帰宅後シャワーを浴びてからリビングへ行くと、キッチンにイツキの俯いた後ろ姿があった。
……ん、……?
「イツキ、なんか焦げ臭くね?」
「へ?ぅわっやっっべっっ」
「待て待て、慌てるとやけどすんぞ。」
「あぁ、うん……あー……やっちまった……。ごめん……なんか買ってくるわ。」
「いーよ、全然食えそうじゃん。」
「そっかなぁ……でも……」
「いいって。ちょい味見させて。……うっま、鶏肉?」
「うん。これ、あと卵で綴じて親子丼にしようと思ったんだ。」
「えーまじか。やってやって。俺親子丼大好き。」
「ふふ、知ってる〜。よし。じゃぁいっちょ綴じてやるか!」
「まじで美味そう。食い終わったらアイス買いに行くか?帰る時買うの忘れてた。」
「あー……うん。」
「俺1人で行ってきてもいいし。」
「や、行く。行きたい。」
いつもなら二つ返事で行くって言うのに。
やっぱりなにか変だ。

1番近くのコンビニまで2人で歩いていった。
今が何時だとか関係なくじわじわ鳴き続ける蝉の声と、イツキのサンダルの音が夜の道にペタペタと響く。
「アイス係に任せる。」と言われて買ってコンビニの前で半分こしたパピコを並んで吸いながら、イツキも俺も、さっきから黙ったままだ。
一緒にいるのが自然すぎて普段はあまり意識しないけど、2人でいたって何も話さずにいることはままある。そういう時間も嫌いじゃない。
けど、今のこれはそれとは別だ。
お喋りなイツキがこんな風に黙ってしまうと、いったい何を口にすればいいのか、正解がわからない。
「あのさー」
口を開いたのはイツキだった。
「これ、コウに。」
イツキがポケットから出したのは、小さなカードだった。
白地にうさぎのキャラクターのイラスト。ペンで何か書いてある。
「『モモセ ナル』って……だれ?なにこれ。」
「……ももちゃん。の、ID。」
空になったパピコの容器を咥え、ペコペコと膨らませたり凹ませたりしながらイツキは言った。
「ももちゃん、って、あのももちゃん?」
「あのももちゃん。」
「あのももちゃんのIDをなんで俺に渡すんだよ。」
「渡してって、頼まれた。」
「え。ちょっと分からん。なに?どういうこと?」
立ち止まり、空の容器を握りしめて、イツキは俯く。
「……イツキ?」
「……ごめん!!!ほんとは…ほんとはももちゃん、あのとき、コウと付き合いたいって言ってたんだ。それで俺にこのメモ、コウに渡してって……だけど俺、コウはチサちゃんと付き合ってるから諦めてって断って……
けどももちゃんぜんぜん諦めてくんなくて、どうしても彼氏が欲しいって言うから、じゃぁ俺でいいじゃんって、言って……そしたらももちゃんも、じゃぁイツキくんで良いって……」
「そんなん、イツキが謝る事なんにもないじゃん。」
「だってコウがチサちゃんと別れてたなら、俺、渡さなきゃだったよな。こんなの、ただ横取りしたみたいな……」
「いいよ、そんなの。」
どのみちそのももちゃんと付き合うことは無かっただろうし。
「でもコウ、ももちゃんのことかわいいって言った。」
「それは一般論としてって言ったろ。」
「だけど」
「なぁ、イツキ。その話でイツキはなんでそんな泣いてんだよ。」
イツキの綺麗な頬にぼろぼろと涙が流れ落ちる。
「だって、ちがう、チサちゃんと付き合ってるからとかそんなん都合の良い理由で、本当は俺、これ以上コウが誰かのものになるの見るのが嫌で、それで……だから、……っ、」
「イツキ……それって……」
俺の、勘違いでないのなら、
「う、ぅ……」
「……う?」
「ぅぅわぁあぁーーーーーー!!!」

!!??

