それから少し、後。
第一志望の大学に無事合格し、お祝いは何がいいかと神崎に聞かれて少し悩んだ後にこう答えた。
「碧のバイト先に行ってみたい」
そこは颯真の家から高校を挟んで三駅反対側に行った場所にあった。平屋の古民家を改装したようなつくりで、店内は意外にも広く、十ほどのテーブルとカウンター席がある。
ランチの邪魔になってはいけないからと忙しい時間帯を外したにも関わらず、八割は客で埋まっていた。
「……本当に来たのかよ」
なんて言いながら神崎が案内してくれたのは一番奥の席。そこだけちょっと他のテーブルと距離があるように見えたのは気のせいだろうか。
「ご褒美なんでしょ?」
「仕方ねえな」
神崎が静かにグラスをテーブルに置く。まだランチを提供している時間だったのでサンドイッチとアイスティーを頼んだ。電子機器ではなくメモに注文を書き、神崎がキッチンへと向かう。
文化祭のときにも見た姿――白いシャツに黒のギャルソンエプロンなのに、こっちの方がすごく格好よく見える。足音を立てずに、けれど素早く歩くところとか、何枚ものお皿を片手で持つところとか、注文を取ったり料理を置くときに見せるぎこちない笑顔に心臓はやられっぱなしだ。
レトロモダンと言うのだろうか、古さと新しさが融合した内装のせいか女性客がほとんどで、彼女たちから熱い視線を向けられていることに神崎はきっと気付いていない。
インターネットで調べてみると、店の雰囲気や料理もさることながら、店員のレベルの高さも評判だった。自分のことのように誇らしい一方で、ちょっと面白くはないわけで。ちょっとだけ。
「きみが “そうま” くん?」
突然頭上から声が聞こえて慌てて顔を上げると、男の人が颯真を見下ろしていた。見知らぬ人から声を掛けられ――しかも背が高く肩幅も広い男性で――颯真は反射的に椅子の端に寄って体を硬くする。
「ああごめんね、驚かせるつもりじゃなかったんだ」
申し訳なさそうに言って、颯真を見下ろしていた男性は「店長です」と自己紹介をした。体格に見合わず、笑った顔は幼い。
「碧、朝からずっとソワソワしてたんだよ。あんな碧を見るの、初めてだ」
「そ……そう、なんですか……」
「碧はよく働いてくれる。真面目だし気配りもできるいい子だ。だから心配しなくていいよ」
「心配って、そんな……」
偵察に来たわけじゃない。神崎の働いている姿を見たかっただけで――けれどどこかで心配していることも見抜かれていたらしい。高校みたいに、無理はしていないか、とか。
「好きなだけゆっくりしていってね。もう少しテーブルを離した方がいい?」
「い、いえ、このままで……ありがとうございます」
やっぱりここのテーブルだけ離れていると思ったのは気のせいではなかったらしい。何時に行く、なんて言っていないのに、ずっとこのままだったのだろうか。あるいは人が少ない時間に来るだろうと予想して?
