腰を使って思い切り振り下ろし、ザクッザクッと土を耕していく。
普段体育の授業以外運動なんてしないし、もともと運動が得意じゃない体にこれはきつい……!



「っ……はぁ、疲れた!」



しばらく作業を続けて、庭の7割ほどを耕し終えたところで私はクワを手離し縁側に腰を下ろした。



「お疲れさま。ちょっと休憩しましょ、お茶どうぞ」



その声に振り向くと、千代さんは飲み物が入ったグラスふたつとタオルを用意してくれていた。



「彗ちゃんは?」

「あとちょっとだしこのままやっちゃうよ。ひなは先に休んでて」



意外とストイックなタイプらしい。キリのいいところまで続けるという彗を横目に、私は言われた通りひと足先に休憩させてもらうことにした。



「いただきます」



グラスの中の冷たい麦茶をひと口飲むと、からからに渇いていた全身に一気に浸み渡るのを感じた。
ひたいから落ちる玉のような汗を借りたタオルで拭うと、冬の風が濡れた髪を揺らして涼しい。



「気持ちいい……」



こんな風に外で体を動かすなんて、久しぶりだ。
いつも勉強ばかりしていた私には、土に触れることも、体育以外で汗をかくことももう長いこと記憶にない。

この季節に冷たい麦茶がこんなにおいしく感じるなんて、不思議。
風にあたってひと息つく私に、チヨさんは隣であたたかいお茶を飲みながらふふと笑う。



「頑張ったね、疲れたでしょう」

「……はい、正直。ものすごく」



疲れを隠しきれず露骨に見せる私に、その顔はいっそうおかしそうに笑った。



「この畑は、千代さんのなんですか?」

「えぇ、旦那と趣味で家庭菜園やってたのよ。でも三年前に旦那が亡くなってから、私ひとりじゃできなくなって」



足も悪いし、と苦笑いをして右膝をさすった。

開いたままの戸から居間の奥に目を向けると、そこには仏壇が置かれている。
何名かの写真が並んでいるが、一番手前の比較的新しい写真がご主人なのだろう。
優しそうな穏やかな笑顔が印象的だ。
 

「今はおひとりですか」

「そうなの。けど近くに住んでる息子も孫もしょっちゅう来てくれるし、近所に友達もいっぱいいるから寂しくないけどね」



言いながら、千代さんは目の前の部屋のローテーブルに飾ってあった写真立てを手に取り私に見せた。
そこには、千代さんとその息子夫婦、そして私たちより少し年上の女の子が写っている。
みんな幸せそうないい笑顔だ。

それを見つめるチヨさんの目は穏やかだ。けれど一瞬切なげに細められた。



「でも、旦那が亡くなってから心にぽっかり穴が開いちゃってねぇ。段々枯れてく畑を見てるのがつらかった」



どんなに周囲に人がいても、ひとりを失うことで心に穴があく。
それは、彗を失くしたときの自分と重なった。



「でもそんな時、去年の春だったかしら。彗ちゃんと出会ったの」



千代さんは懐かしむように言う。



「買い物帰りに駅前で転んじゃったときにね、みんなが素通りする中で彗ちゃんだけが声をかけてくれたのよ。
それで、家まで荷物運ぶのを手伝ってくれたの」

「……想像つきます」

「でしょう?ここでこうしてお茶を飲んで、同じような話をして……そしたら彗ちゃんが、『家庭菜園とかすごいじゃん、俺もやってみたい!』って言ってくれて」



転んだお年寄りを見て見ぬ振りできず、駆け寄って声をかけて、一緒に家まで行く。
そんなお節介な姿も、好奇心旺盛な彗が畑を見て目を輝かせるのも、簡単に想像がついた。



「最初は小規模で、プランターを使って植えてみる?って聞いたらふたつ返事で頷いて、植えて育てて収穫して、を繰り返したの。
それで今回は久しぶりに、畑を使って本格的にいろいろ植えてみようって話になって」



そうだったんだ。
そんなこと、ひと言も言っていなかったから知らなかった。



「いつも一生懸命、服も顔も土で汚す姿がかわいくてね。彗ちゃんはうちだけじゃなくて、この地域一帯のアイドルなの」



まるで孫のことを語るかのように、その口ぶりは少し誇らしげだ。
千代さんのあたたかな視線の先には、畑の真ん中でしたたる汗を手で拭う彗の姿がある。
 

「それに週に1回は来てくれていて、いろいろ気を揉んでくれてね。
なにかと助かるだけじゃなくて嬉しくて、今日は彗ちゃんとどんな話ができるか、なにをしようか考えるだけで楽しみなの」



