その夜、温かな那沙の胸に抱かれ、優李は幸せなまどろみの中で朝を迎えた。あどけない寝顔の那沙を見ていると、たまらなく愛しい気持ちがあふれ出てくる。選び取った新しい未来は、優李にとって幸せそのものだった。
 昨日の出来事は一生忘れられるものではない。那沙が自分のことを愛しているといってくれるなど、思ってもいなかった。那沙が優李に与えてくれるの愛情は、親が子供に与えるそれに似たものだと思っていから。
「優李……」
 那沙が目を覚ます。その瞳が優李の姿を捉えると、再び腕の中に抱かれた。
「今日は金華猫の本家へ行く」
「母の実家ですか?」
「いや、希沙良は分家の娘だ。本家は別にある。清華(せいか)という家だ。十四眷属のひとつで、侯爵家にあたる。先日当主が亡くなったので隠居していた大旦那が仕切っているようだ。俺もよく知った男だ」
「あの、私は金華猫のもとに戻った方がいいのでしょうか……」
 昨日求婚されたとはいえ、いろいろと通さなければいけない筋があるのだろう。母の一族だという金華猫だが、会ってみたい気持ちよりも恐れの方が大きい。
 那沙と離れたくない。
 優李は思わず那沙の胸元の着物を握る。優李の不安が伝わったのだろう。那沙は優李を安心させるようにほほ笑む。
「安心しろ、おまえを手放すわけではない。希沙良の子が西都にいることはいずれ知れることだろう、前もって会いに行き、結婚の挨拶もしておく。おまえのことはほかの誰にも渡さない」
「はい」
 優李は幸せを噛みしめながら破顔した。

 朝食を終え、身支度を整えると金華猫の屋敷があるという都の中央へ向かうことになった。優李は那沙の隣に並んで歩いていく。
 距離が、近くなったような気がする。隣を歩いてもいいんだよね。
 春はまだ遠く、街路樹もその葉を落とし寒そうに風に震えている。だがその枝の先に確かに新しい芽が生えているのを見て優李は暖かな気持ちになった。
「おや、今日も仲がいいねぇ。一緒に買い物ですか?」
 行きつけの八百屋が声をかけてくる。
「清華家へ行く。本家に優李を妻に迎えたことを報告に行かねばならない」
 那沙がそう答えるので優李の頬は熱を帯び、寒さが急に吹き飛んだように暑さを感じた。八百屋の主人は目を丸くしてから、笑顔になる。
「そりゃあめでたい! っていうかまだ結婚なさってなかったのかい? てっきりもう夫婦なんだと勘違いしてましたよ。帰りには寄ってください、お祝いにいろいろおまけしますから!」
「悪いが急いでいる。また後でな」
「えぇえぇいってらっしゃいませ。おや旦那、今清華っていわなかったかい? ってことは、奥さんは清華家のお嬢さんなのかい! そりゃ大変だ!」
 優李はぺこりと頭を下げて那沙の隣を歩く。那沙の横顔を見上げるとどこか機嫌がよさそうに見えた。
「あらぁ、那沙、その半妖まだ連れているの? 早く人の世に帰しちゃいなさいよ、迷惑なんでしょう?」
 大通りを歩いているとまた声が掛けられる。このとげとげしい声は蓮華だと優李は嫌な気持ちになった。
「ちょっと、無視しないでよ那沙様!」
 那沙が蓮華に一目もくれないので優李は那沙を見上げる。今度はひどく不機嫌そうな顔をしていた。
「那沙、蓮華さんが話しかけてきていますよ」
「話したくない。視界にも入れたくない」
「那沙、心の声が漏れています……」
 優李が指摘すると那沙は大きなため息を吐いた。
「蓮華、先日俺は優李と婚約した。優李は俺の妻だ。迷惑なのはおまえの方だ、もう話しかけてくるな」
 那沙の言葉に蓮華はひどく衝撃を受けている。
「ひ、ひどいわ那沙様……! うちは子爵よ、お金もあるし、そんな半妖なんかと結婚してもなんの得にもならないのよ!」
「おまえも自分に興味のない男のことなど追いかけず、早く身を固めろ」
「那沙様がいいのよ! この際第二婦人でも文句はいわないわよ!」
「俺は優李しかいらない。優李でなければなにものもいらない」
「……那沙!」
 那沙が優李の腰を抱いて体を寄せてきたので優李は思わず赤面し、緊張して体を固くする。蓮華はかぁと怒りで顔を赤くしてから叫んだ。
「……もういいわ! 那沙様なんか知らないんだから! その半妖に飽きたって絶対に相手なんかしてあげないわ!」
「俺が優李に飽きることなどありえない。さっさと行け。俺たちも先を急ぐ」
 蓮華が悔しそうな顔をして通りをかけていく。那沙はほっと息を吐きだした。
「あの女が優李に悪さをしないようしばらく気をつけねばならないな。まあ、優李が清華の娘だと知れたらあんな口は聞かなくなるだろう。知れるのが楽しみだ」
 那沙は口角を持ち上げて意地の悪い笑みを漏らす。
「あ、あの、蓮華さんよりも私のほうがもっともっと那沙のことを好きですから! この気持ちはだれにも負けませんから!」
 優李がぐっと両手のこぶしを握り締めると、那沙が抱きしめてくる。
「あ、あの、往来の真ん中ですが……」
