秋晴れの空の下に響くアルペジオ。そしてこの世で一番美しい歌声。何よりも誰よりも独り占めしたいのに、簡単にはそうさせてくれない。そんな複雑な彼のことをどうしてこんなにも好きになってしまったのだろうか。


 今日はもう誰とも話したくない。入学してから半年、玲にとって心休まる時間はないに等しかった。その中でも、今日は特別疲れてしまったのだ。玲は容姿に恵まれている自覚がある。その恩恵は十分に受けてきているから文句を言うつもりはないけれど、それにしても外見だけで好意を持たれたり、面倒ごとを持ち込まれたりしてばかりだ。今日だって、一度話したかどうかもわからない女子生徒から告白され、その様子を見ていた別の女子生徒に負けじと告白され、一部始終を見ていた男子生徒によってあらぬ噂をたてられそうになった。近くでその様子を伺っていたらしい親友の颯によって上手いこと助けられたけれど、こういうことは本当に勘弁してほしい。色素を抜いた髪色に制服を着崩した玲がギロリと睨みつければ、大抵の人間は怯むことはわかっている。そうやって自分を守ってきたところも確かにある。けれど、玲はほとんどそれをしなかった。いちいち他人に敵意を向けるのも疲れるものだ。
 放課後になって、いつもは誰も寄り付けないように颯と早々に帰宅するところだが、生憎彼は生徒会の仕事に行ってしまった。こんな日は1人で歩いていたら面倒ごとに遭遇するに決まっている。校内が落ち着くまでの間、どこで時間を潰そうか。少し考えて、玲が思いついたのは屋上だった。どうやら玲が入学する前は不良の溜まり場だったらしく、その名残で現在もあまり人が寄りつかないと聞いたことがある。スラックスのポケットに手を突っ込んでゆっくりと階段をのぼる。人に見つかったら面倒だからとにかく静かに足を進めて、最後に屋上に続く扉のノブを握った。
 扉を開けようとしたところで、玲は少しの違和感に気がついた。ポロンポロン。響いているのはギターの音色だろうか。そしてそれにのせられた美しい歌声。不思議と引き返そうとは思わなくて、引き寄せられるように扉を静かに開けると、給水塔の影に隠れるように1人の男子生徒がギターを抱えて座り込んでいた。気ままに音にのる彼は、まるで1人きりじゃないように楽しそうで、羨ましさすら感じる。もう少しその音を聴いていたくて、ゆっくり給水塔に近づくと、玲は彼に見えない位置に静かに座り込んだ。澄んだ歌声は青空に吸い込まれていくようで、どこまでも心地良い。ポロンポロン。自然と目を瞑って聴き入る。それからしばらく経った時だった。
「やっべ」
 急に音が止んで、小さな呟きとガサゴソとした音がする。どうやら帰るつもりらしいとわかって、目を閉じながらも少し残念に思った。コツコツと階段へ続く扉へ向かって遠ざかっていく足音。しかし、それが急に止まった。そして今度はどんどん玲に近づいてくる気がする。どうやらそれは勘違いではないようで、戸惑いながらも寝たふりを続ける玲のそばに、彼がしゃがみ込む気配。せっかく気持ちよく身を委ねていたのに、もしかして写真でも撮られるのだろうか。無断でカメラを向けられることは珍しくなかった。それにはいつまで経っても慣れることはなくて、スマートフォンを構える人の姿を見るのも苦手になる程だった。穏やかだった心が急に荒れ始める。もしシャッター音が聞こえたら、とっ捕まえてやろう。
 ガソゴソとした音がしばらく聞こえる。そして、ふわりと体にかかる温もり。
「ごめんな」
 小さな声で何を言われたのか、頭で理解する前に足音が遠ざかっていく。扉の閉まる音が聞こえてから、玲はやっと目を開けた。そして自分の体の上を確認する。かけられていたのは、制服のブレザーだった。きっと先ほどの彼のもので、感じる温もりから、せっかく着ていたものを脱いだのだろうとわかる。それは好奇の目に晒され続けてきた玲にとってむず痒いほどまっすぐな優しさだった。でも、少し考えてから思った。これ、どうしたらいいのだろうか。10月に入った夕方間近の空気は少し冷たい。ワイシャツ一枚で帰ったら、彼自身が冷えるに決まっている。玲は急いで立ち上がると、温かいブレザーと自分の荷物を担いで、彼を追いかけることにした。
 彼はすぐに見つかった。玲の親友である颯と2人、職員室前で生徒指導の教師に捕まっていたのである。白い肌に、甘栗色の髪。彼は長身の颯と並ぶと背はそこまで高くないものの、その体躯は十分にスラリとしていた。小さな顔に大きな目が印象的で、教師を見上げる様子は少しだけ小動物を思わせる。
「沢田、お前ブレザーどうした?」
 教師の言葉に、彼はきょとんとした顔をしている。自分で手放しておきながら、どうしてそんな純粋な顔ができるのか、玲は不思議に思った。
「本当だ。なっちゃん、朝は着てたよね」
 颯が彼のことを見ながら声をかける。彼が颯と親しい間柄だとは知らなかった。
「あぁ、ブレザーか。明日探します」
「まさか、なっちゃん。失くしたの?」
 教師も颯も呆れ顔で、彼のことを見ている。
「もう10月なんだから、ブレザーは必須なんだぞ」
「そっか!すみません」
 そう答えてヘラリと笑った彼をみて、颯は呆れ顔をしてから教師を見据えた。
「俺も一緒に探します」
「おう、頼んだぞ。もし見つからなかったら言えよ」
 玲は驚いた。生徒指導の教師と玲は天敵同士だ。入学してから半年間、髪色と制服の着崩し共に散々注意を受けている。だからこそ、彼に対する教師の態度には驚かされたのだ。確かに彼の笑顔は怒る気が失せるかもしれないけれど、それにしても対応が甘い気がする。この時期にブレザーを着ていないことは十分に校則違反なはずなのだ。
 職員室に戻っていく教師を見送った颯と彼が顔を見合わせる。
「本当に、ブレザーどこやったのさ」
「まあまあ」
「さっきまでどこいたの?探そうよ」
「うーん、明日ね」
 颯からの問いをはぐらかす彼は、どこか浮世離れした様子で、それでいて絶対に口を割らないという頑固さすら感じる。これは玲のためなのだろうか。そう考えながらその様子を眺めていたら、颯とパタリと目があった。
「玲」
 颯の声に、彼も気がついて玲を見る。2人の視線を受けて少し恥ずかしくなりながら、玲は彼に近づいた。
「あの、これ」
 名前も正確にはわからない彼になんて声をかけたら良いのかわからず、好きな子に傘を差し出す小学生みたいになってしまった。彼のことを窺い見る。大きな瞳が優しくゆるんだ。
「ありがとう」
 お礼を言うのは玲の方なのに、なぜだか玲はその言葉を受け止めて頷いてしまった。自分の不器用さに呆れる。
「2人とも、知り合いだったの?」
 颯の疑問に、なんて返そうか悩んだ。玲にとったら、初対面だけど彼の優しさに触れて、かけがえのないひと時を過ごした後なのだ。知り合いじゃないけれど、ちょっと特別な感じ。チラリと彼のことを見ると、彼は相変わらずきょとんとした顔で大きな目をぱちぱちと瞬かせた。
