目を覚めたら知らない天井だった。灰色であんまり綺麗じゃない。というか正直汚い寄り。
ていうか最初の一文、漫画とか小説とかで読んだことあるような気がする。バターンって倒れてどっかに運ばれた登場人物の感想的な。経験するのは初めてだけど。
「気づかれましたか」
これまた知らない声が左側から聞こえた。そっちを向こうと首を動かしてみようとしたけど、なんか重い。疲れてる時とは微妙に違う感覚。体全体がなんかこう、上からの空気圧にぺちゃんこになっちゃいそうな、そういうやつ。実際ぺちゃんこになったことなんてないけど、そうだとわかる。気圧に弱い人がなるのってこういうやつなのかな。わかんないけど、ていうか全部が全然わかんない。どうなってんのマジで。
「ああ、無理して動かなくていいですよ」
声の主は続けた。穏やかなおじいさんみたいな声。あたしのおじいちゃんはとっくに死んでて声なんか覚えてないけど、こういう感じだったのかなって思いたいくらいは優しい声だった。かかりつけの耳鼻科の先生が年取ったらこんな感じかもしれない。
──あたし今、どうなってんですか。
そう言ったはずだったのに、あたしの声が聞こえてこない。話すために口を開けた感覚はあるから、ただパクパクと口を動かしただけなのかもしれない。ていうかマジで何これ。どうなってんの? えーと確かホームで電車を待ってて、そうだネイルに行くために、えっネイルの予約ダメになったってこと? キャンセル連絡できてないんだけど!
「落ち着いてください。あなたはね、ホームで倒れたんですよ。覚えてますか」
──そりゃもちろん。
声にはならなかったけど、どうにか首を縦に振ることはできた。そのまま全身の力を振り絞って、ゆっくりと頭を左に動かしていく。
先に見えたのは、奥のドア近くに立っている駅員だった。奥だし立ってるし見やすい位置にいるから、真っ先に目に入ったみたい。学校から遊びに行く時はいつも使う駅だからか、どこかで見覚えのある顔ではあった。そりゃそうか。
あたしの目は、その手前にズームするように注視する。あたしに優しく声をかけてきてくれた人の顔を見て、納得した。や、正しくは全然知らない人ではあったけど、明らかにお医者さんだった。なんかわかるじゃん、そういうの。
ベッドの横に座っているらしいおじいさんの髪は半分以上が白くて、全体的にはグレーっぽいふさふさな頭をしていた。髪と似た色の眉毛が少し垂れてて、毛そのものが長いところがおじいさんらしい極みだし、なんならちょっとサンタクロースっぽい。眉間じゃなくて目尻に深い深いシワがあって、それが優しい印象を与えてくるんだとわかった。白衣と見間違えかけるようなジャケットを羽織っていて、上品なおじいさんだった。
「私はあなたとホームにいた内科医です。この駅近くで開業医をしています、秋山といいます。……意識は、はっきりしてきましたか」
ゆっくりと、あたしに聞き取りやすいように話してくれてるのがわかる。久しぶりに感じる他人からのまっすぐな優しさに、ぶっちゃけ泣きそうになった。
あたしは、大丈夫ですの代わりにまた首を縦に動かす。
あれか、「お客様の中にお医者様はいませんか」的なのと似た感じか。ちょっと違う? この人が自主的に名乗り出てくれたのかな。あの女子大生たちじゃパニくって終わりそうだもんね。
「君が目を覚ますまではと言って、居てくださったんだよ。ここまでしない人の方が多いんだから、お礼を言いなさい」
例の駅員の声が飛んできて、内心舌打ちする。
わかってんだよそんなことは。できないんだから仕方ないでしょ。
「まだ声が出にくいようですよ。それに、状況説明が先でしょう」
おじいさ──秋山さんが後ろの駅員にチラッと目をやりながら言った。あたしにかけてくれた声とは全然違って、ちょっとヒヤッてするくらい冷たい。駅員は「すみません」と身体を縮こませるようにして俯いた。ざまあ。
「……学校の帰りですか?」
小さく頷く。
「所見では軽い貧血と睡眠不足の類だと思われます。……身に覚えは?」
少し間をあけてから、頷く。
「たくさんご飯をたべて、しっかり眠ること。それが一番ですよ」
頷こうと思ったけど、これはできなかった。全部わかってることだから。貧血はちょっとわかんないけど、あんまり眠れないのってしょうがなくない?
