その最低の出来事は、ある日突然なんの前触れもなく蒼に降りかかった。
「はい、さようなら。明日から実力テストだからなー」
教室にチャイムが響きわたる。
教卓に立つ担任教師がクラス全体に呼びかけると、一年六組の教室は一斉に騒がしくなった。
「ねえ、今日さ新しいクレープ屋寄ってかない?」
「えー、行列じゃない?」
「いいじゃん、いいじゃん」
教室内の生徒たちは、ばたばたと帰り支度をはじめる。
阿佐美(あさみ)蒼(そう)は、廊下側の一番後ろの席に座り黒いマスクの下であくびをしながら、日誌を書いていた。夏休み明け第一日目から日直なんてついてない。それでなくても、休みに慣れた身体はだるい。
早く寮に帰って休みたい。
普段の授業よりは早い下校に、クラスメイトたち、とりわけ帰宅部組は浮き立っていて、カラオケだファミレスだと盛り上がっている。久しぶりに見る顔にテンションが上がっているのだろう。
蒼に話しかける者は誰ひとりいないけれど、蒼は特にそれを気にすることもなく黙々と日誌を書いていた。
ここ私立相澤学院高等部に入学して約半年。はじめはずっと黒いマスクをつけている蒼を、遠巻きにしながらも気にしていたクラスメイトたちも、今ではすっかり慣れて、興味を失っている。もはや存在すら忘れてしまっているのだろう。一日中、誰とも話さず声を出さない日もあるくらいだが、蒼にとっては都合がいい。
このために自宅からは通えないこの学校を受験したのだから。規律の厳しい寮生活は少し不便だが慣れてしまえばどうということはなかった。
日誌を書き終えた蒼は、黒い表紙をパタンと閉じる。あとはこれを職員室へ持っていけば、今日やることは終わりだ。蒼が立ち上がろうとした時。
「阿佐美くーん!」
教室の前扉がガラッと開いて、教室に声が響き渡る。皆そちらへ注目し、その場が一瞬静まりかえる。開けた扉に手をかけたまま、教室を見渡している背の高い人物に次の瞬間歓声があがった。
「筧(かけい)先輩だ!」
「うっそ! なんで?」
とくに女子が大騒ぎである。
そんな皆の反応など気にもとめていない様子で、彼はずかずかと教室の中に入ってきて黒板を背に教卓に手をついた。それだけで、見慣れた教室の景色がどこか花やいで見えるから不思議だ。
「私、こんなに近くで見るのはじめてかも……」
蒼の隣の席の女子が頬を染めて呟いた。
『筧先輩』こと、二年の筧仁(じん)はこの学園では知らない生徒はいない有名人だ。
百八十センチの長身とモデル並みのスタイルに、北欧出身の祖母から受け継いだという色素の薄い茶色い髪と同じ色の綺麗な瞳、スッと通った目鼻立ち。
中学時代をロサンゼルスで過ごしたという彼は、とにかく目だつ存在で、いつも人に囲まれていて数人の取り巻きを連れている。今も彼の背後には、女子がふたり男子がひとりくっついている。ネクタイの色から男子は仁と同じ二年、女子は三年のようだった。
彼らも教室にいる皆と同じように、仁の行動には少し戸惑っているようだ。女子のうちのひとりが彼の腕を引っ張って、甘ったるい声を出す。
「ねえ仁、阿佐美って誰? このクラスなの?」
そしてどこか見下したような目で教室を見回した。
彼女にとっては仁と一緒にいる自分と、教室にいる一年とは種類の違う人間なのだ。この学園では筧仁に近づけば近づくほど、カーストの上位にいるという証になる。
「仁ってば」
仁を下の名前で呼びべったりとくっついているが彼女が仁の恋人ではないというのはこの場にいる全員の共通の認識だ。
筧仁は、"自分は皆を平等に愛している。だから自分は誰のものにもならない"と宣言していて、どんなに可愛い女子から告白されても"遊び"はするものの特定の彼女を作らないというので知られているからだ。
蒼からしたら、うさんくさいのひと言だが、それでも誰とも揉めたことはないという。それは彼の人徳でもあるのかもしれないが、彼の家柄も無関係ではないはずだ。
筧家は、日本では知らない者はいない大企業の創業者一族であり、彼が在籍していることで学園に入る寄付金の桁がひとつ違うと言われている。ゆえに、教師ですら彼には逆らえず、彼が望まないことはしないというのがこの学園の暗黙のルールなのだ。
もっとも、仁は首席で入学をして以来常に成績は一位をキープし続けているのだから、やや女子との関係が派手だということ以外文句のつけようがないのだが。
ただこのような事情は蒼にはまったくなんの関係もないことだ。どこにいても注目され生徒に囲まれている仁と、一年六組の教室の隅で皆に存在を忘れられている蒼が関わることなどないのだから。
突然のアイドル登場に、たとえクラスの皆が注目し、思いがけない接近に浮き立っていたとしてもどうでもいい。普段ならさっさと日誌を職員室へ持っていき寮に帰るだろう。でも今、それができずに、机に縛りつけられたようになっているのは、ほかでもない彼が、自分の名前を口にしているからだ。
「阿佐美ってこのクラスでしょ?」
べったりとくっついている三年女子の腕をさりげなく解き、仁が一番前の席の女子に問いかけた。
「え! えーっと……」
声をかけられたクラスメイトは、戸惑いながら首を傾げる。心当たりがないのだろう。当然といえば当然だ。その名前は入学式の日のホームルームで自己紹介の時に耳にして以来なのだから。
代わりに彼女の隣の女子が声をあげた。
「あ、阿佐美って……あの子じゃない? ほら、あのマスクの」
蒼の胸がドキッとした。皆が仁に注目しているうちにこっそりと教室を抜けだしておくべきだったと後悔するが時すでき遅しだった。
「やっぱりこのクラスにいるんだ。阿佐美くん」
「あ、はっはい! 確か……」
顔を真っ赤にして答えながら、彼女は視線をさまよわせる。このクラスでマスクをしているのはひとりしかいない。
自分に皆の視線が集まるのを感じて、蒼の動悸が早くなった。クラスでこんなに注目されるのは入学式の自己紹介の時以来。あの時でさえ、マスクをして小柄な蒼に興味がありそうな者はいなかった。けれど、今は皆が、成り行きを興味津々で見ている。
部活へ行こうとしていたサッカー部のグループもこの件がどうなるか確認するまでは教室を出ていくつもりはないようだ。
視線の先に気がついた仁が、教卓を下りて大股にこっちへやってくる。逃げ出したいと思うけれど身体が動かなかった。
「君が阿佐美くん?」
机に置かれた大きくて角張った手に視線を落とし、次にその手の主を見る。彼が放つ威圧的な雰囲気は、蒼がもっとも苦手とするものだ。反射的に椅子の背もたれ限界まで身を引いた。
なにも答えない蒼に仁が不思議そうに首を傾げる。そして振り返り蒼の前の席の男子生徒に問いかける。
「この子が阿佐美くんじゃないの?」
彼が蒼の代わりに答えた。
「先輩、そいつ全然喋らないんですよ。ずっとマスクしてるし」
「ふーん、そういうこと」
なにをどう納得したのかは不明だが、仁はそう言って、蒼をじっと見る。
学園中の皆が見られたいと願う少し茶色いその瞳に見つめられて、蒼の背中が泡立った。なにが起こったのかさっぱりわからなかった。彼がなぜ自分を探していたのかについて心あたりがまったくない。
仁の腕にべったりとくっついた女子生徒が、追いかけてきて甘えるように問いかける。
「ねえ、仁。さっきからなんなの? なんでこの子を探してるの?」
そう言って蒼を汚いものを見るような目でちらりと見る。見るからに地味な存在の蒼が仁の視界に入っていることすら許せないという様子だ。
そんな彼女の視線に気づいているのかどうなのか、仁がにっこりと微笑む。そして一連の不可解な彼の行動の種明かしをした。
「今日から俺、彼のルームメートになるんだよ」
創立八十周年を誇る私立相澤学園高等部は、街の中心部から離れた緑に囲まれた丘の上にある。広大な敷地の中に、新校舎や特別棟、体育館、グラウンドやテニスコート、屋内プールなどが点在していているが、その中でも寮は、少しはなれた林に隣接した位置にある。