「お待たせシマシタ」
やはり音も立てずに目の前にサンドイッチとアイスティーが置かれる。
「ありがとう。……どうかした?」
「あの人と、何しゃべってたんだ?」
「碧が一生懸命頑張ってるってこと」
「……他は?」
「なんにも」
「本当に?」
「本当」
「ならいいけど」
ちょうど「すみませーん」と客に呼ばれ、神崎が他のテーブルに走っていく。テーブルを離れる際に「無理はすんなよ」と気遣う一言は忘れなかった。
――碧のことが心配だったんだろ。この通り、女性のお客様が多い店だから。ここに来たばかりの頃は……酷かった。ああ、ひどいっていうのは乱暴をするって意味じゃないよ、何て言うか、痩せ細ったボロボロの猫みたいな感じでさ、ただ生きてるだけって顔してた。マトモに皿も運べないし、接客なんてさせようものならパニック起こすし。
でも碧はね、ここしか働ける場所がないからって、ものすごく頑張ったんだ。あの子がいてくれて助かってる。何にも心配いらないって言うと嘘に聞こえるかもしれないけれど……うん、安心していいよ。
神崎が他のお客さんの対応をしているとき、こそっと店長がそう教えてくれた。ああ、ここは神崎を受け入れ、必要としてくれる場所なんだ。そう思ったら鼻の奥がツンと痛んだ。
「颯真、平気か?」
神崎はしょっちゅう様子を窺いに来てくれる。
「うん、すごく居心地がいいから大丈夫。でもそろそろ帰ろうかな。今日は何時上がり?」
「五時」
「じゃあ良かったらウチに来て。母さんが一緒にご飯食べようって。……いい?」
「迷惑じゃなかったら」
受験が終わり、夕方家にいることが増えた母親と神崎と三人で、何度か食事をした。初めはひどく緊張していた様子だったが、今では多少慣れたようだ。
「あのね母さん、僕……神崎と付き合ってるんだ」
割と何事にも動じない母だが、さすがに驚いたようだ。やっとのことでハンバーグを飲み込み、胸を叩く。隣で神崎が箸を置いた。
「すみません、俺、みたいなのが」
「ストップ。……ああ、びっくりした。まあね、確かに同性ってところでもびっくりしたんだけど、それより颯真が恋人を紹介するってことに驚いてさ。ほら颯真って人見知りがすごいっていうか、他人と親しくするのが苦手な子でしょ、そういうイベントなんて来ないだろうなって勝手に思ってたんだよね」
「ちょっ……母さんっ」
「今まで隣の幼馴染の子しか来たことがなかったのに、部屋に上げるからよっぽど親しいんだろうなとは思ってたけど……そっか、きみが」
母親のまなざしは、颯真が想像していた何倍も、何倍も、暖かかった。
「反対、しないんですか。だって俺……」
「親としての幸せってねえ、子供が元気で幸せに生きてくれることなんだよ。今の颯真は私が見た中で一番幸せそうだ。反対する理由がないよ。……きみのご家庭の事情も、颯真から聞く限りだけど知ってる。それは神崎君のせいじゃないだろう。子供のことで親が頭を下げるのは当然だけど、子供が親のことで謝っちゃいけないんだ」
「……はい」
「ほら、食べてよ。数少ない私の得意料理なんだから」
「……はいっ……」
ハンバーグが少ししょっぱかったのは、飲み込んだ涙のせいだ。
デザートに神崎がバイト先で買ってきてくれたシュークリームと、颯真が淹れたコーヒーを楽しんでいたときだった。
「私、春からお父さんのところで暮らそうと思うんだ」
「え? 聞いてないんだけど」
「だから今言ってんじゃん。あんたも大学生になるし、いいかなって。で、良かったらの話なんだけど」
母は神崎に視線を向ける。
「きみ、この家に住まない?」
「は_!?_」
「もう少しで家を出ないといけないんでしょ。ここならもうひと部屋空いてるし、家電もある。初期投資費や家賃が浮くよ。とりあえず、余裕をもって暮らせるお金が貯まるまででいい。どう?」
「どうって……そりゃあ」
明らかに動揺しながら、神崎は颯真と顔を見合わせた。
「助かりますし、嬉しいですけど……本当にいいんですか」
「うん。この数か月間きみや颯真を見てきたけど、変にはめを外したりはしないだろうなって思えたからこういう提案をしてる。正直に言うと、まだ颯真ひとりだと心配だったんだよね。勉強はできる子なんだけど、ぽやっとしてるから」
「母さん……」
「その点きみはしっかりしてそうだ。近いうちに返事を聞かせて」
