詩音は練習スタジオからの帰り道、まだ高揚感が収まらずに歩いていた。今日は、優斗のバンドが美咲が関わる「サマー・ミュージックフェスティバル」への出演が決まったという知らせを聞いたのだ。彼のバンドの実力は自分たちのバンドに比べて明らかに劣っていると思っていたが、運の良さだけでチャンスを掴んだことに、詩音の胸には悔しさが渦巻いていた。
「くそ、優斗は運がいいな。自分は運が悪いだけだ」と、詩音は心の中で呟きながら、踏みしめる足元に目を落とした。地面のひび割れや、雑草の間から顔を覗かせる小さな花たちが、彼の気持ちを一層重くしていく。
そんな時、ふと目に留まったのは小さな神社だった。古びた鳥居をくぐり、静かな境内に入ると、神社の前には色とりどりの絵馬が飾られていた。「あなたの悩みが解決されますように」と書かれた絵馬が、風に揺れながら彼の目を引いた。よく見ると、その絵馬にはQRコードが描かれている。興味が湧き、詩音は好奇心に駆られて、そのQRコードをスキャンしてみることにした。
スマートフォンを取り出し、カメラをQRコードに向けると、画面が反応し、リンクが表示された。詩音は少し躊躇したが、今の自分に何か新しい道を開いてくれるものがあるかもしれないという期待を胸に、リンクをタップした。まるで、何かの運命を感じる瞬間だった。
帰宅後、詩音のスマホには「カイケツAI」というアプリがダウンロードされていた。好奇心と不安が入り混じる気持ちで、詩音はアプリを開いた。画面には、簡単な説明文と利用規約が並んでいる。「このアプリはAIが悩みを一つだけ解決します」と書かれていたが、その文言が詩音の胸にざわりとした不安を引き起こした。
「うーん、ちょっと不安だけど…」詩音は深く考えずに同意ボタンを押した。次の画面で、AIキャラクターを選ぶ段になると、さまざまなキャラが並んでいたが、どれも今ひとつしっくりこなかった。そんな中、目を引いたのは、お母さんキャラだった。どこか懐かしさを感じる響きに、思わず詩音は指を滑らせた。
「これ、選んじゃおうかな」と詩音は思った。幼い頃に母を病気で亡くしていた彼にとって、母親への憧れは強く、彼女の声や存在に心を寄せることがあったからだ。
その瞬間、画面から響いたのは、少し高めのおばちゃんの声だった。「ハーイ! 私はカズコ。あなたの『お母さん』よ!」その声は、予想に反して賑やかで明るい。しかし、詩音は面食らった。彼が抱いていた母親像とはあまりにも違っていたからだ。少し鬱陶しい。
「え? おばちゃん?」詩音は思わず言ってしまった。
「おばちゃんじゃないわよ、私のことをお母さんって呼びなさい!」カズコはしつこく言った。まるで子供に命令するかのような口調だ。「利用規約に従いなさい。指示は絶対なのよ!」
詩音は少し困惑しながらも、仕方なく「お、お母さん」と呼ぶことにした。言葉が口から出ると、なんだか奇妙な感覚がした。彼は、まるで子供の頃に戻ったかのような、懐かしい温もりを感じた。
「さて、何が悩みなの?」カズコが尋ねる声は、明るくて優しい。
「俺の音楽キャリアがうまくいかないのは運が悪いせいだと思って、運が良くなりたい」と詩音は言った。心の中のもやもやを吐き出すと、少しすっきりした気分になった。
「運がいいってどういうこと? 挨拶をしてる?」カズコは続けた。
「挨拶なんかしてるけど…運が良くなるのに関係あるのか?」詩音は不思議に思った。
「本当にちゃんとしてるの? 自分からしてる? ちゃんと目を見て挨拶してる? ブッキングマネージャーさんだけじゃなく、照明さんや音響さん、バーカウンターのバイトさん、受付スタッフさん、他の共演者さんにもちゃんと挨拶してるの?」カズコは厳しく問いただした。詩音は昔、母に問いただされた時のことを僅かに思い出した気がした。
