木々の間からこぼれる日の光に目を細めて仁は空を見上げる。都会の中にあるとは思えないほどうっそうとした木々の葉はところどころ色づいて秋の装いの準備を進めていた。
 前日の雨のせいか土の匂いが少し濃い。清々しい空気を吸い込むと、自分の中の偽りや行き場のない苛立ちが浄化されていくようだった。
 視線の先では、カメラを手に前を行く蒼がちらちらとこちらを見ている。どうも仁が気になるようである。
 彼にとって土曜日の林散策は、窮屈な学園生活の合間の癒しなのだろう。邪魔をするべきではないと思いつつ、それでも仁は彼とこの時間を共有したかったのだ。
 蒼が撮る世界は、自分が存在するこの世界と同じだとは思えないほど美しく仁の目に映った。
 青い空を背景に重なり合う葉。
 緑の葉先の煌めくしずく。
 瑞々しい青い体のアマガエル。
 自分の背負うすべてのものを捨て去って、この中に入りたいと思うほどに、仁はその世界に強く惹かれた。
 蒼に本気で嫌がる素振りがあれば、ついてくるのはやめようと思ったけれど、昼食を食べた後、準備している様子を見るとそうではないと仁の目には映ったが……。
 カメラを手にしてはいるものの、なにかを撮ることもなく、こちらを振り返りつつ前を行く蒼の足下を見ながら仁は声をかける。
「そんなにこっちばっか見てたら、こけるぞ」
「あっ……と!」
 声をあげて蒼がよろめく。言ったそばから、木の根につまずいてしまったようだった。さいわいにして倒れはしなかったが、相変わらず抜けている。
 仁はくっくと笑った。
「だから言ったのに」
 蒼が口を尖らせた。
「先輩がいきなり声をかけるからですよ」
「かける前に引っかかってたように見えたけど」
 蒼が真っ白い頬をほんのりと染めて反論する。
「違います。先輩に声をかけられたからです」
 彼の素直な反応に、仁の胸に新鮮な思いが広がった。
 考えてみれば誰かとこんな気軽なやり取りをすること自体、仁にとってははじめてのことなのだ。仁がいくら望んでも"筧家の長男"である以上、それ抜きに話をしてくれる者はいなかった。
 蒼だけが、自分をただの人として接してくれる。その彼とふたりきりで林を歩いているということに、心が浮き立つのを感じた。
「今日は何を撮るんだ?」
「とくに決めていません。いつも行き当たりばったりなんですよ。こうやって歩いていいなと思ったものを撮るんです。ぜんぜんシャッターを切らない日もあります」
 カメラを手にしているからか、今日の蒼はどこか饒舌だった。
「こうやって歩きながら、切り取りたい場面を探すんです。宝探しみたいなもんかな」
 話しながら周りを見回す蒼につられて、仁も景色を眺めながら歩いていく。そう言われてみれば、なんてことのない自然の風景が違って見えるから不思議だった。
 足下に広がる濃い土色の中に、木の根が這うように広がっていて奇妙な模様を作っている。頭上には、緑、黄色、赤の無数の葉のグラデーション。まるで蒼の写真の中に入り込んだような錯覚をしてしまいそうだ。その時。
 くしゅん!
 蒼がくしゃみをする。
 改めて彼を見ると、上半身は半袖のTシャツ一枚である。昨日降った雨の影響で、今日は気温がぐっと下がった。そんな格好では肌寒く感じるのは当然だ。
 彼は手にしているカメラの他に、替えのレンズが入っていると思しき四角いバッグを肩から下げている。機材はちゃんと用意しているのに、自分は上着を着ていないのに呆れてしまう。やっぱりどこか抜けている。
「お前、そんな格好じゃ、寒いのは当たり前だろ」
 仁はそう言って自分が着ているパーカーを脱ぐ。仁の方は下に長袖を着ているから、脱いでも平気だ。
「ほら、着てろ」
 パーカーを蒼に差し出すが、彼は首を横に振った。
「大丈夫です。それじゃ先輩が寒……くしゅん!」
 言ったそばからまたくしゃみをする。仁ため息をついてパーカーを広げ、有無を言わさせず彼を包むようにかぶせた。小柄な蒼には仁のパーカーは少し大きい。
「いいから言う通りにしろって。風邪ひかれたら同室の俺も困るだろ。お前本当抜けてるな……。同室の二年がいなくて、よく今までやってこれたな」
 ぶつぶつ言いながら彼の頭にパーカーのフードまで被せると、彼の頬が赤くなった。上目遣いにこちらを見る。
「なんだよ」
「いえ。……なんか先輩らしいなと思って……」
 その言葉に、一瞬仁はドキッとする。
『らしい』という言葉に苦手意識があるからだ。
 いや正確に言うと『らしくない』というべきか。
 友人や教師と一緒にいる時、仁はいつもこの言葉を言われることを警戒している。
 苛立ちを表情に出してしまった時。
 期待される結果を出せなかった時。
『仁らしくないね』と言われるとまずいからだ。
「……俺らしいってなんだよ」
 少し低い声で問いかけると、蒼が口を尖らせた。
「口が悪くて一方的」
 思い浮かべていたことと真逆の答えが返ってきて、仁は思わず噴き出した。
「お前、悪口かよ……!」
 蒼には本当の自分を知られているのだと心の中で確認し、安堵する。
 彼が他の皆のように自分に完璧であることを求めるはずがない。
 かぶせたパーカーの裾を掴んだまま笑っていると、視線の先で蒼が恥ずかしそうに目を伏せた。
「……でも本当は優しい」
 そしてすぐにくるりとこちらに背を向ける。
「じゃあ、これ借ります。ちょっと俺あっちを撮ってきますから。先輩はこのあたりにいてください。ふたりで行ったら虫が逃げるし」
