手袋をはめていても指先が冷たい。耳もキンと痛くなって、けれど塾内でガンガンにたかれた暖房で茹だりかけていた頭に、この空気の冷たさは心地いい。せっかくだからもう少しこの感覚を味わってから帰ろう、そう思って自転車を漕いでいただけなのに、気が付けば第二中の、神崎の家がある校区内にいた。
「やば……帰らなきゃ」
自転車をUターンさせようとした、そのときだった。
「お前、なんでこんなとこにいんの」
「え?」
驚いて顔を上げれば、私服姿の神崎が数メートル先にいた。
「……えっと、考え事しながら走ってたらいつの間にかこんなとこまで来ちゃって」
苦しい言い訳にも関わらず、神崎はぷっと噴き出して笑う。
「もしかして帰り道が分からなくなった?」
「あ、うん……そんなとこ。神崎は? こんな遅い時間にどうしたの?」
「んー、散歩?」
「そっか……」
「待てよ、送って行ってやるから」
「え、いいよ」
神崎は颯真から自転車を奪い、歩きだしてしまう。ジャージを着た背中がどこか小さく見え、慌てて追いかけた。家にいたくなかったのかもしれない。
「塾の帰りか?」
「うん」
「あんまり無理すんなよ」
「ありがとう。神崎は……卒業したらどうするの? 進学? 就職?」
「就職。って言っても今のバイト先で働かせてもらうだけ。融通利くし、こんな俺でも雇ってくれるんだから多少は恩も返さねえと」
「そっか。頑張ってね。あ……でも頑張りすぎないで」
「どっちだよ」
ふふ、と颯真も笑う。笑うことができた。
卒業まで残り数か月。あとどのくらい神崎に会えるのだろう。せめて卒業するまでは近くにいたい。恋愛関係になれなくても、友人として。
「ここまで来ればもう道は分かるよ。ありがとう」
「おう。気を付けてな」
「神崎も……暗いから気を付けて」
「あれ? お前、優太朗の」
通り過がりに声を掛けられ、神崎と同時に振り返る。見覚えのある、優太朗の友達だ。颯真はぺこりと頭を下げた。神崎が黙って颯真に背中を向け、来た道を早足で戻っていく。
「神崎! また明日!」
神崎は背中を向けたまま、手を振ってくれた。
「あー……いきなりこんなこと言うのもアレだけど、あんまアイツと関わらない方がいいよ」
神崎の姿が遠くなった頃、優太朗の友達が小さな声で言った。
「……どうして」
怒りを孕んだ低い声に、彼は気が付かなかったようだ。
「あそこ、母親イカれてんだろ。酔っぱらってしょっちゅう違う男……それもあんまりマトモじゃなさそうなやつ連れて歩いてるし、父親もいないのに働いてないらしいし」
颯真は相槌をうつことができなかった。
「アイツ自身も何か怖えだろ。近づくなオーラ出てるし。小学校からほとんど授業も出てねえしさ」
「そ、れは……きっと事情、が……」
「そりゃ何かしらの事情はあるんだろうけど、関わるとロクなことねえよ。だから――」
「そんなことっ……言うなよ……!」
突然の大きな声に、幼馴染の友人はびっくりした顔をする。
「なんだ、お前」
「か、神崎はそんなっ……き、みが言うような、変なやつじゃっ……!」
ぎゅうっと喉が狭くなった気がして、言葉がつっかえる。母親のことは神崎のせいじゃない。保健室で過ごしているのだって、家や教室では眠れないからで。
――なんでって……教室で寝てると授業出てるクラスのやつらや先生に失礼だろうが。
どうして彼ばかり悪く言われるのか。悔しい。悔しい。否定をしなくちゃいけないのに、言葉がうまく出てこない自分が腹立たしくて仕方がない。
「まじ、めでっ……い、いやつ、なのに……なんでっ」
颯真は途中でゲホゲホと噎せた。吐いてばかりで息が吸えなくて、喉が異音を立て始める。
「おいっ、平気か?」
明らかに様子がおかしい颯真にうろたえながらも、幼馴染の友人が手を差し延べてくれる。彼の手が颯真に触れる寸前、それが阻まれた。
「コイツ、俺が引き取るから。……松永、わかるか?」
「かん、ざき……っ……ごめ、ぼく……っ」
「いい、しゃべるな。移動するからちょっと我慢できる?」
コクンと頷いた颯真の頭に神崎は自分のジャンパーを被せ、周りからの視線を遮断する。颯真の体を、神崎は軽々と抱き上げた。
視界が暗くなり、神崎のにおいで満たされる……安心する。
「神崎……お前」
「迷惑掛けたな。このこと、誰にも言わないでやってくれ。弥刀にも……コイツが気にするから。自転車、そこのコンビニの端にでも置いてくれたら助かる」
「あ、ああ……」
ベンチか何かに座らされ、ジャンパーを外される。知らない景色に首を傾げれば、「駅の近くの公園」と神崎が言った。ほんのわずかな量しか街灯の光が届かないのに、神崎といるせいか不思議と怖くはない。
「ごめん……ありがとう……」
「礼を言うのはこっちなんだけどな。お前、必死に言い返そうとしてくれただろ。馬鹿だな、あんなの適当に相槌うっておけばよかったのに」
やっぱり会話は聞こえていたんだ。悔しくて悲しくて、コートの裾をぎゅっと握る。
「僕はそんなふうに思ってないから……同意はできない」
「分かってるよ。単にうまくやれって話で……お前そういうの苦手そうだもんな。でも」