校舎から寮棟へ向かう道の途中に守衛がいる門があり、出入りには許可が必要で、原則寮生以外は中へ入ってはいけないことになっている。
その門をくぐり抜けた先に、女子寮と男子寮が別々に建っている。どちらも創立時に建てられたという歴史的な建物だが、中はリフォームが施されていて生活するのに不自由はまったくなかった。
男子寮の一階の一番奥の部屋が、蒼の部屋だ。窓からは林の木々しか見えず一見すると学校の寮というよりは、森の中のホテルの一室のようだ。蒼はこの部屋を入学以来ひとりで使っているが、本来はふたり部屋である。
入り口から見て左右の壁ぎわにベッドが設置されていて、蒼は西側のベッドを使っている。東側はずっとシーツもかかっていない状態だった。
でも今はそのベッドにのりがかかった真っ白いシーツがかけてある。今夜からここで眠る主のために寮の職員がかけたのだろう。
そこへ座り長い脚を組んでいる仁が、向かいに座る蒼に向かってにっこりと優雅に笑いかけた。
「改めてよろしく。阿佐美くん。僕の名前は筧仁、二年生。今日から君のルームメイトだ」
さすがに今は取り巻きを連れてはいない。
全校生徒の中で寮生の割合は二割ほど、さっき連れていた取り巻きたちは皆通学生だったようだ。たとえ寮生だったとしても女子がこの建物に入ってくることは禁じられているけれど。
「一年の阿佐美蒼です。……よろしくお願いします」
昨日まではひとりだった自分の部屋に、学園の頂点に君臨する人物がいるのがまだ信じられない。けれど、人目がない状態であれば、蒼もさっきよりはいくぶん落ち着いて答えることができた。
さっき放課後の教室で、彼が蒼を新しいルームメイトだと宣言すると、その場は蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。仁が市内の豪邸に住んでいる通学生だというのは学園の誰もが知っていることだ。
『ちょっと仁、入寮するの⁉︎ どういうこと⁉︎』
取り巻きたちが目を剥いて仁に問いかけるのを横目に見ながら蒼はその答えを聞くことなく立ち上がり、慌ててその場を去ったのだ。
数分前までは予想もしていなかった展開に、頭の中がパニックだった。なにより、皆の注目を集めてしまっている状況に、もはや一秒も耐えられそうになかったからだ。
教室を出る瞬間、仁に呼びかけられたような気がしたが、聞こえないふりをした。
走って寮に戻る途中、これはなにかのまちがいだと蒼は頭の中で繰り返した。昨日の点呼の時も今朝の朝ご飯の時もなにも知らされなかったのだから。仁が入寮するのは事実なのかもしれないが、ルームメイトが自分だというのはきっと彼の勘違いだ。
いつものように自分の部屋へ戻ればまた静かな生活に戻れる。そう思い自室へたどりついてみると、今朝までは誰も使用できないようになっていたはずの東側のベッドにシーツがかかっていた。唖然として立ち尽くしているところへ、仁がひとりで現れて、さっきの話が現実だということをつきつけられたのである。
「あの。どうして突然入寮することになったんですか?」
誰もがお近づきになりたいと思う人物とふたりきりという状況に耐えられず蒼はとりあえず疑問を彼に投げかけた。
「しかも僕と同室なんて……」
その言葉に、仁が肩をすくめた。
「一年と二年が同室で、三年がひとり部屋って言うのが学園の寮の決まりだろ?」
「それは……そうですが」
男子寮の部屋割りは三年までは一年と二年のふたり部屋と決められている。同室のふたりは兄弟のように生活をし、学園の生活に慣れていない一年を二年がサポートするというのが、学園の教育理念だからだ。
だが今年は一年と二年の人数が同数にならず、さらに言うと全体に偶数にもならなかったので蒼はひとりでこの部屋を使っていたのだ。
そこへ二年の仁が入寮すれば蒼と同室になるのが自然の流れ。それでも釈然としないのは、やはり相手が仁だからだ。
この学園に莫大な寄付金をもたらしている絶対的な存在である彼ならば、二年であっても個室が用意されてもおかしくない。
いやそもそも学園からそれほど遠くない場所に豪邸があるはずなのに、なぜわざわざ寮に入る必要があるのだろう?
仁が少し困ったような表情になって口を開いた。
「入寮は、お祖父さまの意向なんだよ。寮に入って健全な男子学生らしい生活を送れってさ。僕の普段の生活がお気に召さないみたいで。すごく健全だと思うんだけど」
『僕の普段の生活』とは、付き合ってもいない女子と"遊んで"いることだろう。寮に入れば門限は五時、外泊には許可がいるから放課後にほっつき歩く時間はなくなる。
学園内では誰の指図も受けない立場にいる彼だが、祖父には逆らえないということか。
「お祖父さまは、一度言い出したら誰の意見も聞かないから従うしかなんだよ。いつもは僕の成績しか興味ないくせに本当に迷惑な話だよね」
同意を求めるように言われてもうなずけるはずがない。迷惑を被っているのは蒼の方だ。
彼の素行が悪いせいで彼と同室になってしまい、あんなに守ってきた静かな生活を脅かされつつあるのだから。
とはいえ、それを口にすることなどできるはずがなかった。
「とにかくそういうことだから、よろしく。えーっと君はたしか蒼だったよね。僕のことは仁って呼んで。あの後クラスメイトたちに君のことを少し聞いたけど、誰もなにも知らなかったよ。話したこともないってやつがほとんどだったな。しゃべれないんじゃないかって言われてたけど」
その、少し無神経な問いかけに、蒼はマスクの下で口元を歪めた。
「人と話をするの苦手なので」
押し殺した声でどうにかそれだけを言う。事態がどんどん悪くなるのを感じていた。目立つ存在の彼とこれから同室だということだけでも最悪なのに、いろいろ詮索されるのはもっと嫌だ。
「なるほどね。まだ学園に馴染めていないってわけか」
ひとり言を言いながら、仁はゆっくりと立ち上がる。そして蒼の方へ一歩進み大きな手を蒼に向かって差し出した。同室になった記念の握手をしようということだろう。
「なら僕が手助けするよ。こう見えて顔は広いし。困ってることがあるなら相談にのるよ」
その言葉の内容と、自分に向けられている微笑みに、蒼は妙な苛立ちを感じた。
この状況には覚えがある。中学の時の学級委員だったか。その時すでにクラスで孤立していた蒼に向かって親切そうに同じようなことを言ったのだ。
『君がクラスに馴染めるように協力するよ』
だが後に、それは親切心から来る言葉ではなく、教師の心証をよくするための演技だったと他のクラスメイトに話しているのを耳にした。当然と言えば当然だ。蒼みたいな暗いやつに、なんの見返りも目的もなく近寄り優しくするやつなんかいない。
学年や環境が変わるたびに、そういうやつは現れた。勝手に蒼に期待して、思い通りにならないと知ると勝手にがっかりして去っていく。
差し出された手を見つめたまま黙り込む蒼に、仁が困ったように息を吐いて手を引っ込めた。
「余計なお世話だったかもしれないね。気を悪くさせたなら申し訳ない。その方が君のためにはいいかなと思っただけで悪気はなかったから、許してほしい」
まるで駄々っ子をなだめるように彼はそう言った。
それでも笑顔と穏やかな空気感がまったく乱れないのはさすがと言う他ないだろう。さすがは、この学園の完全無欠の王子さま。
「ところで蒼、クラスの子たちが言ってたけど君学校でマスクを取ったことがないんだってね。顔も知らないって言ってたよ。まあ、クラスメイトならそれでもいいかもしれないけど……」
空気を変えるようにそう言って、仁が蒼の方へ手を伸ばす。そして突然の彼の行動に動けないでいる蒼の顔からひょいとマスクを奪い去った。
「っ……!」
目を剥いて、固まる蒼の顔を身をかがめて覗き込み優雅に微笑んだ。
「へえ、可愛い顔。肌白いし、女の子みたいだね」
