黄泉平坂の都、西都にある白虎西区の暁通りには伯爵調月が経営する夢屋という高級菓子店がある。その夢屋の夫婦といえば、西都でも一、二を争うほど仲睦まじい夫婦であるというのは有名な話であるが、実のところ祝言を挙げるのはまだ少し先らしい。
カランカラン――夢屋の扉が開いた。
「いらっしゃいませ! きゃぁっ」
入ってきた客が突然抱き着いてきたので、優李は小さな悲鳴を上げる。
「優李、会いたかった!」
「よせよ兄貴、優李が困っている」
見ると、陶器のように美しい白皙の肌に、艶やかな黒髪、さらさらと流れる髪の間からは、ぴょこりと二つの黒い耳が生えている。背中には、すらりと伸びた黒い尻尾――
「黒い毛並みの金華猫ですか……?」
優李がそういって驚くと、ふたりの黒い金華猫は嬉しそうに目を細めた。
「そう、黒い金華猫だ」
「もしかして、もしかして!」
「そう、そのまさかだ優李」
「やっぱり、兄様たち!?」
優李が目を丸くすると、ふたりの金華猫は顔を見合わせてくすりと笑った。
「そう、僕は幸、そしてこっちが幸。僕たち黄泉に行ったはずなんだけど、なぜか体を得てね」
「泰山府君の野郎に追い返されたんだよ。まだこっちにくるなって」
「おかげでこちらに戻ることが出来たよ。西都に住む許可を得てからよく考えてみたのだが、おまえの『ことほぎ』のおかげだろうと」
幸と幸の話に優李は目を輝かせた。
「すごい! 奇跡みたいですね!」
「そうさ、おまえは奇跡を起こしたんだ」
「おまえは本当にすごいよ優李!」
三人で手を取り合って喜び合っていると、勘定台の奥から不機嫌そうな那沙が顔を出した。三人の間に割って入ると、優李を腕の中に包み込む。
「兄だか何だか知らんが俺の嫁にちょっかいを出さないでもらおうか」
「おい、嫁とはなんだ。冗談もほどほどにしろ」
「冗談ではない。その手を離せ」
「僕たちは優李を血を分けた兄弟だ。那沙、優李との再会を喜ぶのは当たり前だろう?」
「そういう問題ではない、そもそもおまえたちは黄泉に帰ったはずだろう。なぜここにいる、あれだけ優李に危害を加えておきながらよくもまぁのうのうと……はやく成仏しろ化け猫」
「優李の『ことほぎ』のおかげで戻ってこられた。それに、悪かったとあの時謝っただろう」
「なんということだ……」
と、黒猫の態度の図太さと愛しい妻の持つ能力の強さを再認識して那沙は言葉を失ったようだ。だが、ここで引き下がる那沙ではない。
「そもそも兄などとおこがましい。おまえは希沙良の弟たちだろう! ならば兄ではなく優李の叔父だ!」
「だが希沙良は僕たちを優李の兄だと教えたわけだ。そもそも優李が兄と呼ぶのだからな、僕も幸も優李の兄ってことだろう」
幸の答えに、那沙は頭を抱えた。希沙良の適当に腹が立つ。
「本当はすぐに来たかったのだが、検非違使の連中がなかなか僕たちを離してくれなかった」
「なんでも俺たちのせいで無気力病とかなんとかいう病が問題になったらしい」
「おまえたちが人の世で、あやかしから生気を奪っていたからだ」
「仕方がないだろう、生きるためには必要なことだ。なにも殺したわけじゃないからと、しばらく監視付きという条件で解放された。金華猫の大旦那様が口添えしてくれたそうだ」
「黄芽様が?」
優李は恰幅の良い優しい老爺を思い出す。
「そうさ、なんでも僕と幸のふたりに次期当主の座を譲りたいといっていた。僕たちは金華猫の間でも力が強いみたいなんだよ」
「なるほど、それで黄芽様は優李のことを易々手放したわけか……」
幸と幸のことをすでに知っていたのだろう。
「随分と寛大な措置だ。金華猫の一族も跡継ぎ問題が解決して喜んでいることだろうな」
「そういうわけだ、優李、ここが嫌になったら梅花屋敷に来いよ!」
「優李がここを出ていくことはない」