「お互いこれっぽっちも知らないよ」


 玲は昨日の放課後、かなりショックを受けた。誰かに振られるって、あんな感じだろうか。振られたことなんてないけど、もしそうなら、今度からもっと丁寧に告白を断ろう。相手のことを「知らない」なんて、絶対に言わないであげたい。
 それでもこうして無事にメンタルを復活させて登校できたのは、その後の親友の対応のおかげだった。お互いを紹介してくれて、彼のことを少し知ることができたのだ。名前は沢田夏希。玲たちの一歳上で、颯の隣の家に住む幼馴染らしい。玲が渡したブレザーを嬉しそうに着込む姿がなぜだかどうしようもなく可愛く思えたことが、玲には不思議だった。
「玲」
 名前を呼ばれて顔を上げる。教室の一番後ろの特等席にだらりと腰掛けて、雑誌を読んでいたことを思い出した。前の席に横向きに座って玲を見ているのは颯だ。
「どうした?なんか、昨日から変だけど」
 聡い彼の目は誤魔化せないらしい。確かに、玲自身も変だなと思っている。なんだか、玲の中の芯みたいなものがふにゃふにゃになってしまったようなのだ。
「なっちゃんと、なんかあったの?」
 その言葉に、玲の心臓はドキリと鳴った。昨日夏希から受け取った優しさを思い出して、ますます腑抜けになってしまいそうで怖い。そんな玲に颯は顔を近づけて、コソコソとささやいた。
「屋上にいたんでしょ」
「え?」
「なっちゃんはギター弾いてた?」
「見てたの?」
「見てないけど、それくらいわかるよ」
 呆気に取られて、でもそれを誤魔化すように思わず眉の辺りを指先で掻いた。玲と夏希だけの秘密の時間を知られていたことが、少し嫌だった。
「多分今日もいるから、行ってみたら」
「いいよ」
「なっちゃんも待ってるかもよ」
 そんなはずない。だって、あんなに神聖な時間を共にした玲のことを、これっぽっちも知らないと言った男だ。
「じゃあ、俺が行こうかな」
 その言葉に思わずギロリと睨みつけると、颯は愉快そうに笑った。
 そして結局、玲は放課後になると屋上に向かってしまった。昨日と同じく、静かに扉を開ける。ポロンポロンと聴こえるアルペジオは昨日と同じ旋律で、それにのせられた歌声はよく聴くと洋楽のようだった。
 青空の下、給水塔の近くに座り込んだ夏希がくるりと振り返る。
「あ!」
 スラリとした手を挙げた夏希に応えるように、気がつけば玲も右手を挙げていた。照れ隠しにポケットに両手を突っ込んで近づく玲を、夏希はニコニコと迎えてくれる。そしてポンポンと隣を叩いて、玲に座るよう促した。
「ここに来た人、玲くんが初めてだったんだよ」
「そう、なんですか」
「昨日は安眠妨害してごめんな」
「いや、全然」
 夏希の隣にしゃがみ込む。我ながら面白くない返しだ。でも夏希はまったく気にした様子もなく、ご機嫌にギターを奏で始めた。ポロンポロン。
「ここ、本当に誰にも見つからないんだよ」
「そうなんですか」
「颯も知らないの」
 イタズラに笑った顔を見てしまえば、もうバレてますよとは言えなかった。しばらくの沈黙の後、そうだ、と夏希が言った。
「今月末、颯の誕生日だって知ってた?」
「はい」
「俺お金ないから、今年は歌をプレゼントしようと思って練習してるんだ」
「へぇ」
「歌なんてさ、お腹膨れないのにね」
「……はい?」
 いきなりの自虐に、玲は戸惑って夏希を見る。夏希はすでにギターに夢中で、玲は慌ててしまった。今の、ツッコむべきだったのか、ただの本心なのか、よくわからない。
「いや、でも、嬉しいと思いますよ」
 なんとか、玲の本心を絞り出した。すると夏希は顔を上げて、嬉しそうに玲のことを見つめた。
「ありがとう、そうだよな」
 優しくゆるむこの瞳をまた見られたことが、こんなにも嬉しい。
「なんて歌を送るんですか」
「秘密」
「え、なんで?」
「俺も題名知らないから」
 そう言ってくしゃりと笑った無邪気さが玲には新鮮で、玲も思わず同じように笑顔を返してしまうのだった。


 ポロンポロンと、軽い様子で指先から紡がれる音は、夏希の心を表しているのだろう。颯はローテーブルを挟んで夏希を眺めながら、こっそり笑みをこぼした。颯の部屋に上がり込んで、当然のように颯のギターを抱え込んでいる自分勝手さにはすっかり慣れている。他の人にはやらないでねと、いつかちゃんと言って聞かせただろうか。いや、言ってないかもしれないけれど、彼はその愛嬌だけで大抵のことを許されてきた男だから、問題ないかもしれない。
 穏やかで優しくて、変わり者。夏希を形容する言葉はたくさんあるけれど、颯からしてみたら本当に世話がやける兄貴分だ。でも世話をすることは全く嫌ではなくて、むしろ彼のことならすべて理解していたいと思うし、実際理解できるのは颯だけだという自負もある。だから夏希がご機嫌であるならば、颯は純粋に嬉しいなと思うのだ。
「なっちゃん、ギター上手になったね」
「だろ?毎日練習してるから」
「どこで?」
「それは、内緒だってば!」
 学校の屋上で練習していることくらい知っている。半年前まで不良の溜まり場だった屋上。夏希はそういった先輩たちにもよく可愛がられて、屋上に近づくことを許されていたらしい。当時中学3年生だった颯は噂を耳にするだけで夏希のことが心配でたまらなかった。パシリにされていたらどうしようかとか、悪い遊びに付き合わされていたら止めなくちゃとか、色々なことを考えた。でも実際は、よく食べるところが可愛いと食事を貢がれ、家が好きだからという理由で放課後は真っ直ぐ自宅へ帰っていたらしく、すべてが夏希らしくて笑ってしまった。
 そんなに家が好きな夏希が、放課後学校でこっそり練習しているのは、颯のための誕生日プレゼントらしい。「誕生日当日には本気の歌を歌うからね」と宣言された時は小学生なのかなと思ったけれど、内心とても楽しみにしている。でも最近ではその練習に新しい仲間が加わったことも、颯は知っているのだ。
「玲と練習してるの?」
 試しに聞いてみたら、夏希の手が止まった。そして驚いたように目を丸くして颯のことを見てくる。
「た、たまに遊びに来るけど」
「見かけのわりに、良い子でしょ」
「そりゃ、颯の友達だからね」
「玲もどこで練習してるのか、口を割らないんだよ」
 颯がそう言ってやると、夏希は心底安心したように息をついた。練習している姿を完全に隠し切って、披露する歌は当日までのお楽しみらしい。きっと、颯が好きなあの曲か、あの曲だとは思うけど。さっきからその2曲だけは頑なに演奏しないから、なんとなくわかってしまう。本当に、隠し事が下手な可愛い幼馴染だ。
 夏希のギターの音色を聴きながら、颯はペラペラと雑誌を捲る。言葉がなくても気まずくないこの距離感が、いつでも心地良い。
「玲って、かっこいいよね」