突然叫び出したイツキにビクリとする。
「イツキ??」
「忘れて!!」
「は??」
「忘れろ!!」
「なっ、ちょっと待て、」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を真っ赤にして、イツキは逃げるように、いや、全力で走って逃げて行った。
「待てって、イツキ!!」
「やだ!!」
昔から足の速いイツキでも、普段の運動不足に加えペタペタのサンダルでは、現役の俺から逃げ切れるわけがない。
すぐに追いついて、しっかりと腕を掴む。
「離せよっ。」
「やだ。お前逃げるもん。逃げてもすぐ捕まえるけどな。運動部なめんな。」
「くそ……コウのばか、はげ…」
「悪口その2つしかねーのかよ。つーか俺はげてねーし。……なぁ、顔上げて。」
「……無理。」
「なんで。」
イツキはじたばたと暴れて尚も俺からのがれようとする。
「逃げんな。逃げたって、帰るところ同じだろ。」
「……っ、だからだろ……っっ!一緒のとこに帰るから、ずっと一緒だから、気まずくなりたくねーじゃん。コウと変な風になるくらいだったら俺の気持ちなんかどうだっていいって、だからずっと」
「イツキの気持ちって、なに。」
「それを俺に言わせるのかよ。」
「わかんねーよ、俺だって、そんなん言われたら期待しちまうだろ。」
「期待って、コウ……。」
まさか。とか、でも。とか、そんなわけ。とか。
たぶん俺たち今、同じ事考えて、同じ様な顔してる。
戸惑いと、不安と、恐れと、ほんの少しだけの淡い……
「イツキ、俺さ…」
「コウ、俺……」
ぽこん
ぽこん
「「……。」」
ぽこん
ぽこん
「コウ、スマホ。」
「イツキも。」
ぽこん
ぽこん
「見ていいよ。」
「ほっといていい。イツキこそ、見れば。」
「俺もいい。それよりコウ、俺、」
ぽこんぽこん
ぽこんぽこんぽこん
「だーっっ、もうだれだよっ。」
2人してポケットからスマホを取り出す。ずらりと縦に並んだメッセージ受信の通知。
「母さん」
「母ちゃんだ。」
途端見計らったかの様に2つのスマホは騒がしく鳴り響き、着信を告げる。
俺たちは顔を見合わせ小さなため息をつき、同時に通話ボタンに指を当てた。
「もしもし母さん?」
「あ、コウ。よかった出てくれて。」
「どうした?なんかあった?」
「あのね、イッちゃんて白餡大丈夫だっけ?お土産に買おうってイッちゃんのママと話してたらミウちゃんがお兄ちゃんは白餡食べれなかった気がするっていうのよ。それでさっきからイッちゃんのママがイッちゃんに連絡してるんだけど全然既読がつかないって、」
「食えるよ……。」
「あ、そう?じゃー買ってくね。そっちは大丈夫?変わった事ない?」
「大丈夫。」
「イッちゃんにもよろしくね。」
「うん……。」

「うん、うん、わかったって。食えるから。はい、じゃぁ。」
同じタイミングで通話を終えスマホから顔を上げたイツキと目が合う。
「「……。」」
すっかり気の抜けた間抜けな顔は、きっとやっぱり鏡に写したみたいにそっくりだと思う。
「……っふ、……っくっくっくっ、、、」
先に吹き出したのはイツキで。
「宇宙一どーでもいい電話だった……っ……」
「っふ、ふははは…っっ、だめだ、ツボった…っ、」
2人で腹をかかえてひとしきり笑った。
笑って笑って、途中から笑うふりをしてイツキが少しだけ泣いていたから堪らなくなって
「イツキ。」
もう、我慢なんかできなかった。
抱きしめることしかできなかった。
「……コウ!?」
高校に入ってぐんぐん伸びた俺の背はまだ伸び続けていたらしい。こんな風に抱きしめると鼻にイツキの猫っ毛がふわふわ当たってくすぐったい。それから、うちのシャンプーの香り。
好きだ。
イツキ。
大好きだ。
心の中で強く思ったら、それに応えるみたいにイツキの手が俺の腰に回された。
イツキは堰を切ったようにしゃくり上げた。
「どうしよ、こんなの、俺無理……」
「なにが無理?」
あやすように背中をぽんぽんと叩くと、イツキはますます泣いてしまう。
人通りのほとんどない夜道とはいえ、時々通りかかる人々は一様にギョッとして気まずそうに通り過ぎて行く。
あぁ、離したくないな。もう一度ぎゅうと力を込める。
「イツキ、帰ろ。」
「……うん。」
グスグスと泣き続けるイツキの手を引いて帰った。
俺が公園で転んで膝を擦りむいた時。イツキが大切にしていたビー玉を失くした時。2人でおつかいに行ってオヤツを買いすぎて頼まれた物を買えなくて途方に暮れた時。
どちらかが、どちらもが泣いて、何度こうやって手を繋いで家に帰っただろう。
小さな絶望感も、2人一緒ならきっと大丈夫だといつも思った。
大丈夫だ。
こうして手を繋いで歩けるなら、俺たちはきっと、大丈夫。