頬に感じるひんやりとした空気に、蒼の背中がぞわっとする。
——お前、女みたいな顔してるもんな。
——男が好きって本当か? 変態。
ぐわんぐわんと歪んだ世界の中で浴びせられたナイフのような言葉が、ぐるぐると回った。
頭にカッと血が上り、ドクンドクンと鼓動が嫌な音を立てる。
「っ! 返せよ!」
声をあげてマスクを取り戻そうと手を伸ばすが、動揺しすぎてその手は彼の前で空を切った。代わりにシャツの胸のあたりを掴んで彼を睨む。息苦しさを覚えながら、蒼は自分に言い聞かせる。
——大丈夫、ここには自分の過去を知る人はいない。
突然激昂した蒼に、仁は綺麗な目を見開いて静止する。しばらくの沈黙の後、申し訳なさそうに声を落とした。
「ごめん。そんなに嫌がるとは思わなくて」
そう言って彼が差し出したマスクを、蒼はすかざす奪い返す。勢い余って彼の手を引っ掻いてしまった。
爪先に感じるガリッという鈍い感覚に、仁が顔を歪めた。
「っつ……!」
しまったと思い、蒼は青ざめる。血の気が引いて少し冷静になった。
いくら相手が苦手なタイプだからといって、さすがにこれは失礼すぎる。それがどういう意図なのだとしても表面上、彼は親切にしてくれているのに。
彼の態度が少し押し付けがましく感じるのは、蒼だからだ。他の生徒だったら、喜んで彼の申し出を受けるに違いない。学園のカーストの上位まで一気に駆け上がるまたとないチャンスなのだから。
「あ……、す、すみませ……」
謝罪の言葉を口にしかけて、ぞくりとして口を閉じた。自分を見下ろす仁の放つ空気感が、さっきまでとはガラリと変わっていたからだ。
穏やかなで物わかりのいい王子さまの顔は消え失せて、冷たい目で蒼を見下ろしている。
彼は蒼を見据えたまま、ゆっくりと手の甲ににじむ血をペロリと舐めた。
「……ただの暗いやつかと思ったら、おもしろいじゃん。俺、ここまでコケにされたのははじめてだ」
『おもしろい』と彼は言うがその目はまったく笑っていない。
「せ、先輩がいきなりマスクを取るから、驚いて……」
蒼は恐る恐る言い訳をする。いや正当な主張だと思うけれど、少し声が震えてしまう。学園の絶対的存在であり、教師ですらも逆らえない彼を怒らせてしまったことが怖かった。
仁が形のいい眉を寄せた。
「せっかく上辺だけでも仲良くしてやろうと思ったのに。お前のスタンスはよくわかった。要するに、俺と同室になるのが気に食わないってわけだ」
そう言って仁は身をかがめて蒼と視線を合わせ鋭い視線で蒼を睨んだ。
「まぁ、それはお互いさまなんだけど。俺もお前みたいな陰気なやつと同室なんて、勘弁してくれって思ってるし」
そう言って彼は自分のベッドに戻りどかっと腰を下ろした。
さっきまでとは百八十度違う彼の態度に、蒼は唖然とする。
仁は、終始穏やかな人柄で、誰も怒ったところを見たことがないという噂だったのに。こんな本性を隠し持っていたなんて、誰が想像できるだろう。
「なに? 俺の態度が意外?」
「……少し」
「はっ! お前がそうさせたくせに。まぁいいよ。その方が手っ取り早いかも。取引しようぜ」
「取引……?」
「ああ、俺らはお互いにお互いを煙たく思っている。同室なんてまっぴらごめんだ」
確認するように仁は言う。
少しためらいながら、蒼はうなずいた。
「この状況を解決する方法がひとつだけある。俺をこの寮に入れた張本人、じいさんからの帰宅許可をもらうこと」
蒼はさっき彼が説明していた入寮することになった経緯を思い出していた。入寮は彼の希望ではない。彼の祖父が家から通学してもよしと言えばすぐにでもこの状況は解消されるということだ。
「つまり、寮に入った俺が今までの女の子たちとの行いを反省し寮生として模範的な生活をすれば、ここから出られるというわけ。わかる?」
首を傾げて小さな子に尋ねるように彼は言う。
小馬鹿にしたような彼の態度にムッとしつつ蒼は再びうなずいた。
「一、寮生は学生として勉学に励み規則正しい生活をすること。二、同室の生徒を兄弟とし、生活全般において助け合うこと」
歌うように仁が寮則を口にする。入寮の日に聞かされた文句を、蒼は不可解な気持ちで聞いている。
"兄弟の決まり"は、『慈愛の精神』を教育理念とする学園らしい決まりごとだ。
でも今、どうしてそれを口にするのだろう?
いまひとつわからない蒼に、仁がふっと笑った。
「俺が寮で、規則正しい生活を送るだけでなく、同室の下級生の面倒までみていると評判になれば、じいさんもすぐに納得する」
確かにそれならば、成績はいいけれど、放課後は女子と遊び放題だった今までの生活とは雲泥の差だ。
と、そこまでの話を聞いて蒼はさっき彼が、蒼の役に立ちたいと申し出た理由に思いあたる。やはりあの話はただの親切心からではなく裏があったというわけだ。
「もちろんマジで仲よくしようってわけじゃないぜ。それは無理だってさっきはっきりわかったし。だから表向きそういうふりをしようっていう話。お前だってさっさと俺に出ていってほしいだろ? 悪い話じゃないと思うけど」
ここまでふたりが合わないとわかった以上、取り繕うのはやめにしたという訳だ。
……やっかいなことになったというのが、蒼の素直な感想だ。
確かに利害は一致する。でも演技をするのは蒼の苦手とするところだし、なにより、リスキーだ。
仁の祖父とは、日本では知らない者はいない大企業、筧グループのトップに君臨する人物だ。そんな相手を欺くようなことをしてバレたらとんでもないことになる。
もしも逆鱗に触れてしまったら、血の繋がった孫の仁はともかく、ただの一般家庭出身の蒼などひとたまりもない。
「……そういうのはちょっと、僕、演技は苦手なので」
「大丈夫だって。逆に俺が得意だから。お前の分もカバーする」
確かに彼が演技が得意なのは間違いない。王子さまの仮面の下にとんでもない素顔を隠しているくらいなのだから。蒼が心配してるのはそういうことではないのだ。
「そもそも、人を騙すのってあんまりよくなっ……⁉︎」
うつむき考えを巡らせながら、提案に乗らない理由を口にする蒼は、突然顎を掴まれて口を閉じる。ぐいっと上を向かせられると、いつのまにか仁が目の前に立っていた。
不穏な表情を浮かべて蒼を見下ろしている。
「なにか勘違いしてるみたいだけど、お前に拒否権はないからな? 従わないならこの女子みたいな可愛い素顔を全校生徒にバラしてやる。女子が、毎日集まってくるぜ」
「っ! そ、そんな……!」
女みたいな顔は、今の蒼にとっては最大のコンプレックスだ。もともとあまり好きではなかったが、ある出来事があってからは、トラウマと言ってもいいくらいに嫌いな言葉になった。
ここは男子寮だから、風呂や食事の際はマスクを外さなくてはならない場面もある。そんな時もなるべく見られないようにして行動しているし、皆蒼に興味はないから、ほとんど知られていない。そもそも誰も興味を持っていないのに。
仁が大々的にバラしてしまえば、下手をすれば学園中の生徒がおもしろがって蒼のマスクの下を見たがることになる。それはなんとしても避けたかった。
——それにしても。
あまりにも一方的な言い方に、蒼の胸の奥底から怒りの感情が沸き起こる。勝手にマスクを奪いとったくせに、それを脅しの材料に使うなんてあまりにも卑怯なやり方だ。
簡単に言うなりなんかなってやるもんかという思いなら、自分を見下ろす茶色い瞳を睨み返す。
「あんただって、本性を隠してるじゃないか。バラされてもいいのかよ」
理不尽な脅しに屈するかという思いで、あえて挑発的に言い返す。ここまで好き放題されて黙っていられるほど蒼は物分かりはよくない。
仁が「へぇ」と呟いた。
「おもしろいじゃん。お前、ただ気が弱いだけじゃないんだな」
なにがおもしろいだと心の中で悪態をつく。これじゃ王子さまどころか悪魔じゃないか。
穏やで完璧な学園の王子さまの裏の顔を他の生徒たちが知ったらどう思うだろう?