 突然の夏希の言葉に、颯は少し驚いた。本当にただ溢れ出ただけの言葉のようで、夏希はポロンポロンとギターを奏でている。でも、夏希が颯以外をその言葉で褒めるのは初めてだった。夏希の中のかっこいいは、いつだって颯に向けられてきていたはずだから、なんとも言えない気持ちになる。
 でも確かに、玲は町で噂されるほどの美少年だ。多くを語らない器用さと不器用さを持っていて、たまにみせる気怠げな様子は不思議な色気すら感じる。颯といる時はよく笑うし、やんちゃな姿も見せるけれど、親しくない相手には何も見せないミステリアスさが魅力を倍増させているようにも思う。だから、確かにかっこいいのかもしれないけれど、ちょっとだけ嫌だなと思った。
「ねぇ、なっちゃん」
「ん?」
「俺は?」
「えぇ?」
 颯が冗談めかして聞いてみると、夏希はギターから顔を上げて真面目な顔をした。
「颯は超かっこいいよ。当たり前じゃん」
「だよね」
 颯がそう返すと、夏希は楽しそうに笑顔を見せた。くしゃりとした笑顔は昔から変わらない。
「ねえ、俺は?」
 何かを期待している様子の夏希が可愛いなと、何度だって思うのだ。こんな時は、ちょっぴり意地悪したくなる。
「なっちゃんはね、お転婆小僧って感じ」
 颯がそう言うと夏希は唇を尖らせて納得いかない顔をしたけれど、少ししてから面白そうに笑った。
 

 夏希との時間は、玲の心を解きほぐしてくれる。夏希と出会ってから約2週間、玲は屋上に通い続けた。夏希との会話も弾むようになってきて、砕けた話し方を許してくれる夏希の大らかさにも心地よく甘えていた。
 今日も屋上に続く階段をのぼる。しかし、最後の数段を前に、玲は思わず立ち止まってしまった。靴、靴。数段をおいて片方ずつローファーが脱ぎ散らかされている。こういうわけのわからないことをするのは夏希しかいないだろう。どこか自信があって、玲はローファーを拾ってから扉を開けた。ポロンポロン。いつもの旋律が聴こえてくる。気持ちよさそうに歌う邪魔はしたくなかったのに、夏希はすぐに玲に気がついた。
「玲!」
「夏希くん」
 玲は近づきつつ、ローファーを差し出す。
「落ちてたけど」
「うん、片方脱げたから両方脱いだの」
「なんで」
「なんでって言われても。ほら、靴下も脱いだ」
 あぐらをかいていた両足をわざわざヨイショと伸ばしてくれる。太陽の下、真っ白な夏希の足はまさに夏希みたいで、すらりと綺麗だった。そう思った自分にびっくりして、玲は思わず目を逸らす。
「もう裸足は寒いでしょ」
「寒くたって、裸足になりたいときもあるんだよ」
 そんなものだろうか。夏希がそう言うなら、そういうことにしてやろう。そう思って、ローファーを彼の近くに置きつつ、夏希の横に座り込んだ。
「夏希くんって、いつも洋楽歌ってるよね」
「うん、颯が好きな曲」
「プレゼントする曲?」
「そのつもり。感覚で歌ってるから、歌詞があってるかは知らないけど」
「感覚的にはなんて歌ってるの?」
「やたらアイラブユーって言ってるからぁ、好き好き大好き愛してるって感じかな」
「それを、幼馴染に歌うの?」
 思っていたよりも大きな声が出る。そのことに、玲自身が一番驚いた。
「ちょっと待って、ここで鼻唄歌って」
 夏希の鼻唄をもとに、スマートフォンの音楽検索で調べる。機械音痴の夏希はこの機能を知らなかったらしく、すごい技術だと騒いでいるけれど、玲はその歌詞を探すのに必死だった。少しして、やっと歌詞を和訳しているサイトを見つける。そして夏希の感覚通り熱烈なラブソングだとわかって眩暈がした。絶対に幼馴染に歌う曲ではない。
「本当に颯はこの曲が好きなの?」
「うん」
「リクエストされたの?」
「されてないけど、メロディーも良いし、俺も好きだし。だからこの歌が良いかなって」
「こんなの誕生日に歌ったらさ」
「ん?」
「なんか、ちょっと、告白みたいじゃない?」
「そんな歌詞なの?」
 玲がスマートフォンの画面を夏希に見せると、夏希は歌詞をじっくり目で追って、それからケラケラと笑い始めた。
「すげえ!なんだこの歌詞」
「笑い事じゃないよ。絶対ダメ」
「いや、歌うよ?もう練習してるし」
 そうだ、彼は温和なようでかなり頑固なのだ。こだわりも強いし、これと決めたら譲らない。でも、玲はどうしても許せなかった。本当は玲以外の人間に夏希が歌を聴かせることさえ嫌なのだ。しかも、こんな情熱的な歌だなんて、玲だって一歩も譲れない。
「そんなに歌いたかったら俺の誕生日に歌ってよ」
「玲、この歌好きなの?」
「うん。夏希くんが歌ってくれるなら、好きかな」
 自分で言っておきながら、なんてキザなセリフなのだろうかと思った。でも自然に出てしまったものは仕方がないだろう。
「ふーん」
 夏希はきょとんとしたまま頷くと、ポロンと弦を弾いた。
「わかった。じゃあこの曲は?」
 そう言って弾き語り始めたのは少し古い日本の歌謡曲。愛だの恋だのと歌った歌でなく、心に聴かせるような、大切な幼馴染に歌うにふさわしいと思える歌だった。
「すごいね!」
 その演奏が本当に素晴らしくて拍手をする。
「颯、この曲も好きだから、本当はどっちにするか迷ってたんだよ」
「こっちがいいよ」
「そう?玲がそう言うなら、こっちにするか」
 玲は胸を撫で下ろした。それから、目の前で照れた様子の夏希が可愛くて、でも可愛いと思った自分が恥ずかしくて、心の内を隠すかのようにたった今夏希が歌った歌を口ずさむ。
「玲って歌上手なんだ」
 夏希の言葉にハッとして、慌てて口を閉じた。人前で歌うなんて柄じゃない。
「なんでやめちゃうの?聴かせてよ」
「やだ。忘れて」
 照れくさくてそっぽを向くと、夏希が玲の右頬をつまんできた。突然触れられたことに心臓が跳ねる。
「玲、可愛いな」
 そしてかけられた言葉に、思わず固まってしまった。そんな玲に気がついていないのか、夏希は玲の頬を存分にフニフニと触っている。
「すごく良いのに残念」
 そう言ってから、夏希は玲の頬を一撫でして、ゆっくりと手を離した。それが惜しくて、玲は思わずその手を掴んだ。心臓がどうしようもなくドキドキする。
「玲?」
 この後どうしたら良いのかわからなくて一瞬止まってから、もうどうにでもなれと思った。
「じゃあ、夏希くんの誕生日に歌うよ」
「え?」
「さっきの英語の歌」
 この意味、夏希にわかるだろうか。やたら愛を語る歌を、年上で、変わり者の男に歌う意味。玲はもう降参だった。長らく感じたことのなかったこの胸の高鳴りは、さすがに無視できない。つまり、玲なりの告白なわけだけれど、夏希は玲のことを見上げてきょときょとと目を瞬かせた。
「俺の誕生日、いつだか知ってるの?」
「えっと、……夏?」
「そうだよ。それで、今は秋」
「うん」
「俺、来年まで待つの?」
 これは試されているのだろうか。いや、夏希のことだから、ただ純粋に疑問に思っているだけなのかもしれない。でも、こんな風に思わせぶりなことを言ってきたのは夏希なのだから、だから責任をとってもらおう。
