「ここは、ここがこのTHATにかかってて……」
「あーなるほど、だからこっちの意味になるんだな」
「そうそう」
 十一月にしては暖かい日差しに照らされた、人気のない学園の裏庭。生徒が自由にランチを楽しめるように置いてあるベンチとテーブルにて、蒼は向かいに座る結城に英語の訳を解説している。午後の授業でやると思しき箇所である。
 結城は今日は確実に指名されるようで、予習が必須の日だった。にもかかわらず、昨日は夜遅くまで練習をしていてそのまま寝てしまったという。このままではまずいから昼休みの間に手伝ってほしいを頼まれたのだ。
 予習は自分にとっても勉強になると思い蒼は心よく了承した。ここのところ仁とのことで落ち着かない日が続いていて勉強に集中できない日も多かったから期末に向けて巻き返す必要がある。
 相変わらず昼は毎日仁と一緒だけれど、事情を話せば問題ない。そしていつもの食堂ではなく静かな裏庭で食べたながらやろうということになったのだ。
 仁は蒼の隣でメロンパンをかじっている。
「だけど、ここは……あれ? おかしいな、どういう意味だ?」
 蒼は言葉に詰まり首を傾げる。説明しながら頭がぐちゃぐちゃになってきた。
「そこはこの文法になってる」
 仁が口を挟んだ。
 そして例文をすらすらと読み、解説をする。さすがは中学までロスにいただけあって完璧な発音だ。なにより解説がわかりやすい。
 蒼だけでなく、英語は超絶苦手だと宣言している結城も一発で理解できたようだ。
「なるほど! わかりました。あーよかった……なんとかなりそう」
 さっきまでこの世の終わりのような顔をしていたのが嘘のように明るく言った。
「あーざす! さすがは仁先輩」
 人なつっこい笑顔で仁に向かって頭を下げた。
「いつもトップの人は教え方まで上手っすね」
 仁が肩をすくめた。
「他の教科も教え方が上手なんですよね? 蒼の成績が上がったのは仁先輩のおかげなんだろ?」
 結城に尋ねられて蒼は頷いた。
「うん、そう」
 勉強自体は基本的には自分で進めるが、わからないところがあるとすぐに聞けるのはありがたい。しかもその解説は授業なんかよりずっとわかりやすいのだ。
「いーなー!」
 結城がのけぞってうなった。
「俺も仁先輩みたいな人が近くにいれば、もうちょっと成績上がるのに。蒼が先輩に勉強を教えてもらうのってやっぱ夜?」
「うん、後は放課後の部室とか……」
 写真の整理やカメラの手入れは毎日する必要はない。だから以前は毎日部室に行っていたわけではなかった。
 けれど仁と同室になってからは彼の昼寝のためにほとんど毎日行くようになったのだ。蒼はその空いた時間を勉強に充てることにしている。仁は基本的には寝ているが、頼めばめんどくさがらずに教えてくれる。
「マジで?」
 結城が声をあげた。
「なら、俺もその時間にまぜてもらえたら成績もうちょっと上がるんじゃね? テスト週間は部活が休みになるからさ……」
 とそこで、ベンチの蒼の後ろあたりに長い腕を置いて彼の話を聞いている仁に視線を送り、口を閉じた。
「いや……自分の力でやるべきだよな。ふたりの……いや蒼の勉強の邪魔になったら申し訳ないし」
 そう言って机の上のノートを閉じてペンをしまいはじめる。
「蒼、ありがとう。なんとかなりそうだから、あとは教室に帰ってひとりでやるよ」
 そう言ってあたふたと立ち上がった。
「え? あと少しだから最後までやっていけばいいのに」
「いや! 大丈夫! 貴重なふたりの……いやお前の昼休みを削るのは申し訳ないし」
 蒼が止めるのも聞かずに彼はさっさと校舎に戻っていった。
 蒼が隣の仁を見ると彼は満足げな笑みを浮かべている。
「……先輩?」
 睨むと、眉を上げて口を開いた。
「俺はなにも言ってないぜ?」
「いや、結城を睨んだでしょ」
「睨んでないって。そう見えたとしたらあいつの思い込みだ」
 だとしても、そう思い込むくらい普段から威嚇されているということだ。
 しかもこの状況に仁は満足している。
「……でもあいつもようやく空気が読めるようになってきたみたいだな。もうちょっと早くてもよかったけど。おかげで貴重な蒼との昼休みが半分近くつぶれた」
「仁先輩! ……もう本当に気にしすぎですって。どう考えてもただの友達なのに」
 蒼は頬を膨らませてぶつぶつと言うが、仁はどこ吹く風である。そよ風に髪をなびかせて気持ち良さそうに蒼の肩に頭を乗せた。
 そこへ蒼のクラスの女子グループが通りかかった。
「あ! 仁先輩だ。今日も阿佐美くんとランチデートですね!」
 ランチデートなどという言葉にパックのジュースを飲んでいた蒼は噴き出しそうになってしまうが、仁は機嫌良く答えた。
「そう。さっきまでは結城くんがいたけどね。彼午後の英語が当たるらしくって焦ってやってたよ」
「えー! ダメじゃん結城、邪魔しちゃ。後で注意しておきますね」
「んーでも、蒼のお友達は俺も大切にしたいし」
 そう言って彼は蒼の肩を抱く。少しスパイシーな香りを感じて蒼の頬が熱くなった。
