「おーい、こっちー」
「パース」
日曜日の相澤学園の校庭に、サッカー部のユニフォームを着たたくさんの選手が集まっている。相澤学園の生徒だけでなく他校の生徒も混ざっているのは今日が地区大会だからだ。他県からもサッカーチームが集まっている。
そこへサッカー部でもない蒼がわざわざ寮から出てやってきたのは、サッカー部で大会に参加している結城との約束があるからだった。とは言ってもべつに彼の試合を見に来たわけではない。
彼から数学のノートを返してもらうためだ。
アルバムの制作を手伝ったあの日から、彼とは時々教室でも話をするようになった。サッカーをするために相澤学園を選んだという彼は授業についていくのがやっとという状態のようで、成績は常にギリギリ。朝練がある時は授業中寝ていることもあるから、こうやってノートを貸してあげる。
代わりにというわけではないけれど、仁がいない時に蒼が女子に話しかけられるとうまく間に入ってくれる。教室以外でも仁がいない時に話しかけられることが増えた蒼は助かっている。
「蒼」
校舎と校庭を仕切るフェンスから彼を探していた蒼は呼ばれて振り向く。校舎側から結城がやってきた。手にノートを持っている。
「これありがとう。いつも悪いな」
「いいよ。試合はこれから?」
「うん。っていっても俺はレギュラーじゃないから出られないけど」
そう言って彼は蒼の周りを確認する。仁がいないか確認しているのだ。
「先輩は部屋にいるよ」
蒼が言うと大袈裟にほっとしてみせる。
あれからたびたび移動教室などで蒼といるところを目撃されている彼は、すっかり仁にマークされている。ただの友だちだといくら言っても無駄に威嚇するから、彼はびくびくしているのだ。
「お前、本当愛されてるよなー。俺と会うことちゃんと言ってきたか?」
「……べつに言う必要なんてないし。ノートをもらうだけなんだから」
蒼は口を尖らせた。半分冗談でそんなことを言い合うのももう慣れた。ノートを上げて、寮に戻ることにする。
「じゃあな」
「おー。月曜に」
校舎沿いを寮目指して歩く。
寮に近づくにつれて、人は少なくなっていく。寮の門まで来て、他校の男子生徒が寮がある方向を伺っているのが見えた。門にはこの先は寮だとはっきり書いてある。校舎内の施設ならともかくどうしてこんなところにいるのだろうと、蒼は首を傾げる。
訝しみながら彼の側を通り抜けようとして相手の顔を見た瞬間、目を見開いて立ち尽くした。蒼の幼なじみ佐藤良樹だったからである。
「蒼」
良樹の方も驚いてはいた。けれど蒼ほどではない。蒼は自分の進学先を直接彼に伝えてはいないが、家が近所なのだから知っていてもおかしくはない。もしかしたら蒼がいるかもしれないとわかっていて寮の方を伺っていたのかもしれない。
「蒼、久しぶり」
かつての親友からの言葉に、蒼はすぐに答えられなかった。身体が金縛りに遭ったように動かない。
回らない思考で蒼はなぜ彼がここにいるのだろうと考えていた。そういえば彼はサッカー部だった。今日の大会でこの街に来たのだろう。そして蒼がここに通っていることを知っていて寮の近くにいたとうことだろうか。
でもなぜ?