「そこまで待ちたくない?」
「だって、ほぼ一年だよ」
「夏希くんにプレゼントするなら、本気で練習したいもん」
「本気で?」
「夏希くんへの気持ちだからね」
 ここまで言ったのに、夏希は納得のいかない顔をしている。だから、トドメを刺そうではないか。夏希の手を握る右手に力を入れて、真剣に夏希を見つめる。
「俺、夏希くんのこと、好きだから」
 心臓がバクバクして、もう後には引けないことに発言してから気がついた。この関係性が壊れたらどうしようとか、嫌われたらどうしようとか、色々な不安が押し寄せる。夏希は目を見開いて固まって、それからひとつふたつと瞬きをしてから、おずおずと口を開いた。
「玲って、俺のこと、好きなの?」
「うん、大好き。あの歌を真剣に送りたい。それくらい好き」
「それは、好き好き大好き愛してるってこと?」
「うん」
「へぇ!」
 突然の大きな相槌に、玲は驚いた。ロマンチックのカケラもない反応は、夏希らしいといえば夏希らしいけれど、玲の精一杯の気持ちが伝わったのかわからなくてもどかしい。
「ねえ、夏希くんは俺のことどう思ってる?」
「そりゃ好きだし、かっこいいと思ってるよ」
「俺は夏希くんと手を繋ぎたいよ」
「もう繋いでるじゃん」
「キスだってしたい」
「……キス?」
「だめ?」
 綺麗と言われる顔を使って、渾身のおねだりをしてみる。この顔を自分の武器だと思う瞬間が来るとは思わなかった。夏希は大きな目をさらにまんまるに見開いて、それからゆっくりと頷いた。その頷きの意味がわからなくて玲が顔をぐっと近づける。すると夏希は眉尻をふにゃりと下げて、照れくさそうに笑ってこう言った。
「また今度ね」


「また今度ね」
 この言葉にはどんな意味が込められているのだろう。玲の気持ちが伝わってくれたと思って良いのか、それとも上手いことかわされたのか、玲は本気で三日三晩考え続けている。というのも、玲が夏希に告白をした翌日から今日まで、天気は荒れに荒れていて、屋上でギターなんて弾けそうにないのだ。実際は毎日屋上を覗きに行っているけれど、夏希の姿はなかった。雨が降っているのだから当然なのだけれど、まさか自分の告白のせいで夏希は姿を見せないのではないかと玲は怯えていた。
 今日は放課後、所属する園芸委員会に出席しなければならなくて、一度屋上を覗いて夏希がいないことを確認してから委員会の開かれる教室へ向かった。玲は無表情ながら、園芸委員になってしまったことを嘆いていた。草花なんて興味ない上に、一緒に委員となった女子生徒は何かと玲に関わりたがる厄介なタイプで、玲を放っておいてくれない。強く興味を持たれていることがヒシヒシと伝わってくるところが苦手だった。今だって玲が教室にたどり着いたところを、女子生徒は教室の外で待ち構えていた。
「玲くん、一緒に座ろう」
 さすがにここまで待たせておいて断るのも悪くて、適当に頷く。教室の後ろの方の席に彼女と並んで座って教室を見回した時、玲は目を丸く見開いた。前の方の席に、夏希がいたのである。男女問わずたくさんの生徒に囲まれて、楽しそうに談笑している。一緒の委員会だったなんて、なんで気が付かなかったのだろう。月1回の委員会は校庭を眺めるだけで終わっていたから当然かもしれないけれど、あの無邪気な笑顔に気が付かなかった自分の見る目のなさに呆れ返る。
「夏希先輩、いつも人に囲まれてるよね」
 隣の席の彼女が話しかけてくる。無視するわけにもいかないから、改めて適当に頷くと、彼女は嬉しそうに話を続ける。
「夏希先輩って一年からもすごく人気者なんだよ」
 まあ、そうだろうなと思ったけれど、「ふーん」とだけ言っておいた。
「運動神経も良いし優しいし、先輩と関わったらみんな好きになるって有名だよね」 
 そんな有名人だったのかと、驚いた。こんなに夏希について語るということは、彼女も夏希のことが好きなのだろうか。
「君も?」
 牽制の意味を込めて少し深掘りしてみようとすると、彼女は慌てたように首を横に振った。
「私は颯くん派」
「派閥があるの?」
「そりゃあるでしょ」
「颯派、かぁ」
 颯を選ぶなんて、センスあるななんて思う。彼女の好感度が少しだけ上がった。
「玲くんってさ、私の名前知らないの?」
「滝本さんでしょ」
「知ってるなら、ちゃんと呼びなさいよ」
「うん」
 玲が頷くと、滝本はやっと満足した顔になった。それからすぐに委員長が教卓の前に立って、今日の活動内容を説明していく。校庭の端にある花壇のアピールと、環境の美化を推進するためのポスターを作ろうだなんて、なんとも面倒な課題を提示し始めた。説明の途中で文句を言い出したり、ふざけだしたりする男子生徒もいて、教室全体の雰囲気はあまり良くない。玲は決して真面目なタイプではないけれど、こういう空気は苦手だった。
「俺で良ければ描きます」
 その空気を打ち消すように聞こえてきたのは、玲の大好きな声だった。夏希に視線を向けると、スラリとした腕をまっすぐに挙げている。困り顔の委員長がほっとした様子が伝わってきた。
 だから当然、玲もゆっくりと手を挙げた。
「俺も、一緒に描きます」
 振り返った夏希が少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに笑った。その顔を見ただけで、柄にもないことをしようとしている自分に呆れるよりも、よくやったと言ってやりたくなる。そこからチラホラと手が挙がって、結局委員全員で何枚かのポスターを作ることになった。座っている席の位置で適当に組み分けをされてしまったから夏希とは同じチームになれなかったけれど、玲は夏希の笑顔が見られただけで嬉しくてたまらなくて、また屋上で今日の話ができたらいいと思った。
 作業が始まってしまえば、絵の得意な生徒が下書きを描いてくれて、特にすることがなかった。だから、玲は夏希を眺めることに専念している。真剣な眼差しでペンを握る姿を、彼と同じチームの生徒たちが見守っている。前から思っていたけれど、集中すると尖る口元が可愛い。そう思ってから、もしかしたら玲の他にもそう思っている輩がいるのではないかと危機感が募った。きっと無意識なのだろうから、今度教えてやろう。あんまり可愛すぎると危ないよって。
「ちょっと、玲くん」
 せっかく良いところなのに、滝本に話しかけられる。
「そんなに夏希先輩が好き?」
「うん」
 反射で答えてしまってから、しまったと思ったけれど、滝本は呆れた顔をするだけだった。
「やることないならさ、絵の具使うから一緒に準備しよ」
 女の子って、どうして何でも一緒にやりたがるのだろうか。
「1人で行ってくるよ」
「え、そう?」
「うん」
 他の生徒からの手伝いも断って、1人で用意された絵の具セットを準備して、水を汲みに水道まで向かった。
「玲!」