けれど仁は、蒼からの脅しにはまったく動じることはなかった。
余裕の表情で、バカにしたように鼻を鳴らす。
「確かに俺が猫をかぶっているのは事実だけど。バラすって誰に? お前、教室では誰とも口をきかないんだろ? そんなやつの話、誰が信用するんだよ。暗いだけじゃなくて、頭がおかしくなったと思われたいのか?」
痛いところを突かれて、蒼はぐっと言葉に詰まる。確かに彼の言うことはもっともだ。絶大な人気を誇る彼と、今日存在を思い出されたばかりの蒼。どちらの言うことを皆が信じるかなんて、考えなくても答えは出る。
腹立たしい思いで、顎を掴まれている手をパンッと叩いて払いのけると、仁が肩をすくめてニッと笑った。
「そう警戒すんなって。悪い話じゃないはずだ。俺といればお前も他やつらからバカにされることはなくなる。あっという間にクラスの人気者だ」
そんなこと、蒼はまったく望んでいない。
けれど、もはや他に選択肢はないように思えた。
彼とルームメイトとして兄弟のように過ごすということがなにを意味するのか、蒼は考えを巡らせる。せいぜい寮の中で、一緒に食事をするくらいだろうとあたりをつけた。
皆が見ている場所でだけ、いい関係でいるふりをすればいい。
「……わかりました」
しぶしぶ頷くと、仁が満足そうに笑みを浮かべた。
「決まりだな。まぁ、気楽にやれよ、ルーミー」
蒼の肩をバシンと叩き身を屈める。そしていきなり蒼の頬にキスをした。
「なっ……! なにするんですか⁉︎」
頬を押さえて蒼は目を剥いて声をあげる。
仁が眉を上げてふっと笑った。
「挨拶だよ。このくらい普通だろ?」
彼が中学までいたというロサンゼルスならいざしらず、ここは日本。挨拶で頬にキスをするなんてあり得ない。
「ふっ普通じゃないですよ。ここは日本ですよ⁉︎ ったく……それに、ルーミーってなんですか」
「ルームメイトって意味のスラングだよ。学園が掲げる『慈愛の精神』とやらにはうんざりだ。俺らにはお利口さんのルームメイトより、こっちの方がぴったりだ。とにかく明日からよろしくな」
そう言って彼は、ドアの方へ歩いていき、取手を掴んで振り返る。
「出かける。俺、今日は帰らないから」
その言葉に蒼はまたもや目を剥いた。
「え⁉︎ いきなり外泊許可を取ったんですか?」
外泊は家族の事情など特別な理由がない限りは認められない。
「んなわけねーじゃん。お前俺の話聞いてた? 俺はこれから模範生になるんだ。外泊なんてしねーよ」
「え? じゃあ……」
「だからお前うまくごまかしといて」
無茶苦茶なこと言って彼はドアを薄く開く。
「そんなの無理ですよ。九時半には点呼がありますから」
今にも出て行きそうな仁を蒼は慌てて止める。外泊許可を取っていない生徒が夜の点呼にいなかったら大変なことになる。
「大丈夫だって点呼は寮長が取るんだろ? ちゃんと話をつけてあるから。蒼さえ黙っていれば」
仁はそう言い切って、ひらひらと手を振る。
「じゃあな、ルーミー。うまくやれよ」
それに蒼が答える前にパタンと音を立ててドアが閉まった。
音を立てて閉まるドアを、蒼はしばらく見つめていたが、ふーっと長い息を吐いてベッドにどさっと倒れ込んだ。
世界がひっくり返ったような感覚だった。
つい数時間前、終礼が鳴るまでは二学期も一学期と同じような静かな学園生活になると信じていたのに。
「これじゃ、ここに来た意味がないじゃないか」
天井を睨んで呟いた。
手にしている、仁から奪い返した黒いマスクをじっと見つめる。この学園に来てから、人にじっと見られている状態でこのマスクを取ったのははじめてだ。
誰もいないこの部屋の中でだけ、気兼ねなくマスクを外すことができたのに。
もちろん二年生と同室になる決まりは入学前からわかっていた。たまたまひとりで使えていたのはただのラッキーだ。だから誰かと同室になるのは仕方がない。
でもそれがよりによって仁とだなんて。最悪の一言だ。
人あたりのいい彼は、女子のみならず男子にも人気がある。ほかの寮生からしたら羨ましいと思われるのだろう。
でも蒼にとってはどんな理由であれ自分に注目が集まるのはなにより嫌なことなのだ。恐怖といってもいいくらいに……。
目を閉じると、脳裏に中学時代の忌まわしい記憶が蘇った。
蒼がマスクとつけないと外に出られなくなったのは、中二の秋の出来事がきっかけだ。
もともと、人に自分の気持ちを伝えることが苦手で、自ら誰かに話しかけることすらほとんどない蒼にも、その出来事が起こるまでは友人といえる存在の人物が何人かいた。家が近所で幼稚園から一緒に過ごした佐藤良樹のおかげだった。
良樹は、明るく活発でなにごとにも積極的、何もかも蒼とは正反対の性格だったがどうしてか気が合って、蒼の手を引いて人の輪の中につれていってくれたのだ。
本当のところ、蒼にとって良樹以外の友人と一緒にいることはあまり好きではなかったが、彼と一緒にいられるのは嬉しかった。
——違和感を持ちはじめたのは、中学に入った頃。
友人たちの和の中にいることに苦痛を感じはじめたのだ。正確に言うと年齢が上がるにつれて増えてきた女子の話にまったく共感できず話を合わせるのが難しくなっていた。
適当に合わせることすらできなくて、その話題が出るとトイレに行ったり用事を思い出したふりをしてさりげなくその場を離れるようにしていた。
ただその時は自分の中の違和感の正体を見つけることはできなかった。いずれ成長すれば興味を持てるようになるかもしれないとも思っていた。
だがそうではなく、自分は彼らと決定的に違うのだと気づかされたのが、中二の秋の出来事だ。
その日は、体育祭に向けて放課後も学校全体が準備の真っ最中、塾に行くため一足先に下校することになっていた蒼は、誰もいない教室でひとりたたずんでいた。視線の先には良樹の机。体操服に着替える際に脱いだ制服の白シャツが無造作に置かれていた。
彼はこの年、学年の応援団長を務めていて放課後の練習には一番に行く必要があったからジャージ着替えた後、たたむ時間も惜しかったのだろう。
なんのへんてつもないその光景が、妙に気になったのだ。着替えが置いてあるのは良樹の机だけではない。それなのにどうしてか自分の中のなにかが引きつけられるのを感じていた。
その日の休み時間に、クラスメイトの男子がふざけて言っていた、ある言葉が頭に浮かんだ。
『女子のシャツっていい匂いがするよな』
その時はまったく共感できなかった。確かにあまり汗臭くはないけれど、妙に甘ったるくて、好きじゃない。不快感を覚えることもあるくらいだ。
……でもそういえば、良樹の匂いは嫌いじゃない。
『おい、蒼ぼーっとしてないで行くぞ』
そう言っていつも自分を引っ張っていってくれる彼が、蒼の肩を叩く時にふわりと感じる彼の香りが好きだった。
その香りならば『いい匂い』と感じるのだけれど……。
——頭の中が真っ白だった。後から考えても、その時自分なにを思っていたのか思い出せない。気がついた時には目の前のシャツを手に取っていたのだ。
最悪だったのは、その光景をたまたま通りかかった隣のクラスの生徒に目撃されてしまったこと。
"阿佐美蒼は、佐藤良樹のことが、恋愛的な意味で好き"
良樹が女子に人気だったのもあって、噂はあっという間に広がった。
その騒動以来、良樹とは一度も口を聞いていない。いびつな蒼の初恋は気がついたと同時に終わりを迎え、からかわれ嘲笑される日々がはじまったのだ。
『お前、男が好きだったのか』
『女みたいな顔してるもんな』
『もう良樹に告白したのかよ』
そうして蒼は、顔を隠すためのマスクをしないと外へ出られなくなったのだ。
人と会うのが怖かった。自分の中の異質な部分を見透かされるような気分になるからだ。なにより、親友だと言ってくれていた良樹に合わせる顔がなかった。
だから蒼は高校はそれまでの人間関係を断ち切るため、地元から遠い相澤学園を選んだのだ。寮に入れば家が近い良樹と顔を合わせる可能性は少なくなる。
それでも、自分の中の異質な部分は変わらないけれど……。
ゆっくりと目を開き、蒼はふうっと息を吐く。
ここでは過去の出来事については誰にも知られていないけれど、とにかく人と関わるのが怖かった。なんの拍子に"あの自分"が出てくるかわからない。
——筧仁は、本能的に危険な人物だと感じていた。
明るくて出来がよく皆の人気者というポジションは蒼とは正反対。だが蒼は自分がそれを眩しく感じているのを知っている。
そういう人物と関わってまた不毛な恋をすることだけはなんとしても避けたかった。
仁は、良樹とは違い、裏の顔は最低だ。それを知った以上、そんな事態ならないことだけは確実だが、それでもこれからはじまる彼との生活を思うと気分は最悪だった。
「くそっ!」
悪態をついて、蒼はゴロンと寝返りを打った。
人生はどうしてこんなに受難に満ちているのだろう?