うれしそうに笑う千代さんに、心があたたまる。
それと同時に、彗を助けられなかったら千代さんはどうなってしまうんだろうと怖くなった。

残される側の胸の痛み、苦しみ、喪失感を私も知っている。
それと同じ悲しみが、千代さんに再び降りかかるのだろうか。



「……もしも、彗がいなくなってしまったら、どうしますか」

「え?」



あまりにも唐突な問いかけだと思う。
なにを言っているのか、と思われても仕方ない。けれど聞かずにはいられなかった。

そんな質問に対し、千代さんは不思議そうにしながらも少し考えて薄い眉を下げて笑う。



「そうね……ただただ、泣いちゃう。寂しくて苦しくて、神様がいるなら心から憎むでしょうね」



泣いて、苦しくて、憎んでしまう。
それは彗を失ったときの自分の心情にも重なった。
けれど千代さんは、深い悲しみよりも不安げな表情を見せた。



「だけど私の悲しみよりも彗ちゃんの心を思ってしまうわ。優しいあの子は、残していく人を思って苦しむと思うから。
それを想像すると、よりつらい」



残す側の、苦しさ。

残される側の気持ちは、私も知っている。
だけどそうだ。大切な人をおいていくこと、やりたいことを志し半ばで終えること。それらも寂しくつらいだろう。

彗だって、つらいんだ。
少し考えればわかることなのに。自分の悲しみばかりで頭がいっぱいだった。

自分の悲しみより彗の心を優先して思う千代さんは、とても優しい人だと思った。それと同時に、自分の幼さが丸裸になり情けない気持ちだ。



「今日植えるものは、いつ収穫予定ですか?」

「そうねぇ、早いもので1ヶ月後くらいかしら」



1ヶ月後……もともとの未来で言えば、もうそのときに彗はいない。



「じゃあ、その頃また来ます。彗と一緒に……彗が来られなくても、私ひとりでも必ず」



私が彗の代わりになれるなんて思っていない。
それでもただ、笑っていてほしいだけ。

彼のいない未来がくるかもしれない。それを知っているのは私だけだから。
万が一、その未来がきたときに千代さんが悲しみに押し潰されてしまわないように。

私は彗が大切にしている人を大切にしたい。



「ありがとう。楽しみにしてるわね」



私の言葉に、千代さんは深いシワを目元に寄せてうれしそうに微笑んだ。

 

それから私も作業を再開させ、耕し終えた土にいくつかの種類の種をまいた。

小松菜、チンゲンサイ、ソラマメ……それらの種を中腰でかがんでまき、ついに膝と手と腰に限界を感じ始めた頃……。



「おわったー!」



全ての工程を終え、私と彗は声をあげながら倒れ込むように縁側に横になった。
見上げると、空にはすでに夕陽が真っ赤に染まっている。

動き続けたことで、全身汗だくだ。
髪も背中も汗で慣れ、靴も制服も土だらけ。クワを握り続けた手はむくんだように腫れている。



「はぁ……これ、明日絶対筋肉痛だよ」

「私明日学校行けないかも……」



ふたりともすでに体力は限界で、しばらく無言で冬の風にあたり続けた。



「けど気持ちいいでしょ、汗かくの」

「うん……私、普段運動しないから新鮮」

「体動かして汗かくのは大事だよ。余計なことも、憂鬱なことも吹き飛んでいくし」



その言葉に横になったまま隣を見ると、同じく横になったままの彗が小さな笑みとともにこちらを見ていた。

もしかして……今朝の私の様子から、気にしてくれていたのかな。
私の鬱々とした気持ちを紛らわせるためにここに連れてきてくれたのだと思うと、その通りになった自分がちょっと悔しい。

だけど、そういう彗にだからこそ本音を話せてしまうんだ。



「……どうして彗は、私を選んでくれたの?」

「えっ、なにいきなり」

「だって彗のまわりには、かわいい子も素敵な人もたくさんいるでしょ。その中でどうして、なにもない私なのかなって」



今朝のことから胸に浮かんだままだったものを彗へ投げかける。
突然の問いかけに彗は少し困った顔をしてから笑った。



「1年の頃から、もともと気になってたよ」

「そうなの?」

「ひな、入学式で新入生代表の挨拶したでしょ。そのときになんかかっこいいなって思って、それから」



確かに挨拶はしたけど……そんなに前から自分の存在に気づいてくれていたなんて。予想だにしなかった。
 

「それ以降もいつもひとりで勉強したり本読んだりしてて、他の人とは空気が違って見えた。
凛とした姿が俺や他の人には持ってないものを持っていて、気付いたら惹かれてたんだ」