 水道場で水を汲もうとしていたところに現れたのは夏希だった。夏希も玲と同じく、水を汲みにきたらしい。下書きもして、絵の具の準備まで夏希任せかと、夏希のチームの生徒に怒りが湧いてくる。
「夏希くん、働きすぎじゃない?」
「絵って久しぶりに描いたけど最高だよね」
 思いがけず夏希が楽しそうで、多少溜飲が下がる。彼が楽しいなら良いか。
「そんなに楽しい?」
「うん!でも、しばらくは絵画とは距離を置いても良いね」
 玲は思わず吹き出した。楽しいのか、楽しくないのか、結局よくわからないところが彼らしい。
「まだポスター、完成してないでしょ」
 玲を見て、夏希も楽しそうに笑っている。
「俺は歌の方が楽しいみたい」
「でも天気悪くて練習できてないよね」
「一応、颯の家でギターは触ってるよ」
「自分のじゃなくて?」
「兄弟が2人も受験生だから、自分の家では遠慮してるの」
「そうなんだ」
 そういえば、夏希の兄弟構成の話は聞いたことがなかったなと思った。出会ってから日が浅くて、まだまだ見えていない部分は大いにあるのだろう。夏希のすべてを知りたいと思うくらいには玲は夏希に惚れているのだと、改めて気がついた。
「夏希くんのこと、もっと教えてよ」
「え?」
「俺、夏希くんのことなら何でも知っておきたいみたい」
 玲がそう言うと、夏希はいつかのように眉尻をふにゃりと下げて、照れたような顔をした。
「へへ!玲って不思議な子だね」
 そう言ってご機嫌に蛇口を捻って、絵筆を洗うための入れ物に水を溜める。玲もやっと目的を思い出して、夏希に倣った。一足先に蛇口を閉じた夏希は少し考えるような顔をしてから、玲に顔を向けた。
「俺はね、案外料理上手だよ」
「そうなの?」
 玲も水を溜め終わって、蛇口を捻って閉じる。至近距離で見上げられると尚のこと可愛いななんて、思ったままに伝えられる関係にはいつなれるのだろうか。
「得意料理は、なんと」
「なんと?」
「チャーハン!」
 チャーハンなら玲も作れるけれど、「おぉ、すごいね」と言った。実際、夏希が作るチャーハンを食べる瞬間は、それはもう格別なのだろうとも思う。
「今度、作ってあげる」
「本当?」
「うん。気が向いたらね」
「えぇ、絶対がいいな」
 玲は本気なのに、夏希は玲にふにゃりと笑って、それから慎重な足取りで教室まで向かい始めた。
「玲くん、水汲めた?」
 廊下の奥の方から声がして、少ししたら滝本が姿を現した。
「どこまで汲みに行ったのかと思った」
「そんなに遅かった?」
「私がいないとダメね」
「すみませんね」
 もしかして、滝本は玲の面倒を見てやっている気でいるのだろうか。彼女曰く颯派なのにしつこく構ってくるのは、玲が1人だと何もできないと思われているからかもしれない。見かけからも普段の行いからも真面目じゃないことはバレているとは思うけれど、ちょっと心外だ。
 廊下を歩きながら窓の外を眺める。相変わらずの雨に、暗い空。こんな天気だけれど、チャンスがあれば夏希に一緒に帰ろうと誘ってみよう。そして送り届けてあげて、そしたら告白の確かな返事が聞けるかもしれない。今日の感じからも、きっと答えは良いもののはずだと、玲は信じて疑わなかった。


「夏希、ここ何色で塗る?」
「目立つように赤にしようか」
 同じ園芸委員の仲間が何か言っている。ぼんやりしていたから、事の流れはよくわからないけれど、夏希はひとまず周りの仲間たちを見回して笑顔を作った。
「もう、聞いてた?」
「ごめん、ごめん!そうしようか」
 適当に話を合わせるしかできない。ここまで頑張って描いてきたポスターだけど、夏希はもう上の空だった。
 ハヤテハ、ハヤテハ。やっぱり、ハヤテハって、颯派という意味で良いのだろうか。委員会が始まる前、教室の後ろの方に座る玲をみつけた。それがただ嬉しくて、声をかけようと思ったところで、玲の隣に座る可愛い女の子の存在に気がついた。玲は無表情に近いけれど、女の子のコロコロ変わる表情から、会話は盛り上がっていることがわかる。そんな時に、断片的に聞こえてきた言葉。なんの派閥かはわからないけれど、玲が「颯派」だと言っていたのだ。実際、何派と何派があるのか気になるなと思ってから、ちょっと複雑な気持ちになった。でも、夏希も所謂「颯派」だから妙に納得してしまったのだ。夏希の可愛い弟分で、頼りになる幼馴染。夏希は颯が大好きだ。颯が好かれるのは当然で、なにもおかしなことなんてない。それなのに、玲から発せられた言葉というだけで、どうしてこんなにも心に引っ掛かるのだろうか。
 そしてつい先ほどのことだ。ひと足先に離れた水道場から聞こえてきた玲と女の子の会話が追い打ちをかけた。仲の良さそうな会話は夏希の胸を重くして、今日の天気のようにどんよりさせた。それだけでなく、「私がいないとダメね」なんて言葉を、玲はすんなりと受け入れていたのだ。つまり、あの女の子は玲にとってなくてはならない存在ということだ。少なくとも、あの女の子はそう思っている。
「夏希、大丈夫?」
「なんか体調悪そうだよ」
「……え?」
 随分とぼんやりしていたらしくて、顔を上げると、同級生たちが心配そうに夏希のことを見ていた。大丈夫だよと笑って見せたつもりだったのに、あれよあれよという間に先に帰されることになってしまった。クラスメイトの田渕が代表して送ってくれることになって、背中を押されるままに教室を後にする。
「夏希、なんかあったの」
 横並びで歩きながら、長身の田渕が心配そうに顔を覗き込んでくる。彼はよく夏希を揶揄ってくるけれど優しい大男で、今も自分の分とあわせて夏希のスクールバッグまで持ってくれている。
「田渕くん、なんかごめんな」
「全然。どこか痛いとかあるか?」
「うーん」
 夏希にもよくわからない。本当に体調が悪いのかすら、よくわからないのだ。ただ気分はずっと晴れなくて、心が重たくて、少しだけ泣きそうだった。だって数日前、玲は夏希のことが好きだと言ったのだ。玲は冗談で人を騙したりするような奴ではないってわかっているから、夏希なりに嬉しく思っていた。でもあれも、玲にとったらただのスキンシップだったのかもしれない。夏希はあの女の子と同じく、自分は玲にとってかけがえのない存在だと思い込んでしまった。思わず大きく溜息をこぼす。
「はぁ」
「本当、大丈夫か?」
「うん、元気なくてごめんな」
 いつだって人前では明るくいたいのに、そうできない自分に腹が立つ。でも、これ以上心配かけてはいけないと、ぐっと息を吸い込んだ。
「もしかして、恋煩い?」
「恋煩い?」
 気合を入れたところで、田渕からの質問に素っ頓狂な声をあげた。田渕の顔を見上げると、多分夏希を元気づけようとしているのだとすぐにわかった。
「冗談。夏希には恋煩いはまだ早いよな」
「俺だって、恋煩いくらいするよ」
「へー、そうなんだ」
「本当だよ!」
