17時36分発の電車は、のアナウンスに顔をあげる。
やっぱり最近のあたしは変かもしれない。目は開いてるのにどこも見てないというか、学校では授業中も頭の中がどっかにいっていた。何度でも言うけど、勉強はちゃんとする派で授業態度だって気を抜く方じゃない。全部成績と内申のためだけど、だからこそ絶対に曲げてこなかったあたしの色々が崩れた1週間といっても過言じゃないと思う。
一応熱とか測ってみたけど平熱だったし、頭痛もないし風邪っぽくもない。ただ、なんとなくだるい。季節の変わり目で体調が変わるようなタイプでもないのに、隣の席の安古川に笑いながら「生きてる?」って言われたくらいには、やっぱりあたしは変みたいだ。
そんな1週間を終えた金曜の夕方。予約しといたネイルサロンに向かってるっていうのに、いつもみたいにワクワクしていない。いつもだったらどんなデザインにしよっかなって、家でも移動時間でもインスタやTikTokをチェックするのに、あーいや正しくはチェックはしたはずだけど、情報として全く頭に残らなかった。
月に1回行ければいいネイルサロンに行く時なんて、毎回テンション爆上がりなのに。
肩からすべり落ちそうになっていたカバンのヒモを握り直し、改めて前を向く。ネイルサロンの予約を学校帰りに入れたから、今朝はバスで学校に行った。そこから駅まで来て、電車で東の方向に5駅行ったところに行きつけのネイルサロンがある。
あたしの前には、別の高校の男子生徒が並んでいた。2番目についたあたしの後ろには、3人組の大学生くらいの女の人たち。男について話してるけど、誰かの彼氏なのかとかは全然わからない。誰の話も頭に入ってこない。やっぱりあたしは変だ。
──ハァ……ッ
ぬるりと低いため息が左耳を舐める。
あたしはびくりと体を震わせながらも、微かに首を左に動かすだけでその場に踏ん張った。今更こんなことでいちいち声をあげていられない。あのキモい痴漢みたいなため息は、だんだん増えて今じゃ毎日あたしに付きまとっているから。
なんなのかは知らない。でも、それ以上の害はないことはわかった。そのくらいには慣れてしまったと言える。めっちゃキモいけど、耳が悪くなるとかはないし、左か右かはランダムみたいだし、最初の方はあたしもビクビクして周りを見たりしてたけど、むしろあたしが不審者みたいな目で見られることに疲れた。ならもう、慣れるしかなかった。
中年のオッサンの幽霊でも取り憑いたんじゃないかな。そうとしか思えない。だってハァ……って毎回キモいし。なんかねっとりしてるし。でも、不思議とお風呂や着替えてる時はやられないんだよね。だからもう、どうでもいいって思うことにした。まだ慣れないのは──
「ッ……ひッ……」
小さく出た声に、慌てて口を押さえる。前に並んだ男子高校生が一瞬だけあたしを振り向いた。目があってたけど、何でもないですって顔を作って首を横に振る。彼は特に興味なさそうに顔を戻した。
──まだ慣れないのは、黒いアレ。黒いモヤモヤしたアレ。イラストにしようとするとまっくろなんとかの集合体ともちょっと似てるかもしれない。でもあんなに可愛くない。ひとつひとつに目はついてないけど、時々あの真ん中に充血した目がある。アレと目があったら死ぬかもってくらいには、まだ慣れない。
今あたしの視界の端にある黒のアレは、電車のホームの黄色い線の向こう側にいた。線路に落ちないで、マジでギリギリのところで浮いている。モノなら「ある」って言うけど、どう見ても、どう考えても、何らかの意思がありそうな、生き物にしか見えないから「いる」って感じなのが怖かった。
後ろの女子大生たちが今度は推しとやらの話で盛り上がったらしく、楽しそうにはしゃぐ声が聞こえる。その声があたしにはすごく遠い。アレがいる時、まわりの音が遠くなることがわかった。聞こえないわけじゃないけど、なんというか、壁の向こうからみたいな、プールで遊んだ時耳に水が入った時みたいな、ああいう聞こえづらさが出てくる。
つまり、あたしの世界にはアレとあたししかいなくなったみたいな感覚になるっていうか。アレがうごめくザワザワしたキモい感じとか、ぞわっとトリハダが立った自分の感覚だけが妙にハッキリしていて、マジでムリ。なんなのあれ。つきまとい罪とかで捕まえてほしい。あたしにしか見えてないみたいだから、本当の意味で無理だけど。
