外はビュービューと木枯らしが吹いている。
 少し強い風が吹いて古い窓枠がガタガタと鳴っていた。旧校舎にある写真部の部室では、蒼がパソコンをいじるカチカチという音だけが響いている。
 いつものように写真の整理をしているが、まったく集中できていない。それはすぐ後ろに座って蒼の腰に腕を回し蒼の肩に顎を乗せ、パソコンの画面を見ている仁のせいだ。こんなにべったりとくっつかれている状況で作業に集中できるはずがない。自分を包む体温と少しスパイシーな香りに蒼の頬が熱くなる。
「あ、俺、その写真好き。トンボのやつ。俺、はじめて見たときマジで泣きそうになったもん」
 蒼の心を乱しておきながら、当の本人は呑気にそんなことを言っている。低い声が蒼の耳をくすぐった。
「これ待ち受けにするからくれよ。転送して」
 一方的に言って自分のポケットからスマホを出している。後ろから蒼を覗き込んで、不思議そうに首を傾げた。
「蒼? お前顔赤くない? 体調悪いのか?」
 大きな手が蒼の額に当てられる。
「熱はないみたいだけど」
「そうじゃなくて。……先輩、なんでここにいるんですか? 昼寝しなくていいんですか」
 暗に仁がそばにいるからだと告げると、仁がにっと笑った。
「なにお前恥ずかしいの? 今更このくらい」
「いっ……今更とか言わないでくださいよ」
 ますます真っ赤になって蒼は声をあげる。
 ふたりはすでにキスまでいった仲、確かにすでにそこまでいっているならばこれくらいは普通かもしれないが、慣れるということはないと思う。
「昼寝、しなくていいんですか?」
「あそこ寒ぃんだよ。蒼の身体あったかくて気持ちいい。これからは俺こうやって昼寝する。蒼は好きにしてていいぜ」
 蒼の腰に回した腕に力を込めて仁が蒼の肩に頬をすりすりとする。柔らかい髪が蒼の頬をくすぐった。仕草は可愛いけれど横暴なヒョウか何かになつかれたような気分だった。
 こんな姿勢じゃなにもできない。
「こんなんじゃ、俺冬中、作業進まないですよ」
「なんでだよ、嫌?」
「嫌じゃないけど……」
 蒼がそう言った時。
 がらりとドアが開く音がして、びくっと肩をふるわせた。
 開いたドアの向こうには上級生が立っている。ネクタイの色からして二年生ということはわかるが蒼は知らない顔だった。くっついているふたりを見て汚らわしいというように眉を寄せた。
「仁、お前正気か?」
 上級生が仁を見下ろしてそう言った。仁が蒼にべったりとくっついていることを言っているのだろう。蒼は知らない顔だが、ふたりは顔見知りのようだ。
「ノックくらいしろよ、和臣。のぞきに来たのか変態」
 仁が答えた。
 和臣という名前には蒼にも聞き覚えがある。学園に所属するもうひとりの筧家の人間、筧和臣だ。たしか、仁のいとこに当たる人物だったような……。
 けれど蒼はこれ以上の情報を知らなかった。
 和臣の方は学園ではそれほど有名な人物ではないからだ。
「お前がおじいさまの呼び出しを無視しているからだろう。俺になんとしても連れてこいと指示されたんだよ。俺だってお前なんかと話したくないのに」
 仁が祖父からの呼び出しを無視しているという言葉に、蒼は目を見開いた。
 振り返り仁を見ると言われたことに特に驚いた様子はない。まるでこうなることは予想していたかのようだった。
 そういえば少し前の昼休みに、仁のスマホが鳴っていた時のことを思い出す。彼はあの時、折り返すと言っていたが……。
 でもなぜ?
 はじめて話をした時、彼は祖父には誰も逆らえないと言っていた。だからこそ本意ではない入寮を命じられても従ったのだろうし、その後も呼び出しには素直に応じていた。
 ここへきて、従兄弟に直接言いに来させるくらい無視しているのが不可解だ。
 和臣が汚らわしいというような目で蒼を見た。
「呼び出しの理由はわかっているだろう」
 その視線に蒼はドキッとする。彼が自分を見るということは、まさか自分がに関係することだろうか。
 仁には確信があるようだった。
「ルームメイトと仲良くすることをじいさんは喜んでたはずだけど」
「だけど、気持ち悪い内容なら話は別だろう」
 その言葉に、仁の目つきが変わる。この場の空気がビリッとした。押し殺した声をだした。
「……ただの冗談をお前が大げさに報告したんだろ? 俺の情報を流すくらいしかじいさんに取り入る手段がない卑怯者」
 仁からの辛辣な言葉に、和臣が頬を歪める。
 そのやり取りに、親戚同士とはいえふたりの仲が険悪だということが蒼にもわかった。
 と同時に血の気が引いていく。
 やはり呼び出しの理由は、蒼と仁がまるで付き合っているかのように学園で噂されていることについてだ。当初はわざと流した冗談のような噂だが、今はそうではない。
「大袈裟、本当にそうか?」
 和臣がギリッと奥歯を噛み締めて、呟いた。
 そして自分のスマホを出して画面を開いてこちらへ見せる。画面に映し出された写真に、蒼は目を見開いた。蒼と仁が裏庭でキスをしている写真だ。
 この間、結城に勉強を教えた日の写真だろう。撮られていたなんてまったく気がつかなかった。
 仁が一段低い声を出した。
「隠し撮りなんていい趣味してるじゃんお前。でも人が楽しんでるところをこそこそ撮るのは犯罪だぜ。そんなんだからお前はじいさんに見放されるんだ」