 空元気。でも元気じゃないよりはマシだ。それにしても、恋煩い。確かに、夏希には程遠いものだ。でも、この気持ちはもしかしたら今までの人生で一番恋煩いに近いのかもしれない。玲を思うと苦しくて、玲にとっての特別になりたいだなんて。玲に、夏希派だよって言って欲しいだなんて。言われている自分を想像してみたらちょっと馬鹿みたいだけれど、本気でそう思うのだ。
 雨の中、傘をさしてゆっくり歩いて、自宅前で田渕と別れた。田渕を見送って自宅に入ると家の中は家族の生活音が聞こえているのに、まるでひとりぼっちのように心細く感じる。こんな時、颯はなんて言ってくれるだろうか。諸々の当事者である颯に相談するのも気が引けるけれど、夏希にとっての相談相手はいつだって颯だった。
 その時、階段を下ってくる足音が聞こえてきた。夏希は自分がまだ家に上がってすらいないことに気がついて、ゆっくりと靴を脱ぎ始める。
「おかえり、なっちゃん」
 階段を下ってきたのは弟の陽平だった。夏希はやっとの思いで家のフローリングに上がり込む。
「ただいま」
 そう言って笑って見せたけれど、陽平はどこか浮かない顔をしている。
「なっちゃん、めっちゃ腹減ってんの?」
「え、そうみえるの?」
「顔色最悪だよ。ご飯もうすぐらしいから安心してね」
「う、うん」
 可愛い弟に頷いて、今度は夏希が自室に向けて階段をのぼる。確かに、もう良い時間だからお腹が空いているのかもしれない。お腹いっぱい食べたら、このモヤモヤした気持ちもすっかり忘れて、元気になれるのではないだろうか。そうだ、そうに違いない。もしお腹いっぱい食べて、それでも元気になれなかったら、それはその時考えよう。夏希はそう心に決めて、階段をのぼりきると静かに自室に入るのだった。


 夕飯の後の自由な時間。傘もささずに颯の家の玄関チャイムを鳴らしたのは夏希だった。雨足はだいぶ弱まってきたとはいえ、頭も体も濡れてしまっている。夏希は気にするなと言ったけれど、颯は洗面所からタオルを持ってきて、夏希の頭を包んでやった。
「ちゃんと拭いて。家が濡れちゃうでしょ」
「いや、悪いから上がらないよ」
「そんな顔してるのに、帰せないよ」
 久しぶりにこんな酷い顔を見た。顔色は悪くて、眉は心許なさそうで、俯き気味に颯の足元のあたりを見つめている。何が彼をこうさせたのだろうか。とにかく心配で、颯は夏希の頭と体を簡単に拭くと、自室まで促した。
 いつもは一目散に飛びつくギターに近づきもしない。ラグの上に座り込んだ夏希を見守るようにベッドに腰掛けると、しばらくして夏希がポツリポツリと話し始めた。
「玲って、どんな子が好きなのか、颯は知ってた?」
 唐突な話題に、少しばかり考え込む。高校に入学してから半年間、玲とは趣味や服の話ばかりで、色恋沙汰についてはあまり話してこなかった。でもいつか、あまり積極的な子も、消極的な子も好きじゃないと言っていた気がする。モテ過ぎてわがままだななんて笑ったけれど、結構貴重な情報じゃないだろうか。
「好きになった子がタイプってやつじゃない?」
 一応色々考えた上でそう答えると、夏希はさらに納得がいかないような顔をした。
「それって、颯ってことだろうね」
「はぁ?」
 確かに親友ではあるけれど、こういう時の好きって、恋心ありきの好きについてなのではないだろうか。
「今日、颯派だって玲が話してた」
「俺?派閥があるの?なにその会話」
「颯のことが好きなんだよ」
 そう言うと、夏希はローテーブルに突っ伏した。テーブルに頬をつけて、颯の方を見ながらゆっくりと瞬きをする。
「それにね、女の子に言われてた」
「なんて?」
「私がいないとダメね、って」
 そのあまりにも悲しそうな顔は、一体何を指すのか。颯にはわかってしまったけれど、すぐに教えてやるのも癪だなと思ってしまった。だから黙って先を促す。
「玲ってさ、颯のことが好きなのに、女の子にも気を持たせて、それで」
 そこで一瞬間を置いてから、夏希は再度ゆっくりと口を開いた。
「俺のことも、からかってるのかな」
 さて、颯はどうしたら良いのだろうか。ちょっと面倒だなと思ってから、仕方がないとため息をついた。
「玲はそんな子じゃないって、なっちゃんも知ってるでしょ」
「……うん」
「なっちゃん、玲に告白されたんだ?」
 ストレートに聞いてみると、夏希はガバリと体を起こして、急にワタワタと慌て始めた。
「でも、多分、玲は颯に近づきたいんだよ。だから、告白というか、好意を伝えてくれただけでさ。俺が告白って勘違いしてて、それで」
 さすがの颯も一瞬何を言っているのかわからなかったけれど、そういえば目の前の幼馴染は、玲の本命が颯だと思いこんでいるのだ。つまり、玲が悪者にならないよう、玲の本命は颯なんだよと必死で伝えるという、無駄な努力をしている。本当にピュアすぎて、こういうところがいつだって心配なのだ。
「例えば玲の本命が本当に俺だったら、なっちゃんはどうするの?」
「え?」
「それが答えなんじゃない?」
 普通であればこれで通じるはず。雨の中、居てもたってもいられなくなるほど想っているなら、きっと答えはすぐに出るはずなのだ。でも夏希は普通じゃないからなと思ったら、やっぱり首を傾げて宙を見上げている。これは、ちゃんと話さないとダメなやつだと、長年の付き合いからすぐにわかった。
「ね、なっちゃんはどうするの?」
 もう一度聞いてみると、夏希は覚悟を決めたように颯を見据えてきた。
「俺は、颯みたいになる」
 あまりの的外れさに、思わずベッドから転げ落ちそうになって、せっかくだからと床に座り直した。夏希と目を合わせて、ゆっくり説明をするモードだ。颯はいつだって、斜め上の発想で忙しい夏希を諭してきた。受け入れて、優しく説明してあげることが大切だ。
「なんで俺みたいになる必要があるの?」
「だって、玲は颯が好きだから」
「つまり、なっちゃんは玲に好かれたいんだね」
「え、そうなのかな」
「そうでしょ。きっと、告白されて、それが嬉しかったんでしょ」
「う、うん」
「だから、俺のことが好きだったり、女の子に気を持たせてると思ったら嫌だったんだよ」
「うん」
「だから?」
 何度か瞬きをしてから、夏希は閃いたように目を丸く見開いた。
「俺は、玲が好きなんだ」
 今更気がついたのかとか、玲に告白された後はどうしたのかとか、聞きたいことは山ほどあるけれど、とりあえずきちんと伝わったことに安堵する。安堵してから、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、もやもやした気持ちが湧いてきた。これは幼馴染を取られた嫉妬なのだろうか。そんな自分が少し嫌だなと思っていたら、夏希が頬をつまんできた。
「ちょっと、なにすんの」
「やっぱり、颯はかっこいい」
 頬をつまみながら言うセリフにしてはおかしいけれど、どうせおかしな人なのだからととうに諦めている。だから颯も負けじと夏希の左頬をつまんだ。