「いやいや、夫婦の間には何があるかわからないじゃないか。ほら、那沙がほかの女にうつつを抜かしたり」
「そんなことはありえない」
「三人とも、そろそろ……」
喧嘩はやめてください、と優李が止めようと口を開いたときだ。
カランカラン──今度は乱暴に扉が開く。扉の勢いで、春先の冷たい風が吹き込んでいた。こんな開け方をするのはひとりしかいない。優李は那沙の腕をそっと振りほどくと入り口を振りかえって声をかける。
「いらっしゃいリク!」
「おー優李、お届けものだぞ。そういや祝言はいつだっけ?」
「春の予定だよ」
「もうすぐじゃねえか」
「うん、日取りをまた連絡するね」
荷物を届けに来たリクと話していると、幸が割って入ってくる。
「今何といった、祝言? 誰と誰の?」
「おまえ誰だよ」
今度は幸がリクに詰め寄る。
「そんなことはいいから教えろ!」
「おまえたちそっくりだな。双子か? そういや優李にもどこかしら似てるな……」
「僕たちは優李の兄だ! さあ、教えてくれ誰と誰の祝言だ!」
「わ、私と那沙の……」
優李は恥ずかしそうに答えた。すると、幸と幸の顔に怒りが浮かぶ。
「獏! 妹を頼むといったのはそういうことではない! 優李をちゃんと保護しろということだ!」
「俺と優李が夫婦になるのは、なにもおまえたちにいわれたからではない。もちろん伊邪那美様にいわれたからでもない。互いに互いを好いているからだ」
那沙がそう返すと、ふたりの兄は更に怒りを露わにする。
「僕たちが戻ってきた以上。優李を易々渡すわけにはいかないからね」
「おまえたちの意思などどうでもいい。大切なのは、優李が俺を選び、俺が優李を選んだということだけだ」
「とにかく! 誰が何といっても僕は認めないからな!」
「俺もだ!」
「突然帰ってきてなんなのだおまえたちは……」
息まくふたりに、那沙は盛大にため息を吐いた。
優李と那沙は無事に祝言を挙げることが出来るのだろうか。穏やかな西都の冬は終わり。もうすぐ、春がやってくる。
あなたにことほぎを──
おまえに覚めぬ夢を──
あたたかなこの世界に、祝福を――
カランカラン――夢屋の扉が開いた。
「いらっしゃいませ! きゃぁっ」
入ってきた客が突然抱き着いてきたので、優李は小さな悲鳴を上げる。
「優李、会いたかった!」
「よせよ兄貴、優李が困っている」
見ると、陶器のように美しい白皙の肌に、艶やかな黒髪、さらさらと流れる髪の間からは、ぴょこりと二つの黒い耳が生えている。背中には、すらりと伸びた黒い尻尾――
「黒い毛並みの金華猫ですか……?」
優李がそういって驚くと、ふたりの黒い金華猫は嬉しそうに目を細めた。
「そう、黒い金華猫だ」
「もしかして、もしかして!」
「そう、そのまさかだ優李」
「やっぱり、兄様たち!?」
優李が目を丸くすると、ふたりの金華猫は顔を見合わせてくすりと笑った。
「そう、僕は幸、そしてこっちが幸。僕たち黄泉に行ったはずなんだけど、なぜか体を得てね」
「泰山府君の野郎に追い返されたんだよ。まだこっちにくるなって」
「おかげでこちらに戻ることが出来たよ。西都に住む許可を得てからよく考えてみたのだが、おまえの『ことほぎ』のおかげだろうと」
幸と幸の話に優李は目を輝かせた。
「すごい! 奇跡みたいですね!」
「そうさ、おまえは奇跡を起こしたんだ」
「おまえは本当にすごいよ優李!」
三人で手を取り合って喜び合っていると、勘定台の奥から不機嫌そうな那沙が顔を出した。三人の間に割って入ると、優李を腕の中に包み込む。
「兄だか何だか知らんが俺の嫁にちょっかいを出さないでもらおうか」
「おい、嫁とはなんだ。冗談もほどほどにしろ」
「冗談ではない。その手を離せ」
「僕たちは優李を血を分けた兄弟だ。那沙、優李との再会を喜ぶのは当たり前だろう?」
