放課後、柔らかい日差しが差し込む旧校舎の部室で、いつものように仁が窓辺でのベンチで昼寝をしている。それを横目に蒼は中央の机に座りパソコンで写真のデータの整理をしていた。いつもと違うのは、蒼の隣にクラスメイトの結城という男子生徒がいることだ。彼は蒼にアルバムの作り方を教わるためにやってきた。
「このツールを使えばそれなりのものはできるはずだよ。こだわるのならこっちかな。でもこれは値段が高くなるし」
蒼がひとつひとつ説明するのを、彼は熱心に聞いていた。
今日の午後、教室で声をかけられたのである。学園際の写真係だった彼は、当日に撮った写真をアルバムにしなくてはならないのだという。けれどパソコンがあまり得意ではない。蒼が写真に詳しいと知って助けを求めたというわけだ。
『嫌じゃなければ、いろいろ教えてほしいんだけど……』
そう声をかけてきた時に、必要以上に遠慮がちだったのは、蒼がカメラをやっていると知ったきっかけが美希たちの事件だったからだろう。心底申し訳なさそうでありながら、それでも頼むしかないという様子を見て蒼は引き受けることにした。
そしてさっそくパソコンがある写真部で作業することになったのである。
もちろん事前に仁の了承は得ている。いや本来彼は写真部でもなんでもなのだから、了承などいらないのだが、念のためである。
「じゃあこっちのソフトにしようかな。実行委員から許可をもらっている予算とも合うし」
結城が決めたソフトを蒼はクリックした。
「了解。はじめは全部のデータをアップロードすれば大体は振り分けてくれるから。その後、微調整すればいい」
蒼の説明に結城はため息をついた。
「微調整か……これが難しいんだよな。誰と誰が写ってるとか、写ってないとか後でいろいろ言われないようにしないと」
肩を落とす結城に蒼は同情的な気持ちになった。確かにいろいろ難しそうだ。
「じゃあ、このソフトを使って一応全員均等に割り振られるようにしてみたら」
そう提案すると、彼は助かったという表情になった。
「そんなのあるの? それいいね」
「もちろん完璧じゃないけどね。手動でやるよりは断然いいはず。何パターンか作って担任と実行委員と共有したら?」
そんなやり取りをしているうちに少しずつアルバムができあがる。
結城が身体を伸ばしながら嬉しそうにした。
「あー助かった! ありがとう、阿佐美くん。もっと早く相談すればよかった。この借りは必ず返すから!」
「いいよ、このくらい。たいしたことじゃないし」
写真部の蒼としてはなんてことない作業だ。
「いや本当に助かったからさ。そりゃ、阿佐美にとってはたいしたことないと思うけど、俺こういうの苦手だから。それなのに実行委員にはせっつかれるし」
本当に困っていたのだろう。本心からそう言っているようだった。
「阿佐美くんって話してみると意外と普通なんだな」
その言葉に蒼はドキッとする。美希たちの事件を思い出すような言葉だ。
「いや、変な言い方して悪い。嫌な意味じゃなくて、入学してからずっと誰とも話したくないオーラ出してたじゃん? それなのに話しかけてみれば優しいじゃんって意味。面倒くさいって断られるかと思ってたからさ」
彼がそう思うのは当然だ。誰とも関わりたくないと、蒼が周囲とのかかわりを拒否していたのは事実なのだから。
「説明もわかりやすかったし、これからはもっと普通に話そって思った」
にかっと笑って結城が言った。
「あ、でも迷惑か?」
くったくのない笑顔に蒼は思わず笑みを浮かべた。
「いや、大丈夫」
自然とそんな言葉が出た。
「おーやった!」
結城がそう言って蒼の肩を抱いた。
——その時。
バンッという音がしてふたりは動きを止めて音のする方を見る。窓辺の仁のそばにある資料が崩れたようだ。寝ているはずの仁が肘をついてこちらを見ていた。
「あ、うるさかったですか?」
話し声がうるさくて眠れなかったのだろうかと蒼は思う。
「いや大丈夫だよ」
そう言って仁は起き上がりベンチに座る。そして窓枠に肘をついて蒼の隣の結城をじっと見た。
するとどうしてか、結城が居心地悪そうにそわそわとする。なにかを思い出したように声をあげた。
「あ! えーっと、の、残りはうちでやろうかな……。このサイトにアクセスすればどこからでもできるんだよな」
あと少しで完成するというのに、そんなことを言う。蒼は首を傾げた。
「ああ、まあ。さっき設定したパスワードで入れるはず。でもあとちょっとだからやっていけばいいのに」
「いや! もう大丈夫。これ以上は邪魔に……いや、阿佐美くんの写真部の活動もあるだろうし」
蒼の活動がある言いながら、なぜか彼は仁をちらちらと見ている。急にどうしたのだろうと蒼は不思議には思うが、かといって無理に引き留める理由もない。うなずいてサイトから出た。
「じゃ、じゃあね」
そう言って部屋を出ようとする結城を、仁が呼び止める。
「あ、結城くん」
結城がぎくっと動きを止めて振り返った。
「……はい」
「これからも蒼のことよろしく」
怖いくらいににっこり笑って仁が言った。
「はい、こちらこそよろしくお願いします……」
なぜか少しテンションがさがった様子で結城は部屋を出ていった。
ドアが静かに閉まるのを待ってから蒼は仁の方を振り返った。
「よろしくって、なんか俺、子供みたいじゃないですか」
友だちになれそうな相手によろしくと挨拶するなんて、これじゃまるで仁は蒼の保護者みたいだ。
「そんなことしてもらわなくても自分で自分の付き合う相手くらい決めますよ」
仁が肩をすくめた。
「念のためだ」
「念のため?」
意味がわからなくて首を傾げると、仁がはーっとため息をついた。
「蒼、お前、抜けてるだけじゃなくて鈍いんだな」
「鈍い?」
なにを言っているのかさっぱりわからなかった。
すると仁が立ち上がり蒼のところへやってくる。鋭い視線で蒼を見ながら、パソコンが置いてある大きな机に蒼を取り囲むように両手をついた。背の高い仁の腕に小柄な蒼はすっぽりと収まった。
いきなりの急接近とどこか不穏な彼の様子に蒼の胸がドキッとした。
「お前さ、しょっちゅう、今どういう状況かを忘れるよな」
少し茶色い綺麗な瞳が蒼を見つめている。
「どういう状況って……」
「俺はお前を好きだって言ってんの。目の前で他の男といちゃいちゃされて、黙っていられるわけないだろ」
「いっ……ちゃいちゃなんてしてません!」
思いがけない仁の言葉に、蒼は目を剥く。まさか彼がそんな風に自分たちを見ているとは思わなかった。けれどそれを聞くとさっきのやり取りの意味がわかる。
つまりは仁は結城を牽制したということか。だから結城はあんなに焦っていたというわけだ。
「た、ただのクラスメイトですよ。今日はじめて話したくらいなのに」
「でも向こうはずいぶん嬉しそうだったぜ。蒼ってマスクを取るとかわいいだけじゃなくて、話してみるといいやつなんだ。普段とのギャップにやられるんだよ」
仁がぶつぶつと不機嫌に言いながら手を伸ばす。あごを掴まれて、蒼は目を見開いた。
「せんぱ……」
「蒼、俺はお前の答えが出るまで待つつもりだけど、その間、よそ見をするのは禁止だ。俺のことだけ考えてろ」
仁らしい一方的な言葉に、蒼の背中がぞくりとする。剥き出しの独占欲に蒼の身体が熱くなった。
「クラスのやつらと話しをするのはいいけど、お前が今見てていいのは俺だけだ。わかったか?」
「……はい」
火照る頬を持て余しながら蒼が素直にうなずくと、彼は満足そうにニッっと笑った。
「よし」
その笑みに蒼の心は惹きつけられる。
一方で、あることが頭に浮かんで蒼の胸がもやっとした。昼間に女子と楽しそうに話をしていた彼の姿だ。上目遣いにじっと見ると顎を掴んだまま、彼は首を傾げた。
「なんだよ」
「先輩だって他の人と楽しく話をしているじゃないですか。最近は俺以外の人の前でも、そんなに猫をかぶっていないでしょう」
ぷいっと横を向いて昼間のことを思い出しながらそう言うと、顎を掴んでいた手をそのままに仁が意外そうに瞬きをした。
「前よりも話しやすくて、ますます好きになったってクラスの女子が言ってました。俺の前でだけ、素顔でいられるって言ってたくせに」
自分でも気がついていなかったけれど、結構気にしていたようだ。口に出してみると止まらなくなっていく。
「他の人の前でだってそのままでいられるなら。俺が特別だっていうのもあやしくないですか。空気清浄器だって言ってたのに……」
もやもやする気持ちをそのまま口に出していると、仁がぷっと噴き出した。そのまま嬉しそうに笑っている。
蒼は口を閉じて首を傾げた。
こっちは苦情をいっているのに、なにがそんなにおかしいのだろう?