私が彗に惹かれていた日々。
その間、彗も私に目を向けてくれていたのだと知って、驚きながらもうれしさが勝る。



「それに校外学習のあの日、俺のことを星に例えてくれたでしょ」

「……うん」

「普段『太陽みたいな明るいやつ』って言われることはあっても、星のようって言われたことはなかったから。
この人は俺の表面上だけじゃなく、中まで見てくれてるんだなって思って一気に好きになった」



強い光で照らすだけじゃない、小さなあかりで寄り添ってくれる。そんな彼の優しさを星に例えた。
それに対して彗も思うところがあったようで、あの日の告白につながったのだろう。

彗は横になったまま、土で汚れた手をこちらへ伸ばす。
そして指先で私の頬を小さく撫でた。



「なにもない、なんて言わないでよ。ひなにはひなの、いいところがたくさんある」

「私の、いいところ?」

「口元を隠しながら控えめに笑うところも、俺に呆れながらも見守ってくれるところも。
好きな本について話してるときの生き生きとした顔も、全部いいところ」



私なんか、私みたいな。
そんな言葉で自分を卑下してばかりいる私を、彗はちゃんと見てくれている。
なにげないところを、いいところとして受け入れてくれる。



「自分らしくいるひなが好きだよ。だからひなも胸を張ってほしい。
好きな人、好きなもの、それらを隠したり諦めたりしないでほしい」



彗の真っ直ぐな言葉に、無性に泣きたくなった。

『好きな人につりあわないから』と隠そうとしていた自分も、『好きなものは否定されるから』と諦めようとした自分も。彗のひと言ひと言に、変えられていく。
 

「あら、ふたりともそんなところで寝転んじゃって」



するとそこに奥から千代さんが姿を現し、私はふと現実に戻り勢いよく体を起こした。



「た、種まき終わりました!」

「ありがとう。ふふ、ふたりとも土だらけになって子供みたいね」



千代さんがおかしそうに笑うと、そのタイミングで、「こんにちはー」と玄関のほうから声がする。
声の主は近所の人だったようで、千代さんより少し若いおばさんが慣れたように裏庭へ回ってきた。



「野菜持ってきたけど千代さんいるー?ってあら、若い子連れ込んで!」

「ふふ、今日はね彗ちゃんが彼女さんを連れてきてくれたの」

「やだ本当じゃない!そうだ、せっかくだしあなたたちも野菜持っていきなさい!」



おばさんはそう言うと、恐らくこれから近所に配るつもりだったのであろう野菜が入った袋のうちふたつを私たちに手渡した。

それから話を聞きつけたご近所さんたちが続々と集まり、お菓子や野菜や飲み物などあれもこれもと持たされ……。
千代さんの家を出る頃には、私と彗は両手いっぱいの大荷物を抱えていた。



「すみません、こんなにたくさん……」

「いいのよ。またいつでも遊びにきてね」



千代さんを始め近所の人たちに見送られ、彗の自転車のかごに荷物を積むと私たちはその場をあとにした。

帰り道はふたり乗りをする元気もなく、自転車を押す彗とふたりで並んで歩いていく。



「はー、疲れた」

「うん。もうクタクタ」



すっかり夜となったけれど、体はまだ温まったまま。今夜はマフラーを巻く気にもなれない。



「でも、行ってよかったでしょ」

「……うん。千代さんと、会えてよかった」



彗のことを思う、優しい心と出会えてよかった。
そう強く思うと同時に、彗の気持ちが聞けたこともなによりもうれしかった。

……頑張って、みようかな。
彗が好きだと言ってくれる自分のことを、自分自身も愛せるように。



その夜、帰宅した私はもらった野菜たちを美智子さんに預けると、そのままお風呂に入り、夕飯も食べずに自室へ直行した。

いつもならテキストを取り出し勉強に励む時間だ。
けれど今日は違う。
机の引き出しからテープでとめたノートを取り出し、書きかけのページから再び文章を書き始めた。

今日の疲れも、時間の経過も全て忘れて。
ただ夢中で文字を綴る。

久しぶりに、『自分らしさ』を取り戻すかのように。


 

『みちこさん、えほんよんで』



それが口癖だった、と美智子さんが笑うほど、幼い頃から私は本が好きだった。

父は忙しく兄ともあまり仲良くない。
そんな私の唯一の楽しみは、お絵描きでも人形あそびでもなく本を読むことだった。

絵本や児童書、図鑑、小説……様々なジャンルに触れるうちに本全般が好きになっていったけれど、特にその中でも小説に一番のめり込んだ。

ページをめくるたびに世界が広がる感覚がして、知らなかった知識、考え方、感情、さまざまな感覚を得た。

物語の中では、どこにだって行けるしなににだってなれる。
例えば、才能あふれる魔法使いや悩める旅人、青春を過ごす女子高生や誰かを助けられる人……現実では勉強しか取り柄のない私も“何者”かになれた。