詩音は自信なさげに「してると思う」と答えたが、心の中では揺れていた。そもそも、挨拶が運に関係あるのかと疑問を投げかける。
「じゃあ、運がいいとは何だと思うの?」カズコは尋ねる。
「宝くじ当たるとか、バンドで曲が大当たりするとか」と詩音は答えた。
「それは運ではなくただの偶然よ。偶然と運は違う。たとえその偶然が来たとしても、今のあなたじゃ手に負えないわ。宝くじが当たったとしても破産するし、曲が大当たりしても一発屋で終わるわよ」とカズコは断言した。
「運というのは『運ぶ』と書く、運ばれてくるものなの。どこからだと思う? 人からよ。どんな人から運が運ばれてくるかわからないの。運がいいと言うのは、その人の実力に見合った少し上のチャンスが舞い込んでくるの。それを与えてくれるのは人だけなの。偶然じゃないのよ」とカズコは続けた。
詩音は少し納得したが、半信半疑だった。挨拶くらいで運が良くなるのかと疑問に思いつつも、利用規約に「全データが消える」と書かれているため、やるしかないと決心した。そう思った瞬間、スマホのバッテリーが無くなった。画面は真っ暗になり、彼の心の中に、未来への不安と希望が交錯していた。このアプリ、バッテリーの消耗が激しいなと、詩音はぼんやりと思った。果たして、カズコの言う通りにすれば、本当に運が舞い込んでくるのだろうか。
翌日、ライブの予定が入っていた。詩音は、カズコのアドバイスを胸に、ライブハウスの扉を押し開けた。会場に入ると、彼の心は緊張でいっぱいだった。詩音は勇気を持って周りに目を向け、「どうも、詩音です!」と力強い声で挨拶を始めた。「今日はよろしくお願いします!」その声は、スタッフや共演者、対バンの優斗にまで響いた。
優斗は詩音とは同期のバンドで、ギターを担当している。明るく社交的な性格で、ファンとの交流を大切にしている彼とは、競争を意識しながらも互いに音楽的な刺激を受け合う関係にある。
「今日は元気がいいね」と、美咲が微笑みながら声をかけてきた。彼女は30歳のライブハウスのブッキングマネージャーで、フレンドリーで話しやすく、アーティストたちの良き相談相手として知られている。彼女は、詩音たちのバンドが初めてライブを行ったときから関わってきた。
優斗は詩音の挨拶する姿を見て、「なんか変わったな」とつぶやいた。詩音はその言葉に少し驚いたが、内心では恥ずかしさが込み上げてきた。彼は心の中で「利用規約には、カズコのことは言ってはいけないと書いていたからから、何も言えないな」と思っていた。
いよいよライブが始まる。詩音のバンドがトップバッターとしてステージに立つと、会場の雰囲気は一気に熱気に包まれた。彼はマイクを握り、力強く歌い始めた。観客の反応が良く、彼の心は自信に満ち溢れていた。最高のパフォーマンスを披露することで、詩音は自分の音楽に対する情熱を再確認した。
その後、優斗のバンドが登場する。彼らの演奏は完璧ではなかったが、彼らの持つエネルギーで会場の雰囲気を一層盛り上げていた。笑顔や歓声が飛び交い、この日のイベントは大成功を収めた。
打ち上げの席で、優斗が詩音に近づいてきた。「詩音の曲はすごくいい! 実力も俺たちより上だ!」その言葉に、詩音は嬉しくてたまらなかった。心の奥で温かい感情が湧き上がり、彼の音楽が認められる喜びを感じていた。
「もしかして優斗がサマー・ミュージックフェスティバルに選ばれたのも、こういう人間性なのかな」と考えながら、詩音は居酒屋のスタッフにも丁寧に挨拶し、帰りの準備を進めた。
帰り道、スマートフォンが鳴り響く。カズコからのメッセージだった。「ちゃんと挨拶してるわね、偉いわ! この調子で続けなさい!」詩音は、心の中で自分を褒めた。カズコの言葉が、彼の背中を押してくれる。
数週間後、再びライブが大盛況となった。詩音は緊張と興奮が入り混じる中、ステージに立っていた。観客が彼を見つめる中、彼の心には確かな自信が宿っていた。演奏が終わると、熱い拍手が響き渡り、詩音は思わず笑顔になる。