仁が大きな手で蒼の頭をぐしゃぐしゃとなでた。
「わっ! ちょっと……なんですか急に」
目を丸くして頭を押さえて見上げると、心底嬉しそうに仁が口を開く。
「お前、ほんと可愛いなぁ。俺が他のやつの前でも素顔でいるのがおもしろくないんだ。でもなんで?」
その問いかけに蒼はようやく自分が口にしたことの意味に思い当たる。これではまるで自分が彼の周りの人間にやきもちを焼いているみたいだ。
いや"みたい"ではなく実際そうなのだろう。
彼が自分以外の人にも自分にしか見せなかった部分を見せていることをおもしろく思っていないのだから。
「えーっと、その……」
彼の告白を保留にしているくせに言うべきことではない。
仁の方はそんな蒼の内心などお見通しかのように余裕の態度である。
「ほら、なんでか言えって」
「その……」
顔が熱くなるのを感じながら口ごもり目を伏せた。
しばらくの沈黙の後、仁が声を和らげた。
「……まあ、いいか。急かすつもりはないし」
その言葉に蒼の鼓動はトクンとなった。
蒼の気持ちなどもうとっくにわかっているはずなのに、急かさないところが仁らしい。こんなところに蒼は強く惹かれたのだ。
自分を見つめる優しい目に、どこか甘えるような気持ちになって思わず蒼は問いかける。
「先輩」
「ん?」
「その……。俺のどこがいいんですか?」
意外な問いかけだったのか、仁が瞬きをして止まった。
「先輩が自然体でいられる相手が俺だっていうのは聞きました。でもそれってたまたま俺がルームメイトになったからですよね。だったら他のやつでも……。俺に特別ななにかがあるのかなって考えたら……」
そこまで言って蒼はうつむく。"なにもないような気がする"とはさすがに言えなかった。けれどそう思っているのは事実だ。今だって自分の気持ちを言うか言わないかすら決められないのだから。
蒼からの問いかけに、仁がしばらく考えてからふっと笑った。
「お前、俺のこと馬鹿にしてる?」
「……へ?」
「たまたまルームメイトになったからお前を特別に想うようになったって、そんなわけないじゃん」
「で……でも」
戸惑いながら彼を見ると、仁がはーっとため息をついて、蒼の隣にドカッと座る。そして、切ない色を帯びた視線で蒼を見た。
「お前だからに決まってるだろ。お前だから俺は素の自分を見せられた。他のやつじゃダメだった」
「先輩……」
「確かにきっかけはルームメイトになったからだけど。他のやつでもよかったなんてそんなわけねーだろ」
意外な答えに蒼が目を見開くと、彼の手が蒼の頬に触れた。
「なんでお前なのかなんかわかんねーし、どこがいいかなんて答えられねーけど。俺はお前が好きなんだ」
頬を包む大きな手のその感触に、蒼はぴくんと反応してしまう。ほんの少し触れただけでこんなにも反応してしまうのは、仁だからだ。そこに理由なんてない。
「前に言っただろ。俺にとって大事なのは、蒼か蒼以外の人間かだって。俺はお前が蒼だから好きなんだ。たまたまなんかじゃねえよ」
「俺が俺だから……」
呟くと、蒼の中でパズルのピースがパチリとハマる音が音がした。誰かを好きになるのに、理由なんか必要ない。相手が相手だから好きなのだ。
「ああ。お前が蒼である限り、俺の気持ちは変わらない。だから、マジで焦ったいけど、待ってやるよ」
仁が蒼の頭をぐしゃっと撫でて、ニッと笑った。
——本当はもう気づいている。彼の想いが本物であることを。自分と同じ種類のものだということを。
言い訳をして逃げているのはただ自分に自信がないだけなのだ。
太陽のような存在の彼と、ずっと日陰を歩いてきた自分では釣り合わない。いつか彼が離れて行くのではないかとおびえているだけなのだ。
蒼が蒼である限り気持ちは変わらないと言ってくれる彼の言葉を信じられる、その強さが自分にあったらいいのにと蒼は思った。
「おーい、こっちー」
「パース」
日曜日の相澤学園の校庭に、サッカー部のユニフォームを着たたくさんの選手が集まっている。相澤学園の生徒だけでなく他校の生徒も混ざっているのは今日が地区大会だからだ。他県からもサッカーチームが集まっている。
そこへサッカー部でもない蒼がわざわざ寮から出てやってきたのは、サッカー部で大会に参加している結城との約束があるからだった。とは言ってもべつに彼の試合を見に来たわけではない。
彼から数学のノートを返してもらうためだ。
アルバムの制作を手伝ったあの日から、彼とは時々教室でも話をするようになった。サッカーをするために相澤学園を選んだという彼は授業についていくのがやっとという状態のようで、成績は常にギリギリ。朝練がある時は授業中寝ていることもあるから、こうやってノートを貸してあげる。
代わりにというわけではないけれど、仁がいない時に蒼が女子に話しかけられるとうまく間に入ってくれる。教室以外でも仁がいない時に話しかけられることが増えた蒼は助かっている。
「蒼」
校舎と校庭を仕切るフェンスから彼を探していた蒼は呼ばれて振り向く。校舎側から結城がやってきた。手にノートを持っている。
「これありがとう。いつも悪いな」
「いいよ。試合はこれから?」
「うん。っていっても俺はレギュラーじゃないから出られないけど」
そう言って彼は蒼の周りを確認する。仁がいないか確認しているのだ。
「先輩は部屋にいるよ」
蒼が言うと大袈裟にほっとしてみせる。
あれからたびたび移動教室などで蒼といるところを目撃されている彼は、すっかり仁にマークされている。ただの友だちだといくら言っても無駄に威嚇するから、彼はびくびくしているのだ。
「お前、本当愛されてるよなー。俺と会うことちゃんと言ってきたか?」
「……べつに言う必要なんてないし。ノートをもらうだけなんだから」
蒼は口を尖らせた。半分冗談でそんなことを言い合うのももう慣れた。ノートを上げて、寮に戻ることにする。
「じゃあな」
「おー。月曜に」
校舎沿いを寮目指して歩く。
寮に近づくにつれて、人は少なくなっていく。寮の門まで来て、他校の男子生徒が寮がある方向を伺っているのが見えた。門にはこの先は寮だとはっきり書いてある。校舎内の施設ならともかくどうしてこんなところにいるのだろうと、蒼は首を傾げる。
訝しみながら彼の側を通り抜けようとして相手の顔を見た瞬間、目を見開いて立ち尽くした。蒼の幼なじみ佐藤良樹だったからである。
「蒼」
良樹の方も驚いてはいた。けれど蒼ほどではない。蒼は自分の進学先を直接彼に伝えてはいないが、家が近所なのだから知っていてもおかしくはない。もしかしたら蒼がいるかもしれないとわかっていて寮の方を伺っていたのかもしれない。
「蒼、久しぶり」
かつての親友からの言葉に、蒼はすぐに答えられなかった。身体が金縛りに遭ったように動かない。
回らない思考で蒼はなぜ彼がここにいるのだろうと考えていた。そういえば彼はサッカー部だった。今日の大会でこの街に来たのだろう。そして蒼がここに通っていることを知っていて寮の近くにいたとうことだろうか。
でもなぜ?
