この高校の中庭は、中学校時代のあたしが憧れてたまらないものだった。
家から徒歩5分で行ける公立高校はあるし、そこは県で一番とも呼べるほどの進学校ではある。でも、当時大して勉強が好きでもなかったあたしが必死になって勉強してまで入ろうという熱意が持てなくてやめた。今思えば登校が楽すぎて惜しいことをしたなと思う。同時に、ガリ勉しないと授業についていけなかったと思うから、まあ結果的にあの時の選択は合っていたんだろう。
3歳上の姉は海外留学に力を入れている私立高校に単願で行ったから、妹のあたしは「できるだけ金がかからない高校に入ってよ」という母からの無言の圧があったのもあって、カリキュラムが豊かな私立へ行ける選択肢なんて、あたしにはなかった。
チャリで25分かかるこの公立高校は、特筆すべき特徴がない。というのも、運動部が強くて市外からの入学者は多いけど、あたしは運動部じゃない。単純に関係がないからだ。入学したあとは、茶道部という適当に過ごせる部活に入っている。活動は週に1回。あたしは家でイラストを描く方が好きだから、できるだけ活動の少ない部活を選んだ。
そんなふうに消去法で何となく「この高校に行こう」と決めていたのが本命となったのは、中2の夏だった。夏休みに開かれていたオープンスクールに参加したのがきっかけだ。暇だったし、イラストばかり描いていると母親に小言を言われるのが嫌になったし、姉は海外留学中でいなかったし、とりあえず外に出られればそれでよかった。
図書館に通うにも飽きてきた頃、高校のホームページでオープンスクールというものが載っていた。昔読んだ漫画の知識で、夏休みに開かれる「オープンなんとか」っていうのは何となく大学見学に使うものだと思ってたけど、違ったらしい。中学名を記載しなきゃいけないのが面倒だったけど、もしここを第一希望にした場合、中学の先生たちにもこの学校の先生たちにも「熱意がある」と思われるかもしれないという、下心にも似た可能性に賭けて、3年生の参加者が多いその場に加わった。
4年前に塗り替えたという校舎はまあまあ綺麗だったし、グラウンドも広かった。体育館が2階にあったり、建物そのものや敷地面積すら中学校のそれとはレベルが全然違くて、あたしは「高校」という場所に初めて憧れを抱いた。
中でもあたしが一瞬にして目を奪われたのは、中庭だった。
普通の教室──1年から3年までの教室や職員室なんかのある通称『教室棟』と、パソコンの置かれた教室や音楽室に美術室、そして茶道室もある『特別棟』を結ぶ渡り廊下。その両方の建物の間にあるのが、中庭だ。
簡単に言えばイングリッシュガーデンが似合う空間で、校内で格別に浮いている。ランチ場所には学食の次に人気なのが納得なほどにオシャレだ。ちなみに学食が一番人気なのは、単純に安くて大盛りで美味しいメニューが多いから。純粋に『場所』で選べば、中庭が一番であることは生徒みんなが思ってるだろう。
そんな人気の場所だから、1年の頃は足を踏み入ることさえ叶わなかった。暗黙の了解で、あそこのベンチやテーブルに座れるのには、優先順位があるからだ。それでも2年生からようやく早い者勝ちレースに参加できるようになり、あたしは放課後にだって空きを見つけては一人がけのベンチを狙っている。そのくらい好きなところだ。
「来ないし」
そんなことを思い出しながら、勝ち取った二人掛けベンチに座ったあたしは軽いため息を吐く。
昼休みなら、と言ったのは菜月だ。あの言葉だって本当はおかしい。だって、ランチはいつもあたしとふたりで食べている。ランチと昼休みは、あたしと菜月の中ではイコールにならない。委員会の集まりとかあるのは昼休みで、ごはんを食べるのはランチだから。
つまり、ランチを一緒にしているあたしたちには「話すなら昼休みに」という条件付けはおかしいわけだ。ランチに話すんじゃなくて、昼休みに。つまりあたしは、朝の時点で「ランチを一緒に食べる気はない」って言われたのと同じだった。
まさかねと思ったけど、予想は当たった。まあそれまでに移動教室すらあたしを無視して歩いて行ったんだから、当たり前と言えば当たり前だけど。だからあたしはこのベンチでぼっちランチを食べて、菜月が来るのを待っている。