「どうだった?」と優斗が近づいてきた。彼はカジュアルなシャツにダメージジーンズを身に着け、目を輝かせている。
「最高だった!みんなの反応がすごくて」と詩音は興奮を隠せずに答える。
「やっぱり詩音のバンドはすごいよ!おかげで俺も頑張らなきゃって思った」と優斗が言うと、詩音は嬉しさで胸がいっぱいになった。
打ち上げの場で、詩音は優斗とビールを片手に乾杯した。会場の雰囲気は和やかで、周囲の仲間たちも楽しそうに笑っていた。そんな時、美咲が近づいてきた。
「詩音、ちょっといい?」美咲は、ダークブラウンのボブヘアを軽く流しながら詩音の目を見つめた。
「はい、なんでしょうか?」詩音は不安を抱えながら答える。
「サマー・ミュージックフェスティバルに出演しないかって話なんだけど」と美咲が言った瞬間、詩音は驚きで目を丸くした。「え、なんで自分たちが?」
美咲は続けた。「実はね、出演予定のバンドが怪我をしてしまって、キャンセルになったの。そこでライブハウスのスタッフが詩音のバンドを推薦してきたの。居酒屋の大将も、チャンスを与えてやってくれと言ってたわ。」
優斗がその話を聞きつけて、「マジで!?それはすごいじゃん、詩音!一緒にサマフェス盛り上げようぜ!」と拍手をし始めた。
「いや、でも…」と詩音は少し戸惑いを見せた。「俺たちで大丈夫なのかな?」
「大丈夫だよ!みんなお前の音楽が好きなんだから」と優斗が力強く背中を押す。
「ありがとう、優斗。でも、俺たちがこのチャンスをつかめるとは思えなくて…」詩音は心の中の不安を口に出した。
「そんなことない!お前はしっかりした実力を持ってる。だからこそ推薦されたんだよ」と優斗が優しく励ます。
周囲の仲間たちも拍手を送り、賛同の声が上がる。「詩音、頑張れ!」と誰かが叫び、場が一層盛り上がった。
「それなら、挑戦してみようかな…」詩音は少しずつ自信を取り戻し、感謝の気持ちを美咲に伝えた。「本当にありがとうございます、美咲さん!」
美咲は微笑みながら「あなたの成長を見てきたから、私も嬉しいわ。自信を持って挑戦してね」と言ってくれた。
打ち上げの雰囲気が一層盛り上がる中、詩音の心には期待と不安が入り混じった感情が広がった。
美咲のスマホの通知が鳴り、美咲は席を外した。
詩音と二人きりになった優斗が聞いてきた。「でも、なんで最近お前雰囲気変わったんだ?」
優斗の問いに誤魔化そうと「二丁目の神社でお母さんにお願いしたんだよ。」と冗談っぽく言った。
すると優斗は「そんなところに神社なんてねーよ。」と笑いながらツッコんできた。
詩音は自分の記憶がぼんやりしていることに気づくが、今はこの場を楽しむことにした。
帰り道、詩音のスマートフォンが鳴る。カズコからの通知が届いていた。「ほらね、運が良くなったでしょ?これで使用期限は終わりよ。悩みは一つまでしか解決できないの。」
詩音はその言葉を聞いて思わず声を漏らした。「なんでこんなタイミングで…?」
その時、カズコからの言葉が続く。「運は確かに良くなったはず。その運ばれてきたチャンスを掴むのはアンタの実力よ。これからふんどし締め直して挑みなさい。」
詩音はその言葉を聞いて、心が高鳴った。「うん、わかった!俺、頑張るよ!応援してくれよな!」
「当り前じゃない!息子を応援しない母親なんていないからね!」とカズコは言った。詩音の心には母の強い愛情が伝わってきた。
すると突然、スマートフォンのバッテリーが切れてしまった。やっぱりこのアプリはバッテリーが消耗する。
街は静まり返り、詩音は一人立ち尽くしていた。静かな街の中で、彼は空に向かって「お母さん、ありがとう」と呟いた。心の中には、新たな運をつかむための勇気が宿り、自分の実力でこの道を進んでいく決意が固まっていた。