蒼を寮の部屋へ連れかえった仁は、一旦蒼を置いてどこかへ行った。
「ここで待っていてくれ。俺が戻るまで絶対に部屋から出るな」
 三十分ほどで戻ってきて、あまりの衝撃に唖然としたままベッドに座り込んでいる蒼に向かって頭を下げた。
「蒼、ごめん。俺のせいだ」
 真っ直ぐな謝罪に蒼は慌てて声をあげる。
「せ、先輩……! 先輩のせいじゃありません……」
 確かに仁と無関係ではないけれど、すべて美希たちがやったことだ。彼のせいなどではない。
「いや、俺のせいだ」
 仁が苦しげに眉を寄せた。苦悩に満ちたその表情からは、普段の飄々とした雰囲気もなくなって、まるで彼自身が傷つけられたかのようだ。
「あいつらには重い処分が下るように手配した。さっきの蒼の話も蒸し返すことのないように厳重に注意をした。それでもお前を傷つけたことには変わりない。全部、俺が関わったせいだ」
 それについてはその通りだ。
 仁と蒼がルームメイトにならなければ、蒼の過去を探られることなどなかっただろう。そういう意味で、蒼が当初恐れていた通りになってしまったということになる。
「俺があいつらとの付き合い方を間違えたから取り返しのつかないことになってしまった。謝ってすむ問題じゃないけど、できる限りの償いをする」
 けれど蒼は彼を責める気にはなれなかった。蒼の過去を知られただけではここまでの事態はまねかなかった。蒼が撮った彼の写真を消せなかった自分にも非がある。彼を好きになってしまった自分のせいでもあるのだ。
 それに、美希たちの暴走はあくまで彼らがしたことだ。それでも自分のせいだと言って頭を下げる彼をやはり誠実な人なのだと思う。こんな彼だからこそ、蒼は彼を好きになったのだ。
「本当に先輩のせいではありません。俺の過去と隠していたことは先輩のせいじゃないし」
 彼があれほど皆に釘を刺してくれたのだ。中学の時と同じような事態にはならないだろう。もともと孤立しているのだから、学園生活の中で失うものはそう多くない。
 それより蒼にとっては、ここで彼との関係が終わりを迎えることの方がつらかった。胸を切り裂かれるような痛みを感じながら、蒼は震える口を開く。
「それよりも、先輩にこそ迷惑がかかると思います」
「迷惑? 俺に?」
「そうです。俺の秘密を聞いたでしょう? もう今こうしているだけで変な噂を立てられかねない。今すぐにお爺さんに報告してください。そしたら、きっと帰宅していいって言ってもらえるはずです」
 うつむいたまま蒼は一気に言い切った。彼の口から終わりの言葉を聞くのはつらすぎる。それならば自分から言い出す方がまだましだ。
 とても彼の顔を見ることなどできない。目が合ってその中に侮蔑の色を見てしまったら、今度こそどうにかなってしまいそうだから。
「仲よしルームメイトごっこはもうお終いです」
 とどめの言葉を口にすると、胸の傷からダラダラと血が溢れ出るような心地がした。
 本当にこれでお終いだ。この話に仁が頷きこの部屋を出て行ったら、もう二度とふたりの道は交わることはない。言葉を交わすことはない。
 制服のシャツをギュッと掴み、蒼は仁の言葉を待つ。
「……だ」
 小さな声で仁が何かを呟いた。
 聞き取れなくて顔を上げると、自分を見つめる彼の瞳に、今まで見たことがない熱い何かが浮かんでいる。
「嫌だ、蒼」
 今度は、はっきりとした声で仁が言った。
「俺は、お前と一緒にいたい。ルームメイトじゃなくなるなんて絶対に嫌だ」
「先輩……?」
 想定とは違う言葉が返ってきて、蒼の頭が真っ白になる。
 そこへ仁が畳みかけた。
「お前は、俺の空気清浄器だって言っただろう? お前がいないと俺はうまく息ができない。自分の家ではうまく眠れなかったのに、お前がいる場所でだけは熟睡できるんだ」
「空気清浄器って……そんな冗談……だけどそんなことのために。先輩、美希さんたちが言っていたことを聞きましたよね? 俺の……俺の恋愛対象は男なんです。誰だって同室なんて嫌でしょう?」
 思わず言葉にしなくてもいいことまで言ってしまう。それでも言わなくてはならなかった。優秀な仁らしくないけれど、大事なところをすっ飛ばしている。
「嫌じゃねえよ。俺はお前と一緒にいたい」
 仁が言い切った。
「嫌じゃないって……気持ち悪くないんですか?」
 啞然としながら蒼は質問を繰り返す。彼の意図が、さっぱりわからなかった。
「気持ち悪いなんて思わねぇよ。そんな風には思わない」