「なっちゃんは、やっぱりお転婆小僧だよ」
「ねぇ、それまじで?どの辺がお転婆小僧?」
 頬をつままれたまま、不安そうな顔をみせる夏希に笑ってしまう。お転婆小僧という言葉を案外気にしているらしい。そんな夏希を見ていたら、抑えるはずだった謎の気持ちがムクムクと膨れ上がった。略奪愛は柄じゃないからしないけど、ちょっとだけ、彼らの恋路を邪魔したくなる。
「うそうそ。なっちゃんが一番かっこいい」
 頬はつままれたままだけど、夏希の好きなかっこいい顔で伝えてみる。すると、夏希は今日一番嬉しそうな顔をして、「そうだろ?」と言ってきた。


 昨日の委員会の後、玲は一緒に帰りたかったのに、気がついたら夏希は大男に連れられて先に帰ってしまった。水道場でのやりとりの時はあんなに元気そうだったのに、帰っていく夏希はあまり覇気がなくて心配になった。追いかけようと思ったところで滝本にあれこれ指示を出されてしまって、結局それきりになってしまったのだった。
 でも、昨日の雨から一夜明けた今日は、随分と天気が良い。だから、もし夏希が元気なら、今日こそは屋上で会えるかもしれない。それだけを楽しみに、今日は登校してきたのだ。昼の後の美術は眠すぎてやる気が起きないけれど、なんとか画用紙に向き合う。運よくペアになった颯の顔のデッサンは、まだ進捗2割といったところだ。ふと颯の顔を見ようと顔を上げると、颯とパチリと目があった。その瞬間、グッと細められた目になぜだか背筋が冷える。
「なんだよ」
「なんでもないですけど」
 なにか悪いことをしただろうか。心当たりはあるような、ないような。颯にとっての大事な幼馴染に恋心を抱いているバツの悪さは多少感じているから、それ以上追求せずに画用紙に集中することにした。どうせ毎日見ている顔だから、今更観察しなくたって描けるだろう。
 1階で校庭に面している美術室は爽やかな風が入り込んでくる。それと一緒に、体育の授業の楽しそうな声も聞こえてきて、玲はそれとなく窓の外に目をやった。どうやら男子のサッカーの試合が始まるらしく、体操着にゼッケンをつけた生徒たちが校庭に散らばっている。
「あ、なっちゃんだ」
 颯の言葉に一気に前のめりになってその姿を探すと、ゴールキーパーの位置に夏希が立っていた。先に見つけられなかったことが悔しくて、颯をチラリと見ると、颯も玲のことを見ている。
「集中してください」
 颯に注意されて一応頷いたものの、やはり夏希の様子が気になって、こっそり窓の外を眺める。ゴールキーパーなんて、危なくないのだろうか。男の蹴るボールなんて当たったら可哀想だ。綺麗な手指が突き指なんてしたら、しばらくギターも弾けないだろう。
「ねぇ、止めた方が良くない?」
 颯に静かに話しかける。でも、颯はピンときていない様子で首を傾げた。
「何を」
「夏希くん、ゴールキーパーだよ」
「だから?」
「ボールが飛んでくるんだよ?危ないじゃん」
「なっちゃんは男だよ。しかもああ見えて、運動神経は抜群」
 そうか、夏希は男なのか。わかっていたけれど、改めて納得する。玲にとったら既に性別とか関係なくて、守らなくてはならない存在になっている。そのことに気がついて、もう随分と手遅れだなと思った。でも手遅れで結構だ。夏希のためなら、いくらでもおかしくなってあげたい。そう思った自分が素晴らしく思えて、それまでより上機嫌にデッサンを再開する。
「でも、なんか変だな」
 颯の言葉に再び顔を上げると、颯は窓の外の夏希を見ているようだった。その不穏な様子に、玲も眉を寄せて夏希のことを視界に入れる。
「どうした?」
「なっちゃん、体調悪いんじゃないかな」
「え?」
 玲が聞き返すと同時に、夏希がヘナヘナとその場に座り込んだ。どう見ても自力で立っていられなくなったようにしか見えない。玲は反射で立ち上がる。
「玲?」
 颯もクラスメイトたちもいきなり立ち上がった玲のことを見ているけれど、玲はそのことに気がつかないくらい必死だった。そのまま窓辺まで駆け寄り、出窓部分を開けて上履きのまま校庭へ飛び出した。着崩した制服が走りにくい。自分は何のためにこんな制服の着方をしているのだろう。それは確かに玲自身を守るためだったはずだけれど、こんな時に邪魔になるなら意味がない。サッカーの試合は座り込んだ夏希に気が付かずに続いているようだ。なんとかゴール付近まで近づくと、ちょうど夏希の敵チームが遠くからゴール目掛けてボールを蹴ったところだった。ボールが夏希にあたりそうなことに頭にきて、玲はボールを受け止めると思い切りコート外に投げ返してやった。突然現れた異粒子に場は騒然となる。でも、玲は夏希にしか興味がなくて、夏希の背中に優しく手を添えた。
「夏希くん、大丈夫」
 玲は夏希の前にしゃがみ込むと、その顔を覗き込んだ。虚な瞳が余計に心配になる。後ろから足音が聞こえてきて、きっと颯も追いかけてきてくれたのだとわかった。
「俺が来たからもう大丈夫だからね」
 玲は夏希の腕を首に回して、それから横抱きに抱え上げた。夏希が驚いたようにしがみついてくる。体操着越しに感じる体温が随分と高い気がして、額同士をくっつけると、夏希の目がまん丸に見開かれた。その様子が可愛いなと場違いにも思っていたら、ちょうど颯が玲たちの元へ辿り着いた。
「俺がなんとかしておくから、保健室に」
 颯に向けて頷くと、颯も頷き返してくる。本当に頼りになる親友だ。
「なっちゃん、俺もあとから行くからね」
 別に来なくて良いよと言おうと思ったけれど、やめておいた。夏希が安心したように頷いたからだ。少しモヤモヤしたけれど、そのまま踵を返して校舎を目指す。美術室の何個か隣にある保健室の出窓に直接向かうと、美術教師が待ち構えていた。何か小言を言われるのではないかと身構えたのに、教師は何も言わずに窓際のベッドへ案内してくれた。夏希をなんとか寝かせて布団をかけてやると、教師が体温計を手渡してくる。
「お前、肩強いな」
 何を言われたのか一瞬わからなかったけれど、一応「はい」と言っておいた。
「見かけによらず、デッサンも上手いし、優しいんだな」
 そんなに褒められてもどうして良いのかわからない。玲が困っていると、夏希が耐えきれないというように息を吐き出した。体調が悪そうなのは変わらないけれど、少し楽しそうだ。
「玲はずっと可愛くて良い子なんです」
 夏希に褒められるというのは、また格別だ。照れ隠しに教師から受け取った体温計を夏希に手渡すと、夏希はそれを大人しく脇に挟んだ。
「良い子なら、制服くらいちゃんと着ろよ」
「はい、もうそのつもりです」
 玲の答えに教師は肩をすくめて、「保健の先生を呼んでくる」と言って、保健室から出て行った。しばらくして体温計が鳴る。脇から引き抜いて表示を確認した夏希が驚いたような顔をした。
「何度?」
「38.7度」
「それはすごいね」