あの出来事があってから、卒業するまでひと言も口をきかなかった。それどころか目も合わなかったというのに。
突然過去のトラウマが頭の中を駆け巡り、呼吸が浅くなって息苦しさを覚えた。
よりによってこんな時に、と蒼は思う。
ノートを受け取るだけだしと思い今日はマスクをしていない。良樹に自分の顔を晒しているのが耐えられなかった。
ぐらりと目眩を感じた、その時。
「蒼‼︎」
聞き覚えのある低い声が自分を呼ぶ。気がついた時には、仁に支えられていた。
「先輩……」
「大丈夫か⁉︎」
蒼をしっかりと抱えたまま、彼は心配そうに蒼を覗き込む。大好きな彼の茶色い瞳と、スパイシーな香りを感じて蒼の心が少しだけ落ち着いた。
同時に胸が苦しいくらいに締め付けられる。いつもいつも彼は、蒼の危機に来てくれる。そして自分は彼が来てくれたというだけでこんなにも安心するのだ。
「大丈夫です……少し驚いただけですから」
その言葉に、仁が良樹を見た。蒼がこうなった原因が彼だということに気がついたようだ。
「彼は?」
鋭い視線を動かすことなく蒼に問いかけた。
「……幼なじみです」
「幼なじみ?」
眉を寄せて繰り返した。
ただ昔の友達に会っただけで、こんな風になるわけがない。
「もしかして……」と言いかけて口を閉じる。
そこへ、良樹が口を開いた。
「蒼、あの時はごめん!」
静かな林に彼の声が響き渡る。意外な言葉に顔を上げると、彼はこちらに向かって頭を下げていた。
「良樹……」
ようやく蒼の口から彼の名前が出た。
「謝って済むことじゃないけど、どうしても謝りたくて。でもお前、実家にも帰ってないって聞いてたから……今日会えたら絶対に謝るつもりだったんだ」
あらかじめなにを言うか決めていたのだろう。頭を下げたまま彼は一気にそう言った。
謝りにきたという彼の言葉に蒼は驚き言葉を失う。どうして彼がわざわざ蒼に会いにきたのか見当もつかなかったけれど、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
良樹が顔を上げて、苦しげな表情で蒼を見る。
「友達だったのに、あの時、皆にからかわれていたお前を助けられなくて……ごめん」
「あ、あれは……良樹のせいじゃない。もういいよ」
ようやく蒼の口から声が出る。
自分を支える仁の腕をギュッと握った。むしろあの出来事の引き金になったのは蒼の振る舞いが原因だったのだ。
「良樹は悪くない。仕方がなかったんだ。あんな噂をたてられたら、誰だって気持ち悪いし……」
自嘲気味に蒼は言った。もう蒸し返さないでほしかった。彼に対する想いはもうないけれど、苦い失恋だったことには違いないのだから。
けれど良樹は言葉を続ける。
「気持ち悪いなんて思わなかった。もちろんいろいろ言われてびっくりしたけど、だからといってそれまでの蒼との時間をなしにしたいなんて思わなかった。でもお前が、もう話をしてくれなくなったから……」
最後は絞り出すように言う。
その言葉に、蒼はあの頃の自分を思い出す。そういえば何度か良樹と遭遇した時、彼はなにか言いたげにしていたような気がする。けれどその時の蒼はとにかくどんな言葉も聞きたくないと逃げたのだ。てっきり彼には軽蔑されたと思っていから。
「皆の前では話かける勇気がなかった俺に幻滅したんだっていうのはわかってたけど……」
「そうじゃない!」
思わず蒼は彼の言葉を遮った。
そんな理由で彼を避けていたわけではない。
「そんなこと思ってないよ。あの状況で皆の前で俺に話しかけられるはずなんてないし……ただ良樹だって俺の顔を見たくないかなと思って」
良樹が泣き笑いのような顔になった。
「そんなこと思うわけないじゃん。ずっと友達だったのに」
その言葉に、蒼はずっと自分が思い違いをしていたことに気がついた。あの出来事以来、良樹には完全に嫌われたと思っていたけれど、そうではなかったのだ。
もちろん当時の蒼の気持ちとは違うけれど彼は変わらず蒼に友情を感じてくれていた。こんな遠いところで会えるかどうかもわからないのに、謝るために自分を探してくれていたのだから。
「ありがとう、良樹」
落ち着いた気持ちで蒼は彼に答えた。
「そう言ってくれて、嬉しいよ」
「蒼……」
良樹がほっとしたような表情になった。そして、蒼を支えている仁を見た。
「こっちでお前がひとりじゃなくて安心した。お前、自分から人に話しかけたりしないから」
小さな頃から蒼を引っ張ってくれた彼らしい言葉に、蒼は笑みを浮かべた。
「たまには地元に帰ってこいよ。また会おうぜ」
そう言ってにかっと笑う。完全に昔の彼だ。
蒼も「ああ」と答えた。
「じゃあ俺、そろそろ行かなきゃ。練習抜けてきたのがバレないうちに」
