その最低の出来事は、ある日突然なんの前触れもなく蒼に降りかかった。

「はい、さようなら。明日から通常授業だからなー」
 教室にチャイムが響きわたる。
 教卓に立つ担任教師がクラス全体に呼びかけると、一年六組の教室は一斉に騒がしくなった。
「ねえ、今日さ新しいクレープ屋寄ってかない?」
「えー、行列じゃない?」
「いいじゃん、いいじゃん」
 教室内の生徒たちは、ばたばたと帰り支度をはじめる。
 阿佐美(あさみ)蒼(そう)は、廊下側の一番後ろの席に座り黒いマスクの下であくびをしながら、日誌を書いていた。夏休み明け第一日目から日直なんてついてない。それでなくても、休みに慣れた身体はだるい。
 早く寮に帰って休みたい。
 普段の授業よりは早い下校に、クラスメイトたち、とりわけ帰宅部組は浮き立っていて、カラオケだファミレスだと盛り上がっている。久しぶりに見る顔にテンションが上がっているのだろう。
 蒼に話しかける者は誰ひとりいないけれど、蒼は特にそれを気にすることもなく黙々と日誌を書いていた。
 ここ私立相澤学院高等部に入学して約半年。はじめはずっと黒いマスクをつけている蒼を、遠巻きにしながらも気にしていたクラスメイトたちも、今ではすっかり慣れて、興味を失っている。もはや存在すら忘れてしまっているのだろう。一日中、誰とも話さず声を出さない日もあるくらいだが、蒼にとっては都合がいい。
 このために自宅からは通えないこの学校を受験したのだから。規律の厳しい寮生活は少し不便だが慣れてしまえばどうということはなかった。
 日誌を書き終えた蒼は、黒い表紙をパタンと閉じる。あとはこれを職員室へ持っていけば、今日やることは終わりだ。蒼が立ち上がろうとした時。
「阿佐美くーん!」
 教室の前扉がガラッと開いて、教室に声が響き渡る。皆そちらへ注目し、その場が一瞬静まりかえる。開けた扉に手をかけたまま、教室を見渡している背の高い人物に次の瞬間歓声があがった。
「筧(かけい)先輩だ!」
「うっそ! なんで?」
 とくに女子が大騒ぎである。
 そんな皆の反応など気にもとめていない様子で、彼はずかずかと教室の中に入ってきて黒板を背に教卓に手をついた。それだけで、見慣れた教室の景色がどこか花やいで見えるから不思議だ。
「私、こんなに近くで見るのはじめてかも……」
 蒼の隣の席の女子が頬を染めて呟いた。
『筧先輩』こと、二年の筧仁(じん)はこの学園では知らない生徒はいない有名人だ。
 百八十センチの長身とモデル並みのスタイルに、北欧出身の祖母から受け継いだという色素の薄い茶色い髪と同じ色の綺麗な瞳、スッと通った目鼻立ち。
 中学時代をロサンゼルスで過ごしたという彼は、とにかく目だつ存在で、いつも人に囲まれていて数人の取り巻きを連れている。今も彼の背後には、女子がふたり男子がひとりくっついている。ネクタイの色から男子は仁と同じ二年、女子は三年のようだった。
 彼らも教室にいる皆と同じように、仁の行動には少し戸惑っているようだ。女子のうちのひとりが彼の腕を引っ張って、甘ったるい声を出す。
「ねえ仁、阿佐美って誰? このクラスなの?」 
 そしてどこか見下したような目で教室を見回した。
 彼女にとっては仁と一緒にいる自分と、教室にいる一年とは種類の違う人間なのだ。この学園では筧仁に近づけば近づくほど、カーストの上位にいるという証になる。
「仁ってば」
 仁を下の名前で呼びべったりとくっついているが彼女が仁の恋人ではないというのはこの場にいる全員の共通の認識だ。
 筧仁は、"自分は皆を等しく愛している。だから自分は誰のものにもならない"と宣言していて、どんなに可愛い女子から告白されても"遊び"はするものの特定の彼女を作らないというので知られているからだ。
