「なぜわしがお前を呼んだのか、理由はわかっとるな」
 筧家の祖父の書斎にて、窓を背にデスクに座る祖父が仁に向かって厳しい表情でそう言う。
「はい」
 向かいに立つ仁ははっきりとした声で答えた。
 仁の隣のソファには両親が並んで座り心配そうな表情でふたりのやり取りを見守っている。仁が祖父に叱られる際のお決まりのスタイルである。
「我が家はインターネットの類は禁止というのはわかっておるはずだ。お前はまだ学生だが、筧グループの役員と同等の危機意識を持ちなさい。昨今はなにを突かれるかわからんからな」
「はい、申し訳ありませんでした」
 学園祭が終わり、代休を寮で過ごしていた仁に祖父からの呼び出しがかかったのが二時間ほど前。祖父は、仁がどんなに素晴らしい成績を残しても褒めることはあまりないから、小言を言われるであろうことは予想できた。
 はっきり言って憂うつだが、従わないわけにもいかず仁はこうやって帰ってきたというわけだ。
 呼ばれた理由には心当たりがあった。美希のアカウントの自分の写真は気がついてからすぐに消させたが、その前にかなり拡散されていたようだったから、いずれは祖父の耳に入るだろうと思っていたのである。
「友人に、僕の写真をSNSにあげてもいいかと聞かれた際、はっきりと断りました。ですがそれだけでなく写真自体を消してもらうべきでした」
 SNSに自分の写真をあげたのは美希だが、祖父にはどんな言い訳も通用しない。すべて自分の責任として謝罪するのが、一番早く済む方法なのだ。
 その仁の謝罪に一応祖父は納得したようだ。
「気軽に写真など撮らぬように」と付け加えた。
「はい、以後気をつけます」 
「でも父さん、仁だって高校生なんだ。友達と気楽に写真くらいは撮りたいだろう。うちの取締役たちを同じ危機意識を持てというのはさすがに可哀想だ」
 父が仁の父親らしく口を挟む。自身の学生時代を思い出しているようだ。
 祖父がうるさそうに彼を睨んだ。
「女でもか? だいたい仁、あの生徒とはいったいどういう関係なんだ?」
 あの生徒とは美希のことだろう。
「友人です。特別な関係ではありません」
 言い切ると、母が「あらそうなの」とホッとした様子で呟いた。
 筧家の跡取りである仁は、いずれは親が選んだ相手と結婚することになる。その前に、誰かと特別な関係になられると困ると思っているのだろう。この話は耳にタコができるくらい聞かされた。
「仁、くれぐれも……」
「わかってるよ、母さん。心配しなくてもそういう相手は作らないから」
 仁は言い切る。これについては、本当に心配無用だ。自分を偽り誰にも心を許すことがない仁が誰かを愛することなどない。今まで女に興味をもったこともない。
「お前の相手はわしが決める。多少遊ぶくらいは目をつぶるが深入りはせんように」
 祖父の言葉にいつものように頷いた時、仁の胸がコツンと鳴る。今まで抱いたことのない違和感を覚えた。
 祖父が選んだ相手と生涯をともにする。相手を愛しているようなふりをして……。
 以前から何度も言い聞かされていて納得していたはずの自分の未来に強烈な嫌悪感を抱く。相手が誰であろうと、そんなことまっぴらごめんだと思う。 
 ——蒼、以外は。
 自分の中のもうひとりの自分の声を聞いたような気がして、仁の胸がどきりとする。
 彼が撮る美しい世界と、大きくて綺麗な瞳が頭に浮かんだ。
 ——もしかして、この気持ちがそうなのか?