そう言って、良樹はグラウンドの方へ走っていった。その背中を見つめながら、心にあった重たいものがすっと取れていくのを感じた。自分の自信のなさの根底にあったものだ。
「もしかしてあいつが、蒼がマスクをつける原因になったやつ?」
良樹が完全に見えなくなるのを待って仁が口を開いた。
「……はい」
「美希が言ってた事件ってやつと関係があるのか?」
「中学の時……俺があいつを好きなんじゃないかって学校中の噂になって……それから話さなくなったんです」
なんとなく気まずい思いで蒼は彼に説明する。美希の話を聞いた時も深く追求しなかった彼が、こうして聞いているのはさっきのやり取りが気になるからだろう。
「で? その噂は本当だったのかよ」
少し不機嫌に尋ねられて、蒼は言葉に詰まる。彼にとっては聞きたくないことかもしれないということが頭をよぎる。でもだからといって嘘をつくわけにもいかなくて、蒼はためらいながら頷いた。
「う……はい」
すると仁は突然、蒼を支えていた手を離しくるりとこちらに背を向けた。そしてそのまますたすたと寮に向かって歩いていく。
蒼は慌てて後を追った。
「先輩、仁先輩……!」
不機嫌を隠そうともしないその背中に蒼は呼びかけるけれど、彼は答えてくれなかった。ただのクラスメイトの結城と仲良くすることにすら、やきもちを焼く彼が、蒼の初恋の相手と話していたと知って平気なわけがない。
そのまま男子寮の玄関を抜けて長い廊下を歩いていく。蒼が彼に追いついたのは、部屋についたからだ。
後ろでバタンとドアが閉まる。それでも彼はこちらを向かなかった。
拗ねているようなその背中に、蒼の胸は彼への想いでいっぱいになる。たまらなくなって広い背中に抱きついた。
「先輩……!」
その少し唐突な蒼の行動は、仁にとって意外だったようだ。
「蒼……?」
珍しく戸惑うような声を出して振り向いた。背の高い彼を見上げて、蒼は想いを口にする。
「仁先輩、好きです!」
仁が綺麗な目を見開いた。
なんの前置きもなくいきなりなんだと思われているだろうか。
それでも蒼は今すぐに伝えたかった。
さっきの良樹とのやり取りで自分の馬鹿さを再認識した。
彼に軽蔑されたと思い込んでいた自分の弱さと自信のなさが、長い間の良樹との繋がりを断ち切っていたのだ。蒼が自分に自信を持っていれば、彼との友情は続いていた。こんなに苦しむことはなかったかもしれないのに。
そしてそれは今の自分にも言えることだと気がついたのだ。蒼の中の弱い部分が、仁の気持ちに応えることを怖がっている。
けれどそれではまた同じことを繰り返してしまうかもしれない。それだけは嫌だった。
さっき、林で駆けつけてくれた時の手の温もり。
自分を支えてくれた力強さ。
それに心から安心した自分。
彼だけは、仁だけは失いたくない。
それには、怖くても勇気を出して自分の足で一歩踏み出す必要がある。
「もうあいつにはそういう気持ちはありません。俺は……今の俺は、先輩が、仁先輩だけが好きだから……!」
彼の服を握りしめて、大好きな彼の目を見つめて蒼は彼に訴える。胸の奥が燃えるように熱かった。
好きだなんて言葉ではとても言い表せないと思うほど、蒼にとって彼は大切な存在だ。
「仁先輩、俺、先輩が好きです」
他に言葉が見つからないのがもどかしかった。
背の高い彼を見上げて、蒼は心の中にある熱い想いを口にする。
「俺が撮る写真の中にいてほしいと思うのは仁先輩だけなんです。俺が一緒にいたいと思うのは先輩だけなんです!」
「蒼……!」
低い声に名を呼ばれたと同時に大きな腕に力強く抱きしめられる。耳元の声音が少し震えた。
「お前、遅えんだよ」
「決心できなくてごめんなさい。自分が先輩と釣り合うとは思えなくて」
けれどもう迷わない。釣り合わないと思うなら、自分が背伸びをすればいいだけだ。彼は手を差し伸べてくれるだろう。
仁が少し身を離して蒼の額に自分の額をくっつけ至近距離から蒼を見た。
「くだらねえこと気にして、馬鹿なやつ」
自分を見つめるその目を綺麗だと思ったその瞬間、仁のベッドにふたり倒れ込んだ。
「わっ……!」
仁が蒼を抱きしめたまま、ベッドに倒れ込んだのだ。
「あ、危ないじゃないですか」
目を丸くして蒼は声をあげるが、彼は心底嬉しそうに蒼を抱えて笑うだけだった。
蒼をぎゅっと抱きしめて蒼の髪をぐしゃぐしゃとする。
「やっと俺のものになった!」
その笑顔はどこか無邪気で、心底嬉しそうで。蒼が今まで見たことがない彼だった。その目が潤んでいるように思えて、蒼は口を閉じる。蒼の髪をぐしゃぐしゃとしたり、顔を埋める彼にされるがままである。
蒼だって同じ気持ちだった。
心から通じ合うことがこんなに幸せなものとは知らなかった。たとえこの先なにが起きても彼との絆があればなんだって乗り越えていけるそんな気分だ。