 女子がきゃっと声をあげた。
「仁先輩! もしかしてもしかして、片想いかなっちゃった感じですか?」
 頬を染めて仁に聞く。
 蒼の胸がドキッとした。
 仁の片想い設定は限りなく本当に近いネタだというのが学園の皆の共通の認識らしい。
「ねえ、阿佐美くん。ついについに仁先輩の気持ちに応えることにしたの?」
「きゃーうらやましい!」
 きゃいきゃいと騒いでいる。
「えーっと」
 なんと答えるべきか口ごもっていると、仁が口を開いた。
「それは俺らだけの秘密にさせて。ごめんね」
 そう言って得意の王子さまスマイルを浮かべると、女子たちはまたきゃーっと声をあげた。
「じゃあ、お邪魔にならないように私たちはいきます」
 そんなことを言って去っていった。
 完全にいい風に解釈してしまっている。
 恥ずかしくて頬が真っ赤になるのを感じながら蒼は隣の仁を睨んだ。
「いいんですか先輩。あんなこと言って」
「あんなことってなんだ?」
 蒼は声を落とした。
「俺たち完全に付き合ってるって思われてしまいますよ」
 仁が首を傾げた。
「それの何がダメなんだ? 前とそんなに変わりないだろ」
「でも」
「それに、事実じゃないか。なに蒼お前、隠して起きたい派? 偏見とか怖い? ……まあそれなら俺も考えなくはないけど」
 仁が少し真面目な表情になった。
「俺はべつにいいんです。どうせもう半分以上バレてるみたいなものだし」
 でも隠しておいた方がいいと思っているのは事実だった。それは自分のためではなく仁のことを心配しているのだ。
 自分と違って彼は背負うものが多い。それでなくても最近は王子さまを演じるのを止めている。それが筧家の御曹司としてどう影響するかもわからないうちに、下級生の、しかも男と付き合っていると知られたらどうなるかわからない。
 考えながら上目遣いに彼を見る。
「俺は先輩のことを心配しているんです。先輩は俺と違って家が厳しそうだし」
 そう言って目を伏せる。
 仁が嬉しそうに笑った。
「へえ、俺のことを心配してくれてるのか」
「そうですよ、当たり前でしょう」
 蒼は周りを見回して人気がないことを確認する。そして小さな声で付け足した。
「先輩は俺の……か、彼氏なんだから」
 仁がガバッと蒼に抱きついた。そのまま蒼の髪に頬ずりをする。
「蒼、お前、可愛いこと言うじゃん」
「せ、先輩! ダメだって! 人が来るかもしれないですよ」
「うるせー! お前が煽るから悪いんだ」
 そんなことを言って、あろうことか蒼の顎を掴んだ。キスするつもりだと気がついて、蒼は慌てて迫る彼の胸を押した。
 嫌だというわけではないけれど、いつ誰が来るともかぎらないこんなところですることではない。
「せ、先輩……!」
「大丈夫だってちょっとくらい」
 蒼はジタバタするけれど体格差のある仁に押さえ込まれては敵わない。あっという間に唇を奪われてしまった。
「ん……」
 蒼は彼の制服のシャツをギュッと握り締めた。
 ——ようやく解放されて少しぼんやりとする視線の先で、仁がニヤリと笑った。
「いろいろがまんしてやってるんだから、これくらいはいつでもさせろ」
 そう言って彼は蒼の膝を枕にごろんと横になった。
「あー……俺、幸せで死にそう……」
 秋の空を見上げて、心底嬉しそうに言った。
 膝枕も誰かに見られたらただでは済まないと思うけれど、蒼も抵抗するのは止めて空を眺める。
 蒼だってまったく同じ気持ちだった。秋から冬に変わりゆく季節を、彼と一緒に見ていられるのが幸せだ。彼と一緒にいると、ファインダーごしでなくても世界は美しい。少し前は考えられなかったことだから。
 仁が何かに気がついたようにポケットに手を入れて、スマホを取り出した。どうやらどこかからの着信のようだ。けれど彼はそれには出ずにまたポケットにしまった。
「出なくていいんですか?」
「……長くなりそうだから、あとで折り返す」
 彼はどこからとは言わずにそう言った。そして、蒼を見上げる。
「蒼、今週も林へ写真を撮りに行くんだろ? 俺もついて行っていい?」
「いいですよ。だけど、そんなに面白くないと思いますけど」
 蒼の撮影に彼がついてくることは時々あるが、たいてい岩の上で寝ているだけである。
「週末は寒くなるって話だから、部屋で寝てた方がよくないですか?」
「んーだけど、お前と一緒にいる方がよく寝れるし」
 そんなことを言って彼は目を閉じた。
 膝に感じる柔らかな髪の感触に蒼の心はこつんとなった。
 この彼が、いつかの日、すごく疲れていたときの彼と重なって見えたからだ。蒼には想像もできない重たいものを彼は背負っている。それはまだ高校生でしかない自分では力になれないものだろう。
 だから彼は蒼になにも言わないのだ。
 好きだという気持ちしかない自分では、彼に頼ってもらうことはできない。それがもどかしくて情けなかった。
 茶色い髪に指を絡めて、蒼はそんなこと考えた。また、彼のポケットの中でスマホが震える音がする。
 ……けれど彼はもう出ようとはしなかった。