「おえああ!?」
「うるさい」

 夜、二段ベッドで立ち上がっちまって、上段の翼に苦情を入れられる。だってだって。

[連休、どっか顔見れる?]

 丈士先輩から、すっげえLINEが来た。ついさっきまで野球部の練習見学してたのに。
 家に送るって気ィ遣わせたくないから、ひとりで帰ってきたんだ。
 とにかく返信しなきゃ。
 ゴールデンウィークは、クラスとか部活で新しく仲良くなった子と遊ぶのが王道だよな。先輩と遊べるなら願ってもない。丈士先輩を知ろう大作戦②、休みの日の先輩を知れる。
 でも、日高家は……。窓から見える讃岐山のてっぺんまで上がったテンションが、みるみる下がる。

[スミマセン。連休は田植えっス][出汁の涙流すうどんどんスタンプ]

 米農家の一大仕事がどん被りしてる。小学生の弟妹や、三年前に引退したじいちゃんばあちゃんに代わってもらうわけにもいかない。泣く泣く断りの返信をした。



 連休は、三日連続晴天。田植え日和だ。
 オレは朝から中学の芋ジャージを着て、軽トラに苗箱を積み込んでいく。
 一昨日は日高家の前の田んぼ、昨日はじいちゃん家の前の田んぼに、田植え機を走らせた。
 今日、じいちゃん家の田んぼの残りを倒せば、今年の一大仕事の半分(もう半分は収穫)完了だ。

「よし、一回行こか」

 父ちゃんとともに讃岐山沿いを移動する。車窓に見渡せるどの田んぼも、田植え機が行き来してる。

「蒼空、連休潰してしもうてごめんな」

 運転席の父ちゃんが、不意に謝ってきた。

「え、休みやけん手伝うてんじゃろ。母ちゃんが腰痛めて仕事行けんようなったらえらい(大変だ)し」

 去年はそれで大騒ぎだった。機械化してるとはいえ、苗箱を一日三百枚積み下ろししないといけない。母ちゃん、「歳か……」ってショック受けてた。
 そりゃ丈士先輩と遊べなかったのは残念だけど、来週高校で会えるし。

「世界一美味い米、育てるぞー!」

 オレは米農家の長男モード全開で、水を張った田んぼに降り立った。


 苗箱のあるビニールハウスと田んぼを、一日に三往復する予定だ。一ターン目を終え、引き返す。
 ん? 瓦屋根の下に、朝はなかった案山子が立ってないか? それもめっちゃ脚長い……

「丈士センパイッ!?」

 オレは助手席から頭を突き出した。丈士先輩が振り向く。うん、生きてる。案山子なんぞと見間違えちまった。日高家にいるなんて夢にも思わねえもん。

「どしたんスか。え、LINEくれとりました?」

 軽トラが停まるや、ぽこぽこ駆け寄る。先輩は黒いTシャツとトレパンって出で立ちだ。ロードワークの途中に通りかかったのかな。

「何か手伝えることある?」

 先輩が八重歯見せるのと、先輩が手に長靴持ってるってオレが気づくのは、ほぼ同時。

「手伝いに、来てくれたん、ですか」

 やっぱり夢な気がして、片言になった。

「ん。一昨日と昨日は四国大会の偵察だったけど、今日は何もないから」
「オレん家、どなんしてわかったんです?」
「野球部の一年に同中のヤツいるだろ。ソイツに聞いた」

 先輩はしてやったりって顔だ。
 田植えって送って、五分後に[ん]だけだったのが、先輩から顔見に来てくれるとは。頬がゆるむ。

「あざっす!」

 ようやく実感が湧いて、腹から声を出す。

「昼飯に美味い米食わせてもらったし」

 先輩も笑って、日焼け防止グッズフル装備で怪しい父ちゃんに会釈した。

「このかっこええ子が手伝うてくれるの?」
「はい。出遅れましたが」
なんちゃそななん(ぜんぜんそんなこと)ないわい。力仕事、お願いしてしまおう」

 父ちゃんってば、丈士先輩に見惚れながら図々しいことを言う。早速ビニールハウスに連れてこうとするから、慌てて先輩と父ちゃんの間に割って入った。

「ちなみにセンパイ、田植えしたことあります?」
「いや」

 だよな。それでも来てくれたんだ。貴重な休みの日に。
 甘い汗が滲み出たように錯覚して、軍手で乱暴に拭う。
 先輩は、ハウスの地面に並ぶ苗箱を、ほー、って見てる。社会科見学の小学生みたいでかわいい。