午後12時43分。これまでのクラスメイトたちの反応はそれぞれだ。あたしと菜月を交互に見て心配そうにしながらも特に突っ込んでこないのは基本で、何やら菜月に話しかけていた真面目系の角田さんとか、あたしに「喧嘩でもした?」と声をかけてきた安古川とか。このあたりはある程度想像していた。
あたしが神経を尖らせていたのは、アレを見たのはこの中の誰か特定する、ということだ。まあ、同クラより違うクラスの人たちの方が妙な視線を投げてきた気はしないでもないけど、あたしの知らないモブたちだからどうでもいい。
パックのコーヒー牛乳に刺したストローから思い切り吸い込んで、ゴクリと飲み込む。
ゴミ溜めの住民であることを態度で全開にした菜月を、あたしはどうしたいんだろう。今はまだわからない。ただあたしは、菜月を許せない。だから罠を張り、菜月はそれに落ちただけ。
その時、1階の渡り廊下の途中からあたしに向かって歩いてくる人影に気がついた。
指定の長さのプリーツスカートから伸びた脚はまだダイエット途中で、出したくないからこそ短くする気はないらしい。「痩せたら外では出す」と言ってたけど、あれから少しは頑張ってるのかな、ダイエット。世界中でチョコが一番好きと宣言した彼女には、当分無理そうな気がするけど。
「おそーい」
腕を大きく振りながら、彼女──菜月に声をかける。植え込みを挟んだ向こうにいたカップルが一瞬だけこっちを見たけど、すぐにふたりの世界に戻る。
「……先生に呼ばれてたから」
俯いたままの菜月は見え見えの嘘を吐く。なんでそんなことするかな。あたしと食べたくなかっただけなのに。誰と食べてたとか、ぼっちだったのかとか、あえて聞く気もないけど。
菜月は左手に紅茶の飲みかけパックを持ち、あたしの隣に座った。いつもならすぐにふざけて体当たりできるくらい近くに座るのに、今はあたしと反対側端っこギリギリに座っている。
あーあ。そんな丸わかりなことしなくてもさあ。
目を薄めてそんなことを思いながら、あたしは組んでいた脚を変えた。その時、菜月がびくりと震える。なんで菜月が怯えてんの? シカトしてんのはそっちなのに、なんで被害者ぶってんの? 笑える。
頭の中ではまくしたてながらも、あたしは朝と同じ態度を崩さないまま口を開いた。
「ねえ、いきなりなんなの? あたし何かした?」
あたしの声はよく通る。自分でもわかっている。
だからまた、隣のカップルがあたしたちを見たのを視界の隅で捉えた。すみません3年カップルさん。今からちょっと、騒がしいかも。
菜月は相変わらず俯いていて、まるであたしが尋問してるみたいだ。
「挨拶もしてくれないし、ランチだって……。いきなりじゃさすがに戸惑うよ。なんか、菜月の癇に障るようなことした?」
「そんなことっ……」
顔を上げた菜月と、ようやく目が合う。でもすぐに逸らされた。あたしを探っているようにも見えるし、本気で怯えているようにも思えた。
「何もないなら、そんな態度にならないじゃん。菜月、そんな子じゃないでしょ」
「……っ」
今度は口をつぐんでしまった。
だんだんイライラしてくる。普段から菜月はどちらかというと弱気な方ではあるけど、それでも自分の気持ちは口にしてくれてきた。だからあたしも信用していた。なのにあんなゴミ溜めにあたしの悪口を書き込んで、煽りに素直に反応して、そのくせ本人を目の前にするとだんまり。一体何がしたいんだろう。
「ねえ」
その肩に手を伸ばそうとしたとその時、菜月が「やめて!」と突然立ち上がった。
「え、なに急に」
今の菜月の反応の意味を、あたしはとっくにわかっている。だけどあえて、戸惑って傷ついた顔を作った。
肩にさわるくらい普通にやっていた。髪を撫でたこともあるし腰に手を回したこともある。手だって恋人繋ぎしたことが何回もある。全部全部、親友同士のコミュニケーションに過ぎない。潔癖症とかならともかく、今までしていたことに対して突然の拒絶を示す理由なんて、今はひとつしか思い浮かばない。
