送り犬との約束の夜だ。優李をひとりにしたくないと思い、彼女が深い眠りについてから屋敷を出たので少し遅くなった。調月の町の住民は優李のことを邪険に扱っているようだ。いくら希沙良が遼一と結婚したからといってあのようにひどい扱いを受けるようなこともないだろう。あの少々ヒステリックな叔母と娘が優李の居場所を奪っていった可能性が高い。考えただけで腹が立った。
 獣医はすでに自宅の方に戻っている。清守の森から景信山に出ると獣医の家へ向かった。ふたりともすでに眠りについている。那沙は夢の中に入り込む。
『よう』
 と、清々しい顔をした送り犬が迎えてくれた。もう数日前の禍々しさはすっかり消え失せている。黒い靄などどこにもなかった。
『心は決まったようだな』
『あぁ、世話になったな。幸せな夢は俺には過ぎたものだった。もう十分だ』
『やけに物わかりがいい。私が夢を採取する前に夢から逃げろ。そうすれば、おまえは夢にとらわれず無事に成仏できる。再び生まれ変わり、あの夫婦の飼い犬となることも叶うかもしれない』
『お節介なやつだな、女狐に礼をいっておいてくれ』
 送り犬は夢から抜け出す前に、そんなことをいった。
『自分でいえ、あやかしの世に立ち寄れば会えるだろう?』
『それはなんとなく癪なんだよな』
 送り犬の答えに、那沙は呆れたような顔で少し笑った。犬と狐は仲が悪いらしい。
『都合の良い関係だ。承ろう、伝える。代わりにひとつ教えてほしいことがある』
『なんだ』
『猫のあやかしに会ったことはないか?』
那沙の問いかけにリクはすぐにうなづく。
『いつか主人が助けた猫が、俺が死ぬときに姿を見せたような気がした』
やはり、なにかしらのあやかしが関わっていたか。
『なるほどな。どんな猫か覚えているか』
『黒猫ってこと以外は何も。力になれなくて悪いな』
『いや十分だ。礼をいう』
『それはこっちのセリフだ。ありがとう獏、じゃぁな』
 そういい残して、からからと爽やかに笑うと送り犬は消えた。那沙は送り犬の気配が消えたのを確認してから両手を合わせる。瞳を閉じて、念を込めると、夢の世界が溶けて獏の手の中にどんどん吸い込まれていった。
 辺り一面は透明な無の世界となり、ころんと、美しい空色の飴が一粒那沙の手のひらにころがる。優李に見せてやれば綺麗だと喜ぶかもしれない。そう自然と考えている自分に戸惑った。優李の存在が、自分の中でどんどん大きくなってくる。