そのうちにいつのまにか、組み敷かれた格好になっている。蒼の両脇に手をついた仁が見下ろしていた。
その目に熱いものが浮かんでいるように思えて、蒼の胸がドキンと跳ねた。
「言っとくけど俺の愛は重いからな? 今だけとか思ってるとしたら……」
「そんなこと考えてるわけないじゃないですか。俺がこの結論を出すためにどれだけ悩んだと思ってるんですか。俺の方こそ……重いですよ」
気がついた瞬間から何度も消そうとした想いなのだ。それでもどうしても消えてくれなかった。この先もずっとずっと胸にあると確信している。だからこそ、この気持ちを伝えるのが怖かったのだ。
きっぱりと言い返した蒼に、仁がふっと笑う。大きな手が蒼の髪をかきあげる。その感覚がいつもと少し違うような気がして、蒼の背中がぞくりとした。
彼の視線がゆっくりと下りてきて。
——はじめては軽く触れるだけのキス。
それだけで、蒼の胸は痛いくらいに高鳴った。
人の唇ってこんなに柔らかいのか。
そんなことが頭に浮かぶ。自分を見下ろす仁の視線が再び下りてきて。
——もう一度。
今度は顎に添えられた手が蒼の唇を開くように促した。
なにもかもが熱く感じてもうこれ以上は無理だと蒼は思う。ようやく唇が離れた時にはぐったりとしてしまっていた。
ただでさえ、一度にいろいろなこと起こったのだ。幸せには違いないけれど、感情がついていかない。
「もう……無理……」
息を整えながらそう言うと、視線の先で仁ががっくりと肩を落とした。
「マジで? ……俺、また待たされるのかよ」
「パース」
日曜日の相澤学園の校庭に、サッカー部のユニフォームを着たたくさんの選手が集まっている。相澤学園の生徒だけでなく他校の生徒も混ざっているのは今日が地区大会だからだ。他県からもサッカーチームが集まっている。
そこへサッカー部でもない蒼がわざわざ寮から出てやってきたのは、サッカー部で大会に参加している結城との約束があるからだった。とは言ってもべつに彼の試合を見に来たわけではない。
彼から数学のノートを返してもらうためだ。
アルバムの制作を手伝ったあの日から、彼とは時々教室でも話をするようになった。サッカーをするために相澤学園を選んだという彼は授業についていくのがやっとという状態のようで、成績は常にギリギリ。朝練がある時は授業中寝ていることもあるから、こうやってノートを貸してあげる。
代わりにというわけではないけれど、仁がいない時に蒼が女子に話しかけられるとうまく間に入ってくれる。教室以外でも仁がいない時に話しかけられることが増えた蒼は助かっている。
「蒼」
校舎と校庭を仕切るフェンスから彼を探していた蒼は呼ばれて振り向く。校舎側から結城がやってきた。手にノートを持っている。
「これありがとう。いつも悪いな」
「いいよ。試合はこれから?」
「うん。っていっても俺はレギュラーじゃないから出られないけど」
そう言って彼は蒼の周りを確認する。仁がいないか確認しているのだ。
「先輩は部屋にいるよ」
蒼が言うと大袈裟にほっとしてみせる。
あれからたびたび移動教室などで蒼といるところを目撃されている彼は、すっかり仁にマークされている。ただの友だちだといくら言っても無駄に威嚇するから、彼はびくびくしているのだ。
「お前、本当愛されてるよなー。俺と会うことちゃんと言ってきたか?」
「……べつに言う必要なんてないし。ノートをもらうだけなんだから」
蒼は口を尖らせた。半分冗談でそんなことを言い合うのももう慣れた。ノートを上げて、寮に戻ることにする。
「じゃあな」
「おー。月曜に」
校舎沿いを寮目指して歩く。
寮に近づくにつれて、人は少なくなっていく。寮の門まで来て、他校の男子生徒が寮がある方向を伺っているのが見えた。門にはこの先は寮だとはっきり書いてある。校舎内の施設ならともかくどうしてこんなところにいるのだろうと、蒼は首を傾げる。
訝しみながら彼の側を通り抜けようとして相手の顔を見た瞬間、目を見開いて立ち尽くした。蒼の幼なじみ佐藤良樹だったからである。
「蒼」
良樹の方も驚いてはいた。けれど蒼ほどではない。蒼は自分の進学先を直接彼に伝えてはいないが、家が近所なのだから知っていてもおかしくはない。もしかしたら蒼がいるかもしれないとわかっていて寮の方を伺っていたのかもしれない。
「蒼、久しぶり」
かつての親友からの言葉に、蒼はすぐに答えられなかった。身体が金縛りに遭ったように動かない。
回らない思考で蒼はなぜ彼がここにいるのだろうと考えていた。そういえば彼はサッカー部だった。今日の大会でこの街に来たのだろう。そして蒼がここに通っていることを知っていて寮の近くにいたとうことだろうか。
でもなぜ?