あたしの言いたいことが伝わったのか、秋山さんは長い眉毛を八の字にした。困ったように笑ったのがわかる。
「……無理なダイエットはしていませんか」
それはしてない。咄嗟に開いた口から微かな声になり、秋山さんは聞き取ろうと思ったらしく身体を寄せてくれた。この人は、本当にあたしを心配してる。こんな、初対面のガキを。
ダイエットはしてないです、と途切れ途切れにカスカスな声が出てくる。秋山さんはゆっくりと頷いて、うん、うん、と微笑んだ。
「それならばいいんです。……あなたくらいの年齢では、色んなことが起こりますよね。眠れない日も珍しくないでしょう。顔の血色もあまり良くありませんから……」
そこで一度区切り、秋山さんは身体を起こした。おじいさん的な年齢なのに、背筋がしゃんとしていてカッコいい。
「食欲がなくても、少しは口にしてください。体と心は密接に結ばれています」
あたしの目は秋山さんに集中している。というか、集中しようとしている。
ねえ秋山さん。今こうやってる間にも、あたしの視界の端にはそこかしこで黒いモヤモヤしたものが転がってるんだよ。そう言ったら信じてくれる? 頭のおかしいガキだって思われない? あたしは自分のこと、そうとしか思えないんだよ。
「体が弱ると心も弱る。そして、心が弱ると、体が弱るんです」
秋山さんの声に重なるように、ヌワンという湿っぽい音が聞こえる。あのため息が聞こえる前兆だ。ジメジメとした空気があたしのまわりだけに満ちていって、変な音が聞こえて、そして──
──ハァ……ッ
ほら、きた。
ていうか最初の一文、漫画とか小説とかで読んだことあるような気がする。バターンって倒れてどっかに運ばれた登場人物の感想的な。経験するのは初めてだけど。
「気づかれましたか」
これまた知らない声が左側から聞こえた。そっちを向こうと首を動かしてみようとしたけど、なんか重い。疲れてる時とは微妙に違う感覚。体全体がなんかこう、上からの空気圧にぺちゃんこになっちゃいそうな、そういうやつ。実際ぺちゃんこになったことなんてないけど、そうだとわかる。気圧に弱い人がなるのってこういうやつなのかな。わかんないけど、ていうか全部が全然わかんない。どうなってんのマジで。
「ああ、無理して動かなくていいですよ」
声の主は続けた。穏やかなおじいさんみたいな声。あたしのおじいちゃんはとっくに死んでて声なんか覚えてないけど、こういう感じだったのかなって思いたいくらいは優しい声だった。かかりつけの耳鼻科の先生が年取ったらこんな感じかもしれない。
──あたし今、どうなってんですか。
そう言ったはずだったのに、あたしの声が聞こえてこない。話すために口を開けた感覚はあるから、ただパクパクと口を動かしただけなのかもしれない。ていうかマジで何これ。どうなってんの? えーと確かホームで電車を待ってて、そうだネイルに行くために、えっネイルの予約ダメになったってこと? キャンセル連絡できてないんだけど!