 蒼からしたら、うさんくさいのひと言だが、それでも誰とも揉めたことはないという。それは彼の人徳でもあるのかもしれないが、彼の家柄も無関係ではないはずだ。
 筧家は、日本では知らない者はいない大企業の創業者一族であり、彼が在籍していることで学園に入る寄付金の桁がひとつ違うと言われている。ゆえに、教師ですら彼には逆らえず、彼が望まないことはしないというのがこの学園の暗黙のルールなのだ。
 もっとも、仁は首席で入学をして以来常に成績は一位をキープし続けているのだから、やや女子との関係が派手だということ以外文句のつけようがないのだが。
 ただこのような事情は蒼にはまったくなんの関係もないことだ。どこにいても注目され生徒に囲まれている仁と、一年六組の教室の隅で皆に存在を忘れられている蒼が関わることなどないのだから。
 突然のアイドル登場に、たとえクラスの皆が注目し、思いがけない接近に浮き立っていたとしてもどうでもいい。普段ならさっさと日誌を職員室へ持っていき寮に帰るだろう。でも今、それができずに、机に縛りつけられたようになっているのは、ほかでもない彼が、自分の名前を口にしているからだ。
「阿佐美ってこのクラスでしょ?」
 べったりとくっついている三年女子の腕をさりげなく解き、仁が一番前の席の女子に問いかけた。
「え! えーっと……」
 声をかけられたクラスメイトは、戸惑いながら首を傾げる。心当たりがないのだろう。当然といえば当然だ。その名前は入学式の日のホームルームで自己紹介の時に耳にして以来なのだから。
 代わりに彼女の隣の女子が声をあげた。
「あ、阿佐美って……あの子じゃない? ほら、あのマスクの」
 蒼の胸がドキッとした。皆が仁に注目しているうちにこっそりと教室を抜けだしておくべきだったと後悔するが時すでき遅しだった。
「やっぱりこのクラスにいるんだ。阿佐美くん」
「あ、はっはい! 確か……」
 顔を真っ赤にして答えながら、彼女は視線をさまよわせる。このクラスでマスクをしているのはひとりしかいない。
 自分に皆の視線が集まるのを感じて、蒼の動悸が早くなった。クラスでこんなに注目されるのは入学式の自己紹介の時以来。あの時でさえ、マスクをして小柄な蒼に興味がありそうな者はいなかった。けれど、今は皆が、成り行きを興味津々で見ている。
 部活へ行こうとしていたサッカー部のグループもこの件がどうなるか確認するまでは教室を出ていくつもりはないようだ。
 視線の先に気がついた仁が、教卓を下りて大股にこっちへやってくる。逃げ出したいと思うけれど身体が動かなかった。
「君が阿佐美くん?」
 机に置かれた大きくて角張った手に視線を落とし、次にその手の主を見る。彼が放つ威圧的な雰囲気は、蒼がもっとも苦手とするものだ。反射的に椅子の背もたれ限界まで身を引いた。
 なにも答えない蒼に仁が不思議そうに首を傾げる。そして振り返り蒼の前の席の男子生徒に問いかける。
「この子が阿佐美くんじゃないの?」
 彼が蒼の代わりに答えた。
「先輩、そいつ全然喋らないんですよ。ずっとマスクしてるし」
「ふーん、そういうこと」
 なにをどう納得したのかは不明だが、仁はそう言って、蒼をじっと見る。
 学園中の皆が見られたいと願う少し茶色いその瞳に見つめられて、蒼の背中が泡立った。なにが起こったのかさっぱりわからなかった。彼がなぜ自分を探していたのかについて心あたりがまったくない。
 仁の腕にべったりとくっついた女子生徒が、追いかけてきて甘えるように問いかける。
「ねえ、仁。さっきからなんなの? なんでこの子を探してるの?」
 そう言って蒼を汚いものを見るような目でちらりと見る。見るからに地味な存在の蒼が仁の視界に入っていることすら許せないという様子だ。
 そんな彼女の視線に気づいているのかどうなのか、仁がにっこりと微笑む。そして一連の不可解な彼の行動の種明かしをした。
「今日から俺、彼のルームメートになるんだよ」