良樹の机。体操服に着替える際に脱いだ制服の白シャツが無造作に置かれていた。
彼はこの年、学年の応援団長を務めていて放課後の練習には一番に行く必要があったからジャージ着替えた後、たたむ時間も惜しかったのだろう。
なんのへんてつもないその光景が、妙に気になったのだ。着替えが置いてあるのは良樹の机だけではない。それなのにどうしてか自分の中のなにかが引きつけられるのを感じていた。
その日の休み時間に、クラスメイトの男子がふざけて言っていた、ある言葉が頭に浮かんだ。
『女子のシャツっていい匂いがするよな』
その時はまったく共感できなかった。確かにあまり汗臭くはないけれど、妙に甘ったるくて、好きじゃない。不快感を覚えることもあるくらいだ。
……でもそういえば、良樹の匂いは嫌いじゃない。
『おい、蒼ぼーっとしてないで行くぞ』
そう言っていつも自分を引っ張っていってくれる彼が、蒼の肩を叩く時にふわりと感じる彼の香りが好きだった。
その香りならば『いい匂い』と感じるのだけれど……。
——頭の中が真っ白だった。後から考えても、その時自分なにを思っていたのか思い出せない。気がついた時には目の前のシャツを手に取っていたのだ。
最悪だったのは、その光景をたまたま通りかかった隣のクラスの生徒に目撃されてしまったこと。
"阿佐美蒼は、佐藤良樹のことが、恋愛的な意味で好き"
良樹が女子に人気だったのもあって、噂はあっという間に広がった。
その騒動以来、良樹とは一度も口を聞いていない。いびつな蒼の初恋は気がついたと同時に終わりを迎え、からかわれ嘲笑される日々がはじまったのだ。
『お前、男が好きだったのか』
『女みたいな顔してるもんな』
『もう良樹に告白したのかよ』
そうして蒼は、顔を隠すためのマスクをしないと外へ出られなくなったのだ。
人と会うのが怖かった。自分の中の異質な部分を見透かされるような気分になるからだ。なにより、親友だと言ってくれていた良樹に合わせる顔がなかった。
だから蒼は高校はそれまでの人間関係を断ち切るため、地元から遠い相澤学園を選んだのだ。寮に入れば家が近い良樹と顔を合わせる可能性は少なくなる。
それでも、自分の中の異質な部分は変わらないけれど……。
ゆっくりと目を開き、蒼はふうっと息を吐く。
ここでは過去の出来事については誰にも知られていないけれど、とにかく人と関わるのが怖かった。なんの拍子に"あの自分"が出てくるかわからない。
——筧仁は、本能的に危険な人物だと感じていた。
明るくて出来がよく皆の人気者というポジションは蒼とは正反対。だが蒼は自分がそれを眩しく感じているのを知っている。
そういう人物と関わってまた不毛な恋をすることだけはなんとしても避けたかった。
仁は、良樹とは違い、裏の顔は最低だ。それを知った以上、そんな事態ならないことだけは確実だが、それでもこれからはじまる彼との生活を思うと気分は最悪だった。
「くそっ!」
悪態をついて、蒼はゴロンと寝返りを打った。
世界がひっくり返ったような感覚だった。
つい数時間前、終礼が鳴るまでは二学期も一学期と同じような静かな学園生活になると信じていたのに。
「これじゃ、ここに来た意味がないじゃないか」
天井を睨んで呟いた。
手にしている、仁から奪い返した黒いマスクをじっと見つめる。この学園に来てから、人にじっと見られている状態でこのマスクを取ったのははじめてだ。
誰もいないこの部屋の中でだけ、気兼ねなくマスクを外すことができたのに。
もちろん二年生と同室になる決まりは入学前からわかっていた。たまたまひとりで使えていたのはただのラッキーだ。だから誰かと同室になるのは仕方がない。
でもそれがよりによって仁とだなんて。最悪の一言だ。
人あたりのいい彼は、女子のみならず男子にも人気がある。ほかの寮生からしたら羨ましいと思われるのだろう。
でも蒼にとってはどんな理由であれ自分に注目が集まるのはなにより嫌なことなのだ。恐怖といってもいいくらいに……。
目を閉じると、脳裏に中学時代の忌まわしい記憶が蘇った。
蒼がマスクとつけないと外に出られなくなったのは、中二の秋の出来事がきっかけだ。
もともと、人に自分の気持ちを伝えることが苦手で、自ら誰かに話しかけることすらほとんどない蒼にも、その出来事が起こるまでは友人といえる存在の人物が何人かいた。家が近所で幼稚園から一緒に過ごした佐藤良樹のおかげだった。
