焦茶色の壁の一軒家――丈士先輩の家は、陽の下で見ても洗練されてて、新しい。

『ん。早く掴まれ。じゃないと電車のドア閉まる』
『ぐ、うう、失礼します……!』

 最寄り駅でまたおんぶを断りそびれたオレは、道中「降ります」って三回申告した。
 先輩のご両親に挨拶するイベントがこんな早く発生するのは想定外。だし、おんぶで登場ってのはいくらオレでも気が引ける。
 なのに先輩はオレを背負ったまま、すたすた扉に突撃する。自動ドアだ。

阿爸(あば)、このあとすぐ予約ある?」

 入って左側のカーテンの奥。紺色のケーシーを着た男の人が振り返った。待ってましたとばかりに口角を上げる。

「あるけど常連の田中さんだから、帰りがてら『三十分遅らせて』って言っといた」

 先輩と笑い方、同じだ。背も同じくらい高い。帰りがてらってことは、体育祭観にきてたんだ。この人が先輩のお父さんに違いない。
 オレはどっと汗が出た。息子さんをコキ使ってるのはいろいろ事情がありまして、ってどこから説明すればいい? まず挨拶か。先輩の旋毛に額ぶつける勢いでおじぎする。

「はじめまして、讃岐高一年、日高蒼空です!」
「うん、聞いてる聞いてる。野球部じゃない、元気で素直でかわいい後輩がいるって」
「ハイ?」

 話が噛み合わなくて顔を上げると、先輩はお父さんの足に蹴りを入れていた。振動がオレにも伝わる。でもお父さんの笑顔は変わらない。

「はっはっは。さ、蒼空くん、こっちのベッドに座って。捻挫診ようね」

 もしや――怪我の治療のために攫われた? ようやく理解するとともに、恐縮する。

「そなん、たいした怪我やないっス」
「かと言って放っておけないでしょ?」
「うっ」
「保険証、蒼空の親御さんに借りてある」
「うう……」

 何だかんだ逆らえないのまで、同じ。半強制的に施術用ベッドに下ろされる。
 ベッドも焦茶色でおしゃれだ。母ちゃんが腰痛めたときに通った接骨院の、ところどころ剥げた水色のベッドとぜんぜん違う。
 何より施術室は丈士先輩の制服と同じ匂いで満たされてて、居心地いい。

「救護の先生は何て?」
「軽い捻挫やけん、冷やして安静にって」
「ふむ。患部、ちょっと動かすよ。……うん、確かにⅠ度捻挫だろう。靭帯は無事」

 お父さんはてきぱき手を動かした。よく考えたら貴重な機会過ぎる。怪我のこーみょーだっけ? 笑いかけられて、オレもつられる。

「お父さんの手、センパイの手みたく(ぬく)うて、安心します」
「そう? だってよ、丈士」

 しゃがんで治療を見張る先輩は、ふいっと横向いちまった。鉢巻きの猫耳触ってたときと似た真顔。そのまま問われる。

「蒼空、捻挫はじめて?」
「ハイ。ダンスもがっつりやっとったわけやないんで」
「じゃあ鍼もはじめてか」
「……痛えっスか?」

 「鍼」と書いて「はり」。とはいえ、どうしても「針」をイメージしちまう。

「でも効くから」
「ぜってえ痛えやつ!」

 反射的に先輩のお父さんに身を寄せた。その結果、右足首をがしりと掴まれる。しまった、こっちが親玉だった。痛くしないで、と上目遣いで訴える。

「大丈夫大丈夫。丈士にやってるのと違って、細い鍼を数本きりだし」

 って宥められても、オレには想像つかないんですって。そうこうするうち、くるぶしにとととん、と銀色の鍼を打たれた。見た目は完全に針だ。
 ――お? 手際がいいおかげか、刺さったまんまでも痛くないかも。

「これで早く腫れが引くよ。前距腓(ぜんきょひ)靭帯が安定するようにしたから、違和感も残らないはず。でも救護の先生の言うとおり、二、三日は安静ね」
「全拒否……? あざっす」

 説明してくれるけど、却ってわかんねえ。いい感じにしてくれたって信じよう。

「丈士、固定用の八の字サポーター持ってきて」
「……ん」

 先輩はゆったり立ち上がって、施術室の奥側の通路に消えた。パシられても文句ひとつないのは、お父さんの腕を尊敬してるとみた。
 先輩もこうやって、練習で酷使した身体を労わってるのかな。