「そんな……どうして……」
「どうしてって、俺は……俺の方は、そういう意味で蒼のことを好きだからだ」
『そういう意味』というところに力を込めて彼は言った。
「え……」
 はっきりと聞こえたはずの彼の言葉はすぐに頭に入ってこなかった。
 だってあまりにも突拍子のない内容だった。皆の前で秘密を暴露されてしまいショックで自分は頭がおかしくなったのかと思うくらいだった。
 固まる蒼を真っ直ぐに見てもう一度仁が繰り返した。
「蒼、俺お前が好きだ。ここまでお前の世界をめちゃくちゃにしておいて、どの口が言うんだと思われても仕方がないけど……」
「そうじゃなくて」
 蒼は彼の言葉を遮った。
「そんなことは思わないけど……でも先輩って女子と遊んでたでしょう?」
 それなのにいきなり蒼のことが好きと言われても、すんなり納得できるはずがない。
 仁が眉をよせて苦いものを食べた時のような表情になった。
「確かにそういう時期もあったけど、べつにしたくてしてたわけじゃねぇ。誰も好きじゃなかったし。現に今はしていない」
 仁が切ない色を帯びた目で蒼を見た。
「はじめてだったんだ。こんなに誰かを好きだと思うのは……俺にとって重要なのは、男も女かじゃねぇ。蒼かそれ以外の人間かだ」
 言い切る仁の言葉が、蒼の胸を貫いた。
 内容はとても信じられる言葉ではないけれど、ごまかしや慰めではなく彼は本心を語ってる。それだけは確かだと確信する。
「蒼、俺、お前が撮る世界が好きなんだ。嘘や偽善が存在しない綺麗な澄んだ世界が。お前といると景色が綺麗に映るんだ。俺はお前とこの世界で生きていきたい」
 蒼だって同じ気持ちだった。ファインダーごしに見る自分だけの綺麗な世界に、存在していいと思える人間は彼だけなのだから。
 はじめは、世界中の光を集めたような眩しい存在に憧れを抱き、その裏側の影の部分に驚いた。そしてその奥の本当の優しさに惹かれたのだ。すべてを知ったと同時に好きにならずにはいられなかった。
「こんなに自分を見せられる相手は、お前だけだ」
 仁の言葉に、口を開きかけていた蒼は、ハッとして口を閉じる。
 この彼の気持ちに応えていいのだろうかという疑問が浮かんだからだ。
 彼の言葉を疑うわけではないけれど、ひっかるところがある。
 仁は常に完璧であることを求められる境遇にいて、そんな自分を演じることに疲れていた。たまたま蒼に素顔を見せることになったから、蒼を特別な存在だと感じているのではないだろうか。
 だとしたら、このまま気持ちを受け入れれば、彼の気持ちにつけ込むことになる。そんな関係は本当の愛情とは言えない。いつかななにかのきっかけに目が覚めてやっぱり違ったと言われるだろう。
 黙り込む蒼に、仁がふっと笑った。
「いきなり、こんなことを言われても困るよな。ごめん」
「こ、困ってるわけじゃ……だけどいきなりすぎて……どうしたらいいか」
「まあそうだよな。もともと俺はお前を脅してたんだし、天敵みたいなもんだった」
 そう言って彼は、ベッドの上の蒼のカメラに視線を移した。
「だけどもし少しでも望みがあるなら、考えてみてくれ」
 その視線の意味するところに気がついて、蒼の頬が熱くなる。カメラの中の自分の寝顔を見た彼には蒼の気持ちなど伝わっているはずだ。
 それでもそれを口にすることはなかった。
 代わりに火照った蒼の頬に、手の甲でそっと触れる。
「もし蒼が許してくれるなら、これからは今までの俺の最低な行為を取り返せるように頑張るよ。全力でお前に好きになってもらえるように」
 宣言して、ふっと笑う。
 その笑みは、自信ありげないつもの彼が戻ったような気がして、蒼は目を見開いた。
 自分を見下ろし、不敵な笑みを浮かべる彼は、これ以上ないくらいにカッコいい。思わず見惚れてしまうくらいだった。
 その視線に、すぐにでも本心を口にしてしまいそうになるけれど、唇を噛んでぐっと堪える。
 彼の気持ちと自分の思いが同じだとはどうしても思えない。このまま突き進んでも、いずれは捨てられることになりそうで、それが怖かった。
「蒼? 考えてみてくれるか?」
 それならいっそここで断る方が傷が浅い。
 ……けれどそれもできなかった。
 自分を見つめる少し茶色い綺麗な瞳に、もう自分は囚われている。それを自ら断ち切ることはできそうになかった。
 頬が熱くなるのを感じながら、蒼はゆっくりと頷いた。