残暑が厳しい朝日を浴びながら、寮から校舎までの道のりを歩く蒼は自分の運命を呪っていた。
「ねえ、仁。今日私の家に泊まりにこない? 親が出張でいないんだ」
「え、ちょっと美希ずるい。ダメだよ仁をひとりじめは! ねえ仁、私とカラオケ行く約束はいつにする?」
きゃあきゃあとうるさい黄色い声にうんざりとしながら、足取り重く両腕に三年女子をくっつけている仁の後ろを歩いているからだ。
「嬉しいお誘いですけど、先輩受験はいいんですか? 内部推薦もやばいってこの前言ってませんでした?」
「仁と遊ぶのは別。別の日にがんばる。仁が泊まってくれたら私がんばれるから!」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですが」
にこにこと笑いながら答える仁に、蒼は反吐が出る思いがする。いったいどんな思考をしていれば本性をここまで隠せるのだろう。
登校中の他の生徒の視線を感じて、居心地の悪い思いをしながら、蒼は心の中でため息をついた。
仁と同室になって十日が過ぎた。
仁と兄弟のように仲のいいふりをするという生活は、想像以上に過酷だった。彼は寮の中だけでなく校舎でも蒼をかまうからだ。
『じいさんと通じているのは教師なんだ。教師たちに俺と蒼が仲よくやっているところを見せないと意味がない』
その一環として、毎朝一緒に登校することになっている。
どうせ行く場所は同じなんだからべつになんでもないと彼は言うが、蒼にとってはそんな簡単な話ではない。
彼が蒼とふたりきりで登校するのを周りが放っておくわけがなく、毎朝寮の門のところで取り巻きたちが待っている。そしてこうやって彼女たちを連れて一緒に登校することになるのだ。
声が大きくきゃあきゃあと騒ぐから、自然と人目につきやすい。誰からも気にも止められず林の木より存在感がなかった少し前までの登校時間とは大違いだ。
「ただ残念ですけど、今日は蒼の勉強をみる約束をしているんです。彼、夏休み明けの実力テストの結果が芳しくなくて。先生に頼まれたので」
仁が蒼を振り返り、申し訳なさそうに彼女たちからの誘いを断った。
「えーそんなぁ」
「仁、最近そればっかり」
彼女たちは恨めしそうにチラリと蒼を睨んだ。
彼がこうやって、蒼を理由に彼女たちとの遊びの誘いを断るのは、もう何度目かになる。そもそも仁が彼女たちの誘いに乗っているところは、この十日間では一度もなかった。そのたびに蒼を言い訳にするのだから彼女たちの不満はつのるばかりである。
「そんなにこの子の面倒を見なくちゃならないの?」
さっき泊まりを断られた方の女子、美希が、わざとらしく頬を膨らませる。
仁が立ち止まり、さりげなく彼女たちの腕を解く。そしてつられて足を止めた蒼の方へ歩み寄り肩を抱いてにっこりと笑った。
「ルームメイトだからね。もう彼は僕の弟だ」
唐突な彼の行動に瞬きを繰り返し、蒼はすぐ近くにある整った横顔と極上の笑みを見上げる。少し茶色い彼の髪に朝日が透けて綺麗だった。
遠くから見ても完璧だが、近くで見てもまったくその印象が崩れないのはさすがだ。女子のみならず男子にも人気があるのも納得だ。
でも中身はその真逆。
人の弱みにつけ込んで、無理やり言うことを聞かせる悪魔なのだと蒼は自分に言い聞かせ、不覚にもドキッとしてしまった自分を戒めた。
「ね? 蒼」
王子さまスマイルで仁は蒼に同意を求める。そして蒼の耳に唇を寄せて囁いた。
「ほら、ちゃんとしろって。ここでマスクを奪われたいのか?」
その言葉に蒼は、慌てて口を開いた。
「え⁉︎ えーっと……」
その拍子になぜかゴフッと咽せてしまう。ゴホゴホとしているとファスナーが半分開いていた鞄から、ペンケースが飛び出して地面に落ちた。
「あ!」
拾おうとして手を伸ばし身体を傾けると、さらに教科書がばさばさと落ちていく。地面に荷物をぶちまけてしまった。
「す、すみません……」
気まずい思いでそう言うと、仁の口元が少し緩み、笑いを堪えているような表情になった。
一方であとのふたりはしらけたような表情である。蒼がぶちまけた荷物を見て美紀が呟いた。
「ださ……」
「そんなこと言わないで。蒼はこういうちょっと抜けてるところが可愛いんだよ」
仁がさりげなくフォローをして、散らばった教科書とペンケースを拾い集めた。
「はい、蒼」
「……ありがとうございます」
蒼が受け取る横で、女子ふたりがばつが悪そうな表情になった。
「行こう、遅れるよ」
仁が言ってまた一行は歩き出す。
前を行く三人の背中を見つめながら、蒼はまたやってしまったとため息をついた。
しぶしぶではあるものの兄弟のように仲のいいふりをするという取引はした。でもやっぱり演技をするのは苦手で、どうも自然にふるまえているとは言いがたい。さっきみたいに仁に突かれるまで反応できないことが多かった。しかも今みたいに失敗することもある。
——だから嫌だと言ったんだ。
一方で、仁の方はさすがだった。完璧にオンとオフを切り替えて、外では蒼を大切なルームメイトとして接している。
でも不思議なのは、彼がそんな蒼に対して本気で怒っているようではないことだ。今みたいに"ちゃんとやれ"と言うことはあるけれど、失敗しても後からそれについて文句を言われたりしたことは一度もない。どちらかというと今みたいにおもしろがっていることが多かった。
弱みを握られているのだから、ほかにも理不尽な要求があるかもしれないと身構えていたが、そんなこともまったくない。
全校生徒にじろじろと見られながら昇降口につくと、ようやく彼らとはお別れだ。
「じゃあね、蒼。また放課後に」
仁がにこやかに手を振って、二年の教室がある東の方へ向かっていく。美希たちも名残惜しそうに階段を上っていった。
蒼はホッとして、靴を下駄箱へ入れる。廊下には、登校中の生徒に向かって大きな声で挨拶をしている教師が立っていた。
「おはようございます」
ぺこりと頭を下げて蒼は前を通り過ぎようとする。
「おい、マスクのお前、一年だな? 挨拶が聞こえなかったぞ」
教師が廊下に響き渡る大きな声を出した。蒼はドキッとして足を止める。この場でマスクをしているのは自分だけだ。
ジャージ姿のその体育教師は生活指導も兼ねていて、理不尽に厳しいので生徒たちから恐れられている存在だ。目をつけられたらやっかいだ。
「すみません、おはようございます」
蒼はさっきよりもはっきりと挨拶をした。
だがそれで彼は納得しなかった。
「お前、具合が悪いのか?」
「……いえ、大丈夫です」
「なら、そのマスクを取れ。そんなマスクをしてるから声が聞こえづらいんだ」
その言葉に、蒼は言葉に詰まって黙り込んだ。頬がカッと熱くなり、頭の中はパニックだ。
廊下を通り過ぎる生徒たちが、チラチラとこちらを見ている。こんなところでマスクを外せるわけがない。かと言って『外したくない』と主張しても教師は納得しないだろう。彼は、どんな時も生徒を従わせなくては気が済まない。
「おい、聞いてるのか! 早くしろ。予鈴が鳴るぞ」
背中を冷や汗が伝う。このままでは無理やり取らされることになる。いや、力ずくで奪われる可能性だってある。そしたらガタイのいい体育教師に蒼が敵うはずがない。
八方塞がりの状況に蒼が目を閉じた時。
「マスクの着用を禁止する校則はないはずですよ、先生」
涼やかな声がふたりのやり取りに割って入る。
驚いて目を開くと、教師から蒼を庇うように仁が立っていた。
教師が不愉快そうに眉を寄せた。
「体調に問題がないのに、マスクをしてるのがおかしいだろう」
「それは先生の価値観ですよね。それを生徒に押し付けるのはよくないと思います」
「価値観などという大袈裟なものではない。常識だ」
教師が苦々しい表情になった。
「だからそれを常識だと思うのが先生の価値観だと言っているのです。マスクは体調が悪い時にだけするものじゃないという考え方もありますから」
皆が恐れる相手なのにまったく怯む様子もなく仁は毅然として言い返す。
周りの生徒たちが遠巻きに成り行きを見守っている。
「これ以上、校則にない先生の中の常識で彼のマスクにこだわるなら、学園長にお願いして、正式に話し合いの場を持ちましょう」