「それにしても蒼空くんの足、白くてちっちゃいねえ。うちの太太(たいたい)みたい」
「呼んだ?」

 玄関右側のカーテンから、美女が乱入してきた。
 先輩のお母さまだ。向こう半分はピラティススタジオなんだ。ピラティスウェアが映える腰の位置の高さと細さ、丈士先輩が弟妹に温存することなく引き継いでる。拝。
 つかオレ、ご両親の前でいいところなしじゃねえか? 怪我して、おんぶさせて、鍼怖がって。せめて礼儀はしっかりしよう。

「太太さん、お邪魔しとります!」
「ふふ、『太太』はワタシの名前じゃないよ。『かわいい奥さま』って意味」

 う。下手にしゃべんないほうが印象いいかも。きゅっと口を閉じる。
 でも、二秒後には全開にしていた。

「鍼効かせてる間、おやつどうぞ。腹ぺこだと元気出ないね」
「前回のうっっっまいやつ! ええんスか?」

 お母さまが、タピオカドリンクとパイナップルケーキを持ってきてくれたんだ。ドリンクのこの色、マンゴーっぽい。今の時点でもう美味い。
 外面を取り繕うのは後回しにして、「いただきます」と頬張る。

「美味ぁ~、特にマンゴー~」

 絶妙な甘さと絶妙な歯ごたえ。余韻に浸るオレを見て、ご両親とも得意げに笑う。

「はっはあ。どっちも太太の地元が本場だからね」
「東京スか?」
「台湾よ」
「おおー。……えっ!?」

 でかい声が出た。都会越えて外国!? 言われてみれば、先輩のお母さま、推しの華華さまみたいな雰囲気がある。当然、丈士先輩も同じく華やかな雰囲気をまとってるわけで。
 名前だって中華圏っぽいし、漢字が上手。でも、ぜんぜん気づかなかった。
 先輩の前で華華さま語りしたの、時間差で恥ずい。ほっぺたも足先も熱くなる。

「丈士から聞いてなかった?」
「ハイ。センパイはあんまり自分のこと話さんけん」

 改めてご両親を見上げる。参考に、超うどん級美形射止めた方法とか……聞けねえかな。

「お二人は、どうやって結ばれたんスか?」

 しれっと尋ねる。お母さまがにっこり笑った。

「ふふ。ワタシは昔、日本でモデルのお仕事をしててね。ヒールの高い靴履いてたら、足痛くなっちゃって。悩んでたとき、行きつけの台湾料理屋の裏に怪しい鍼灸院発見」
「おいおい怪しいって言うなよ。ちゃんと鍼灸の資格も柔整の資格もあるよ」

 お父さんが突っ込むものの、デレてて攻撃力ゼロだ。

「んじゃ、お客さんとして出会うたんスね」
「そう。出会ったら、あとは運命が導いてくれるよ。台湾では同性婚もできるよ!」
「ハイ! ……ハイ?」

 惚気られてたはずが、話がめっちゃ飛躍した気がする。
 結婚――先輩と、オレが? オレ、丈士先輩に片想いしてるって言ってないよな!?
 なんでばれたのか確かめたいのに、タピオカが喉に詰まって咳き込む。

「気が早えわ」

 そんなオレに代わって、戻ってきた丈士先輩がお母さまの口を手で塞いだ。
 先輩が焦ったような真顔なのに対して、お母さまは悪戯っぽく笑ってる。

「丈士の割に遅いね?」
「放っとけ」

 先輩はささっとオレの足首の鍼を抜いて、「こっち」と腕を引いた。
 すげえ。自力で歩けるくらい痛くなくなってる。御礼言わないと。

「ご馳走様っした!」

 半身で会釈すると、ご両親は睦まじくにこにこしてた。こんなふうに痛みを消し去ってくれるなら、そりゃ運命の恋にも落ちるよな。


 施術室奥の通路は、突き当たりが階段になってて、上っていくとアジアンカフェみたいなオープンダイニングがある。
 それも素通りして、焦茶色の扉に入った。もしかして、もしかしなくても。

