「じゃあ、そろそろ期末に向けて気合い入れろよー」
 教室にチャイムが鳴り響く。担任教師が、皆に言って、一日の日課が終わる。帰りの準備をしていると、蒼の机が女子三人に取り囲まれた。
「ねえ、マスクくん。その後なにかわかった?」
「先輩に聞いてきてくれた?」
 蒼はうんざりとして答える。
「知らないよ。俺はなにも聞いてない」
「だからそれを聞いてきてほしいって言ってるの!」
「それかさーなにか心当たりがあるとか」
 ここのところずっと繰り返されているやり取りだ。
 仁が彼の祖父に呼び出された日から、二週間が経った。
 今、学園はいつにも増して仁の話題で持ちきりだ。
 仁が、今まで遊んでいた女子たちに、もう遊ばないとはっきり断っているというのだ。取り巻きたちにも、女子がいる場には遊びに行かないと宣言したようで、いったい仁になにがあったのかと、大騒ぎである。
「本命ができたって噂もあるけど……マスクくん本当に心当たりないの?」
「ないよ、そんなの」
 めんどくさいというふりをして蒼は答える。けれど、本当のところ蒼の方もこの噂については気になっていた。
 仁への気持ちはなんとしても隠し通す。その決意は変わらないが、気になるのは仕方がなかった。 
 噂の真相はわからないが、学園祭の代休日に祖父に呼び出されたことが関係しているのかもしれないと蒼は密かに思っていた。
 あの日の彼は本当に元気がなかった。具合が悪いのかと思うくらいだったのだ。
 彼の祖父がなぜ彼を呼び出したのか帰宅を許されたのかという問いかけにも曖昧に返事をするだけだったのだ。
 もちろん蒼はそんなことを望んではいない。そんなことになったらもう彼との接点はなくなってしまうのだから。
 とにかく帰宅を許されたわけではないと知って、安堵したと同時に罪悪感でいっぱいになった。ルームメイトとしての演技は、仁はともかく蒼はちゃんとできているとは言えない。完全に足を引っ張ってしまっている。
 もし相手が蒼でなければ、彼はもっと早く望みを叶えていただろう。
 けれど優しい仁は蒼にこれ以上のことを要求できなかった。だから、積極的に女子との関係を切り模範生だと示すことにしたのかも……。
「本当に? 仁先輩に頼まれて隠してるとかじゃないの?」
 女子たちが疑わしいといった様子でそう言った時。
「マスクくーん」
 教室のドアがガラッと開いて自分のあだ名を呼ぶ声がする。女子を無視して、鞄に荷物を詰め込んでいた蒼は、ドキッとして手を止めた。
 美希と孝也、それから数人の上級生がズカズカと入ってきて教卓のところへ立った。何事かと皆がそちらへ注目する中、美希が蒼を睨む。その目にはあからさまに敵意が滲んでいた。
「ねえ、マスクくん。いいかげんルームメイトの特権を振りかざして仁を独り占めするのはやめたら? 仁が迷惑しているのわからない?」
 彼女の隣で孝也も口を開く。
「自分がぼっちだからって、仁の付き合いにまで干渉するなよな」
 ふたりの不穏な言葉に、教室が静まり返った。
 蒼と同室になってから仁と遊べなくなったことに対する不満がピークに達しているのだろう。ここ数週間の仁の振る舞いがそれに拍車をかけているのかもしれない。
 上級生たちは、ゾロゾロと蒼のところへやってくる。取り囲んでいた女子たちが「やば」っと言って彼らに場所を譲った。
「いいかげん、仁を束縛するのはやめてよね」
「……僕別に先輩を束縛してなんかいません」
「どうだか」
 美希が鼻を鳴らした。そして意地の悪い笑みを浮かべた。
「ねえ、マスクくん、私マスクくんの秘密知ってるんだ」
 その言葉に、蒼の胸がどきんと鳴る。いったいなんのことを言っているのかはわからないが、秘密という言葉に胸がざわざわとする。嫌な予感がした。
 美希がおもむろにポケットから、自分のスマホを取り出す。そして画面を開き蒼に見せた。
「これ、私のSNSのアカウント。フォロワー一千人を突破したの。この間仁の写真を載せたら、バズって一気にインフルエンサーの仲間入りってわけ」
 それとこれといったいどういう関係があるのかさっぱりわからないままに、蒼はその画面を見つめた。
「でね、フォロワーの中にマスクくんの地元の子がいたから、聞いてみたの。彼のこと知ってる?って」
 地元という言葉に、蒼の血の気が引いていく。自分の中学時代を誰も知らない場所に来たくてこの学園を受験したのに、まさかこんな形で繋がるとは思わなかった。
 美希がふふふと笑った。