「うるさい! 俺は筧家にとって不名誉なことが許せないだけだ。どんな小さなことでも報告するのが一族の義務だろう」
 顔を真っ赤にして和臣が怒鳴る。
 仁が、心底軽蔑したような視線を送った。
「一族の義務ね……。それでじいさんはその褒美にお前を跡取りにするって約束してくれた? ならよかったじゃん。おめでとう」
 その言葉に和臣がぎりりと奥歯を噛みしめた。
「とにかく、週明けには屋敷へ帰れ! じゃないとお前が大事にしてるそいつもただでは済まないからな」
 そう言ってばたばたと部屋を出ていった。
 仁がため息をついて立ち上がり開いたままになっているドアを閉めて戻ってくる。
 その彼に、蒼は真っ青になって呼びがかけた。
「せ、先輩……。おじいさんにバレたならまずいんじゃ」
 彼は名家の御曹司なのだから、まずいということは考えなくてもわかる。
 仁が蒼の肩に手を置いて低い声で答えた。
「大丈夫だ、蒼。お前に手出しはさせねえから」
「俺のことを心配しているわけじゃありません! そうじゃなくて! 先輩が……」
 あんなに心をすり減らし過剰に王子さまを演じていた。仁がそこまで追い詰められていたのは、筧家という名家に生まれたからだろう。彼の理解者が家にいないということくらいは蒼にもわかる。
 この後、彼が家でどんな扱いを受けるのかそれがわからなくて不安だった。
「俺のせいで……」
「蒼のせいじゃねえよ。好きだって言い出したのは俺だろ?」
「でも、それを皆の前で言う必要があったのは俺のためじゃないですか。俺の過去の噂をうやむやにするために……」
 あそこまで言いふらさなければ、たとえこうなっていてもこんなに早く周りに知られることはなかったはずだ。
 この先どうなって行くのか不安でたまらない蒼とは対称的に仁は落ち着いている。
 蒼の頭をぐしゃっとなでた。
「落ち着けって蒼。予想より早かったけど全部想定内だから」
「想定内?」
「ああ、俺のいる世界はくそなんだ。いつかはこうなるのはわかっていた。だから覚悟はしていた」
 こうなることはすでにわかっていたという仁に蒼は驚きを隠せなかった。改めて彼の育った環境は蒼とはまったく比べものにならない別世界なのだと思い知る。
「仁先輩……」
 仁が身を屈め蒼の肩に手を置き、蒼を見つめた。
「俺は蒼のカメラの中の俺の写真を見た時に、覚悟を決めていた」
「あの時に……?」
「ああ、蒼も俺を想ってくれてるのかもって気がついた時に。蒼と一緒にいたければ俺はこのままではダメなんだ。俺がいるクソみたいな世界と蒼の撮る綺麗な世界の壁をぶっ壊して、どこででもお前を守ってやれるようにならないと」
 揺るぎない決意を口にする彼の目が、強い光を湛えている。
 笑顔の仮面をかぶっている王子さまの顔でもなく、蒼の前でだけ見せる少し危うい優しい彼でもないはじめての顔だった。
 こんなに綺麗な目をした人を見たことがないと蒼は思う。
 仁が蒼を強く抱きしめた。
 耳元で低い声が囁いた。
「……蒼、お前何年待てる?」
 その声が少し震えているのに気がついて、蒼は彼がしようとしていることに思いあたる。
 詳細はわからなくとも彼にとって荊の道、その間ふたりは……。
 胸がなにかに刺されたように痛かった。強大な権力にたったひとりで立ち向かう彼の力になれないのがつらかった。
「先輩」
 世界の壁をぶっ壊すという言葉の意味を理解できないままに、蒼は彼に問いかける。
「先輩、俺にできることはありますか?」
 ただの高校生でしかない自分にできることなどないだろう。けれど聞かずにはいられなかった。
 蒼を抱く仁の腕に力がこもる。
「そのままでいてくれ、蒼。お前は変わらずに……俺を……」
 懇願するようなその声に蒼の胸は熱くなった。大きなものに立ち向かうために彼は変わろうとしている。その彼と生きていきたいというならば、自分も強くならなくては。
 背中に回した手でギュッと彼のシャツを握りしめた。彼の肩に顔を埋めて宣言する。
「何年でも待ちます! 俺は絶対に変わらないから」
 仁の腕が緩み、少し身を離して至近距離から蒼を見る。大好きなその目を、蒼は睨んだ。
「てか、何年とか聞かないでくださいよ。俺を見くびらないでください。今だけじゃないって言ったでしょう? 俺の愛は世界一重いんです。いつまででも先輩を想い続けます。もうやめてくれって言われてもやめません!」
「蒼」
 仁の瞳が一瞬揺れる。
「世界一じゃねえ、二番目だ。……絶対俺の方が重いから」
 蒼は、泣き出しそうになるのを唇を噛んでぐっと堪えた。
「先輩、力になれなくてごめんなさい。俺のせいで家と揉めることになってごめんなさい。でも俺、それでも先輩と一緒にいたい。ずっと待っていますから、必ず帰ってきてください」
 彼の負担になるならば、身を引くべきかもしれないが、もうそれはできなかった。ふたりは強く硬い絆で結ばれてしまっている。
「先輩こそ、約束してください。なにがあっても俺のところ帰ってきてくれるって」
 挑むようにそう言うと、仁が目元を緩めてふっと笑う。その笑みはもういつもの彼だった。そして大きな手で、蒼の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「あたりまえだ。絶対に帰ってくるから、お前死んでも浮気すんなよ」
 
 次の週、筧仁が退学したというニュースが学園中に駆け巡った。