十一月に入ると気温がぐっと下がり、寮を取り囲む木々は色づいてカメラを持って出かけるには最高の季節に突入した。
 けれど蒼はこの季節があまり好きはなれなかった。
 カメラの向こうの世界が最高に綺麗なのとは対照的に、現実では超絶苦手なことつまり学園祭があるからである。
「三番テーブルクッキーと紅茶二セット!」
 普段とは違って一部をカーテンで仕切られた一年六組の教室で、慣れない手つきで紅茶を淹れている蒼に、カーテンのむこうから顔を出した女子が言う。
 蒼の隣のクラスメイトが返事をしてメモを取る。そしてそれを蒼の前に並べた。
 ずらりと並んだメモに蒼はうんざりとしてため息をついた。
 相澤学園の学園際は生徒だけでなく他校の学生も遊びにくる街の一大イベントだ。
 蒼のクラスの出し物は、メイドカフェ。メイドの格好をした女子が店員になってクッキーと飲み物を運ぶだけというシンプルな出し物だが、意外と大盛況で、客が引っ切りなしに来る。
 バックヤードの紅茶を淹れる係の蒼は朝からずっと紅茶を淹れっぱなしである。本当は午後の当番は別の生徒なのだが、時間になっても交代に来る気配はない。
 午前中は彼女と他の店を回ると言っていたから、このまま現れないつもりなのかもしれない。
 もともとこういった出し物には一切興味がない蒼にとっては苦行とも言える一日だ。せめて自分の係でない時間は旧校舎にでも逃げ込みたいのだが、それもできないでいる。
「マスクくん、もっとペース上げられない? 客さん外まで並んでるんだけど」
 さっきオーダーを通したクラスメイトに急かされて、蒼をため息をついた。
「無理だって。これ以上は」
 バックヤードは締め切っているため、熱気がこもっていて暑い。マスクをしている蒼の額に汗が浮かんだ。
「俺、朝から休憩してないんだけど」
 ついでにそう反論するが彼女は聞こえていないふりをした。
 ——その時。
 きゃー‼︎
 カーテンの向こう、ホール側から歓声があがる。こちら側の生徒は手を止めて顔を見合わせた。
「なに? 誰か来たのかな?」
 歓声はテーブルのあちらこちらであがっているようだ大騒ぎである。メイドの格好をした女子がカーテンから顔を出して興奮気味に報告をする。
「ねえ! 仁先輩が来てくれたよ! しかも白衣を着てる。やばい! めちゃくちゃカッコいい!」
 バックヤード側のクラスメイトたちも沸き立った。
「マジで⁉︎」
「見たい、見たい」
 自分の役割そっちのけでカーテンの向こうへ行ってしまう。
 蒼は残った男子と顔を見合わせる。これではカフェどころではなさそうだと思った時。
「マスクくん、マスクくん!」
 クラス委員をしている男子が困ったように蒼を呼んだ。
「君ホールへ出てくれないかな」
「え? 俺ホールの係じゃないんだけど」
 接客は苦手中の苦手だ。だからバックヤードにしてもらったのに。
「そうだけど、仁先輩からのご指名なんだ。それに女子が誰が接客するかでもめてるし……廊下まで見物客が集まってるからこのままじゃ収集つかないよ。お願い」
 そんなの知らないと言いたいところだけれど、そういうわけにいかないというのもわかっている。数ある出し物の中で、仁がわざわざ一年六組を選んでやってきたのは、間違いなく蒼のクラスだからだ。
「紅茶っていうオーダーだから、ちょうどいいからそれ持ってって!」
 ちょうど淹れ終わっていた紅茶を指差した。ずいぶん順番を飛ばすことになるが、それでも先に持って行った方がいいくらいホールが混乱しているのだろう。
 仕方なく蒼は、紅茶を乗せた盆を持ってカーテンをくぐった。
 ホールは騒然としていた。中央あたりのテーブルに仁が座ってて、その席の周りをぐるりとメイドの格好をしたホール係が取り囲んでいる。皆、仕事はそっちのけである。
「あれ仁先輩だよね? どうして医者の服着てるの?」
「さあ? でもカッコいい〜」