あの出来事があってから、卒業するまでひと言も口をきかなかった。それどころか目も合わなかったというのに。
突然過去のトラウマが頭の中を駆け巡り、呼吸が浅くなって息苦しさを覚えた。
よりによってこんな時に、と蒼は思う。
ノートを受け取るだけだしと思い今日はマスクをしていない。良樹に自分の顔を晒しているのが耐えられなかった。
ぐらりと目眩を感じた、その時。
「蒼‼︎」
聞き覚えのある低い声が自分を呼ぶ。気がついた時には、仁に支えられていた。
「先輩……」
「大丈夫か⁉︎」
蒼をしっかりと抱えたまま、彼は心配そうに蒼を覗き込む。大好きな彼の茶色い瞳と、スパイシーな香りを感じて蒼の心が少しだけ落ち着いた。
同時に胸が苦しいくらいに締め付けられる。いつもいつも彼は、蒼の危機に来てくれる。そして自分は彼が来てくれたというだけでこんなにも安心するのだ。
「大丈夫です……少し驚いただけですから」
その言葉に、仁が良樹を見た。蒼がこうなった原因が彼だということに気がついたようだ。
「彼は?」
鋭い視線を動かすことなく蒼に問いかけた。
「……幼なじみです」
「幼なじみ?」
眉を寄せて繰り返した。
ただ昔の友達に会っただけで、こんな風になるわけがない。
「もしかして……」と言いかけて口を閉じる。
そこへ、良樹が口を開いた。
「蒼、あの時はごめん!」
静かな林に彼の声が響き渡る。意外な言葉に顔を上げると、彼はこちらに向かって頭を下げていた。
「良樹……」
ようやく蒼の口から彼の名前が出た。
「謝って済むことじゃないけど、どうしても謝りたくて。でもお前、実家にも帰ってないって聞いてたから……今日会えたら絶対に謝るつもりだったんだ」
あらかじめなにを言うか決めていたのだろう。頭を下げたまま彼は一気にそう言った。
謝りにきたという彼の言葉に蒼は驚き言葉を失う。どうして彼がわざわざ蒼に会いにきたのか見当もつかなかったけれど、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
良樹が顔を上げて、苦しげな表情で蒼を見る。
「友達だったのに、あの時、皆にからかわれていたお前を助けられなくて……ごめん」
「あ、あれは……良樹のせいじゃない。もういいよ」
ようやく蒼の口から声が出る。
自分を支える仁の腕をギュッと握った。むしろあの出来事の引き金になったのは蒼の振る舞いが原因だったのだ。
「良樹は悪くない。仕方がなかったんだ。あんな噂をたてられたら、誰だって気持ち悪いし……」
自嘲気味に蒼は言った。もう蒸し返さないでほしかった。彼に対する想いはもうないけれど、苦い失恋だったことには違いないのだから。
けれど良樹は言葉を続ける。
「気持ち悪いなんて思わなかった。もちろんいろいろ言われてびっくりしたけど、だからといってそれまでの蒼との時間をなしにしたいなんて思わなかった。でもお前が、もう話をしてくれなくなったから……」
最後は絞り出すように言う。
その言葉に、蒼はあの頃の自分を思い出す。そういえば何度か良樹と遭遇した時、彼はなにか言いたげにしていたような気がする。けれどその時の蒼はとにかくどんな言葉も聞きたくないと逃げたのだ。てっきり彼には軽蔑されたと思っていから。
「皆の前では話かける勇気がなかった俺に幻滅したんだっていうのはわかってたけど……」
「そうじゃない!」
思わず蒼は彼の言葉を遮った。
そんな理由で彼を避けていたわけではない。
「そんなこと思ってないよ。あの状況で皆の前で俺に話しかけられるはずなんてないし……ただ良樹だって俺の顔を見たくないかなと思って」
良樹が泣き笑いのような顔になった。
「そんなこと思うわけないじゃん。ずっと友達だったのに」
その言葉に、蒼はずっと自分が思い違いをしていたことに気がついた。あの出来事以来、良樹には完全に嫌われたと思っていたけれど、そうではなかったのだ。
もちろん当時の蒼の気持ちとは違うけれど彼は変わらず蒼に友情を感じてくれていた。こんな遠いところで会えるかどうかもわからないのに、謝るために自分を探してくれていたのだから。
「ありがとう、良樹」
落ち着いた気持ちで蒼は彼に答えた。
「そう言ってくれて、嬉しいよ」
「蒼……」
良樹がほっとしたような表情になった。そして、蒼を支えている仁を見た。
「こっちでお前がひとりじゃなくて安心した。お前、自分から人に話しかけたりしないから」
小さな頃から蒼を引っ張ってくれた彼らしい言葉に、蒼は笑みを浮かべた。
「たまには地元に帰ってこいよ。また会おうぜ」
そう言ってにかっと笑う。完全に昔の彼だ。
蒼も「ああ」と答えた。
「じゃあ俺、そろそろ行かなきゃ。練習抜けてきたのがバレないうちに」
そう言って、良樹はグラウンドの方へ走っていった。その背中を見つめながら、心にあった重たいものがすっと取れていくのを感じた。自分の自信のなさの根底にあったものだ。
「もしかしてあいつが、蒼がマスクをつける原因になったやつ?」
良樹が完全に見えなくなるのを待って仁が口を開いた。
「……はい」
「美希が言ってた事件ってやつと関係があるのか?」
「中学の時……俺があいつを好きなんじゃないかって学校中の噂になって……それから話さなくなったんです」
なんとなく気まずい思いで蒼は彼に説明する。美希の話を聞いた時も深く追求しなかった彼が、こうして聞いているのはさっきのやり取りが気になるからだろう。
「で? その噂は本当だったのかよ」
少し不機嫌に尋ねられて、蒼は言葉に詰まる。彼にとっては聞きたくないことかもしれないということが頭をよぎる。でもだからといって嘘をつくわけにもいかなくて、蒼はためらいながら頷いた。
「う……はい」
すると仁は突然、蒼を支えていた手を離しくるりとこちらに背を向けた。そしてそのまますたすたと寮に向かって歩いていく。
蒼は慌てて後を追った。
「先輩、仁先輩……!」
不機嫌を隠そうともしないその背中に蒼は呼びかけるけれど、彼は答えてくれなかった。ただのクラスメイトの結城と仲良くすることにすら、やきもちを焼く彼が、蒼の初恋の相手と話していたと知って平気なわけがない。
そのまま男子寮の玄関を抜けて長い廊下を歩いていく。蒼が彼に追いついたのは、部屋についたからだ。
後ろでバタンとドアが閉まる。それでも彼はこちらを向かなかった。
拗ねているようなその背中に、蒼の胸は彼への想いでいっぱいになる。たまらなくなって広い背中に抱きついた。
「先輩……!」
その少し唐突な蒼の行動は、仁にとって意外だったようだ。
「蒼……?」
珍しく戸惑うような声を出して振り向いた。背の高い彼を見上げて、蒼は想いを口にする。
「仁先輩、好きです!」
仁が綺麗な目を見開いた。
なんの前置きもなくいきなりなんだと思われているだろうか。
それでも蒼は今すぐに伝えたかった。
さっきの良樹とのやり取りで自分の馬鹿さを再認識した。
彼に軽蔑されたと思い込んでいた自分の弱さと自信のなさが、長い間の良樹との繋がりを断ち切っていたのだ。蒼が自分に自信を持っていれば、彼との友情は続いていた。こんなに苦しむことはなかったかもしれないのに。
そしてそれは今の自分にも言えることだと気がついたのだ。蒼の中の弱い部分が、仁の気持ちに応えることを怖がっている。
けれどそれではまた同じことを繰り返してしまうかもしれない。それだけは嫌だった。
さっき、林で駆けつけてくれた時の手の温もり。
自分を支えてくれた力強さ。
それに心から安心した自分。
彼だけは、仁だけは失いたくない。
それには、怖くても勇気を出して自分の足で一歩踏み出す必要がある。
「もうあいつにはそういう気持ちはありません。俺は……今の俺は、先輩が、仁先輩だけが好きだから……!」
彼の服を握りしめて、大好きな彼の目を見つめて蒼は彼に訴える。胸の奥が燃えるように熱かった。
好きだなんて言葉ではとても言い表せないと思うほど、蒼にとって彼は大切な存在だ。
「仁先輩、俺、先輩が好きです」
他に言葉が見つからないのがもどかしかった。
背の高い彼を見上げて、蒼は心の中にある熱い想いを口にする。