「神崎が悪く言われるのは嫌だったんだ……! 事実と違うことをいっぱい言われて、勝手に危険人物にされて、それを神崎が受け入れてしまってることも……嫌だった」
言葉と涙があふれ、みっともなくしゃくり上げた。神崎の手がぐしゃぐしゃと頭を掻きまわす。
「いまさら何言われようと平気だって」
「僕が、嫌だったんだ」
「……松永」
「僕がっ……神崎の悪い噂を聞くのも、神崎が知らない顔してるのも、けど僕を巻き込まないようにって、自分から離れてくのも嫌だった!」
一度開いてしまった口は閉じられない。頭のどこかで、「颯真って意外に激情型だよな」とこぼした幼馴染の言葉を思い出す。普段押さえつけているつもりはないけれど、何かのきっかけで感情が爆発してしまうらしい。今のところ、その相手は幼馴染と神崎だけだ。
「勝手に悪者にならないでよ……もっと自分を大切にしてあげてよ……諦めて、独りにならないで……」
「颯……松、永……」
「好き、なんだ……だから大切にしてくれないと嫌だ……っ」
頭に置かれていた手が強張り、颯真はぎゅっと唇を噛んだ。
「ごめん、言うつもりじゃなかった……迷惑だって分かってる、忘れてくれていいから」
「なんで」
「だってっ……君にはそういう人……こ、こいびと、いるだろ……」
「誰のことだ?」
神崎が不思議そうに訊ねる。
「誰って、野宮……」
「なんであの人のこと知ってんだ?」
「それは……この前、見ちゃったから……公園で」
「公園? ああ、もしかしてあのときの」
「僕っ……誰にも言わないから! 友達多くないし」
ぷはっと神崎が噴き出した。なんだそれ、と笑う。
「違えよ、なんで野宮センセを知ってんだって話」
「え? だって、僕の担任だし」
「……マジか。あー、なるほどな。お前、秘密にできる?」
「う、うん……」
神崎は自販機に向かった。買ったばかりのカフェラテの缶を颯真に手渡して、飲めよと促す。
「お金……」
「いいよ、さっさと飲まねえと冷める」
口調は荒いままなのに、視線は柔らかい。颯真に向けられている視線はずっとそうだった。
コク、と一口飲むと、甘くてあったかいラテが体に広がっていく。
「あの人な、俺の親戚なんだ」
「親戚_!?_」
声が裏返り、隣に座った神崎がククッと笑った。
「そ。母さんの弟。母さんがあんなふうになってから、俺の面倒を見てくれてる人」
「そう、だったんだ……」
「出ていった父さんと結婚するときに、実家と縁を切られたらしくてな。親戚はあの人しか知らなかったんだ。学校への説明とか手続きとか、そういうのは全部あの人がやってくれた。俺と親戚なの、ほとんど言ったことねえから内緒な」
「もちろん……でも先生に、神崎のことは気にするなって……言われ、たんだけど……」
「それは俺がどうこうって言うより、お前が受験生だからだろ。それにあの人も俺と似てるから……自分ん家《ち》のアレコレに大切なやつを巻き込みたくなかったんだ、きっと」
風に吹かれた葉が揺れる音も、車が走る音も、誰かの声も聞こえなくなる。
「神崎、もう一回言って」
「……巻き込みたくなかった」
「その前」
「……分かってて言ってるだろ」
「うん。でももう一回、聞きたい……だめ?」
神崎はうつむいて頭を抱え、大きなため息をひとつ吐いた。
「大切だから、巻き込みたくなかった……」
「それって、僕のこと?」
「お前以外にいねえだろ」
「特別だって、思ってくれてる?」
「……そう言ったつもり。ああもう、泣くなよ」
神崎がジャージの袖で颯真の涙を拭う。怒ったり嬉しかったり、感情が忙しすぎるせいで涙腺が壊れてしまった。仕方ねえなあ。涙を拭うことを諦めた神崎が颯真の体を引き寄せて、まるで子供にするみたいに背中をあやす。
「お前が近くにいることが気持ちよくて、ただそれだけで充分だって、思った」
「う、ん……」
「ほんとに、近くにいてくれるだけでよかったんだ。別に何かをしてほしいってわけでもねえ。そこにいてくれる安心感みたいなのが、よくて」
「うん……」
「本当にそれだけでよかったんだけど、俺がいることでお前まで変な目で見られることに気が付いて……自分がいまさら何言われても構わねえけど、お前まで巻き込むのは、お前が傷つくのは絶対に嫌だった」
神崎の胸のあたりをぎゅっと握り締める。包んでくれる腕は強く、鼓動は驚くほどに速い。
「僕、も……神崎といる時間が好きなんだ。眠っているところを見ると安心する。きみのっ……空気が好きなんだ。きみの周りはいつも静かで、あったかくて……そばにいたいって、思って」
「ん」
「勝手に、離れて行こうとしないでよっ……僕だってちょっとくらい、支えられるよ」
髪に顔を埋める神崎が、くぐもった声で「ん」と答えた。
「僕に、」
神崎の背中に腕を回し、その体を抱き締める。
「僕に、甘えてよ」
腕の中にある体が震え始めた。さっき神崎がしてくれたみたいに背中をあやしてあげながら「大丈夫だよ」と繰り返す。背は颯真より大きいのに、まるで小さな子供のようだった。大人びているけれど、神崎は自分と同じ歳の、まだ子供なのだ。ひとりで耐えるには、神崎の体は小さすぎる。
止まっていた時間が動き出した。
夜風に吹かれ、木々がざわめく。