「マスクくん今と違って有名人だったんだってね。男が好きなんだって噂されて。親友に恋をして告白したって本当?」
 蒼は絶望的な気持ちで目を閉じる。
 ——知られてしまった。絶対に誰にも明かしたくなかった自分の秘密を。クラスメイトたちが息を呑んで自分を見ている。その視線が痛かった。
「すげー、俺、ゲイなんて初めて見た」
 クラスメイトたちとは対照的に、美希を含む上級生たちはげらげらと笑って盛り上がっている。ここへ来る前に美希に聞いていたのだろう。
 今すぐに逃げ出したいと思うのに、足が動かなかった。
「マスクくん、仁に恋しちゃったんでしょう? だから独り占めしたくて私たちと遊べないように仕向けてる。だけどそれって意味ないよ。仁は誰のものにもならないんだから」
「そもそも男に望みはないけどな! かわいそうに、無駄な努力〜」
 上級生たちがまた笑いだした。
「やめてください。俺は本当にそんなつもりじゃ……」
 小さな声で蒼は言う。
「そう?」
 美希が首を傾げて、後ろの男子にあごで指示を送る。すると彼らは学校の鞄とは別のカメラを入れているバッグを掴んだ。
「否定するなら、いつも大事そうに持ってるそのカメラになにが写っているのか見せてもらうけど」
「な……! やめてください! 勝手に」
 慌てて蒼は鞄を取り戻そうとする。が別の上級生に押さえられて無理だった。
「私だってこんなことしたくないけど、君の過去を知った以上、変なものが撮っていないか確認しないと」
 さも残念そうに美希が言って指示すると、孝也がカメラを取り出した。
「どうする? 仁の裸が見つかったら」
 隣の男子と笑いながらカメラの電源を入れて中のデータを確認している。すぐにつまらなそうに呟いた。
「なんだよ、草とか虫ばっかじゃん」
 蒼の心臓がバクバクと鳴った。
 カメラのデータは蒼が林で撮った写真がほとんどだ。けれどその中にひとつだけ、誰にも見せられない写真があって……。
「お、あった!」
 孝也が、声をあげて得意げに美希を見た。
「仁の写真! ……これ隠し撮りじゃね?」
 いつかの日に、思わず撮ってしまった寝ている仁の写真だ。どうしても消すことができなくて、タブレットにも移さずにカメラに保存したままにしていた。仁は蒼のカメラは触らないから。
「やっぱりそういう意味で好きなんじゃん。ねえマスクくん、仁は優しいか勘違いしちゃうと思うけど、彼はあんたがルームメイトだから優しく接しているだけなの」
 言われなくてもわかっていることを言いながら、美希が再びこちらへ近づいてきた。その時。
「蒼? どうかした?」
 教室によく通る声が響く。皆がそちらへ注目すると、開け放った窓の向こう廊下に仁が立っている。ここのところ放課後は、部室で過ごすことが多い。蒼が行かないと鍵を開けられないから、来たようだ。
 彼は教室内に素早く視線を走らせて険しい表情になった。
 一年の教室にいる数人の上級生、彼らにふたりがかりで押さえられている蒼、蒼のカメラを手にしている孝也を見て、ただ事ではないと察したようだ。
 足早に蒼のところへやってくる。
「蒼を離せ」
 低い声で命令すると、蒼を取り押さえていたふたりが怖気付いたように手を離した。
「蒼、大丈夫か?」
「……はい」
 答えると、蒼が怪我をしていないことを確認して、孝也と美希から蒼を庇うように立った。
「どういうことか説明しろ。孝也、なぜお前が蒼のカメラを持っている? 美希、お前がやらせたのか?」
 鋭い声で問いただす。普段皆に見せているのとは少し違う彼の様子に、ふたりがやや怯んでお互いに顔を見合わせている。
 皆が固唾を飲んで見守る中、はじめに口を開いたのは美希だった。
「じ、仁。私たち、仁のためにやってるの」
「俺のため……? 蒼にこんな振る舞いをすることがか?」
「そうよ。私のフォロワーにマスクくんの中学の時のことを知ってるって子がいるの。その子によるとね、マスクくんって男が好きなんだって! 恋愛的な意味でだよ? なんか中学の時に幼なじみを好きだって噂になったんだって」
 得意げに蒼の話を暴露する美希の言葉に仁が目を見開いた。
「男が……蒼が……?」
 困惑した様子で呟く仁に、蒼の胸がズキンと痛んだ。
 これ以上は聞きたくない、逃げ出したいと思うけれど、足が動かなかった。
 仁の様子に気をよくしたのか、美希が甘えた声を出した。