 あまりにも想定外だけれど考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなっていく。相手を尊重して慈しみ、ずっとそばにいたいと願う。仁にそんな相手がいるとしたら、蒼以外にあり得ない。
 蒼のそばで、彼と見る綺麗な世界の中にずっといたい。
 自分はそんな未来を望んでいる。
 ——そうだとするならば、蒼に対するこの想いは……。
「まだ学生だからな。べつに女の子と付き合うくらいはいい。節度とわきまえれば」
 自身も窮屈な人生を歩んできたであろう父が、仁を気の毒そうに見る。
 祖父が咳払いをした。
「まあ、少しくらいはかまわん。どうせ学生時代の人間関係は、社会に出ればすべて切る」
 祖父が締めくくる。その言葉に仁は眉を寄せた。
「すべて……ですか」
「そうだ。そのつもりでいろ。そこから先の付き合いはわしが選んだ人間だけだ」
 この話ははじめて聞いたが、以前の仁ならば聞き流していただろう。そうなったとしてもかまわないような相手としか付き合ってこなかった。
 けれど今の仁には、それでいいとは思えない。蒼と会えなくなるなど、絶対に嫌だった。
「わかったな、仁」
 有無を言わせぬ祖父の視線に、仁の背中がぞくりとする。
 嫌だと言ったところで、聞いてもらえる勝算はゼロ。ましてや相手は男なのだ。到底理解してもらえるわけがない。しかも逆らえば、全力で潰しにかかるだろう。そうすれば、自分達などひとたまりもない。
 今だって、今すぐに寮を出ろと言われてしまえば、蒼との生活は終わりを迎える。
 ——そんなこと耐えられそうにない。
 自分を見る鋭い祖父の視線から目を伏せて、仁はゆっくりと頷いた。
 
 憂鬱な思いを抱えながら、仁は徒歩で寮へ帰る。途中、女子高校生数人に話しかけられたような気がしたけれど無視をした。
 学園の中の門を抜け男子寮までの道を歩きながら、林に視線を彷徨わせる。蒼がいるような気がしたからだ、彼は休日の午後はたいてい林にいる。
 けれどどこにも見当たらない。
 訝しみながら部屋へ戻ると、蒼は部屋にいた。机に向かって勉強をしている。
 仁に気がついて振り返る。
「先輩、おかえりなさい」
 その姿を見ただけで、祖父に会ったことで重苦しく感じていた心がふっと軽くなる。そしてそのことに、さっき思いついたことの確信を深める。
 自分は、蒼のことが好きなのだ。
 彼といることを心から願っているのだと。
 一般的な形ではないかもしれないが、自分にとっては自然なことのように思えた。周りを信用できず自分を偽って生きてきた仁が、素顔でいられるのは彼の側だけなのだから。
「蒼、お前なんで部屋にいるの? 写真を撮りに行かなくていいのかよ」
 彼がここにいたことを嬉しく思いながら、照れ隠しにそう言うと、蒼は頬を赤くして、少し言いにくそうに口を開いた。
「先輩、前に家に帰った後、ちょっと元気がなかったみたいだったから……なんとなく、その……心配で。余計なことだったですよね」
 最後は少し早口に言う。
 そんな彼に、仁の胸は熱いものでいっぱいになった。
「いや……あたり。結構、疲れた」
 そう言って仁は自分のベッドにドカッと座る。
「空気清浄器が必要」
 そう言ってベッドの自分の隣をポンポンと叩くと、彼は素直にこちらへ来てそこへ腰を下ろした。
 その肩に頭を預けると、屋敷で濁った何かが浄化されていくように感じた。
「おじいさん……なにか言ってました?」
 蒼が遠慮がちに尋ねる。
 なんとなく気づかれているようにも思えるが、蒼には仁の家の事情は詳しく話をしていない。それなのに、なぜ祖父の話をするのだとうと考えて、仁は取引のことを思い出した。
 彼は祖父から仁へ帰宅の許可が下りたかどうかを知りたがっているのだ。
 だからその結果を聞きたくて、彼は自分を部屋で待っていたのだ。
 そのことに気がついて、仁の胸に虚しい思いが広がった。彼が自分に肩を貸してくれているのは、取引があるから。仁が彼のマスクの件で脅しているからなのだ。
 仁は自分の運命を呪う。すべてを手にしているようでいて、誰からも本当の意味では愛されない。仁の方も周りを信用していない。
 ようやく心から好きだと思う相手を見つけたのに、それが男で、しかも気がついた時には、すでに傷つけた後だったなんて……。
「……寮の件、なにか言っていました?」
「んー……今日はなにも」
 仁があいまいに答えると、彼は「そうですか」と呟いた。
 その蒼の顔を見ることはできなかった。そこに、落胆の色を見てしまったらどうにかなってしまいそうだ。
「先輩? 大丈夫ですか?」
 問いかけられて目を開くと、彼はこちらをじっと見ていた。
 至近距離で見る彼は綺麗だった。
 黒目がちの大きな目に真っ白いきめ細やかな肌、スッと通った鼻筋に控えめな唇。こんなに綺麗なものはこの世に存在しないと思う。
 思い返してみれば、はじめてここで話をしたあの時、この目に睨まれた時から、自分の恋ははじまっていたのかもしれない。
「蒼」
「はい」
「……お前、もし俺が……」
 ——ずっとここにいたいって言ったらどうする?
 取引をやめたいって言ったら……。
 そんなことを尋ねたら、彼は怒るだろうか?
 それならば、こうしている意味がないと空気清浄器などという冗談にも笑ってくれなくなるだろうか。
「……いや、やっぱりいいや」
 聞けるはずのない言葉を呑み込んで、仁は再び目を閉じる。
 この世界に、存在する人間が、彼と自分ふたりだけだったらいいのにと心から思った。