そんなある時、出会った一冊の本が私を読み手から書き手に変えた。

それは小さな出版社から出た一冊。
そこそこメディアでも取り上げられたけれど大ヒットといわれるほどではなく、映像化などがされたわけでもない。

だけど私はその本が大好きで、最後まで読み終えたあとは満足感以上に寂しさを覚えた。
この続きを読みたい、だけど終わってしまったのなら自分で書こうと思うようになった。

想像を膨らませ、キャラクターたちの動きや心情をペンでノートに綴る。
どこに出すでもなく、誰かに見せるでもない。
『勉強』『将来』と、父からその言葉で抑圧される中、少しの時間をやりくりして物語を書ける瞬間がただただ楽しかった。

私にとって唯一の、ひそやかな趣味。
その趣味を彗に知られたのは、付き合って4ヶ月近くが経ってからだった。



『ごめん、ひなの鞄倒しちゃった……あれ、なにこのノート。小説?』



図書委員の仕事を終え帰ろうとしたとき、彗が私の鞄を倒してしまったことがあった。
その鞄の中から授業で使っているものとは明らかに違うノートがあることに気づき、彗はそれを躊躇なくめくって中を見た。



『か、返して!』



誰かに見せる前提で書いていたわけじゃないから、字も走り書きだし内容だって稚拙だ。
けれどそれをしばらく読んだ彗は、ノートから顔を上げると目をキラキラと輝かせていた。
 

『これ、ひなが書いたの……?』

『……そうだよ。趣味なの。もういいでしょ、返して』

『いや、最後まで読みたい!超面白いじゃん、この話!』



そのとき書いていたものは、カフェを舞台にした小説だった。
主人公であるカフェを経営する親子を中心に、様々な出来事や人々との出会いを書いたものだった。

まだ書きかけだったけれど、彗は書いてあるところまですべて読み、感想を丁寧に伝えてくれた。
主人公のこういうところが好き、だけどこういう言い方は主人公らしくない、とまるでアドバイザーのような意見まで親身にくれる。



『ひなはすごいよ。0から1を生み出すなんて、絶対簡単じゃないもん』

『……少し文章を書ける私より、現実世界で誰とでも仲良くなれる彗のほうがすごい』

『そんな卑屈な言い方しないの。俺がすごいって言ったらすごいの!そうだ、書き終わったらコンテストに出してみれば?』



そう笑って、褒める言葉をくれる。
私の描く世界を、感情を、理解し共感してくれる。
それが、涙が出そうなほどうれしかった。

だからこそ父に否定され、文字を綴ったノートを破かれた悲しみは深く、夢が折れるのは一瞬だった。

あぁダメだ、理解してもらえない。
私は夢なんて見ちゃいけなかったんだ。

それ以来、私は小説を書くことをやめた。
追いかけることすらできない夢を見ることもやめて、興味をなくしたフリをしていた。

だけど、彗がまだ背中を押してくれている。



『自分らしくいるひなが好きだよ。だからひなも胸を張ってほしい』



私も自分自身を愛せるように、再び夢を見ようと思った。


 

「ふぁ……」



12月6日、金曜日。
いつも通り目を覚まし、制服に袖を通す朝。だけど今朝は大きなあくびを繰り返している。

昨夜は帰宅後、久しぶりに小説を書き始めたらつい夢中になってしまい遅くまで書き続けてしまった。おかげで寝不足だ。

でも、やっぱり楽しいな。
自分が作ったキャラクターたちが、頭の中で自然と動いて話を拡げていく。
その過程がわくわくするんだ。

頑張って書き上げて、彗に最後まで読んでもらいたい。
書き終わるまで彗には内緒にしておいて、驚かせたいかも。
そんなサプライズのようなことを思いつくなんて、自分のことながら少し驚く。

きっと彗は、驚いてからうれしそうに笑ってくれる。
そんな姿を見てみたいと思うなんて。
彗のおかげで、私の世界はどんどんと広がっていく。

よし、続きは帰ってきたら書こう。
そう思い、机の引き出しにノートを大事にしまうと部屋を出た。



そういえば昨日、塾に休む旨を伝える連絡をするのをすっかり忘れていた。
塾からの電話も気付かず無視してしまっていたし……お父さんに連絡がいってるかもしれない。

知られていたら、叱られるだろうな。すごい剣幕で怒鳴るのが想像つく。
だけど、なにを言われても自分の行動を後悔なんてしていない。

私は、少しでも彗と一緒にいたい。
それに昨日も、塾を休んでいなければ千代さんとも会えなかった。

大切なものがあるというのは、心強い。



通学路を歩きながらなにげなしに制服の内ポケットを触る。するとそこには、彗のかけらを入れた巾着が入っていたことを思い出し、私はそれをぎゅっと握った。