「俺が撮る写真の中にいてほしいと思うのは仁先輩だけなんです。俺が一緒にいたいと思うのは先輩だけなんです!」
「蒼……!」
低い声に名を呼ばれたと同時に大きな腕に力強く抱きしめられる。耳元の声音が少し震えた。
「お前、遅えんだよ」
「決心できなくてごめんなさい。自分が先輩と釣り合うとは思えなくて」
けれどもう迷わない。釣り合わないと思うなら、自分が背伸びをすればいいだけだ。彼は手を差し伸べてくれるだろう。
仁が少し身を離して蒼の額に自分の額をくっつけ至近距離から蒼を見た。
「くだらねえこと気にして、馬鹿なやつ」
自分を見つめるその目を綺麗だと思ったその瞬間、仁のベッドにふたり倒れ込んだ。
「わっ……!」
仁が蒼を抱きしめたまま、ベッドに倒れ込んだのだ。
「あ、危ないじゃないですか」
目を丸くして蒼は声をあげるが、彼は心底嬉しそうに蒼を抱えて笑うだけだった。
蒼をぎゅっと抱きしめて蒼の髪をぐしゃぐしゃとする。
「やっと俺のものになった!」
その笑顔はどこか無邪気で、心底嬉しそうで。蒼が今まで見たことがない彼だった。その目が潤んでいるように思えて、蒼は口を閉じる。蒼の髪をぐしゃぐしゃとしたり、顔を埋める彼にされるがままである。
蒼だって同じ気持ちだった。
心から通じ合うことがこんなに幸せなものとは知らなかった。たとえこの先なにが起きても彼との絆があればなんだって乗り越えていけるそんな気分だ。
そのうちにいつのまにか、組み敷かれた格好になっている。蒼の両脇に手をついた仁が見下ろしていた。
その目に熱いものが浮かんでいるように思えて、蒼の胸がドキンと跳ねた。
「言っとくけど俺の愛は重いからな? 今だけとか思ってるとしたら……」
「そんなこと考えてるわけないじゃないですか。俺がこの結論を出すためにどれだけ悩んだと思ってるんですか。俺の方こそ……重いですよ」
気がついた瞬間から何度も消そうとした想いなのだ。それでもどうしても消えてくれなかった。この先もずっとずっと胸にあると確信している。だからこそ、この気持ちを伝えるのが怖かったのだ。
きっぱりと言い返した蒼に、仁がふっと笑う。大きな手が蒼の髪をかきあげる。その感覚がいつもと少し違うような気がして、蒼の背中がぞくりとした。
彼の視線がゆっくりと下りてきて。
——はじめては軽く触れるだけのキス。
それだけで、蒼の胸は痛いくらいに高鳴った。
人の唇ってこんなに柔らかいのか。
そんなことが頭に浮かぶ。自分を見下ろす仁の視線が再び下りてきて。
——もう一度。
今度は顎に添えられた手が蒼の唇を開くように促した。
なにもかもが熱く感じてもうこれ以上は無理だと蒼は思う。ようやく唇が離れた時にはぐったりとしてしまっていた。
ただでさえ、一度にいろいろなこと起こったのだ。幸せには違いないけれど、感情がついていかない。
「もう……無理……」
息を整えながらそう言うと、視線の先で仁ががっくりと肩を落とした。
「マジで? ……俺、また待たされるのかよ」
「ここは、ここがこのTHATにかかってて……」
「あーなるほど、だからこっちの意味になるんだな」
「そうそう」
十一月にしては暖かい日差しに照らされた、人気のない学園の裏庭。生徒が自由にランチを楽しめるように置いてあるベンチとテーブルにて、蒼は向かいに座る結城に英語の訳を解説している。午後の授業でやると思しき箇所である。
結城は今日は確実に指名されるようで、予習が必須の日だった。にもかかわらず、昨日は夜遅くまで練習をしていてそのまま寝てしまったという。このままではまずいから昼休みの間に手伝ってほしいを頼まれたのだ。
予習は自分にとっても勉強になると思い蒼は心よく了承した。ここのところ仁とのことで落ち着かない日が続いていて勉強に集中できない日も多かったから期末に向けて巻き返す必要がある。
相変わらず昼は毎日仁と一緒だけれど、事情を話せば問題ない。そしていつもの食堂ではなく静かな裏庭で食べたながらやろうということになったのだ。
仁は蒼の隣でメロンパンをかじっている。
「だけど、ここは……あれ? おかしいな、どういう意味だ?」
蒼は言葉に詰まり首を傾げる。説明しながら頭がぐちゃぐちゃになってきた。
「そこはこの文法になってる」
仁が口を挟んだ。
そして例文をすらすらと読み、解説をする。さすがは中学までロスにいただけあって完璧な発音だ。なにより解説がわかりやすい。
蒼だけでなく、英語は超絶苦手だと宣言している結城も一発で理解できたようだ。
「なるほど! わかりました。あーよかった……なんとかなりそう」
さっきまでこの世の終わりのような顔をしていたのが嘘のように明るく言った。
「あーざす! さすがは仁先輩」
人なつっこい笑顔で仁に向かって頭を下げた。
「いつもトップの人は教え方まで上手っすね」
仁が肩をすくめた。
「他の教科も教え方が上手なんですよね? 蒼の成績が上がったのは仁先輩のおかげなんだろ?」
結城に尋ねられて蒼は頷いた。
「うん、そう」
勉強自体は基本的には自分で進めるが、わからないところがあるとすぐに聞けるのはありがたい。しかもその解説は授業なんかよりずっとわかりやすいのだ。
「いーなー!」
結城がのけぞってうなった。
「俺も仁先輩みたいな人が近くにいれば、もうちょっと成績上がるのに。蒼が先輩に勉強を教えてもらうのってやっぱ夜?」
「うん、後は放課後の部室とか……」
写真の整理やカメラの手入れは毎日する必要はない。だから以前は毎日部室に行っていたわけではなかった。
けれど仁と同室になってからは彼の昼寝のためにほとんど毎日行くようになったのだ。蒼はその空いた時間を勉強に充てることにしている。仁は基本的には寝ているが、頼めばめんどくさがらずに教えてくれる。
「マジで?」
結城が声をあげた。
「なら、俺もその時間にまぜてもらえたら成績もうちょっと上がるんじゃね? テスト週間は部活が休みになるからさ……」
とそこで、ベンチの蒼の後ろあたりに長い腕を置いて彼の話を聞いている仁に視線を送り、口を閉じた。
「いや……自分の力でやるべきだよな。ふたりの……いや蒼の勉強の邪魔になったら申し訳ないし」
そう言って机の上のノートを閉じてペンをしまいはじめる。
「蒼、ありがとう。なんとかなりそうだから、あとは教室に帰ってひとりでやるよ」
そう言ってあたふたと立ち上がった。
「え? あと少しだから最後までやっていけばいいのに」
「いや! 大丈夫! 貴重なふたりの……いやお前の昼休みを削るのは申し訳ないし」
蒼が止めるのも聞かずに彼はさっさと校舎に戻っていった。
蒼が隣の仁を見ると彼は満足げな笑みを浮かべている。
「……先輩?」
睨むと、眉を上げて口を開いた。
「俺はなにも言ってないぜ?」
「いや、結城を睨んだでしょ」
「睨んでないって。そう見えたとしたらあいつの思い込みだ」
だとしても、そう思い込むくらい普段から威嚇されているということだ。
しかもこの状況に仁は満足している。
「……でもあいつもようやく空気が読めるようになってきたみたいだな。もうちょっと早くてもよかったけど。おかげで貴重な蒼との昼休みが半分近くつぶれた」
「仁先輩! ……もう本当に気にしすぎですって。どう考えてもただの友達なのに」
蒼は頬を膨らませてぶつぶつと言うが、仁はどこ吹く風である。そよ風に髪をなびかせて気持ち良さそうに蒼の肩に頭を乗せた。
そこへ蒼のクラスの女子グループが通りかかった。
「あ! 仁先輩だ。今日も阿佐美くんとランチデートですね!」
ランチデートなどという言葉にパックのジュースを飲んでいた蒼は噴き出しそうになってしまうが、仁は機嫌良く答えた。
「そう。さっきまでは結城くんがいたけどね。彼午後の英語が当たるらしくって焦ってやってたよ」
「えー! ダメじゃん結城、邪魔しちゃ。後で注意しておきますね」
「んーでも、蒼のお友達は俺も大切にしたいし」
そう言って彼は蒼の肩を抱く。少しスパイシーな香りを感じて蒼の頬が熱くなった。
女子がきゃっと声をあげた。
「仁先輩! もしかしてもしかして、片想いかなっちゃった感じですか?」
頬を染めて仁に聞く。
蒼の胸がドキッとした。
仁の片想い設定は限りなく本当に近いネタだというのが学園の皆の共通の認識らしい。