あの出来事があってから、卒業するまでひと言も口をきかなかった。それどころか目も合わなかったというのに。
突然過去のトラウマが頭の中を駆け巡り、呼吸が浅くなって息苦しさを覚えた。
よりによってこんな時に、と蒼は思う。
ノートを受け取るだけだしと思い今日はマスクをしていない。良樹に自分の顔を晒しているのが耐えられなかった。
ぐらりと目眩を感じた、その時。
「蒼‼︎」
聞き覚えのある低い声が自分を呼ぶ。気がついた時には、仁に支えられていた。
「先輩……」
「大丈夫か⁉︎」
蒼をしっかりと抱えたまま、彼は心配そうに蒼を覗き込む。大好きな彼の茶色い瞳と、スパイシーな香りを感じて蒼の心が少しだけ落ち着いた。
同時に胸が苦しいくらいに締め付けられる。いつもいつも彼は、蒼の危機に来てくれる。そして自分は彼が来てくれたというだけでこんなにも安心するのだ。
「大丈夫です……少し驚いただけですから」
その言葉に、仁が良樹を見た。蒼がこうなった原因が彼だということに気がついたようだ。
「彼は?」
鋭い視線を動かすことなく蒼に問いかけた。
「……幼なじみです」
「幼なじみ?」
眉を寄せて繰り返した。
ただ昔の友達に会っただけで、こんな風になるわけがない。
「もしかして……」と言いかけて口を閉じる。
そこへ、良樹が口を開いた。
「蒼、あの時はごめん!」
静かな林に彼の声が響き渡る。意外な言葉に顔を上げると、彼はこちらに向かって頭を下げていた。
「良樹……」
ようやく蒼の口から彼の名前が出た。
「謝って済むことじゃないけど、どうしても謝りたくて。でもお前、実家にも帰ってないって聞いてたから……今日会えたら絶対に謝るつもりだったんだ」
あらかじめなにを言うか決めていたのだろう。頭を下げたまま彼は一気にそう言った。
謝りにきたという彼の言葉に蒼は驚き言葉を失う。どうして彼がわざわざ蒼に会いにきたのか見当もつかなかったけれど、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
良樹が顔を上げて、苦しげな表情で蒼を見る。
「友達だったのに、あの時、皆にからかわれていたお前を助けられなくて……ごめん」
「あ、あれは……良樹のせいじゃない。もういいよ」
ようやく蒼の口から声が出る。
自分を支える仁の腕をギュッと握った。むしろあの出来事の引き金になったのは蒼の振る舞いが原因だったのだ。
「良樹は悪くない。仕方がなかったんだ。あんな噂をたてられたら、誰だって気持ち悪いし……」
自嘲気味に蒼は言った。もう蒸し返さないでほしかった。彼に対する想いはもうないけれど、苦い失恋だったことには違いないのだから。
けれど良樹は言葉を続ける。
「気持ち悪いなんて思わなかった。もちろんいろいろ言われてびっくりしたけど、だからといってそれまでの蒼との時間をなしにしたいなんて思わなかった。でもお前が、もう話をしてくれなくなったから……」
最後は絞り出すように言う。
その言葉に、蒼はあの頃の自分を思い出す。そういえば何度か良樹と遭遇した時、彼はなにか言いたげにしていたような気がする。けれどその時の蒼はとにかくどんな言葉も聞きたくないと逃げたのだ。てっきり彼には軽蔑されたと思っていから。
「皆の前では話かける勇気がなかった俺に幻滅したんだっていうのはわかってたけど……」
「そうじゃない!」
思わず蒼は彼の言葉を遮った。
そんな理由で彼を避けていたわけではない。
「そんなこと思ってないよ。あの状況で皆の前で俺に話しかけられるはずなんてないし……ただ良樹だって俺の顔を見たくないかなと思って」
良樹が泣き笑いのような顔になった。
「そんなこと思うわけないじゃん。ずっと友達だったのに」