なんてことがあり、神崎が今の家を引き払うと同時に一緒に住むことになった。夢を見てるんじゃないかと思うほどの急展開。神崎も「本当にいいのか」と颯真と母に何度も確認してきた。
そして後日、神崎の保護者が挨拶に来た。「本来なら母親が来るべきところですが」と断って、「迷惑はおかけしませんので」と頭を下げる野宮――担任に、さすがの母も言葉を失った様子だった。
「……お前、言ってなかったのかよ」
「誰にも言わないって約束だったし」
「そうじゃねえ」
春はもう目の前まで来ていた。
三年生は自由登校となり、学校から一気に人が減った。進路が決まってからと言ってもいきなり怠惰になることはできず、颯真は毎日通学をしている。
昼休み開始のチャイムが鳴ると教室を飛び出し、外庭から保健室がある場所に向かう。保健室の窓際に、制服姿の生徒が見えた。自然に足が速くなる。
「おは……よ、神崎っ!」
「体力ねえくせにダッシュすんな」
手のひらを上に向けて人差し指を曲げる仕草。こっちへ来いよ、の合図だ。頷いた颯真が下駄箱へ戻ろうとすると、その袖が軽く引っ張られた。
「え?」
神崎がいたずらっ子っぽい顔をして、両腕を広げて見せる。
「窓《ここ》から?」
「しぃっ、バレるぞ」
「だってっ」
早く、と神崎に急かされて窓枠に腕を掛けて体を持ち上げようとするも、運動はからっきしな颯真には辛い。
「仕方ねえな。ほら、腕伸ばせ」
「……うん……うわっ」
ぐん、と体が宙に浮かんだ。そのまま引っ張り上げられ、窓枠を越えて、神崎の体に受け止められる。さすがにバランスを崩した神崎ごとベッドに転がった。
「ごめん、神崎っ」
「これくらい平気だって」
「大きな音鳴っちゃったから、先生にバレたんじゃ……」
「ああ、今はいねえぞ」
「それなら普通にドアから入っても良かったのに……」
尖る唇の先端を神崎が潰すように摘まんだ。
「いいだろ、いっぺんやってみたかった」
「もうっ……ね、そろそろ離して」
誰が見ても颯真が神崎をベッドに押し倒しているような体勢。見つかれば一発アウトだ。
「お前からキスしてくれたら離す」
「だっ、駄目だよそんなっ」
「キスだけなのになんで駄目?」
「学校だし」
「ンなもん、皆してるだろ」
「でも」
「一回だけ。な?」
髪を撫で、上目遣いで見つめる。神崎のその顔に弱いと知ったのはつい最近のことだ。神崎は顎を上げ、颯真からキスをするのを待っていた。長い前髪がはらりと落ち、目元があらわになる。切れ長の目――目元の隈は消えないけれど、目つきはずいぶん柔らかくなった。いつかこの隈も消えればいいなと、思う。
颯真はシーツをぎゅっと握った。
ちゅ、と唇の先端に触れるだけの。
「さんきゅ」
子供だましにもならないキスに神崎は嬉しそうに微笑んで、颯真の体から手を離した。その隙に急いで離れ、身だしなみを整える。
「もう寝るんだろっ」
「お前が行ったらな。ここであと何回過ごせるんだろうって思ったら、寝るのが勿体ない気もするけど」
「駄目だよちゃんと寝なきゃ。体もたないだろ……でも、惜しい気持ちも分かるな」
「十年後とか二十年後……もっとあとになって学生時代を振り返ることがあったら、俺は教室じゃなくて保健室を思い出すんだろうな」
「そうかもね」
「他のやつらと一緒に教室で勉強できてたらって思ったこともあったけど、きっとうまく馴染めなかっただろうし、やっぱり保健室で過ごせてよかったよ。ここがなかったら、卒業できなかったかも。お前にも会えなかったし」
「うん。僕も保健委員でよかったって思ってる」
学校の方針とはいえ、どうして三年生まで委員会に参加しなくちゃいけないのかと不満だった。面倒ごとを押し付けられて、断れなくて、嫌々仕事をしていたけれど――でもそのおかげで神崎と知り合えた。
それまで、保健室で過ごす人がいるなんて知らなかった。近寄りがたい見た目に反して神崎は真面目で優しくて、そして颯真と同じ空気を持っている。
「きみと、出会えてよかった」
颯真も学生時代を思い出すとき、三年間変わらなかったクラスメイトではなく、教室でもなく、体育祭や文化祭でもなく、保健室で過ごした静かで穏やかな時間のことなのかもしれない。
開きっぱなしの窓から入り込んだ春の風が、ピンク色のカーテンを揺らした。
END