「そういう問題ではない、そもそもおまえたちは黄泉に帰ったはずだろう。なぜここにいる、あれだけ優李に危害を加えておきながらよくもまぁのうのうと……はやく成仏しろ化け猫」
「優李の『ことほぎ』のおかげで戻ってこられた。それに、悪かったとあの時謝っただろう」
「なんということだ……」
と、黒猫の態度の図太さと愛しい妻の持つ能力の強さを再認識して那沙は言葉を失ったようだ。だが、ここで引き下がる那沙ではない。
「そもそも兄などとおこがましい。おまえは希沙良の弟たちだろう! ならば兄ではなく優李の叔父だ!」
「だが希沙良は僕たちを優李の兄だと教えたわけだ。そもそも優李が兄と呼ぶのだからな、僕も幸も優李の兄ってことだろう」
幸の答えに、那沙は頭を抱えた。希沙良の適当に腹が立つ。
「本当はすぐに来たかったのだが、検非違使の連中がなかなか僕たちを離してくれなかった」
「なんでも俺たちのせいで無気力病とかなんとかいう病が問題になったらしい」
「おまえたちが人の世で、あやかしから生気を奪っていたからだ」
「仕方がないだろう、生きるためには必要なことだ。なにも殺したわけじゃないからと、しばらく監視付きという条件で解放された。金華猫の大旦那様が口添えしてくれたそうだ」
「黄芽様が?」
優李は恰幅の良い優しい老爺を思い出す。
「そうさ、なんでも僕と幸のふたりに次期当主の座を譲りたいといっていた。僕たちは金華猫の間でも力が強いみたいなんだよ」
「なるほど、それで黄芽様は優李のことを易々手放したわけか……」
幸と幸のことをすでに知っていたのだろう。
「随分と寛大な措置だ。金華猫の一族も跡継ぎ問題が解決して喜んでいることだろうな」
「そういうわけだ、優李、ここが嫌になったら梅花屋敷に来いよ!」
「優李がここを出ていくことはない」
「いやいや、夫婦の間には何があるかわからないじゃないか。ほら、那沙がほかの女にうつつを抜かしたり」
「そんなことはありえない」
「三人とも、そろそろ……」
喧嘩はやめてください、と優李が止めようと口を開いたときだ。
カランカラン──今度は乱暴に扉が開く。扉の勢いで、春先の冷たい風が吹き込んでいた。こんな開け方をするのはひとりしかいない。優李は那沙の腕をそっと振りほどくと入り口を振りかえって声をかける。
「いらっしゃいリク!」
「おー優李、お届けものだぞ。そういや祝言はいつだっけ?」
「春の予定だよ」
「もうすぐじゃねえか」
「うん、日取りをまた連絡するね」
荷物を届けに来たリクと話していると、幸が割って入ってくる。
「今何といった、祝言? 誰と誰の?」
「おまえ誰だよ」
今度は幸がリクに詰め寄る。
「そんなことはいいから教えろ!」
「おまえたちそっくりだな。双子か? そういや優李にもどこかしら似てるな……」
「僕たちは優李の兄だ! さあ、教えてくれ誰と誰の祝言だ!」
「わ、私と那沙の……」
優李は恥ずかしそうに答えた。すると、幸と幸の顔に怒りが浮かぶ。
「獏! 妹を頼むといったのはそういうことではない! 優李をちゃんと保護しろということだ!」
「俺と優李が夫婦になるのは、なにもおまえたちにいわれたからではない。もちろん伊邪那美様にいわれたからでもない。互いに互いを好いているからだ」
那沙がそう返すと、ふたりの兄は更に怒りを露わにする。
「僕たちが戻ってきた以上。優李を易々渡すわけにはいかないからね」
「おまえたちの意思などどうでもいい。大切なのは、優李が俺を選び、俺が優李を選んだということだけだ」
「とにかく! 誰が何といっても僕は認めないからな!」
「俺もだ!」
「突然帰ってきてなんなのだおまえたちは……」
息まくふたりに、那沙は盛大にため息を吐いた。
優李と那沙は無事に祝言を挙げることが出来るのだろうか。穏やかな西都の冬は終わり。もうすぐ、春がやってくる。
あなたにことほぎを──
おまえに覚めぬ夢を──
あたたかなこの世界に、祝福を――