その言葉に、蒼はずっと自分が思い違いをしていたことに気がついた。あの出来事以来、良樹には完全に嫌われたと思っていたけれど、そうではなかったのだ。
もちろん当時の蒼の気持ちとは違うけれど彼は変わらず蒼に友情を感じてくれていた。こんな遠いところで会えるかどうかもわからないのに、謝るために自分を探してくれていたのだから。
「ありがとう、良樹」
落ち着いた気持ちで蒼は彼に答えた。
「そう言ってくれて、嬉しいよ」
「蒼……」
良樹がほっとしたような表情になった。そして、蒼を支えている仁を見た。
「こっちでお前がひとりじゃなくて安心した。お前、自分から人に話しかけたりしないから」
小さな頃から蒼を引っ張ってくれた彼らしい言葉に、蒼は笑みを浮かべた。
「たまには地元に帰ってこいよ。また会おうぜ」
そう言ってにかっと笑う。完全に昔の彼だ。
蒼も「ああ」と答えた。
「じゃあ俺、そろそろ行かなきゃ。練習抜けてきたのがバレないうちに」
そう言って、良樹はグラウンドの方へ走っていった。その背中を見つめながら、心にあった重たいものがすっと取れていくのを感じた。自分の自信のなさの根底にあったものだ。
「もしかしてあいつが、蒼がマスクをつける原因になったやつ?」
良樹が完全に見えなくなるのを待って仁が口を開いた。
「……はい」
「美希が言ってた事件ってやつと関係があるのか?」
「中学の時……俺があいつを好きなんじゃないかって学校中の噂になって……それから話さなくなったんです」
なんとなく気まずい思いで蒼は彼に説明する。美希の話を聞いた時も深く追求しなかった彼が、こうして聞いているのはさっきのやり取りが気になるからだろう。
「で? その噂は本当だったのかよ」
少し不機嫌に尋ねられて、蒼は言葉に詰まる。彼にとっては聞きたくないことかもしれないということが頭をよぎる。でもだからといって嘘をつくわけにもいかなくて、蒼はためらいながら頷いた。
「う……はい」
すると仁は突然、蒼を支えていた手を離しくるりとこちらに背を向けた。そしてそのまますたすたと寮に向かって歩いていく。
蒼は慌てて後を追った。
「先輩、仁先輩……!」
不機嫌を隠そうともしないその背中に蒼は呼びかけるけれど、彼は答えてくれなかった。ただのクラスメイトの結城と仲良くすることにすら、やきもちを焼く彼が、蒼の初恋の相手と話していたと知って平気なわけがない。
そのまま男子寮の玄関を抜けて長い廊下を歩いていく。蒼が彼に追いついたのは、部屋についたからだ。
後ろでバタンとドアが閉まる。それでも彼はこちらを向かなかった。
拗ねているようなその背中に、蒼の胸は彼への想いでいっぱいになる。たまらなくなって広い背中に抱きついた。
「先輩……!」
その少し唐突な蒼の行動は、仁にとって意外だったようだ。
「蒼……?」
珍しく戸惑うような声を出して振り向いた。背の高い彼を見上げて、蒼は想いを口にする。
「仁先輩、好きです!」
仁が綺麗な目を見開いた。
なんの前置きもなくいきなりなんだと思われているだろうか。
それでも蒼は今すぐに伝えたかった。
さっきの良樹とのやり取りで自分の馬鹿さを再認識した。
彼に軽蔑されたと思い込んでいた自分の弱さと自信のなさが、長い間の良樹との繋がりを断ち切っていたのだ。蒼が自分に自信を持っていれば、彼との友情は続いていた。こんなに苦しむことはなかったかもしれないのに。
そしてそれは今の自分にも言えることだと気がついたのだ。蒼の中の弱い部分が、仁の気持ちに応えることを怖がっている。
けれどそれではまた同じことを繰り返してしまうかもしれない。それだけは嫌だった。
さっき、林で駆けつけてくれた時の手の温もり。