その内容に、教師の方が少し怯んだ。そもそもが理不尽な要求なのだ。正式に話し合いをして勝てる自信がないのだろう。
「……筧こそ、なぜこの一年にこだわるんだ」
めんどくさそうにため息をついた。どんな理不尽な話でも仁が関わらなければ、彼は生徒を従わせることができる。実際ずっとそうしていて、それに仁が口出ししているという話は聞いたことがない。
「あれ? 先生、ご存知ないんですか? 彼、僕のルームメイトなんですよ。つまり学園内では僕たちは兄弟なんです。彼のマスクに口出しするなら、これからは僕を通してからにしてください」
爽やかに仁が答え、教師は頬を歪めた時、廊下に予鈴が響き渡る。助かったという表情になったのは教師の方だった。こちらに向かって顎をしゃくる。
「まぁ今日はいい。行け、予鈴だ。おい、お前たちもさっさと教室へ行け!」
周りで足を止めて見ていた生徒たちにそう言って職員室の方向へ去っていく。
蒼はホッと息を吐いた。
助かった……。
心の底から安堵する蒼の肩をポンポンと叩いてから、仁も廊下を歩いていく。ハッとして蒼は彼の背中に声をかける。
「ありがとう……ございました」
仁はこちらを振り返らずに手をひらひらとさせた。
背の高いその背中に蒼の鼓動がトクンと小さく音を立てた。
彼が自分をかばうのは、蒼がここでマスクを取れば自分が蒼を脅せなくなるからだ。蒼自身のためではない。それはわかっているけれど、それでも絶体絶命のピンチから救ってもらったのは事実だ。
教室へ入り自席に座ると、すぐに三人の女子に囲まれる。
「おはよーマスクくん」
「ねえ、今日も仁先輩と登校したんだね。こっから見えてたよ。肩を抱かれてたじゃん。羨ましい~」
この三人はクラスの中でも、以前から仁を見ては騒いでいた面子だ。蒼が仁のルームメイトになってからは、毎日毎日蒼が登校するとこうやって蒼を取り囲む。仁の情報を聞き出そうとするのだ。
「ねえねえ、今日こそ仁先輩の寝顔撮ってきてくれたよね?」
その問いかけに、蒼はため息をついた。
「……そんなことできるわけないだろ」
これも毎日のことだった。
「いいじゃん別に減るもんじゃなし。ねーお願い! 噂では仁先輩と遊んだ子はいるけど寝てるところって誰も見たことがないんだって!」
「寝顔見れたら私たちがはじめてなんだよ! きっとすっごくきれいだよね」
「ねー! 見たーい!」
蒼そっちのけで盛り上がっているところで本鈴が鳴る。三人は「明日は絶対だよ」と勝手な約束を押し付けて散っていった。
毎朝のこのやり取りはいつになったら終わるのかと、うんざりしながら蒼は鞄から教科書を出した。
そもそも仁の寝顔を撮るなんて蒼にはできないことのだ。
ルームメイトになったあの日から、今日まで彼はあの部屋で夜を過ごしてはいない。毎夜ふらりとどこかへ出かけてしまい、帰ってくるのは朝方だ。蒼も彼が寝ているところを見たことがなかった。
就寝前の点呼の際にいなければ罰を受ける決まりになっているが、三年の寮長が先生に報告している様子はない。
おおかた、たくさんいる女友達のところにでも行っているのだろう。
さっきは美希の誘いを断っていたけれど、仁が頼めば喜んで彼を泊める相手など掃いて捨てるほどいるだろうから。
今朝のように女子を腕にぶら下げて夜の街を歩くところが目に浮かぶ。
……と、そこでどうしてか蒼の胸がモヤっとする。
そしてそのことを不思議に思った。
なぜだろう?
仁が帰ってこないから今のところ夜はひとり部屋だった時とあまり変わらずに過ごせている。その方がいいに決まっているというのに。
「はい、おはよう。朝の会はじめるぞ〜立ってるやつ座れー」
教卓に立つ担任教師が皆に呼びかけているを聞きながら、蒼はさっき仁が拾ってくれたペンケースをじっと見る。
なぜこんな気持ちになったのか、自分の心の中を探るけれど、いつまで経っても答えには辿りつかなかった。
「あーだるい」
窓辺に置かれた古いベンチ。何代も前の学生が使っていた資料が床に山積みにされている中に、腕で顔を覆った仁が横たわっている。
それを横目に見ながら、蒼は部屋の中央の大きな机で、少し居心地の悪い気持ちでカメラの調整をしていた。
今この部屋にいるのは、仁と蒼はふたりだけ。だから仁の方はすっかり裏モードである。制服のネクタイをくつろげて『だるい』と繰り返している。
とは言ってもここは寮の部屋ではない。
古くてめったに人が来ない旧校舎にある写真部の部室だ。
他の部の部室は三年前に建てられた新しい特別棟にあるのに、写真部だけが旧校舎のまま放置されているのにはわけがある。
写真部は、部員のほとんどが幽霊部員という学園の中でも異質な存在なのだ。以前は活発に活動していたのだが年々部員が減り一時期は、廃部寸前までいった。今は部活はしたくないが推薦入学を受けるために部活に入っているという実績がほしいという生徒のために存在している。だから蒼が入学するまでの数年間は部としての活動実績はなく部室をわざわざ移す必要がなかったのだ。
春に入部した際に活動をしたいと蒼が顧問に言うと、驚きつつ鍵を渡してくれた。以来、蒼は放課後時々ここへ来て自分で撮った写真の整理をしたりカメラの手入れをしたりしている。
普段は蒼以外の人間が来ないこの部屋に、今、仁がいるのはさっきホームルームを終えて、旧校舎までの道のりを歩いている際に捕まってしまったからだ。
寮と旧校舎は反対方向。どこへ行くのかと尋ねられて誤魔化すことができなくて、正直に事情を話した。するとついてきたというわけだ。取り巻きを連れていなかったのが不幸中の幸いだ。
窓辺でぐったりとしている仁を、蒼は気まずい気持ちでチラリと見る。仁が疲れているのは、朝、蒼のために体育教師とやり合ったことが原因なのだ。
あの後、今日一日、蒼の方はとくになにもなかったが、仁の方はどうやらそうではなかったらしい。
体育の時間に、件の教師からなにかと理由をつけてグラウンド多く走らされ、筋トレもやらされるという嫌がらせを受けた。校則に載っていないからと、蒼のマスクの件を突っぱねた腹いせか、授業の一環だと繰り返し言われたらしい。そう言われてしまえば従わないわけにはいかない。だから彼は疲れているというわけだ。
「昨日ほとんど寝てねーのに、あのゴリラ」
呟いて、彼は目を閉じている。
蒼はカメラの手入れをしていた手を止めた。それもこれも自分を助けてくれたからだと思うと、さすがに申し訳ない気持ちになる。
「俺のせいですみませんでした」
声をかけると、仁が腕を外してこちらを見る。その視線に、蒼は"そうだお前のせいだ"と言われるだろうと身構えた。その通りなのだから、なにを言われても仕方がないと覚悟するけれど。
「……べつにお前のためだけじゃねえよ。俺、あいつ嫌いなんだ。教師だからっていっつも好き放題しやがって」
意外にも柔らかな言葉が返ってきて驚いて瞬きを繰り返す。
仁が首を傾げた。
「なに?」
「いや……意外だったから」
「意外ってなにが?」
「えーっと、脅しの材料がなくなるから仕方なく助けてくれたのかと……」
尋ねられて蒼は思っていることをそのまま口に出してしまう。
すると仁は一瞬静止して、次の瞬間噴き出した。
「お前、どれだけ俺を最低なやつだと思ってるんだよ……!」
笑いながらそう言って、くっくと肩を揺らしている。
その笑顔に蒼の胸がドキンと跳ねた。彼の笑顔を見るのははじめてではない。人前では常ににこやかだけれど、今はその笑顔とは違っているように思えた。
「だ、だって……! でも……す、すみません」
慌てて蒼は言い訳をする。やっかいな教師と対立してまで助けてくれたのに、あまりにも失礼な言い方だったかもしれない。
とはいえ、彼はべつに気を悪くしたわけではないようで相変わらずただ愉快そうに笑っている。
「俺、お前に結構優しくしてやってるつもりなんだけど。まぁいいや、ちょっと寝る。帰る時起こせ。ほったらかしにして帰るなよ」
そう言って仁は、口もとに笑みを浮かべたまま目を閉じる。それを蒼は不思議な気持ちで見つめていた。