「で、私ピンときたの。仁が私たちと遊べないくらいマスクくんにかかりきりなのは、マスクくんが仁に甘えてばかりだからでしょ? マスクくん仁のこと好きになっちゃったんじゃないかって。その証拠を今押さえたとこ。ちょっと乱暴なやり方になっちゃったけど、仕方がなかったの」
「蒼が、俺を……?」
 まったく想定外だとというような仁の視線に、蒼は心の底から申し訳ないと思う。彼は自分がそんな目で見られていると思っていなかったからこそ、素顔を見せてくれていたのだ。
「仁、これだ」
 孝也が手柄を取ったように、仁に蒼のカメラを渡す。画面に写し出されているの例の写真をじっと見つめて仁が驚き言葉を失っている。
 その表情に、すべて終わったと、蒼は思う。
 仁以外の人ならばまだ言い訳できるだろう。噂はデマだと言い張って写真についてはシャッターの調節をするために目についたものをたまたま撮ったのだと言えばいい。
 けれど彼だけには通用しない。
 彼には蒼がカメラに収めるものの条件を伝えてしまっているから。
 仁は無言でカメラの中の自分の写真を見つめている。皆が固唾を飲んで見守る中、人差し指でそっと触れる。その仕草に、一瞬蒼は彼が写真を消去したのかと思う。けれどどうやらそうではなく、ただつっと触れただけだった。
 その刹那、仁の放つ空気が変わったような気がして蒼の胸がドキリとする。まるではじめて話をした時の彼のようだ。
 それに気づいたのかどうなのか、孝也が同情するような声を出した。
「こんなの撮られてるって知ってたのか? 今のところこれだけだけど。探せばほかにも出てくるかもしれないぜ。仁この前、美希がSNSに写真をアップしたのが不味かったって言ってたじゃん。こんなのなにに使われるかわからない」
「そ、そんなことしない! 俺はそれだけしか……」
 仁の写真を何かに利用することはないと言いたくてそう言うと、仁が蒼に向かって腕を広げた。
 大丈夫だと言っているかのように。
「自分ひとりで見るのだとしても不愉快よね、仁。ね、その写真を見せて部屋を変えてもらったら?」
 美希が甘えたような声を出す。
 孝也もそれに同調した。
「そもそもこんな暗いやつが仁のルームメイトなんて話がおかしかったんだよ。こんなくだらない写真ばっかり撮ってるやつ」
「——くだらない?」
 仁がぴくりと反応した。
「蒼の写真を、くだらないって言ったのか? お前」
 その今までとはまったく違う怒りを滲ませた声に、孝也がぴたりと止まって口を閉じた。
 そこへ突然、仁が孝也の襟を掴んだ。
「くだらないって言ったのかっつってんだよ! 答えろ、この写真のなにがくだらないんだ!」
 教室に仁の怒号が響き渡る。仁に掴みかかられてよろめいた孝也が後ろの机を倒してしまい。その場は騒然となった。
 突然の仁の剣幕に、皆が目を剥いている。
「仁……俺、俺は……」
 孝也が真っ青になっている。
 蒼の過去を暴露すれば、彼に感謝される思っていたところ、逆の反応をされてどうしていいかわからないようだった。
 美希も同じのようだ。色を失って絶句している。
「蒼にこんなことしてお前ら、無事で済むと思うなよ!」
 そう叫んで、孝也に殴りかかろうとする仁の背中に咄嗟に蒼は抱きついた。
「先輩! やめてください。大丈夫ですから!」
 仁が動きを止めて振り返る。
 怒りに燃えるその瞳をじっと見つめて、蒼は首を横に振った。
「僕は大丈夫です」
 本当は大丈夫なんかじゃない。隠してきた過去と自分の中の知られたくなかった部分を皆に知られてしまったのだから。美希たちに対する怒りもある。
 けれどそれよりも、仁が守ってきた立場が、自分のことで崩れてしまうのが嫌だった。どれだけ彼が努力して、どれだけ心をすり減らして、演じてきたかを蒼は知っているから。
「先輩……」
 もう一度呼びかけると、仁は一旦目を閉じてふーっと長い息を吐く。そして目を開き掴んでいた孝也の服を乱暴に離した。
 孝也がよろめき机にぶつかる音がした。
「消えろ。もう二度と俺の前に現れるな。まだこの学園にいたければ、さっきのことは絶対に口にするな」
 仁が、孝也と美希、蒼を取り押さえていた生徒に向かって言い放つ。彼らは真っ青になってバタバタと教室を出ていった。
 次に仁は教室にて事態を見守っているクラスメイトたちをぐるりと見た。
「……今の話を聞いていた皆もだ。誰かに話をしたやつは、俺と直接対決する覚悟でいろ」
 そして蒼を振り返った。
「蒼、行くぞ」
 そう言って蒼の腕を掴み入り口の方へ歩きだす。目まぐるしく変わる状況に頭がついていかない。蒼は彼に従った。