 照れ隠しのようにそんなことを言って、彼は足早で離れていった。
 仁は彼の後を追わずに、近くの岩に腰を下ろして、木々の間であちこちにカメラを向ける蒼を見ていた。
 胸を突かれたような気分だった。
 蒼には、仁の中の奥底にある自分も知らない部分まで知られているような気がする。それは今まで仁が誰にも見せてこなかった部分。本当なら知られてはいけない部分のように思う。けれどどうしてかそれを嬉しいと感じている自分がいる……。
「——い、先輩」
 呼びかけられて目を開くと、蒼が自分を覗き込んでいた。
「こんなところで寝たら先輩こそ風邪をひきますよ」
 考えごとをしているうちにいつのまにか、大きな岩に身体を倒して寝ていたようだ。
「眠いなら、部屋で寝てたらよかったのに」
「眠くなったんだよ、ここ気持ちいいから」
 目をこすりながら仁は言い訳をする。ここのところ以前の不眠が嘘のようにいつでもどこでも眠たくなる。息苦しさを感じることもあまりなくなった。
「……先輩って本当によく寝てますよね」
 蒼があきれたような声を出した。
 その言葉に、仁は瞬きをしてまた考える。そんな風に言われるのははじめてだった。けれど思い返してみれば、蒼と一緒にいる時間が増えてからだ、よく眠れるようになったのは……。
「まぁ、確かに気持ちいいですよね。今日は空気も澄んでいるし」
 蒼が呟いて、なにかを思い出すように口を噤む。そして、ふふふと笑っている。
「なに?」
「先輩、こういうのを空気が綺麗だって言うんですよ。前に部室の空気が綺麗だって言ってたけど」
 部室とは旧校舎の一室のことだろう。
「……俺そんなこと言ったっけ?」
「言いましたよ、あそこどう考えてもほこりっぽいのに」
 確かにあの部屋はお世話にも空気が綺麗とは言い難い。けれど仁にとってはあの部屋も心地のいい場所だった。
 蒼が写真の整理をしたり、カメラの手入れをしている音を聞いていると、今みたいに眠たくなってくる。
 そしてそう自分が感じるところの意味に思いあたる。
「……お前だ」
 呟くと、彼は首を傾げた。
「え?」
 ——蒼がいる場所が綺麗なんだ。
「場所じゃなくて、お前がいるから空気が綺麗だって感じるんだ」
 思ったことをそのまま口にすると、蒼はふいを突かれたような表情になる。なにを言われているかわからないのだろう。
 仁だって変なことを言っている自覚はあるけれど、自分にとっては間違いのない事実だ。
「なんかお前、俺の機嫌を取ろうとしたりしないし……」
 いつも顔に貼り付けている笑顔の仮面を蒼の前では取ることができる。呼吸がしやすくなって景色が美しく見えるのだ。
 仁の言葉に、蒼が一瞬頬を歪め痛ましそうな表情になった。自分を見つめる大きな黒い彼の瞳。その目に、仁の中の弱い部分を見透かされているように感じるけれど、それでもいいと仁は思った。
 しばらくして、蒼は気を取り直したように瞬きをする。そしてその場の空気を変えるようにふっと笑った。
「なんですかそれ。俺、空気清浄器みたいじゃないですか」
 冗談まじりの内容に、仁もつられて笑みを浮かべる。
 身も蓋もない言い方だが、ぴったりのように思える。どこでだろうと、蒼がいれば、灰色に濁った仁の世界は、綺麗に変わる。
「ま、そんなところじゃね? それより写真は撮れたのかよ」
「……まぁ一応」
「見せて」
 有無を言わさせずそう言うと、彼は素直に、仁の隣に腰掛けてカメラの電源を入れた。
 トンボが飛んでいるのを下から撮った写真だった。長くて薄い羽根が日の光に透けている。
「きれー……」
 仁は思わず呟いて、そのまま見入ってしまう。いつも見ている蒼の写真も綺麗だけれど、たった今撮ったものを目にするといつもとは違う感情が沸き起こる。
 自分のいる世界は、紛れもなくこの綺麗な世界と繋がっているのだ。
 祖父が作った自分を取り囲む牢獄は、仁が仁である限りどこまでも続いていると思っていた。永遠に出られないと思っていたけれど、そうではないのかもしれない。
 目の奥が熱くなって鼻がつんとする。泣いてしまいそうになったのを誤魔化すために、蒼の肩にもたれかかる。どこか甘い彼の香りと温もりを心地よく感じて目を閉じた。
「……え、また眠くなったんですか? ……仕方がないなぁ」
 迷惑そうに彼は言うが身体を動かすことはなかった。それをいいことに、そのまま仁は自分の中の彼への気持ちの正体について考える。
 蒼が、自分にとって特別な存在なのは間違いない。
 いつの間にこんな風に思うようになったのか、それについては不明だが、もはやこうやって彼と一緒にいる時間が自分にって必要不可欠なのだと思うくらいだった。
 ——この感情はいったいなんだ?
 今まで誰にも抱いたことのない生まれてはじめての感情だ。
 彼とふたりのこの時間を誰にも邪魔されたくないと強く思う。ずっとこの綺麗な世界で彼とこうしていたい。そのためには今まで積み上げてきたすべてのものを失ってもかまわない。そう思うくらいに……。
 はっきりとわかるのは、彼が仁以外の他の誰かと同じような時を過ごしてほしくない感じること。彼の綺麗な瞳に映るのは、自分だけであってほしいという願いだった。
 ——こいつ、俺だけのものならないかな。
 静かな林に響くチュンチュンという鳥の鳴き声を聞きながら、仁はそんなことを考えていた。