彼の表の顔は王子さま、裏の顔は悪魔だと思っていたけれど、少し思い違いをしているように感じたからだ。
この十日間が最悪だったことは間違いない。
仁とルームメイトになったことで蒼は完全に注目の的。仁が一緒にいないところでも常に誰かに見られている。蒼が望む静かな生活とはほど遠い。
けれど考えてみれば、彼自身からは初日以来、とくにひどいことを言われたりされたりはしていない。
初日にマスクを奪われた際も、彼ははじめは真摯に謝っていた。蒼が嫌がるそぶりを見せたからか、あれ以来、蒼がひとりでいることやマスクをつけている理由についてあれこれ聞かれることもない。
注目されることによって、他の生徒から蒼が暗いとか仁のルームメイトとして相応しくないと揶揄されることもけれど、それについてもさりげなく庇ってくれている。今朝も、鞄の中身をぶちまけた蒼を馬鹿にした美希のことを黙らせてくれた。
さっきまでは、頃合いをみて部屋から出ていってほしいと彼に言うつもりだった。蒼にとって部活の時間は、校舎の中でひとりになれる癒やしとも言える時間だ。誰にも邪魔されたくはない。
でも今は、どうしてかはわからないけれどそんな気分にはなれなかった。
——まぁ、いいか。寝てるだけだし。
そう結論を出した時、喉の渇きを感じて、蒼は一旦カメラを置く。鞄からペットボトルを取り出してキャップを開けマスクを外して水を飲んだ。
再びマスクを着けようとして手を止めしばらく考える。普段この部屋にいる時は、マスクを外して作業する。ひとりだからだ。
今は仁がいるけれど……。
蒼は再び仁を見る。窓から差し込む日の光の中、気持ちよさそうに眠る彼は少し暑いのか、だらしなくシャツのボタンを外している。茶色い髪も乱れていた。
今朝教室で女子たちが言っていた言葉が頭に浮かんだ。
『噂では仁先輩と遊んだって子はいっぱいいるけど、寝てるところって誰も見たことがないんだって』
ただの成り行きではあるけれど彼は蒼の前で素顔を晒している。今は無防備に寝顔まで見せているのだ。
蒼は、すうっと息を吸ってゆっくりと吐いた。人前でマスクを外した時に感じる動悸と息苦しさはもうなかった。
彼の眠りを妨げないようにマスクを静かに机に置いて、音を立てないようにカメラを手に取った。
「最近はおとなしくやっているみたいじゃないか、仁。やっぱり寮に入れて正解だったな。お前はひとりっ子だから、下級生の面倒を見るという経験をするのも悪くないだろう」
天井の高いホールのような広さの筧家の食堂にて、長いテーブルの真ん中に座り、食後のコーヒーを飲みながら祖父が機嫌よく言う。
味のしない紅茶を飲んでいた仁は、手にしていたカップを置いた。
三か月に一回、筧家の本家で開かれる一族の食事会である。筧家の長である祖父を筆頭に、二十人ほどいる一族が一同に会する場である。
ここにいるのは全員親族だが家族の集まりというよりは企業の会議のような雰囲気だ。皆その月にあった出来事を祖父に報告することになっている。祖父から尋ねられたことには、嘘偽りなく答えなくてはならない。
それは祖父の長男である父のひとり息子で、祖父のお気に入りとされている仁も例外ではない。
向かいに座る両親が少し心配そうな表情でこちらを見ているのを感じながら、仁はにっこりと笑みを浮かべた。
「貴重な経験をさせていただき感謝しています。同室の阿佐美蒼くんとは気が合って登校は一緒にしていますし、放課後は僕が勉強をおしえています。彼、先日の実力テストの結果がよくなくて先生に頼まれたんですよ」
「おお、仁にしてはやるじゃないか」
祖父が満足そうに髭を揺らした。
「その阿佐美くんというのはどこの家の子なんだ?」
「普通の一般家庭の子ですよ」
「そうか、素行は問題ないか?」
「問題ありません。どちらかというとおとなしいタイプの子です」
それどころか、学園で一番と言っていいくらい地味でクラスメイトでさえも存在を忘れていたくらいだ。
「おとなしい子か、だがそれでは仁には物足りないんじゃないか」
「そんなことは……よく知るとおもしろいところがある子ですから」
首を横に振って、仁は蒼のことを思い浮かべる。
口数が多いわけではないが、彼といてつまらないと感じたことはなかった。それどころか、当初の予想に反してこの状況を悪くないと思っている自分がいる。
仲がいいふりをしようという取引を持ちかけた時、彼が演技は苦手だと言っていた。それを仁は、断るためのでまかせだと思っていたけれど、どうやらそうではないようだ。人前で仁と話をするたびに、あたふたと挙動不審になっている。
本当のところ彼については別に演技などしなくてもそのままでもかまわない。仁の方の振る舞いは完璧なのだから、多少彼の言動が変でも、照れているか慣れていないだけだろうと周囲は受け止める。
けれど蒼の慌てる様子がおかしくて、ついつい仁は彼をからかってしまう。
『おい、ちゃんとやれマスクを奪われたいのか?』
そう囁くと、大きな目が開かれ慌ててなにかを言おうとする。真っ白い肌が赤くなるのがマスクの隙間からでもわかる。
「あら、よっぽど仲良しになったのね。仁がそんな風に笑うなんて珍しい」
向かいの席で母がにっこりと笑ってそう言った。
その言葉に、仁は驚いて瞬きをする。
自分では笑っていたつもりはなかったが、蒼とのやり取りを思い出していて無意識のうちに頬が緩んでいたのだろうか?
「まあ、気が合うならよかったじゃないか。だが、深入りはするなよ。お前はいずれ筧グループを背負って立つ人間だ。学生の間はともかくとして、社会へ出れば付き合う人間は厳選する必要がある」
祖父が釘を刺す。
「……それはもちろん」
蒼を思い出してどこか浮き立っていた気持ちが急速に冷えていくのを感じながら仁は頷いた。
「おじいさまの言うとおりにしてよかったな。本当は少し不安だったけど」
「本当ね」
両親が安堵したように笑い合っている。
仁はふたりにもにっこりと笑いかけるが、口の中に苦いなにかが広がっていくのを感じていた。
生まれてからずっと、両親と祖父、仁はこの関係を続けている。
名家の生まれだったというだけでなく起業家としても有能だった祖父の力で筧家は莫大な財力を手にした。ゆえに一族の中で誰も彼に逆らえる者はいないのだ。
だが、その長男で跡取りとして指名されている父は気が弱く祖父ほどの手腕を発揮できていない。一時は弟である叔父に跡取りの座を奪われそうになっていたという話だが、祖父は長男を差し置いて次男を跡取りに据えることを嫌がった。そして父に課した至上命題が、優秀な後継者を作ることだった。
母も祖父のその意向を知った上で選ばれた、政略結婚だったのだ。
つまり仁は、ふたりにとって今の生活を確保するための人身御供のようなもの。仁が祖父が満足する力を発揮できなければ、育てている価値がない。
幸いにして仁にはずば抜けた能力と人望があった。必要とされることは、一度聞けばすぐに頭に入るし、祖父から教わった帝王学も身についた。亡くなった祖母から受け継いだ容姿は人を惹きつける力がある。
祖父がやれやれというようにため息をついた。
「生活が少し乱れているのではないかという報告を受けた時は、どうしたものかと思ったが、まあお前なら大丈夫そうだな。だがもうしばらく寮で過ごせ。あまり出たり入ったりするのも外聞が悪いだろう」
「もちろんです。寮の生活は案外気にいているんです」
仁は頷くと、かぶせるように口を開く者がいる。
「父さん、うちの和臣も学園ではよくやっていますよ。生徒会の役員もしていますから。また成績が上がりました」
父の弟である叔父だ。彼の息子和臣も相澤学園の二年生だ。同い年だということもあって生まれた時から仁と彼はなにかと比べられている。
叔父は、和臣が仁より優秀であれば、今からで父を蹴落とせると踏んでいるようだが、今のところ和臣は祖父の納得いく成果は出せていない。
叔父の隣に座る和臣が暗い目でじっとりと仁を睨んだ。
幼い頃は仲良くなりたいと思っていたが、今はそれも諦めた。周囲から常に比べられている状況では、はじめから無理な話なのだろう。
和臣から目を逸らし、仁は心の中でため息をつく。
——いつからだろう?