良樹は、明るく活発でなにごとにも積極的、何もかも蒼とは正反対の性格だったがどうしてか気が合って、蒼の手を引いて人の輪の中につれていってくれたのだ。
本当のところ、蒼にとって良樹以外の友人と一緒にいることはあまり好きではなかったが、彼と一緒にいられるのは嬉しかった。
——違和感を持ちはじめたのは、中学に入った頃。
友人たちの和の中にいることに苦痛を感じはじめたのだ。正確に言うと年齢が上がるにつれて増えてきた女子の話にまったく共感できず話を合わせるのが難しくなっていた。
適当に合わせることすらできなくて、その話題が出るとトイレに行ったり用事を思い出したふりをしてさりげなくその場を離れるようにしていた。
ただその時は自分の中の違和感の正体を見つけることはできなかった。いずれ成長すれば興味を持てるようになるかもしれないとも思っていた。
だがそうではなく、自分は彼らと決定的に違うのだと気づかされたのが、中二の秋の出来事だ。
その日は、体育祭に向けて放課後も学校全体が準備の真っ最中、塾に行くため一足先に下校することになっていた蒼は、誰もいない教室でひとりたたずんでいた。視線の先には良樹の机。体操服に着替える際に脱いだ制服の白シャツが無造作に置かれていた。
彼はこの年、学年の応援団長を務めていて放課後の練習には一番に行く必要があったからジャージ着替えた後、たたむ時間も惜しかったのだろう。
なんのへんてつもないその光景が、妙に気になったのだ。着替えが置いてあるのは良樹の机だけではない。それなのにどうしてか自分の中のなにかが引きつけられるのを感じていた。
その日の休み時間に、クラスメイトの男子がふざけて言っていた、ある言葉が頭に浮かんだ。
『女子のシャツっていい匂いがするよな』
その時はまったく共感できなかった。確かにあまり汗臭くはないけれど、妙に甘ったるくて、好きじゃない。不快感を覚えることもあるくらいだ。
……でもそういえば、良樹の匂いは嫌いじゃない。
『おい、蒼ぼーっとしてないで行くぞ』
そう言っていつも自分を引っ張っていってくれる彼が、蒼の肩を叩く時にふわりと感じる彼の香りが好きだった。
その香りならば『いい匂い』と感じるのだけれど……。
——頭の中が真っ白だった。後から考えても、その時自分なにを思っていたのか思い出せない。気がついた時には目の前のシャツを手に取っていたのだ。
最悪だったのは、その光景をたまたま通りかかった隣のクラスの生徒に目撃されてしまったこと。
"阿佐美蒼は、佐藤良樹のことが、恋愛的な意味で好き"
良樹が女子に人気だったのもあって、噂はあっという間に広がった。
その騒動以来、良樹とは一度も口を聞いていない。いびつな蒼の初恋は気がついたと同時に終わりを迎え、からかわれ嘲笑される日々がはじまったのだ。
『お前、男が好きだったのか』
『女みたいな顔してるもんな』
『もう良樹に告白したのかよ』
そうして蒼は、顔を隠すためのマスクをしないと外へ出られなくなったのだ。
人と会うのが怖かった。自分の中の異質な部分を見透かされるような気分になるからだ。なにより、親友だと言ってくれていた良樹に合わせる顔がなかった。
だから蒼は高校はそれまでの人間関係を断ち切るため、地元から遠い相澤学園を選んだのだ。寮に入れば家が近い良樹と顔を合わせる可能性は少なくなる。
それでも、自分の中の異質な部分は変わらないけれど……。
ゆっくりと目を開き、蒼はふうっと息を吐く。
ここでは過去の出来事については誰にも知られていないけれど、とにかく人と関わるのが怖かった。なんの拍子に"あの自分"が出てくるかわからない。
——筧仁は、本能的に危険な人物だと感じていた。
明るくて出来がよく皆の人気者というポジションは蒼とは正反対。だが蒼は自分がそれを眩しく感じているのを知っている。
そういう人物と関わってまた不毛な恋をすることだけはなんとしても避けたかった。
仁は、良樹とは違い、裏の顔は最低だ。それを知った以上、そんな事態ならないことだけは確実だが、それでもこれからはじまる彼との生活を思うと気分は最悪だった。
「くそっ!」
悪態をついて、蒼はゴロンと寝返りを打った。