「これ軽トラに積めばいいん?」
「ハイ。横にしてもだいじょぶっスよ。軍手どうぞ」

 ひとつ七キロある苗箱を両手に提げても、先輩は涼しい顔だ。腕に血管が浮き上がって、ますますかっけえ。
 おかげで積み込みはあっという間に終わる。ただ、それによって別の問題が生じた。
 昼の弁当、二人分しか詰めてねえ。
 丈士先輩に食ってもらって、父ちゃんは飯抜きってのもかわいそうだ。
 もともと、いちいち泥落として家に入るのがめんどうで、田んぼで食うようにしてる。さっと台所に上がって詰め直すのもできないでいたら、母ちゃんが縁側から顔を出した。

「五人分詰めといた」

 眼鏡を光らせ、三段重箱を手渡してくる。ファインプレー過ぎ。
 留守番組三人のぶんはなくなったけど、母ちゃんの車でうどん屋行くでも、どうとでもなるだろ。

「センパイ、これ持ってつかさい」
「蒼空はどこ乗るん?」

 丈士先輩に重箱を預け、オレは荷台に乗ろうとした。それを見た先輩は、重箱だけ助手席に置いてシートベルトを掛け、オレに続く。

「え、気ィ遣わのうてええですよ」
「こっちのが気持ちよさそう」

 苗棚の横、わずかなスペースに体育座りで向かい合う。先輩の長い脚がオレの脚をぎゅっと挟み込んで、お互い小さく笑った。


 蛙がげこげこ鳴いてる田んぼに着いたら、田植え機に苗箱を載せていく。
 父ちゃんが運転するのを待つ間は、苗がまっすぐ植わってるかとかをチェックする。真剣に見ていると、ほっぺたに視線を感じた。
 何だろ? 隣に立つ丈士先輩を見る。
 先輩はふっと前を向き、帽子のツバを少し上げて、

「水田って、キレーだな」

 と目を細めた。そう言う先輩が綺麗です。
 まあ、空と雲と山が映った水面がずっと向こうまで続いてるのは、オレも嫌いじゃない。

「どこまで蒼空ん家の田んぼなん?」
「あっこのじいちゃん家……瓦屋根の日本家屋があるとこまでです。ぜんぶで四ヘクタールやったかな」
「へえ。甲子園と同じ広さだ」
「まじスか! じゃ、この真ん中に丈士センパイが立つんスね。オレの応援見えっかな」

 甲子園。丈士先輩が目指してて、オレを連れてってくれるって言った場所。日高家の田んぼと意外な共通点があった。
 シミュレーションで踊ってみる。端で折り返した父ちゃんが、手ぇ振ってきた。

「いや父ちゃん応援しとるわけじゃ」

 先輩が俯いて笑う。笑ったあと、ひとつ息を吐いた。


 最後の三ターン目分を軽トラに積み終えたところで、丈士先輩を解放する。さすがにこれ以上はコキ使えない。

「御礼は改めてたっぷりしますんで」
「んー……、ん」

 今日は押し問答にならなかった。慣れない作業で疲れただろう。留守番組に、熱い風呂と冷たいおやつで丁重に労うよう申しつける。
 ――それから一時間半。
 「片づけは明日でええよなあ」なんて言いながら夕陽の中を帰ってきたら、砂利敷きの縁側前で、翼がサッカーボールを蹴っていた。
 相手してんの、丈士先輩じゃね? なぜか父ちゃんの部屋着穿いてて七分丈になってるし。

「おかえり」

 エンジン音を聞きつけた先輩が振り返る。うおお、「おかえり」の破壊力もなかなか……じゃなくて。丁重な労いは?
 状況がつかめないオレに、翼がきらっきらの目を向けてくる。