菜月は、あたしの罠に嵌まってるだけだ。
家から徒歩5分で行ける公立高校はあるし、そこは県で一番とも呼べるほどの進学校ではある。でも、当時大して勉強が好きでもなかったあたしが必死になって勉強してまで入ろうという熱意が持てなくてやめた。今思えば登校が楽すぎて惜しいことをしたなと思う。同時に、ガリ勉しないと授業についていけなかったと思うから、まあ結果的にあの時の選択は合っていたんだろう。
3歳上の姉は海外留学に力を入れている私立高校に単願で行ったから、妹のあたしは「できるだけ金がかからない高校に入ってよ」という母からの無言の圧があったのもあって、カリキュラムが豊かな私立へ行ける選択肢なんて、あたしにはなかった。
チャリで25分かかるこの公立高校は、特筆すべき特徴がない。というのも、運動部が強くて市外からの入学者は多いけど、あたしは運動部じゃない。単純に関係がないからだ。入学したあとは、茶道部という適当に過ごせる部活に入っている。活動は週に1回。あたしは家でイラストを描く方が好きだから、できるだけ活動の少ない部活を選んだ。
そんなふうに消去法で何となく「この高校に行こう」と決めていたのが本命となったのは、中2の夏だった。夏休みに開かれていたオープンスクールに参加したのがきっかけだ。暇だったし、イラストばかり描いていると母親に小言を言われるのが嫌になったし、姉は海外留学中でいなかったし、とりあえず外に出られればそれでよかった。
図書館に通うにも飽きてきた頃、高校のホームページでオープンスクールというものが載っていた。昔読んだ漫画の知識で、夏休みに開かれる「オープンなんとか」っていうのは何となく大学見学に使うものだと思ってたけど、違ったらしい。中学名を記載しなきゃいけないのが面倒だったけど、もしここを第一希望にした場合、中学の先生たちにもこの学校の先生たちにも「熱意がある」と思われるかもしれないという、下心にも似た可能性に賭けて、3年生の参加者が多いその場に加わった。
4年前に塗り替えたという校舎はまあまあ綺麗だったし、グラウンドも広かった。体育館が2階にあったり、建物そのものや敷地面積すら中学校のそれとはレベルが全然違くて、あたしは「高校」という場所に初めて憧れを抱いた。
中でもあたしが一瞬にして目を奪われたのは、中庭だった。
普通の教室──1年から3年までの教室や職員室なんかのある通称『教室棟』と、パソコンの置かれた教室や音楽室に美術室、そして茶道室もある『特別棟』を結ぶ渡り廊下。その両方の建物の間にあるのが、中庭だ。
簡単に言えばイングリッシュガーデンが似合う空間で、校内で格別に浮いている。ランチ場所には学食の次に人気なのが納得なほどにオシャレだ。ちなみに学食が一番人気なのは、単純に安くて大盛りで美味しいメニューが多いから。純粋に『場所』で選べば、中庭が一番であることは生徒みんなが思ってるだろう。
そんな人気の場所だから、1年の頃は足を踏み入ることさえ叶わなかった。暗黙の了解で、あそこのベンチやテーブルに座れるのには、優先順位があるからだ。それでも2年生からようやく早い者勝ちレースに参加できるようになり、あたしは放課後にだって空きを見つけては一人がけのベンチを狙っている。そのくらい好きなところだ。
「来ないし」
そんなことを思い出しながら、勝ち取った二人掛けベンチに座ったあたしは軽いため息を吐く。
昼休みなら、と言ったのは菜月だ。あの言葉だって本当はおかしい。だって、ランチはいつもあたしとふたりで食べている。ランチと昼休みは、あたしと菜月の中ではイコールにならない。委員会の集まりとかあるのは昼休みで、ごはんを食べるのはランチだから。
つまり、ランチを一緒にしているあたしたちには「話すなら昼休みに」という条件付けはおかしいわけだ。ランチに話すんじゃなくて、昼休みに。つまりあたしは、朝の時点で「ランチを一緒に食べる気はない」って言われたのと同じだった。
まさかねと思ったけど、予想は当たった。まあそれまでに移動教室すらあたしを無視して歩いて行ったんだから、当たり前と言えば当たり前だけど。だからあたしはこのベンチでぼっちランチを食べて、菜月が来るのを待っている。