「ねえ、阿佐美くん。ついについに仁先輩の気持ちに応えることにしたの?」
「きゃーうらやましい!」
きゃいきゃいと騒いでいる。
「えーっと」
なんと答えるべきか口ごもっていると、仁が口を開いた。
「それは俺らだけの秘密にさせて。ごめんね」
そう言って得意の王子さまスマイルを浮かべると、女子たちはまたきゃーっと声をあげた。
「じゃあ、お邪魔にならないように私たちはいきます」
そんなことを言って去っていった。
完全にいい風に解釈してしまっている。
恥ずかしくて頬が真っ赤になるのを感じながら蒼は隣の仁を睨んだ。
「いいんですか先輩。あんなこと言って」
「あんなことってなんだ?」
蒼は声を落とした。
「俺たち完全に付き合ってるって思われてしまいますよ」
仁が首を傾げた。
「それの何がダメなんだ? 前とそんなに変わりないだろ」
「でも」
「それに、事実じゃないか。なに蒼お前、隠して起きたい派? 偏見とか怖い? ……まあそれなら俺も考えなくはないけど」
仁が少し真面目な表情になった。
「俺はべつにいいんです。どうせもう半分以上バレてるみたいなものだし」
でも隠しておいた方がいいと思っているのは事実だった。それは自分のためではなく仁のことを心配しているのだ。
自分と違って彼は背負うものが多い。それでなくても最近は王子さまを演じるのを止めている。それが筧家の御曹司としてどう影響するかもわからないうちに、下級生の、しかも男と付き合っていると知られたらどうなるかわからない。
考えながら上目遣いに彼を見る。
「俺は先輩のことを心配しているんです。先輩は俺と違って家が厳しそうだし」
そう言って目を伏せる。
仁が嬉しそうに笑った。
「へえ、俺のことを心配してくれてるのか」
「そうですよ、当たり前でしょう」
蒼は周りを見回して人気がないことを確認する。そして小さな声で付け足した。
「先輩は俺の……か、彼氏なんだから」
仁がガバッと蒼に抱きついた。そのまま蒼の髪に頬ずりをする。
「蒼、お前、可愛いこと言うじゃん」
「せ、先輩! ダメだって! 人が来るかもしれないですよ」
「うるせー! お前が煽るから悪いんだ」
そんなことを言って、あろうことか蒼の顎を掴んだ。キスするつもりだと気がついて、蒼は慌てて迫る彼の胸を押した。
嫌だというわけではないけれど、いつ誰が来るともかぎらないこんなところですることではない。
「せ、先輩……!」
「大丈夫だってちょっとくらい」
蒼はジタバタするけれど体格差のある仁に押さえ込まれては敵わない。あっという間に唇を奪われてしまった。
「ん……」
蒼は彼の制服のシャツをギュッと握り締めた。
——ようやく解放されて少しぼんやりとする視線の先で、仁がニヤリと笑った。
「いろいろがまんしてやってるんだから、これくらいはいつでもさせろ」
そう言って彼は蒼の膝を枕にごろんと横になった。
「あー……俺、幸せで死にそう……」
秋の空を見上げて、心底嬉しそうに言った。
膝枕も誰かに見られたらただでは済まないと思うけれど、蒼も抵抗するのは止めて空を眺める。
蒼だってまったく同じ気持ちだった。秋から冬に変わりゆく季節を、彼と一緒に見ていられるのが幸せだ。彼と一緒にいると、ファインダーごしでなくても世界は美しい。少し前は考えられなかったことだから。
仁が何かに気がついたようにポケットに手を入れて、スマホを取り出した。どうやらどこかからの着信のようだ。けれど彼はそれには出ずにまたポケットにしまった。
「出なくていいんですか?」
「……長くなりそうだから、あとで折り返す」
彼はどこからとは言わずにそう言った。そして、蒼を見上げる。
「蒼、今週も林へ写真を撮りに行くんだろ? 俺もついて行っていい?」
「いいですよ。だけど、そんなに面白くないと思いますけど」
蒼の撮影に彼がついてくることは時々あるが、たいてい岩の上で寝ているだけである。
「週末は寒くなるって話だから、部屋で寝てた方がよくないですか?」
「んーだけど、お前と一緒にいる方がよく寝れるし」
そんなことを言って彼は目を閉じた。
膝に感じる柔らかな髪の感触に蒼の心はこつんとなった。
この彼が、いつかの日、すごく疲れていたときの彼と重なって見えたからだ。蒼には想像もできない重たいものを彼は背負っている。それはまだ高校生でしかない自分では力になれないものだろう。
だから彼は蒼になにも言わないのだ。
好きだという気持ちしかない自分では、彼に頼ってもらうことはできない。それがもどかしくて情けなかった。
茶色い髪に指を絡めて、蒼はそんなこと考えた。また、彼のポケットの中でスマホが震える音がする。
……けれど彼はもう出ようとはしなかった。
外はビュービューと木枯らしが吹いている。
少し強い風が吹いて古い窓枠がガタガタと鳴っていた。旧校舎にある写真部の部室では、蒼がパソコンをいじるカチカチという音だけが響いている。
いつものように写真の整理をしているが、まったく集中できていない。それはすぐ後ろに座って蒼の腰に腕を回し蒼の肩に顎を乗せ、パソコンの画面を見ている仁のせいだ。こんなにべったりとくっつかれている状況で作業に集中できるはずがない。自分を包む体温と少しスパイシーな香りに蒼の頬が熱くなる。
「あ、俺、その写真好き。トンボのやつ。俺、はじめて見たときマジで泣きそうになったもん」
蒼の心を乱しておきながら、当の本人は呑気にそんなことを言っている。低い声が蒼の耳をくすぐった。
「これ待ち受けにするからくれよ。転送して」
一方的に言って自分のポケットからスマホを出している。後ろから蒼を覗き込んで、不思議そうに首を傾げた。
「蒼? お前顔赤くない? 体調悪いのか?」
大きな手が蒼の額に当てられる。
「熱はないみたいだけど」
「そうじゃなくて。……先輩、なんでここにいるんですか? 昼寝しなくていいんですか」
暗に仁がそばにいるからだと告げると、仁がにっと笑った。
「なにお前恥ずかしいの? 今更このくらい」
「いっ……今更とか言わないでくださいよ」
ますます真っ赤になって蒼は声をあげる。
ふたりはすでにキスまでいった仲、確かにすでにそこまでいっているならばこれくらいは普通かもしれないが、慣れるということはないと思う。
「昼寝、しなくていいんですか?」
「あそこ寒ぃんだよ。蒼の身体あったかくて気持ちいい。これからは俺こうやって昼寝する。蒼は好きにしてていいぜ」
蒼の腰に回した腕に力を込めて仁が蒼の肩に頬をすりすりとする。柔らかい髪が蒼の頬をくすぐった。仕草は可愛いけれど横暴なヒョウか何かになつかれたような気分だった。
こんな姿勢じゃなにもできない。
「こんなんじゃ、俺冬中、作業進まないですよ」
「なんでだよ、嫌?」
「嫌じゃないけど……」
蒼がそう言った時。
がらりとドアが開く音がして、びくっと肩をふるわせた。
開いたドアの向こうには上級生が立っている。ネクタイの色からして二年生ということはわかるが蒼は知らない顔だった。くっついているふたりを見て汚らわしいというように眉を寄せた。
「仁、お前正気か?」
上級生が仁を見下ろしてそう言った。仁が蒼にべったりとくっついていることを言っているのだろう。蒼は知らない顔だが、ふたりは顔見知りのようだ。
「ノックくらいしろよ、和臣。のぞきに来たのか変態」
仁が答えた。
和臣という名前には蒼にも聞き覚えがある。学園に所属するもうひとりの筧家の人間、筧和臣だ。たしか、仁のいとこに当たる人物だったような……。
けれど蒼はこれ以上の情報を知らなかった。
和臣の方は学園ではそれほど有名な人物ではないからだ。
「お前がおじいさまの呼び出しを無視しているからだろう。俺になんとしても連れてこいと指示されたんだよ。俺だってお前なんかと話したくないのに」
仁が祖父からの呼び出しを無視しているという言葉に、蒼は目を見開いた。
振り返り仁を見ると言われたことに特に驚いた様子はない。まるでこうなることは予想していたかのようだった。
そういえば少し前の昼休みに、仁のスマホが鳴っていた時のことを思い出す。彼はあの時、折り返すと言っていたが……。
でもなぜ?