「このくらい見せつけておけばいい。おまえに群がるあやかしがいなくなるように」
「そんなひとはいませんよ、だから離してください……恥ずかしい」
「嫌だ。店でもおまえを気に入っている客は多い、本当は店にも出したくない。それに、おまえを好きな気持ちが誰にも負けないとおまえにもわかっておいてもらわないと困る」
「もう十分にわかっていますから……それに、早く大旦那様のところにいかないと……」
 優李が必死に訴えると、那沙は渋々といった様子で優李の体を放した。
 那沙の独占欲がこんなに強いとは思わなかった……。
 優李はしっかりと手を握ってくる涼やかな顔の那沙を見てふふっと笑みをこぼす。
琥蓮さんが言っていたことは本当みたい。
 金華猫の本家は御所からほど近くにあった。金色の飾り瓦に漆喰で塗り固められた白い壁がどこまでも続いている。
「すごく、立派ですね……」
「十四眷属の一つともなれば屋敷も大きくなる。その本家となればなおさらだ。ここは巷で梅花屋敷と呼ばれている。春先には梅の花が見ごとに咲き誇りよい香りがする」
「そうなんですね、すごく素敵です」
 扉の向こうからちりんと鈴のなる音がして、扉がゆっくりと開く。
「お待ちしておりました、優李様、那沙様」
 優李と那沙を出迎えてくれたのは白皙に金色の髪を持つ美しい金華猫だった。目が金色に輝いている。出迎えた金華猫は優李を見てニッと目を細める。
あなたも(・・・・)希沙良様にそっくりですね、お会いできて嬉しいです。僕は白羅(しらら)、本家で小間使いをしております。さあ中へ、大旦那様がお待ちです」
 白羅に連れられ重い檜戸の取りけられた門をくぐると、手入れの行き届いた広い庭園がある。中華風の庭園だった。池には朱塗の橋が架かり、八角の東屋が見える。風が吹くと柳の葉がゆらゆらと揺れた。
 長い廊下を通り、奥の部屋へと通される。部屋に入ると那沙がすぐに正座をし、頭を下げたので優李もそれに倣った。すぐに誰かが部屋の中に入ってきた気配がする。
「よく来た。優李、那沙、楽にしてくれ」
 お腹に響くような低い貫禄のある声だ。このひとが金華猫の大旦那様だろう、優李はわずかに緊張する。どっしりとした体躯の老爺だ。
「はい」
 那沙が顔を上げたので優李もそれに倣う。金華猫の大旦那は優しい目を優李に向けていた。
「おまえが優李か、会えて嬉しい。わしは黄芽(こうが)、おまえの大叔父にあたる。よくぞ西都に帰ってきた」
「は、はい。あ、あの、母がご迷惑をおかけしました」
「よい、希沙良は最良の決断をした。もしも希沙良がこちらに残り、力の強い金華猫を産めばほかの眷属たちが警戒することになる。我々は希沙良の死を悼み、おまえが帰ってきたことを歓迎する。わしにとっては可愛い孫のようなものだ、よく帰ってきた」
 そういって優し気に目を細めた。優李は胸の中が温かくなるのを感じた。
「それから那沙、おまえは伯爵だろう。人の世にしか領地を持たぬ格下という自身の身分を弁えもせず、優李を妻に欲しいといっておるそうだな」
「はい」
「相応の覚悟があるのだろうな」
「はい、優李を得られるなら」
 那沙は迷わずに答えていく。那沙と黄芽のふたりはいくつか問答をし終えると、老爺はにっこりと目を細めた。
「許す。そもそも伊邪那美様に優李をおまえと一緒にいさせるよういいつけられている。わしが反対できる問題ではない、若いもん同士好きにやれ、わざわざ顔を見せに来てくれてありがたかったぞ。ただし、婚儀は喪があけるまで待ってくれよ」
「ありがとうございます黄芽様、婚儀の件、了解いたしました」
 那沙が深々と頭を下げる、並んで座っていた優李も同様にお礼をいった。那沙と夫婦なのだと、金華猫の大旦那に認められたことで再認識した。自ずと顔が熱くなる。隣の那沙に視線を送ると、那沙も嬉しそうな顔をしてこちらを見ていた。目が合うと切れ長の目がすっと細くなる。
「那沙、優李、いつでも来てくれ、歓迎する。実家だと思って帰ってくるといい」
「ありがとうございます大旦那様!」
 優李はもう一度深々と頭を下げると、那沙と連れ立って梅花屋敷を後にした。
「よかった。伊邪那美様が口添えしてくださっていて助かった。跡継ぎに困っている大旦那がおまえを返せといってきたら店も財産もすべて積んででも連れ帰すつもりだったが、あっさりと認めてもらえた」
「えぇえ、お店がなくなったら大変ですよ」
「おまえがいれば問題ない」
「大問題です……!」
 膨れる優李の額に那沙はそっと口づけを落としてきた。
「な……!」
「おまえは何ものにも代えがたい」
 那沙がにっと目を細めたので、優李は頬を赤らめてそっぽを向いた。
「こっちを向け」
「嫌です。顔が赤いんですから……」
「それもまた可愛いというものだ」
「……!」
「あはは」
 那沙が声を立てて笑うので、優李もつられて笑った。朗らかに笑い合う若い夫婦を、通りのあやかしたちはみなほほ笑ましい表情で見送った。