 玲はベッドのそばにしゃがみ込むと、夏希の額に手をあてる。じっとり汗をかいていて可哀想で、ハンカチってこういう時のために持ち歩くべきなんだなと思った。そのままゆっくり頭を撫でてやると、夏希は気持ちよさそうに目を細めた。
「さっき、かっこよかったな」
「なにが」
「駆けつけてくれた玲、すごくかっこよかった」
「そうだった?」
 ゆっくり頷いた夏希が、今度は耐えきれないというように吹き出す。
「めっちゃ肩強かった。サッカーボールってあんなに飛ぶんだ」
 夏希が笑うなら、試合を終わらせるつもりでわざと暴投した甲斐があった。一頻り笑った夏希は疲れたように一息ついた。
「玲、本当にありがとう」
「うん」
「目の前がぐらぐらして辛かったから、すごく嬉しかった」
「うん」
「今度、デッサン見せてね」
「うん」
「美術の授業中だろ。俺のことは気にせず、授業に戻ってよ」
「やだ」
「玲」
「やだ」
 夏希から離れるつもりなんて少しもない。玲が頑なに動く気はないとわかったのか、夏希は眉尻を下げて困ったような顔をした。玲だって困らせたいわけじゃないけど、だって離れたくないのだから仕方がないじゃないか。困り顔の夏希の頭を撫で続けていたら、窓が開く音が聞こえて、誰かが外から保健室に入ってきた。玲が振り返ると、そこにいたのは颯で、OKのハンドサインをしている。
「全部丸くおさめといた」
「お前最高」
「これから色んな先生が来るだろうから、今のうちに退散しておこう」
「やだ」
「やだじゃないよ、上履きも洗わないといけないんだから」
 そう言いながら颯は玲たちに近づいてくると、ベッド脇から夏希の顔を覗き込んだ。
「なっちゃん、熱ある顔してるね」
「颯も色々とありがとうな」
「大人しく寝てるんだよ。また様子見に来るからね」
 颯に上手く丸め込まれて、釈然としないながらも最後に夏希の頭を一撫でしてから立ち上がる。立ち上がったものの名残惜しくてその場から動かないでいたら、颯に腕を引っ張られてしまったので、仕方なく保健室を後にした。
 廊下を歩きながら窓の外を眺める。こんなに良い天気だけれど、今日は屋上で練習どころじゃないだろう。あんなに熱があるのだから当然だ。いつもと異って大人しい夏希も可愛いかったけれど、それよりも怠そうで可哀想だから、だから早く良くなるといい。誰かのことをこんなにまっすぐ想うのは初めてだ。でも戸惑う気にもならない。それほど魅力的な相手を好きになった自覚があるのだから。恋をするということはなんて愚かで、人を生き生きとさせてくれるのだろう。
「最近の玲、面白くて最高」
「は?」
「なっちゃんに夢中な玲、良いと思うよ」
 まさか玲の気持ちがバレていたのかと、一気に途方もない気持ちになる。なんとなく、颯にはバレたくなかった。だって、颯には色々負けているからだ。
「困ったことがあったら言えよ。なっちゃんのことなら全部教えてあげられるから」
 とんでもないマウントだ。思わずギロリと睨みつけると、颯はまったく気にしていないようで上手なウィンクを返してきた。


 ポロンポロン。久しぶりに聞こえてくるアルペジオに、玲の胸が踊る。我ながら綺麗に着た制服に、ポケットにはハンカチまで入っていることに、きっと彼は気が付かない。屋上へ続く扉を開けると、数日ぶりの夏希の姿が見えた。少し痩せただろうか。なかなか熱が下がらなくて心配したと颯も言っていたけれど、それでもこうして元気になって本当に良かった。
「夏希くん」
 邪魔しないように、でも聞こえてほしい気持ちは込めて声をかける。すると、夏希はすぐに振り返って、それからニコリと笑顔を見せた。秋晴れの青空の下に、玲にとっての特別が輝いて見える。
「玲!」
 嬉しそうな夏希に近づいて、それからいつものように隣に座り込む。夏希の近くは温かい。
「この前はありがとう」
「いえいえ」
「めっちゃ肩強かったな」
「もう、それ忘れてよ」
 あれから何人に肩の強さを褒められたことか。野球部や陸上部からオファーも受けて、正直参っていたけれど、結局夏希の助けになれたのだから後悔はしていない。
 ポロンポロンと響くギターの音色が心地よい。顔を傾けて夏希を観察していたら、しばらくして急にギターの音が止んだ。弦を弾いていた右手がグッと握られて、夏希が玲を振り返った。その顔はまさに真剣そのもので、玲は少し怖くなる。
「玲、今も?」
「ん?」
「今もしたい?」
「何を?」
「キス」
 何を言われているのか頭で理解するより先に、こくりと頷く。頷いてから、心臓がバクバクと鳴り始めた。もしかして、そういう流れだろうか。唐突すぎて、心の準備ができていない。玲が緊張して生唾を飲み込んだ瞬間、夏希がニパッと笑顔になった。
「よかった!」
「え?」
「あの時限定かと思ったよ」
 そんなわけないだろうと言いたいけれど、素直に喜んでいる様子の夏希が可愛いからそのままにしておいてやる。玲がキスしたいと思っていたことをこんなに喜んでくれるなんて、つまり想いは通じているということで良いのだろうか。夏希のことだから、ちゃんと確認しておいた方が良いに決まっている。
「夏希く」
 最後まで呼べなかった。目の前には夏希の顔。一瞬で離れていったけれど、温かな感触がまだ残っている。玲はゆっくりと指先で唇に触れた。今されたのは、キスだったのだろうか。顔が熱い。理想としては玲からしたかったところだけれど、これはこれで湧き上がるものがある。やっと瞬きをして、冷静になれと自分に言い聞かせていたら、夏希がヨイショと体ごと玲に向けた。
「それでは聞いてください。あの曲です」
「え、何?」
 いきなりの始まったのは、いつも練習していたあの洋楽。耳でコピーしたらしい英語の歌詞はとても清らかに愛を語っていて、思わず込み上げるものがある。この曲を、玲のために歌ってくれるという意味。それをちゃんとわかっているのだろうと、不思議と信じられた。
 ギターの余韻と共に、歌も終わってしまった。もっと聴いていたかったけれど、でも終わってくれてホッとする。あと数小節あったら泣いていたかもしれない。玲は精一杯拍手をした。照れた顔の夏希があまりにも可愛くて、その顔を見ていたら玲も照れてしまう。
「すごく上手だった」
「本当?」
「でも、まだ題名を知らないんだ」
「あはは!バレたか」
 題名を知らない曲を、よくここまで歌い上げられるものだ。これも素晴らしい才能だと拝みたいくらいの気持ちになっている。
 少しすると夏希はふと真剣な顔をして、緊張を逃すように息を吐き出した。それから玲の目をまっすぐに見つめてくる。
「玲、好きだよ」
 純粋に伝えられた想いは、確かに心に届くものだなと思った。込み上げてくるものをなんとか堪えて、今度は玲から顔を近づける。
「俺の方が好きだってば」
 そう言ってから、夏希がなにも反論できないように、それ以上はないのだとわからせるように、玲は思い切りその可愛い口を塞いでやったのだ。