はじめて話をした時、彼は祖父には誰も逆らえないと言っていた。だからこそ本意ではない入寮を命じられても従ったのだろうし、その後も呼び出しには素直に応じていた。
ここへきて、従兄弟に直接言いに来させるくらい無視しているのが不可解だ。
和臣が汚らわしいというような目で蒼を見た。
「呼び出しの理由はわかっているだろう」
その視線に蒼はドキッとする。彼が自分を見るということは、まさか自分がに関係することだろうか。
仁には確信があるようだった。
「ルームメイトと仲良くすることをじいさんは喜んでたはずだけど」
「だけど、気持ち悪い内容なら話は別だろう」
その言葉に、仁の目つきが変わる。この場の空気がビリッとした。押し殺した声をだした。
「……ただの冗談をお前が大げさに報告したんだろ? 俺の情報を流すくらいしかじいさんに取り入る手段がない卑怯者」
仁からの辛辣な言葉に、和臣が頬を歪める。
そのやり取りに、親戚同士とはいえふたりの仲が険悪だということが蒼にもわかった。
と同時に血の気が引いていく。
やはり呼び出しの理由は、蒼と仁がまるで付き合っているかのように学園で噂されていることについてだ。当初はわざと流した冗談のような噂だが、今はそうではない。
「大袈裟、本当にそうか?」
和臣がギリッと奥歯を噛み締めて、呟いた。
そして自分のスマホを出して画面を開いてこちらへ見せる。画面に映し出された写真に、蒼は目を見開いた。蒼と仁が裏庭でキスをしている写真だ。
この間、結城に勉強を教えた日の写真だろう。撮られていたなんてまったく気がつかなかった。
仁が一段低い声を出した。
「隠し撮りなんていい趣味してるじゃんお前。でも人が楽しんでるところをこそこそ撮るのは犯罪だぜ。そんなんだからお前はじいさんに見放されるんだ」
「うるさい! 俺は筧家にとって不名誉なことが許せないだけだ。どんな小さなことでも報告するのが一族の義務だろう」
顔を真っ赤にして和臣が怒鳴る。
仁が、心底軽蔑したような視線を送った。
「一族の義務ね……。それでじいさんはその褒美にお前を跡取りにするって約束してくれた? ならよかったじゃん。おめでとう」
その言葉に和臣がぎりりと奥歯を噛みしめた。
「とにかく、週明けには屋敷へ帰れ! じゃないとお前が大事にしてるそいつもただでは済まないからな」
そう言ってばたばたと部屋を出ていった。
仁がため息をついて立ち上がり開いたままになっているドアを閉めて戻ってくる。
その彼に、蒼は真っ青になって呼びがかけた。
「せ、先輩……。おじいさんにバレたならまずいんじゃ」
彼は名家の御曹司なのだから、まずいということは考えなくてもわかる。
仁が蒼の肩に手を置いて低い声で答えた。
「大丈夫だ、蒼。お前に手出しはさせねえから」
「俺のことを心配しているわけじゃありません! そうじゃなくて! 先輩が……」
あんなに心をすり減らし過剰に王子さまを演じていた。仁がそこまで追い詰められていたのは、筧家という名家に生まれたからだろう。彼の理解者が家にいないということくらいは蒼にもわかる。
この後、彼が家でどんな扱いを受けるのかそれがわからなくて不安だった。
「俺のせいで……」
「蒼のせいじゃねえよ。好きだって言い出したのは俺だろ?」
「でも、それを皆の前で言う必要があったのは俺のためじゃないですか。俺の過去の噂をうやむやにするために……」
あそこまで言いふらさなければ、たとえこうなっていてもこんなに早く周りに知られることはなかったはずだ。
この先どうなって行くのか不安でたまらない蒼とは対称的に仁は落ち着いている。
蒼の頭をぐしゃっとなでた。
「落ち着けって蒼。予想より早かったけど全部想定内だから」
「想定内?」
「ああ、俺のいる世界はくそなんだ。いつかはこうなるのはわかっていた。だから覚悟はしていた」
こうなることはすでにわかっていたという仁に蒼は驚きを隠せなかった。改めて彼の育った環境は蒼とはまったく比べものにならない別世界なのだと思い知る。
「仁先輩……」
仁が身を屈め蒼の肩に手を置き、蒼を見つめた。
「俺は蒼のカメラの中の俺の写真を見た時に、覚悟を決めていた」
「あの時に……?」
「ああ、蒼も俺を想ってくれてるのかもって気がついた時に。蒼と一緒にいたければ俺はこのままではダメなんだ。俺がいるクソみたいな世界と蒼の撮る綺麗な世界の壁をぶっ壊して、どこででもお前を守ってやれるようにならないと」
揺るぎない決意を口にする彼の目が、強い光を湛えている。
笑顔の仮面をかぶっている王子さまの顔でもなく、蒼の前でだけ見せる少し危うい優しい彼でもないはじめての顔だった。
こんなに綺麗な目をした人を見たことがないと蒼は思う。
仁が蒼を強く抱きしめた。
耳元で低い声が囁いた。
「……蒼、お前何年待てる?」
その声が少し震えているのに気がついて、蒼は彼がしようとしていることに思いあたる。
詳細はわからなくとも彼にとって荊の道、その間ふたりは……。
胸がなにかに刺されたように痛かった。強大な権力にたったひとりで立ち向かう彼の力になれないのがつらかった。
「先輩」
世界の壁をぶっ壊すという言葉の意味を理解できないままに、蒼は彼に問いかける。
「先輩、俺にできることはありますか?」
ただの高校生でしかない自分にできることなどないだろう。けれど聞かずにはいられなかった。
蒼を抱く仁の腕に力がこもる。
「そのままでいてくれ、蒼。お前は変わらずに……俺を……」
懇願するようなその声に蒼の胸は熱くなった。大きなものに立ち向かうために彼は変わろうとしている。その彼と生きていきたいというならば、自分も強くならなくては。
背中に回した手でギュッと彼のシャツを握りしめた。彼の肩に顔を埋めて宣言する。
「何年でも待ちます! 俺は絶対に変わらないから」
仁の腕が緩み、少し身を離して至近距離から蒼を見る。大好きなその目を、蒼は睨んだ。
「てか、何年とか聞かないでくださいよ。俺を見くびらないでください。今だけじゃないって言ったでしょう? 俺の愛は世界一重いんです。いつまででも先輩を想い続けます。もうやめてくれって言われてもやめません!」
「蒼」
仁の瞳が一瞬揺れる。
「世界一じゃねえ、二番目だ。……絶対俺の方が重いから」
蒼は、泣き出しそうになるのを唇を噛んでぐっと堪えた。
「先輩、力になれなくてごめんなさい。俺のせいで家と揉めることになってごめんなさい。でも俺、それでも先輩と一緒にいたい。ずっと待っていますから、必ず帰ってきてください」
彼の負担になるならば、身を引くべきかもしれないが、もうそれはできなかった。ふたりは強く硬い絆で結ばれてしまっている。
「先輩こそ、約束してください。なにがあっても俺のところ帰ってきてくれるって」
挑むようにそう言うと、仁が目元を緩めてふっと笑う。その笑みはもういつもの彼だった。そして大きな手で、蒼の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「あたりまえだ。絶対に帰ってくるから、お前死んでも浮気すんなよ」
次の週、筧仁が退学したというニュースが学園中に駆け巡った。
大講義堂から人の流れに押し出されるように建物の外へ出ると、外は抜けるような青空が広がっている。九月も半ばを過ぎて少し涼しくなった風を頬に心地よく感じながら、蒼は階段を下りる。
「蒼」
名前を呼ばれて立ち止まり見回すと、第五棟へ続く遊歩道を結城がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。蒼は人混みからはずれて彼を待った。
「今日はこの講義で終わり?」
「うん。結城は?」
「俺も今日はこれで終わり。でもまだ帰れないだ。ちょっと午後イチで就職課で用事があって」
話をしながら、ふたり連れ立って歩きだす。とりあえず構内のカフェを目指す。ここ相澤学院大学は緑豊かで広大な敷地の中に、各学部の建物が点在している。カフェまでは公園の遊歩道のように整備された道が続いている。
「蒼、インターン先決まった?」
「うん。人気だったから受かるかどうかハラハラしたけどなんとかね」