常に穏やかな笑みを浮かべて、周囲が望む自分を演じるたびに、息苦しさを覚えるようになったのは。
小さな頃は何かができるたびに褒められるのが嬉しかった。
『お前が筧家の跡取りだ』と言われるのが、誇らしくてたまらなかったのに。
自分の存在意義はそれだけなのだと気がついた頃からだろうか……。
祖父と叔父のやり取りから意識を外して窓の外の空を見る。
高い天井まである繊細なデザインの窓枠がまるで牢獄のように感じられた。自分を捕えるこの屋敷から早く出たいと思うけれど、出たところでなにも変わらないのもわかっている。自分が自分である限り、牢獄はどこまでも続いていて、この息苦しさは変わらない。
けれどそういえば、と蒼は少し前のことを思い出す。
学園の旧校舎にある写真部の部室はなぜか呼吸が楽だった。普段あまりよく眠れない仁が、あの時はぐっすりと眠れたのだ。
埃っぽくて冷房の効きもよくなく、固いベンチの上だったというのに。
いやそもそも……と、仁はあの時の自分を不思議に思う。
誰かがそばにいるのに眠くなるというのが、仁にとってはあり得ないことなのだ。自分以外の人間は誰も信用していない。
けれど考えてみれば、蒼ははじめから他の人間とはまったく違っているように感じたのだ。
第一印象は、暗いやつ。
こんなやつと同室なんて最悪だと思った。ただ、だからこそ"やりやすそうだ"とも感じていた。
仲間がいないやつほど仁にとっては都合がいい。孤独な気持ちに付け込んで、うまく懐柔できれば、窮屈な寮生活から早く抜け出せる。
だが予想に反して、彼は仁を強く拒否した。
『あんただって、本性を隠してるじゃないか。バラされてもいいのかよ』
黒目がちな大きな目に睨まれたその刹那、仁の背中がぞくりとした。
名家の生まれで将来を約束された自分の周りにはいつもイエスマンしかいなかった。皆気持ち悪いくらいにニコニコして、仁に気に入られようとする。のっけから敵意を剥き出しにされたのは、生まれてはじめてだったのだ。
……不快だとは思わなかった。
むしろその逆で、もっと彼を知りたいという強い欲求に突き動かされるのを感じて、それがどういう種類の気持ちなのか深く考えることもせずに、取引を持ちかけたのだ。
とはいえ、それはあくまでも好奇心から来る気持ちのはず。必要以上にかまうのは、珍しいおもちゃで遊ぶような感覚だったはずなのに。
……なぜ自分はあの日、蒼といる時間を心地いいと感じたのだろう?
自分で自分のことがわからないのははじめてだ。
訝しむ仁のポケットで、スマホが振動する。取り出して確認すると美希だった。"会いたい"というメッセージだ。
今日はあらかじめ用事があると伝えてあるが、それでも諦められないのだろう。ここのところ蒼を言い訳にして片っ端から誘いを断っていたから、フラストレーションが溜まっているのかもしれない。一度だけ"遊んだ"相手だが最近の行動は目に余る。自分はけして恋人にはならないとはじめに約束したことを忘れているようだ。
「どうした仁、急用か?」
祖父に尋ねられて、仁は少し考える。しばらくして口を開いた。
「急用ではありませんが。ルームメイトの彼からです。今部屋でひとりで自習をしているようですが、わからないところがあるみたいで。土曜日は落ち着いて勉強をおしえてあげられる貴重な時間ですから、できれば直接答えてあげたいのですが」
「ああ、それならそうしてやれ」
「ありがとうございます。では、失礼します」
仁はこれ幸いと、両親と叔父家族に会釈をして席を立ち、食堂を出た。
「仁さま、寮に戻られるなら、車を手配いたします」
長い廊下を玄関に向かって歩いていると、使用人が仁の後をついてきた。
「いいよべつに、歩いて帰れる距離だから」
「ですが、それでは私が叱られます」
「じゃあ、カモフラージュにからの車を走らせたら? 俺は歩いて帰るから」
そう言い捨てて、返事を聞かずに屋敷を出た。足早に玄関ポーチを抜けて前の通りへ出て空を見上げる。少しだけ呼吸が楽になる。
筧家の屋敷は、相澤学園と相対する位置の高台にある。学園に向かうにはいったん坂を下りて街の中央を走る線路を超えて向こう側の丘まで上る必要がある。
ジャケットのポケットに手を入れて仁は歩きだす。屋敷から離れるにつれ、呼吸が楽になっていくのを感じた。
とはいえ、また学園に帰れば同じこと。
笑顔の仮面を顔に貼り付けなくてはならない。
坂を下りて、駅に近づくにつれだんだんと人が多くなる。仁を見て振り返る人がいることに気がついて、仁は忌々しい気持ちになった。
この街では、筧家の人間は顔が知られている。それでなくても祖母譲りのこの容姿は人目を引くのだ。
生まれたときから死ぬまでの人生のレールがあらかじめ敷かれている立場にいて、常に注目されている人生を送ってきた。こうやって見られるのは慣れているが、時々どうにも我慢できずに、すべてを壊したくなることがある。
ジュニアハイスクール時代をすごしたロサンジェルスから高校進学のために帰国した頃、頻繁に女と遊んでいた時期があった。
行為自体を楽しいとは思わなかったけれど、祖父や両親の期待する自分ではない時間を過ごすことが、心地よかったのだ。でもそれもすぐにつまらなくなっていった。彼女たちからもまた、"完璧な自分"を求められていると気がついたからだ。
もうとっくの昔に女と遊ぶのは止めにしたにもかかわらず、未だにあっちこっちで遊んでいると言われている。おそらくは一度関係を持った者たちが、まだ続いているように振る舞っているからだ。
彼女たちにとっては事実はともかくとして、仁と会っているということがステイタスになる。
女と会わなくなってからの仁は、毎日夜の街を彷徨うようになった。フードを深くかぶり顔を隠せば誰も自分が筧仁だとわからない。皆が自分を無視して通り過ぎる。それが最高に心地いい。微笑みを浮かべて優しい言葉を吐かなくても息をしていられる……。
駅のロータリーに差し掛かると、駐輪場で話をしている女子高生ふたりがこちらをちらちらと見ているのに気がついた。隣の公立高校の制服を着ているから直接話をしたことはないはずだが。
「あの……! もしかしてジンさん……ですか?」
内心でうんざりとしながら、仁は足を止めてにっこりとした。
「そうだけど。どっかで?」
「この前MIKIって人のSNSに出てませんでした? すごいカッコいいって拡散されてたから覚えてて」
そういえば少し前に美希が仁と撮った写真をアップしていいかと何度か聞かれたことを思い出す。きつい言い方ではないけれどきっぱりと拒否したが、勝手に載せていたのか。
仁自身はSNSはやっておらず興味もなかったから、確認していなかったが。
「……そう」
「あの、一緒に写真とってもらえませんか?」
頬を染めてふたりは言う。
仁は頬に力を入れて心の底から残念だという表情を作った。
「申し訳ないけど、そういうの今は断ってるんだ。SNSに載ると学校がうるさいからさ」
「そうですか……。あのMIKIって人は彼女ですか?」
「ううん、違うよ。友達。じゃあね」
優しい声でそう言って彼女たちに手を振り、仁は踏切に向かって歩き出した。
心の中で舌打ちをする。
週明けすぐにでも美希のアカウントから自分の写真を消させなくては。
忌々しい気持ちで電車が通り過ぎるのを睨む。
遮断機が上り、踏切を渡ると視線の向こう丘の上に学園の建物が見えた。
息苦しい屋敷を抜けてきても、あそこへ戻れば所詮は同じ世界。笑顔をうかべ、くだらない話をする。
学園へ続く歩道の真ん中で仁は足を止めた。心と身体が鉛のように重たくて、坂を上れる気がしなかった。
その時。
「あっ……!」
仁の隣で母親と手をつないでいた小学生一年生くらいの女の子がつまずいて声をあげる。幸いこけずに済んだが、鞄の中身が仁の足もとに散らばった。図書館の本ばかりだった。
「もう、気をつけなきゃ」
母親が小言を言って立ち止まる。仁に向かって頭を下げた。
「すみません」
「いえ、大丈夫です」
仁は答えて本を拾い女の子に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
恥ずかしそうに答えて女の子は本を受け取る。隣で母親が困ったように笑った。
「ありがとうございます。この子慌てん坊で」
ふたりはもう一度、仁にぺこりと頭を下げて去っていった。
本が地面にぶちまけられた光景は、少し前の登校時の出来事を彷彿とさせる。恥ずかしそうにしていた女の子が蒼の姿と重なった。
次に仁は、丘の上の学園の建物を見上げる。
今日は土曜日。寮生たちとっては貴重な自由時間だ。街へ繰り出し映画やカラオケに行く者もいる。けれどおそらく蒼は外出はしていないはず。
部屋で勉強をしているか、あるいはカメラの手入れをしているかもしれない。
静かな寮の一室で机に向かう蒼の姿を思い浮かべ、仁はすうっと息を吸う。そしてゆっくりと吐き出して、学園へ続く坂道に向かって歩きだした。