「落ち着いてください。あなたはね、ホームで倒れたんですよ。覚えてますか」
──そりゃもちろん。
声にはならなかったけど、どうにか首を縦に振ることはできた。そのまま全身の力を振り絞って、ゆっくりと頭を左に動かしていく。
先に見えたのは、奥のドア近くに立っている駅員だった。奥だし立ってるし見やすい位置にいるから、真っ先に目に入ったみたい。学校から遊びに行く時はいつも使う駅だからか、どこかで見覚えのある顔ではあった。そりゃそうか。
あたしの目は、その手前にズームするように注視する。あたしに優しく声をかけてきてくれた人の顔を見て、納得した。や、正しくは全然知らない人ではあったけど、明らかにお医者さんだった。なんかわかるじゃん、そういうの。
ベッドの横に座っているらしいおじいさんの髪は半分以上が白くて、全体的にはグレーっぽいふさふさな頭をしていた。髪と似た色の眉毛が少し垂れてて、毛そのものが長いところがおじいさんらしい極みだし、なんならちょっとサンタクロースっぽい。眉間じゃなくて目尻に深い深いシワがあって、それが優しい印象を与えてくるんだとわかった。白衣と見間違えかけるようなジャケットを羽織っていて、上品なおじいさんだった。
「私はあなたとホームにいた内科医です。この駅近くで開業医をしています、秋山といいます。……意識は、はっきりしてきましたか」
ゆっくりと、あたしに聞き取りやすいように話してくれてるのがわかる。久しぶりに感じる他人からのまっすぐな優しさに、ぶっちゃけ泣きそうになった。
あたしは、大丈夫ですの代わりにまた首を縦に動かす。
あれか、「お客様の中にお医者様はいませんか」的なのと似た感じか。ちょっと違う? この人が自主的に名乗り出てくれたのかな。あの女子大生たちじゃパニくって終わりそうだもんね。
「君が目を覚ますまではと言って、居てくださったんだよ。ここまでしない人の方が多いんだから、お礼を言いなさい」
例の駅員の声が飛んできて、内心舌打ちする。
わかってんだよそんなことは。できないんだから仕方ないでしょ。
「まだ声が出にくいようですよ。それに、状況説明が先でしょう」
おじいさ──秋山さんが後ろの駅員にチラッと目をやりながら言った。あたしにかけてくれた声とは全然違って、ちょっとヒヤッてするくらい冷たい。駅員は「すみません」と身体を縮こませるようにして俯いた。ざまあ。
「……学校の帰りですか?」
小さく頷く。
「所見では軽い貧血と睡眠不足の類だと思われます。……身に覚えは?」
少し間をあけてから、頷く。
「たくさんご飯をたべて、しっかり眠ること。それが一番ですよ」
頷こうと思ったけど、これはできなかった。全部わかってることだから。貧血はちょっとわかんないけど、あんまり眠れないのってしょうがなくない?
あたしの言いたいことが伝わったのか、秋山さんは長い眉毛を八の字にした。困ったように笑ったのがわかる。
「……無理なダイエットはしていませんか」
それはしてない。咄嗟に開いた口から微かな声になり、秋山さんは聞き取ろうと思ったらしく身体を寄せてくれた。この人は、本当にあたしを心配してる。こんな、初対面のガキを。
ダイエットはしてないです、と途切れ途切れにカスカスな声が出てくる。秋山さんはゆっくりと頷いて、うん、うん、と微笑んだ。
「それならばいいんです。……あなたくらいの年齢では、色んなことが起こりますよね。眠れない日も珍しくないでしょう。顔の血色もあまり良くありませんから……」
そこで一度区切り、秋山さんは身体を起こした。おじいさん的な年齢なのに、背筋がしゃんとしていてカッコいい。
「食欲がなくても、少しは口にしてください。体と心は密接に結ばれています」
あたしの目は秋山さんに集中している。というか、集中しようとしている。
ねえ秋山さん。今こうやってる間にも、あたしの視界の端にはそこかしこで黒いモヤモヤしたものが転がってるんだよ。そう言ったら信じてくれる? 頭のおかしいガキだって思われない? あたしは自分のこと、そうとしか思えないんだよ。
「体が弱ると心も弱る。そして、心が弱ると、体が弱るんです」
秋山さんの声に重なるように、ヌワンという湿っぽい音が聞こえる。あのため息が聞こえる前兆だ。ジメジメとした空気があたしのまわりだけに満ちていって、変な音が聞こえて、そして──
──ハァ……ッ
ほら、きた。