「さすがだなー俺はまだ。インターンどころか単位もやばい」
相澤学園高等部を卒業した蒼はそのまま付属大学へ進学し、三年生になった。学部は違うが同じ大学へ進学した結城とは、同じサークルに所属していて相変わらず友達だ。
「蒼のインターン先ってカメラメーカーだろ? そのままそこねらう感じ?」
「うん、できれば」
「写真の道へはいかないのか?」
「それで食べていける人なんて一握りだよ」
写真はずっと続けているが相変わらずひとりでもくもくと撮るスタイルである。ときどきネットにもアップするようになったけれどそれだけだ。
「まあな、趣味のままの方がいいってこともあるよな」
「結城は商社希望だっけ?」
「そう、てか何でもいいんだけど営業がやりたくて」
「向いてそう」
明るくて社交的な彼は、誰とでも距離を縮めることができる。蒼からしてみれば、才能に思える。
「でも今のところ成績もレポートも悪すぎて、エントリーしたとこ全落ち」
がっくりと肩を落として彼は言った。
「そうなんだ……どんまい」
「ん、だけど落ちた企業の中でひとつだけ、やっぱり特別に受け入れてもいいってとこから連絡があってさ、今日はそこの担当者と就職課で面接することになってるんだよ」
「え、よかったじゃん、なんて会社?」
「株式会社KIIってとこ。結構大手だよ、筧グループ……」
と、そこで彼は口を閉じた。やや蒼を気遣うような表情になるのは、筧グループという言葉に仁のことを思い出しているのだろう。彼は、高校時代の仁と蒼の噂が、本物だろうと言うことに気がついているはずだ。
仁が退学した後、ひとりになった蒼は覚悟していたとはいえつらい日々が続いた。周囲には悟られないように振る舞っていたが、一番近くで見ていた彼には気付かれていたのだろう。
あの頃は、彼の明るさにずいぶんと救われた。根掘り葉掘り聞いたりせずにそばにいてくれたことに感謝しながら、彼を安心させるため蒼はあることを報告する。
「そういえば、最近仁先輩から連絡がきたんだ」
「え? マジで?」
「うん、それからはちょくちょくメッセージのやり取りをしてる」
和臣を通じて祖父に呼び出された仁は、次の週の頭に実家に帰り、その後寮の部屋に戻ってくることはなかった。
そのまま彼はアメリカの大学に編入したという。もともと、ジュニアハイスクール時代の成績ではそれができる資格があったようだ。日本の高校に通っていたのはただの世間勉強のためだったのだ。そして最速で学位を取得して筧グループ関連企業の経営に携わっているという。
けれどそれは数カ月前に連絡が取れるようになってから知ったこと。当時は彼のスマホがすぐに解約されたから、会えないだけでなくどこでなにをしているかもわからない日々が続いた。
それが、仁が祖父と交わした条件だったという。
蒼とのことはちょっとしたふざけ合いだった。もう会わないから、相手には手を出さないでほしい。これからはもっと本気で筧グループの後継者になるべく努力する。
祖父はそれを了承し、仁を渡米させることで蒼との縁を切らせたのだという。
それから最速で学位を取得した仁は筧グループでその手腕を発揮した。歴史ある企業ということでやや業績に不安があった子会社や部門を次々に立て直したのだという。
そうしてもう祖父にさえも自分のやることに文句を言わせなくしてから、蒼がやっている写真用のSNSを通じて連絡してきたというわけだ。
「よかったじゃん! もう会えたの?」
「ううん。それはまだ」
今はまだメッセージのやり取りのみで実際に会えてはいない。彼がニューヨークにいるからだ。
「そうか、でもよかったな」
心から喜んでくれている彼に蒼の心はあたたかくなる。
「ありがと、結城」
「いやいや、でもこれでようやく俺も肩の荷が下りたよ」
そう言って彼は胸をなで下ろしている。不可解なその言葉に、蒼は首を傾げた。
「肩の荷が下りた?」
「ああ、詳しいことは聞けなかったけど仁先輩の退学って、いきなりすぎてどう考えても不自然だっただろ? ふたりのことが仁先輩の家にバレてふたりが引き離されたんだって噂されてた」
そういう噂は確かにあった。だからかどうなのか、仁がいなくなった後も蒼は皆に同情されてずいぶん優しくされていた。クラスの女子からは涙ぐみながら『私たちはふたりを応援し続ける』と言われたくらいなのだ。
「……それがなんの関係があるの?」
自分たちの恋を口にされたことを恥ずかしく思いながら蒼は彼に問いかけた。
「いや、だから仁先輩がいない間に、蒼になにかあったらなんか仁先輩に申し訳ないじゃん。仁先輩ロスで、女子の中で蒼人気が上がってたし。密かにお前を守り続けてたんだよ。大学入ってからもお前の交友関係には目を配って……」
「変なこと言うなよ」
蒼はぷっと噴き出して、懐かしい気持ちになった。仁の件を巡って彼とこんなやり取りをするのは久しぶりだ。
「いや、ネタじゃないって。俺は本当に……」
「俺、守ってもらう必要なんてないし。大学で俺のこと知ってるやつなんかほとんどいないでしょ」
仁と離れてから蒼は外に出る時もマスクをしなくなった。それは仁がいなくてもひとりでやるという決意表明のようなものだった。
仁がいなくてもしっかりと自分の足で歩いて彼を待っていたかったのだ。けれど生まれつきの性格は変わらないから、相変わらず友人はそう多くない。大学生としては地味な生活だ。話すのは高校から一緒の結城とサークルのメンバーくらいだ。
「いやいやいや! そんなわけないじゃん」
結城が声を張り上げた。
「お前目立ってるよ。無駄に可愛いから話しかけづらいんだって。飲み会にもほとんど行かないから、今やレアキャラ扱いよ? 俺経由で来る女子からの飲みの誘いを角が立たないように断ってやってる身にもなれよ」
「なんだよそのレアキャラって」
蒼は、はははと笑った。
「そんなの俺を口実に結城と飲みたいだけでしょ」
高校時代をサッカーに捧げた彼は、進学を期に止めたが、いくつかのスポーツサークルに参加している。交友関係も広いからしょっちゅう女の子に話しかけられている。
結城が呆れたようにため息をついた。
「仁先輩が、心配するのも納得だわ……」
「え?」
「いや。まあ、とにかくよかったじゃん。あ、でも会えないのは寂しいか」
「うん、だけどこれからは国内の事業を中心にやることになったみたいで、昨日帰国して、今日会えることになったんだ」
「え? そうなの⁉︎ やったじゃん。じゃあこれから会いに行くのか?」
「いや、会いに行くんじゃなくて、先輩ここに用事があるらしくて構内で会うことになってるんだ」
結城が首を傾げた。
「え? 大学に? どういうこと?」
「それがよくわからないんだよ。仕事だって言ってたけど」
年齢こそひとつしか変わらないが今や複数の企業をとりまとめる立場にいる彼がなぜ蒼の大学に用事があるのか、蒼としても疑問だった。
けれど仕事と言われてしまえばあまり深くは聞けない。取締役という立場をいくつも兼任している彼の仕事は機密事項ばかりだろうから。
「あーということは、蒼は今日はこれからデートか〜。面接の俺とは天国と地獄じゃねーか」
結城がそう言ってがくっと肩を落とした。
「面接してもらえるなら、有利じゃん。結城なら大丈夫だって」
蒼はお世辞でもなくそう言った。成績には難ありかもしれないが、直接話をして彼に好印象を抱かない人はそうそういない。営業希望なら尚更だ。
「お前に会って落とそうなんて思わないよ」
結城がニカッと笑った。
「蒼、お前本当にいいやつだよな。俺、お前と友達になれてよかったよ」
「いや、おおげさ! これくらいで」
「いや、まじでまじで」
そこで、彼は何かに気がついたように足を止めて、つられて立ち止まる蒼の顔をじっと見た。
「蒼、まつげになんかついてる」
「え?」
「じっとしてろ、とってやるよ」
そう言って蒼の顔に手を伸ばした。蒼は言われるままに目を閉じて彼がゴミを取ってくれるのを待つ。彼の手が離れたのを感じて目を開いた。
「ありがとう」
「ああ。……それにしても改めて見ると、蒼の目って綺麗だよな。なんか宝石みたい」