「丈士さん、めっちゃサッカーうまい」
「おい。オレをさん付けで呼んだことねえじゃろ。野球部のエースに何させとんじゃ」
「丈士さん、野球部なんですか?」

 パスとともに聞く。兄は無視だ。

「ん。でも球技はだいたいできるしやるよ。特にサッカーは突き指気にしなくていいし」

 先輩が翼の足下にぴたっと蹴り返しながら答える。翼の眼差しが尊敬に染まった。どうせオレは弟の練習相手にもなってやれませんよ。

「田植えの上に子守りまでしてもろうて、スミマセン。疲れとるのに」
「蒼空の顔見ればヘーキ。汗掻いた服洗ってくれて、時間もあったし」

 え、今なんと? 嬉しいこと言われた気がするけど、母ちゃんがほこほこの洗濯物持って縁側に現れて、うやむやになる。

「ありがとうございました」
「いや、まだもてなし足らん。ぜひとも夕飯食べまい」
「ねえ、つくんのオレじゃわいな?」

 母ちゃんはシェフの意向も聞かず、先輩の腕を引っ張り上げる。先輩は父ちゃんの部屋着じゃ外歩けねえから従うしかない。
 その父ちゃんは、外水栓で泥流しつつ、「それがええ」とか笑ってる。
 そりゃ、先輩のためなら腕振るうけど、あり合わせの食材しかねえのに。

「昼ごはん食べ出たとき、母さんがオリーブ牛五パック買うとったよ」

 翼がリフティングがてら言う。母ちゃん今日二度目のファインプレーってわけか。
 オレは外水栓のホースを父ちゃんから奪って最低限の泥を落とし、台所に上がった。


 とはいえ、手の込んだものはつくれない。ぶっかけ肉うどんにした。
 香川特産のやわらかい薄切り肉を、和風出汁で味つけしてトマトと山菜添えたのと、焼肉のタレで味つけしてとろろと卵とネギ添えたのの、二種類。
 丈士先輩のどんぶりは、どっちも肉を山盛りにする。
 あとオクラとワカメの酢の物と、食べるラー油&チーズ乗せ冷や奴と……ばあちゃんの友だちにもらったマンダリンって、柑橘類だし疲労回復に効くよな?

「蒼空も座りな」

 ばたばた台所と居間を行き来してたら、先輩が声を掛けてくれた。オレも一日働いて腹減ってるから、ありがたく頷く。
 つか、うちの散らかった居間に先輩がいんの、ちぐはぐで生成AI画像ぽいな。
 昼休みみたく隣――の座椅子は空いてねえ。翼と母ちゃんが両側からしきりに話し掛けてる。何なら先輩の胡坐の上にも美羽が居座ってる。
 日高家、先輩にめろつき過ぎ。なんかむずむずする。

「丈士センパイはオレの……センパイ、なんやけど」

 オレの主張は弱々しくかき消えた。はあ。

「いただきます」

 先輩の向かいに座り、うどんを啜る。我ながら美味え。
 先輩も美味そうにもりもり食ってくれてるから、それでいいか。
 丈士先輩、たとえ労働でも子守りでも、身体動かすのが嫌いじゃねえんだな。あと田舎の景色と飯も。
 食いにくそうなそぶりもせず、むしろ美羽の口に冷や奴の辛くない部分を運んであげている。美羽はすっかり甘え顔だ。

「美羽、丈士くんみたいなお()ィが欲しかったなぁ」
「え、それちょっと傷つくんやけど!?」

 オレだって美羽が小さいとき「あーん」してやったのに……翼といい、兄の愛がぜんぜん伝わってない。がっくり肩を落とす。

「いい兄ちゃんがもういるじゃん」

 見兼ねたのか、丈士先輩がフォローしてくれた。

「センパイ……っ!」

 オレは大感動する。先輩が言えばみんな納得する。オレも自分がいい兄ちゃんって確信が深まった。
 その横で、瓶ビールを手酌で飲んでた父ちゃんが、まとめって感じで言う。

「今日は、足していい兄さんが二人、の日やな」
「……。……どゆこと?」
「2(にい)+3(さん)がふたつ、ってことや。いい(11)は計算記号として使う」

 母ちゃんの補足も、まったくわかんねえ。情報科でも数学が得意とは限らねえのよ。そのうちに翼が「頭はようない」とか嘆く。
 丈士先輩の優しい苦笑が、5月5日の夜空に溶けていった。