「センパイの部屋っスか!」
「そ」

 丈士先輩はスチールロフトベッドの下のクッションに座り、ほ、と小さく息を吐く。
 オレはラジオ体操ばりに大きく息を吸った。先輩の部屋の匂い、めっちゃ好き。

「ん」

 先輩は手で口を押さえたのち、お約束って感じで隣を示す。オレも胡坐を掻かせてもらった。
 先輩の部屋はシンプルだ。ベッドとミニデスク、棚がひとつきり。服はクローゼットにぜんぶ収まってるらしい。ゲーム機もポスターもない。
 ただ、先輩の背中側にある棚には、グローブと白球、メダルにトロフィーが並んでる。
 何のトロフィーか知りたいけど、漢字だらけで解読できない。歯がゆい。
 中学生の先輩、小学生の先輩、赤ちゃんの先輩を思い浮かべてみる。
 もっと早く出会いたかった。でも、こんな田舎で出会えたのも奇跡だよな。

「オレ、いつか台湾行ってみたいです。パスポートつくって、語学の勉強もせなっスけど。先輩の地元見るためなら、何時間だって勉強できます」

 オレが鼻息荒く意気込むと、先輩は八重歯を覗かせた。

「俺も小学生の頃何年かいただけだよ」
「ほーなんスか?」
「ん。日本戻ってからはずっと……埼玉に住んでた」

 かと思うと、色のない真顔になる。
 過去を消す必要はないけど、無理に引っ張り出す必要もない。ってうまく言えそうになくて、がしっと先輩の手を取る。オレのうどん肌ほっぺに導く。
 先輩は戸惑いを浮かべた。でもオレが「どうぞ」って促せば、秘密の施術みたいにもにもにし始める。
 ひともにするたび、先輩の指先と表情がほぐれていく。オレも「ふへへ」って声が出た。
 先輩が気を取り直したように口を開く。

「合わせて十年以上住んでたのに、『阿公(おじいちゃん)家に似た海辺の街見つけた』『夢の開業にぴったりの物件も紹介してもらった』『一家で引っ越せば野球部の出場制限もないよ』つって、一か月でリフォームと引っ越しキメた阿母と阿爸には、恩返ししたいと思ってる。まあ俺にできるのは甲子園連れてくくらいだけど」

 そうやって、何もないけど海とオレはいる田舎に来たんだ。
 ご両親はきっと前の野球部での経緯を把握した上で、立地や開業を建前にしたに違いない。
 先輩も、ほんとは自分のための引っ越しってわかってる。この家があるのに、前の学校戻っちまうわけなかったな。オレは確信に満ちた笑みを浮かべた。

「連れてってくれるんスよね!」
「……ん」

 先輩はマジメな話したのが照れくさいのか、ほっぺたもにもにをやめて後ろを向く。

「蒼空にやる」

 棚から白球をひとつとって、オレの手に載せた。何だろう? どこにでもある普通の硬球に見える。

「俺がリトルリーグではじめて勝ったときのボール」
「え!? そなん大事なもん、もらえんっス」

 さっきのなし。めちゃくちゃ特別で大切なものだった。さしものオレも、「ええんスか? あざっす」とは言えない。丁重に返そうとするけど、先輩はもどかしげに耳上を掻く。

「じゃあ、夏の決勝のウイニングボールと交換な。そんとき言いたいこともあるし」

 まっすぐ見つめられ、心臓が大きく跳ねた。
 言いたいこと――意味深な予告だけど、良い内容って期待してもいいかな。
 しかも夏の県予選で優勝する前提だ。その記念ボールと交換っていったら、体育祭の鉢巻きの交換とは比べものにならないほど、重い。
 重いぶんだけ、嬉しい。

「ハイ! 楽しみにしとります」

 オレは白球をTシャツの裾で厳重に包んでから、ジャージのポケットに仕舞った。先輩が小さく吹き出す。

「え?」
「いや」

 よくわかんねえけど、もっと笑ってほしい。
 優勝したら、とびきりの笑顔になるはず。
 予告の日をただ待つだけじゃなく、オレも何かしたい、貢献したいって強く思う。
 それで自分に自信がついたら……告白、したいかも。丈士先輩をこんなに好きなやつがここ(讃岐)にいますって、知らせたい。