もうゴミは取れたと言いながら近くで蒼をじっと見つめたままの結城に、蒼は恥ずかしくなって頬を染めた。
「なに、いきなり。変なこと言わないでよ」
「いや変なことじゃなくて本当の……」
とそこで彼はなにかに気がついたように口を閉じた。そしてまずいといった様子で蒼の後ろを見ている。
「結城? どうかした?」
蒼が首を傾げた時。
「結城、俺がいない間に、蒼に手を出そうなんていい度胸じゃんか」
聞き覚えのある低い声が背後から聞こえてきて、蒼は口を閉じる。ハッとして振り返り、真後ろに立ち結城を睨んでいる人物に気がついて言葉を失った。
百八十センチの長身に、少し茶色い髪と瞳、整った顔つきに、圧倒的な存在感。
仁だ。
五年ぶりに見る彼は、蒼の記憶よりも髪が少し伸びていて、高級そうなスーツを着こなしている。あの頃よりも格段に大人びて見えるけれどけれどまちがいなく仁だった。
通りがかった学生たちが、チラチラと彼を見ている。
「ねえ、あれ誰だろ」
「カッコいい! ここの学生かな?」
ひそひそとそんな声が聞こえた。
「結城、お前まさか……」
「ままままさか! そんなことあるわけないじゃないですか」
結城が答えて、蒼から一歩後ずさった。
「そう? ならいいけど。久しぶり、結城くん」
「お、お久しぶりです……」
挨拶しながら彼はずりずりと離れていく。撤収するつもりだろう。
「じゃ、じゃあ俺はこれで」
それを仁が引き止めた。
「いや、待てよ。久しぶりなのにそれはさすがに冷たくない?」
「で、でも俺、これから就職課へ行かないと」
「知ってるよ、インターンの面接だろ? ちょうどいいからここやろうぜ」
その指摘に結城が固まった。
「結城悠真、経営学部経営学科三年、希望職種、営業職」
仁が、すらすらと結城のプロフィールを唱えはじめる。唖然とする結城を見てニヤリと笑った。
「株式会社KIIへインターン希望」
「ままままさか……」
仁が腕を組んで頷いた。
「その面接の相手って俺。KIIのCEO」
「CEO⁉︎」
「これからは国内の事業を中心にやっていくことになって。その第一歩がこの会社」
仁が結城を見て眉を上げた。
「この間、インターンの選考についての報告が上がってきてさ、落選した学生の中によく知るやつがいたから、面接しにきてやったんだよ」
「え……そんな、まさか」
結城が信じられないという様子で呟いた。それはそうだろう。まさか自分がインターンを希望してる先のCEOがかつての先輩だなんて考えもしない。
「嘘だと思うなら、お前の単位取得情報もここで言って証明しようか」
「い、いいです、いいです。信用します」
慌てて結城が彼を止めた。
仁がニッと笑った。
「お前と働くの楽しみにしてるよ」
「……てことは?」
「合格、ま、もともと受け入れる予定ではあったけど。面接にきたのは蒼の大学に来てみたかっただけだから」
つまり彼が言っていた仕事とはこれだったのだ。
「おめでとう、結城くん。就職課には俺から言っておくよ」
仁がわざとらしいくらいににっこりと笑う。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。それではお邪魔になると思うので僕はこれで……」
無事にインターン先が決まったにもかかわらずどこかテンション下がった様子で、結城はカフェの方向に歩いていった。
その背中にひらひらと手を振って、仁が蒼に向き直った。
「ただいま」
その彼に蒼はすぐには答えられなかった。
なんだか胸がいっぱいで、夢を見ているような気分だ。彼が急遽帰国することを知らされたのが数日前、けれど本当に会えるまでは信じられないと思っていた。期待しすぎてもしダメになったら、立ち直れないかもしれないという恐怖すら感じたほどだ。そのくらい彼に会いたいという気持ちが強かった。
この五年間、彼に会いたくて会いたくてたまらなかった。夢に出てきて抱きしめられる寸前で目が覚めて、そのまま泣いたこともある。その彼が今目の前にいる。
「なんだよ、蒼。久しぶりに会う彼氏に挨拶もなしかよ」
しかも穏やかな笑みを浮かべている仁は、蒼が思い返していた彼の何倍もカッコいいのだ。
たまらずに、蒼は彼の胸に抱きついた。
「せん……ぱ……」
大好きな彼の香りを吸い込んで腕に力を込めて彼の存在を確認する。夢の中のように消えてしまうことも、目が覚めることもなかった。彼が身につけている高級そうなシャツを汚してしまうかも知れないと思いつつ涙を止めることはできなかった。
「おかえり……なさい。せんぱ……」
「遅くなってごめん」
蒼の髪に低い声が囁いた。
蒼はぶんぶんと首を横に振る。帰ってきてくれた、それだけで十分だ。
寂しかった気持ちも、つらかった夜も、今すべて吹き飛んだ。また彼に会えた、それだけで。
それは仁も同じ気持ちのようだった。
「蒼、やっと会えた」
髪に感じる吐息が少し震えていた。
「ね、あれ蒼くんじゃない?」
「あ、ほんとだ……」
通り過ぎる女子生徒たちの囁き合う声が聞こえる。そこで蒼はここが外だと思い出し、慌てて顔を離した。こんなところで抱き合ってたら、注目を集めるのは当然だ。
「す、すみません……」
言いながら身体を離そうとするけれど、仁の腕にがっちりと囲まれていて無理だった。
「なんだよ」
じたばたする蒼に仁が不満そうにした。
「ちょ、ちょっと人目が……」
「べつにこのくらい普通だろ」
「普通じゃないですよ。先輩、ここ日本ですよ」
そんなやり取りをしていると。
「やっぱり蒼くんだ」
女の子たちがまたヒソヒソと話しだす。足を止めて完全に蒼たちに注目している。
仁が彼女たちをチラリと見て蒼に問いかける。
「蒼あの子たち、友達?」
「……いえ」
「お前有名なの?」
「違いますけど」
蒼は聞かれたことに正直に答える。が仁は納得しなかった。
「名前知ってるみたいだぜ」
「飲み会の参加率が悪いから、レアキャラ扱いされてるって結城が言ってました」
仁が渋い表情になった。
「蒼、お前ここでもファンを増やしてたのか。結城をボディーガードに仕上げておいて正解だな」
「な、なんですかそれ。変な誤解しないでください」
再会して五分でさっそくいらぬ心配をする仁に呆れながら蒼は事実を説明する。
「人気があるのは結城ですよ。あいつ顔が広いから。一緒にいると自然に覚えられるんだと思います」
ネットニュースで検索するとこの五年間の彼の功績は素晴らしいものだった。有能な後継者がいる筧グループはこれからも業績を伸ばし続けるだろうと言われている。それなのに、こんな小さなことにこだわるのがおかしかった。とても世間で知られている筧仁と同一人物とは思えない。
仁がため息をついた。
「蒼、お前、相変わらずだな……」
その時。
「てかさ、あれってもしかして……。ほら結城が蒼くんには本命がいるから飲み会に来ないみたいなこと言ってたじゃん」
「え? じゃあ……そういうこと?」
その言葉の内容に、仁がパッと彼女たちを振り返る。ビクッとする彼女たちに向かってにっこりと微笑んでひらひらと手を振った。
女の子たちからきゃーという声があがった。
「絶対そうだよ」
「てか。めっっっっちゃ! お似合いだね」
「いいもの見た~!」
口々に言い合って、きゃいきゃいと話しながら去っていく。
その反応に満足したのか、仁がようやく蒼を腕から解放した。
「先輩……」
蒼はジロリと彼を睨むが仁の方はどこ吹く風である。
「行こう、蒼」
そう言って蒼の手を繋いで歩き出した。
「わっ、せ、先輩」
いきなりの彼の行動に驚きつつ、蒼も彼について歩きだす。
久しぶりの彼の手の温もりに、心にあたたかいものが広がった。すれ違う人が振り返り自分たちを見ているが、そんなことは気にならなくなっていく。
本当に帰ってきてくれた。
それだけで、ほかにはなにもいらない、そんな気分だ。
心底嬉しそうに笑みを浮かべて颯爽と歩く仁の綺麗な横顔に向かって問いかける。
「行くって、どこにですか?」
仁が振り返り、ニッと笑った。
「決まってるだろ。ふたりきりになれるとこ」
目の前に広がるのは、雲ひとつない真っ青な空。
手を繋ぎ歩くふたりの頭上を、大きなトンボがひらりと飛んだ。