「写真撮ってもらいたい!」
 廊下から他のクラスの女子たちが鈴なりになって覗いている。
 これでは仕事にならないとクラス委員が思うのも当然だ。
 この中で彼に紅茶を持って行くのは勇気がいることだった。メイド役の女子たちの視線を感じながら、蒼は仁の席へ行く。仁が笑顔になった。
「蒼!」
 その笑顔に蒼の胸がドキンと跳ねる。紅茶を落とさないようにお盆を持つ手に力を入れた。
 ここのところ皆の前で仁が自分に向ける笑顔が以前と違っているような気がする。ふたりでいる時のリラックス中の彼とそれほど変わらないように思えるのは蒼の気のせいだろうか。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
 彼の前に紅茶を置き、くるりと彼に背を向けてそそくさと退散しようとしたところ、シャツを引かれて引き留めらられる。
「冷たいな、このカフェの接客は」
 蒼は振り返ってため息をついた。
「俺、バックヤード担当なのでって言ってましたよね」
「そうだっけ? でも僕、蒼に会いにきたのに」
 その言葉に、周りの女子が色めき立つ。
「いいなあ」
「私もルームメイトになりたい」
「ほんとラッキーだよね」
 その反応に蒼はドキッとして彼に囁いた。
「ちょっと変な言い方しないでくださいよ!」 
 仲がいいふりをするとは言ってもここまでしなくてもいいはずだ。と蒼は思うけれど彼はまったく意に介さず。ニコニコと笑っているだけである。
「でも蒼、たしか係は午前中じゃなかった? 午後も働いてるの? 係を分担しないのは違反だったように思うけど」
 そう言って彼はチラリと後ろを見る。少し離れた場所で成り行きを見守ってたクラス委員がビクッと肩をふるわせた。
 蒼をこき使っていたことがバレたことにびびっているのだ。
「えーっと、確か阿佐美くんはそろそろ休憩時間だったよね」
 わざとらしくそう言った。
 仁がぱっと笑顔になった。
「本当? じゃあこのまま連れて行ってもいいかな?」
「もちろんもちろん」
「よかった。じゃあ蒼行こう」
 紅茶を飲み干して仁が立ち上がる。突然の成り行きに面食らう蒼の腕を取る。
「え? ……だけど」
「いいから早く」
 そのまま女子たちの残念そうな視線を浴びながらふたり教室を後にした。
「ちょっと、どこに行くんですか。先輩は係終わったんですか?」
 廊下を連れだって歩きながら蒼は彼に問いかける。係が終わったにしては彼の格好は妙だった。確か彼のクラスの出し物はコスプレ写真館。いろんな衣装を着て写真を撮れるというものだ。
 でもその実体はいろいろな衣装を着た仁と写真を撮れるというもので、朝から行列ができていたという。クラスの女子も絶対行くと言って気合いが入っていた。今医者の格好をしているということは、係を途中で抜けてきたのではないだろうか。
 彼は蒼の問いかけには答えずに、仁は廊下を足早に進む。そして一瞬人気がなくなったのを見計らってある教室に蒼を引きずり込んだ。
 ぴしゃりとドアを閉めてから、彼は蒼の腕を掴んでいた手を離して振り返る。そして蒼のマスクをそっと外した。
 バックヤードの熱気でほてった頬に、ひんやりとした空気が心地よかった。
「どうせお前のことだから、係を押しつけられてるだろうなと思って助けにきてやったんだよ。顔真っ赤じゃねーか」
 彼の手が蒼の頬に触れる。少し茶色い彼の綺麗な目に見つめられて、蒼は慌てて目を逸らした。そしてそのまま教室を見回す。
「ここは?」
 ドキドキしていることをごまかすようにそう言った。
「俺らのクラスが衣装替えに使ってる部屋。今の時間帯は誰も来ないはず」
「ありがとうございます。助かりました」
 蒼が素直に礼を言うと、彼はふっと笑った。相変わらず口が悪いけど優しい。
「てか、俺が限界だったんだよ。トイレに行くふりをして抜けてきた」