自分を支えてくれた力強さ。
それに心から安心した自分。
彼だけは、仁だけは失いたくない。
それには、怖くても勇気を出して自分の足で一歩踏み出す必要がある。
「もうあいつにはそういう気持ちはありません。俺は……今の俺は、先輩が、仁先輩だけが好きだから……!」
彼の服を握りしめて、大好きな彼の目を見つめて蒼は彼に訴える。胸の奥が燃えるように熱かった。
好きだなんて言葉ではとても言い表せないと思うほど、蒼にとって彼は大切な存在だ。
「仁先輩、俺、先輩が好きです」
他に言葉が見つからないのがもどかしかった。
背の高い彼を見上げて、蒼は心の中にある熱い想いを口にする。
「俺が撮る写真の中にいてほしいと思うのは仁先輩だけなんです。俺が一緒にいたいと思うのは先輩だけなんです!」
「蒼……!」
低い声に名を呼ばれたと同時に大きな腕に力強く抱きしめられる。耳元の声音が少し震えた。
「お前、遅えんだよ」
「決心できなくてごめんなさい。自分が先輩と釣り合うとは思えなくて」
けれどもう迷わない。釣り合わないと思うなら、自分が背伸びをすればいいだけだ。彼は手を差し伸べてくれるだろう。
仁が少し身を離して蒼の額に自分の額をくっつけ至近距離から蒼を見た。
「くだらねえこと気にして、馬鹿なやつ」
自分を見つめるその目を綺麗だと思ったその瞬間、仁のベッドにふたり倒れ込んだ。
「わっ……!」
仁が蒼を抱きしめたまま、ベッドに倒れ込んだのだ。
「あ、危ないじゃないですか」
目を丸くして蒼は声をあげるが、彼は心底嬉しそうに蒼を抱えて笑うだけだった。
蒼をぎゅっと抱きしめて蒼の髪をぐしゃぐしゃとする。
「やっと俺のものになった!」
その笑顔はどこか無邪気で、心底嬉しそうで。蒼が今まで見たことがない彼だった。その目が潤んでいるように思えて、蒼は口を閉じる。蒼の髪をぐしゃぐしゃとしたり、顔を埋める彼にされるがままである。
蒼だって同じ気持ちだった。
心から通じ合うことがこんなに幸せなものとは知らなかった。たとえこの先なにが起きても彼との絆があればなんだって乗り越えていけるそんな気分だ。
そのうちにいつのまにか、組み敷かれた格好になっている。蒼の両脇に手をついた仁が見下ろしていた。
その目に熱いものが浮かんでいるように思えて、蒼の胸がドキンと跳ねた。
「言っとくけど俺の愛は重いからな? 今だけとか思ってるとしたら……」
「そんなこと考えてるわけないじゃないですか。俺がこの結論を出すためにどれだけ悩んだと思ってるんですか。俺の方こそ……重いですよ」
気がついた瞬間から何度も消そうとした想いなのだ。それでもどうしても消えてくれなかった。この先もずっとずっと胸にあると確信している。だからこそ、この気持ちを伝えるのが怖かったのだ。
きっぱりと言い返した蒼に、仁がふっと笑う。大きな手が蒼の髪をかきあげる。その感覚がいつもと少し違うような気がして、蒼の背中がぞくりとした。
彼の視線がゆっくりと下りてきて。
——はじめては軽く触れるだけのキス。
それだけで、蒼の胸は痛いくらいに高鳴った。
人の唇ってこんなに柔らかいのか。
そんなことが頭に浮かぶ。自分を見下ろす仁の視線が再び下りてきて。
——もう一度。
今度は顎に添えられた手が蒼の唇を開くように促した。
なにもかもが熱く感じてもうこれ以上は無理だと蒼は思う。ようやく唇が離れた時にはぐったりとしてしまっていた。
ただでさえ、一度にいろいろなこと起こったのだ。幸せには違いないけれど、感情がついていかない。
「もう……無理……」
息を整えながらそう言うと、視線の先で仁ががっくりと肩を落とした。
「マジで? ……俺、また待たされるのかよ」