午後12時43分。これまでのクラスメイトたちの反応はそれぞれだ。あたしと菜月を交互に見て心配そうにしながらも特に突っ込んでこないのは基本で、何やら菜月に話しかけていた真面目系の角田さんとか、あたしに「喧嘩でもした?」と声をかけてきた安古川とか。このあたりはある程度想像していた。
あたしが神経を尖らせていたのは、アレを見たのはこの中の誰か特定する、ということだ。まあ、同クラより違うクラスの人たちの方が妙な視線を投げてきた気はしないでもないけど、あたしの知らないモブたちだからどうでもいい。
パックのコーヒー牛乳に刺したストローから思い切り吸い込んで、ゴクリと飲み込む。
ゴミ溜めの住民であることを態度で全開にした菜月を、あたしはどうしたいんだろう。今はまだわからない。ただあたしは、菜月を許せない。だから罠を張り、菜月はそれに落ちただけ。
その時、1階の渡り廊下の途中からあたしに向かって歩いてくる人影に気がついた。
指定の長さのプリーツスカートから伸びた脚はまだダイエット途中で、出したくないからこそ短くする気はないらしい。「痩せたら外では出す」と言ってたけど、あれから少しは頑張ってるのかな、ダイエット。世界中でチョコが一番好きと宣言した彼女には、当分無理そうな気がするけど。
「おそーい」
腕を大きく振りながら、彼女──菜月に声をかける。植え込みを挟んだ向こうにいたカップルが一瞬だけこっちを見たけど、すぐにふたりの世界に戻る。
「……先生に呼ばれてたから」
俯いたままの菜月は見え見えの嘘を吐く。なんでそんなことするかな。あたしと食べたくなかっただけなのに。誰と食べてたとか、ぼっちだったのかとか、あえて聞く気もないけど。
菜月は左手に紅茶の飲みかけパックを持ち、あたしの隣に座った。いつもならすぐにふざけて体当たりできるくらい近くに座るのに、今はあたしと反対側端っこギリギリに座っている。
あーあ。そんな丸わかりなことしなくてもさあ。
目を薄めてそんなことを思いながら、あたしは組んでいた脚を変えた。その時、菜月がびくりと震える。なんで菜月が怯えてんの? シカトしてんのはそっちなのに、なんで被害者ぶってんの? 笑える。
頭の中ではまくしたてながらも、あたしは朝と同じ態度を崩さないまま口を開いた。
「ねえ、いきなりなんなの? あたし何かした?」
あたしの声はよく通る。自分でもわかっている。
だからまた、隣のカップルがあたしたちを見たのを視界の隅で捉えた。すみません3年カップルさん。今からちょっと、騒がしいかも。
菜月は相変わらず俯いていて、まるであたしが尋問してるみたいだ。
「挨拶もしてくれないし、ランチだって……。いきなりじゃさすがに戸惑うよ。なんか、菜月の癇に障るようなことした?」
「そんなことっ……」
顔を上げた菜月と、ようやく目が合う。でもすぐに逸らされた。あたしを探っているようにも見えるし、本気で怯えているようにも思えた。
「何もないなら、そんな態度にならないじゃん。菜月、そんな子じゃないでしょ」
「……っ」
今度は口をつぐんでしまった。
だんだんイライラしてくる。普段から菜月はどちらかというと弱気な方ではあるけど、それでも自分の気持ちは口にしてくれてきた。だからあたしも信用していた。なのにあんなゴミ溜めにあたしの悪口を書き込んで、煽りに素直に反応して、そのくせ本人を目の前にするとだんまり。一体何がしたいんだろう。
「ねえ」
その肩に手を伸ばそうとしたとその時、菜月が「やめて!」と突然立ち上がった。
「え、なに急に」
今の菜月の反応の意味を、あたしはとっくにわかっている。だけどあえて、戸惑って傷ついた顔を作った。
肩にさわるくらい普通にやっていた。髪を撫でたこともあるし腰に手を回したこともある。手だって恋人繋ぎしたことが何回もある。全部全部、親友同士のコミュニケーションに過ぎない。潔癖症とかならともかく、今までしていたことに対して突然の拒絶を示す理由なんて、今はひとつしか思い浮かばない。
菜月は、あたしの罠に嵌まってるだけだ。