 うんざりとしたようにそう言って、閉まったドアを背にずるずるとそのまま座り込んだ。相当疲れているようである。
 クラスの女子の口ぶりでは彼は朝から写真に応じていたようだ。さっきまでいたのだとしたら疲れていてもおかしくはない。
「大丈夫……ですか?」
 蒼が隣に腰を下ろすと、彼は蒼の肩に頭を預けた。
「大丈夫じゃない、だから空気清浄器に会いにきた」
 そう言って、目を閉じる。
 最近ふたりの間でよく交わされるやり取りだ。
 ふたりで林へ出かけたあの土曜日に、蒼が言った冗談を彼は気に入っていて、時々こうやって口にする。
「ねえ、仁知らない? ちょっと前から姿が見えないんだけど」
「わからない、私たちも探してるんだけど。仁がいないとうちのクラスの展示成り立たないんだけど」
 もたれかかったドアの向こうからそんなやり取りが聞こえて蒼はドキッとして仁を見る。彼も仁は目開けてこちらを見た。
 仁のクラスの女子と美希だ。トイレに行くと言っていなくなった仁を探しているのだろう。
「大丈夫、鍵は閉めた」
 至近距離にある仁の唇がそう動く。
 その内容にはホッとするが、すぐ近くで見つめ合っている状態での秘密めいたやりとりに、蒼の鼓動がスピードを上げた。
「なんか、あの子のクラスに一瞬姿を現したみたいなんだけど、ふたりでどっか行っちゃったみたい」
「あの子ってルームメイトの? もーどこ行ったのよー」
 そんなやり取りをして、女子ふたりは遠ざかっていく。蒼はホッと息を吐いた。
 仁はまた蒼の肩に頭を預けている。皆が自分を探していると知っても出ていくつもりはないようだ。スパイシーなシャンプーの香りをさせる茶色い髪が蒼の頬をくすぐった。胸の奥がきゅっとなって、蒼は制服のシャツの胸のあたりギュッと掴んだ。
 誰も知らない彼の顔を自分だけが知っている。そのことを嬉しく思う自分を止めることができなかった。
 ふたりで林へ行ったあの日から、仁の蒼に対する態度が変わったように感じるのは蒼の気のせいではないはずだ。
 口が悪いのは相変わらず。
 けれど今までよりも蒼をかまう。蒼の勉強を見るだけでなく、リラックスしている時はたわいもない話をしながら蒼をからかうこともある。
『お前、俺の機嫌を取ったりしないし』
 あの日、そう言った仁の目に、蒼の胸は締め付けられた。いつかの日なぜ彼が必要以上に王子さまを演じているのだろうと疑問に思ったことの答えを見たような気がしたからだ。
 彼の方も蒼に対して特別な感情を抱いているのかもしれない。
 完璧な人間など存在しない。
 彼にだって普段の立場を忘れて素顔のままでいられる時間が必要なのだろう。それが自分との時間だというならば、なんとしてもその時間を守りたいと強く思う。
 ……問題は、蒼の中の彼への気持ちが、彼とは違っているということだ。
 結局、蒼は仁の寝顔の写真を消せていない。どうしても消去のボタンを押すことができなかったのだ。そして彼への想いも消せずにいて、しかもそれは日に日に存在感を主張するようになっている。
 消さなくてはと思うけれど、変わっていくふたりの距離がそれを妨げている。
 こうして過ごしている時間に、自分のこの気持ちを彼に知られてしまうのが怖かった。そしたら確実にこの関係は終わりを迎える。それどころかもう二度と彼は蒼と口をきいてくれなくなるだろう。
 かつて好きになったあの彼のように……。
 いつのまにか仁の息遣いが規則的な寝息に変わる。
 心底安堵したように蒼に身を預ける温もりが、これ以上ないくらいに愛おしい。彼のためなら、彼が心から安心できる場所が必要なら、自分の中のなにを差し出してもいいと思う。
 ——でもこの気持ちは、絶対に知られてはいけない。
 なんとしても隠し通さなければならないものなのだ。
 仁の頬を乗せた肩が燃えるように熱くなるのを感じながら、蒼はきゅっと唇を噛んだ。