見ないように意識して俯くと、左上からモヤモヤと近づいてくるアレが無理矢理あたしが見えてる画角の中に入ってくる。ムカデみたいにたくさんの脚があるとは思えない姿をしてるのに、なんで動くの。1回それをちょっと確認しようとしたけど、そしたら目玉がグリュリュッて現れたからまともに見れなくなった。
アレが近づく気配がして、前髪の生え際からぶわっと汗が噴き出てくる。カバンの肩紐を掴む力を強くする。どっか行って。それか電車が早く来いよ。3分くらい早くきたところでキレる客の方がおかしいんだって。ネットでも見た、日本の電車は外国に比べて時間に正確すぎるって。だからみんな時間に厳しいんだよ。少しずつ遅れたりするのが当たり前になればいいじゃん、早く来いってば。マジでお願い。めちゃくちゃなことを考えながら目を瞑った。
「ええ!? まじで!!??」
ひと際でっかい声に、思わず体がビクついた。クリアに聞こえたその声は後ろからだったみたいで、「やだちょっとびっくりさせちゃったじゃん」「アンタうるさすぎ」「ごめんね?」と次々に声が続く。……全部、クリアに、聞こえた。
目を開けて顔をあげる。近づいてきていたはずのアレは跡形もなくなっていた。よかった、いなくなったんだ。じゃあとりあえず女子大生たちに反応しないと、謝ってくれてんのに感じ悪い女子高生だと思われる。制服を着てる時のあれこれはどこでOBやOGに見られてるかわかんないから、私服で街をブラつく時以上に気をつけなきゃいけない。
カンペキに笑顔を作って「大丈夫です、ちょっと驚いただけなんで」と振り返ると、目の前の3人の顔が、顔が、え、なにこれ? なんで、3人とも顔に穴が空いてんの?
「やだちょっと、大丈夫?」
ダンバルモリの女の人があたしに手を伸ばす。その顔の真ん中はぱっくりと穴が空いていて、反対側ホームの向こうにある看板が見えた。
「顔真っ青だよ? 救護室ってあったっけ」
「たしかあっちに」
金のインナーカラーを入れたヨシンモリの女の人と、深い青に染めたヨシンモリの女の人が顔を見合わせてなんか話してるけど、やっぱり顔の真ん中に穴が空いてて、あたしから見えるのは派手なピアスとかそのへんだけで、でもなんか話してて、なんか変な、なにこれ、なに、なんなの、なんでみんな普通に話してんの、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで
こっち見ないで
やっぱり最近のあたしは変かもしれない。目は開いてるのにどこも見てないというか、学校では授業中も頭の中がどっかにいっていた。何度でも言うけど、勉強はちゃんとする派で授業態度だって気を抜く方じゃない。全部成績と内申のためだけど、だからこそ絶対に曲げてこなかったあたしの色々が崩れた1週間といっても過言じゃないと思う。
一応熱とか測ってみたけど平熱だったし、頭痛もないし風邪っぽくもない。ただ、なんとなくだるい。季節の変わり目で体調が変わるようなタイプでもないのに、隣の席の安古川に笑いながら「生きてる?」って言われたくらいには、やっぱりあたしは変みたいだ。
そんな1週間を終えた金曜の夕方。予約しといたネイルサロンに向かってるっていうのに、いつもみたいにワクワクしていない。いつもだったらどんなデザインにしよっかなって、家でも移動時間でもインスタやTikTokをチェックするのに、あーいや正しくはチェックはしたはずだけど、情報として全く頭に残らなかった。
月に1回行ければいいネイルサロンに行く時なんて、毎回テンション爆上がりなのに。
肩からすべり落ちそうになっていたカバンのヒモを握り直し、改めて前を向く。ネイルサロンの予約を学校帰りに入れたから、今朝はバスで学校に行った。そこから駅まで来て、電車で東の方向に5駅行ったところに行きつけのネイルサロンがある。
あたしの前には、別の高校の男子生徒が並んでいた。2番目についたあたしの後ろには、3人組の大学生くらいの女の人たち。男について話してるけど、誰かの彼氏なのかとかは全然わからない。誰の話も頭に入ってこない。やっぱりあたしは変だ。
──ハァ……ッ
ぬるりと低いため息が左耳を舐める。
あたしはびくりと体を震わせながらも、微かに首を左に動かすだけでその場に踏ん張った。今更こんなことでいちいち声をあげていられない。あのキモい痴漢みたいなため息は、だんだん増えて今じゃ毎日あたしに付きまとっているから。
なんなのかは知らない。でも、それ以上の害はないことはわかった。そのくらいには慣れてしまったと言える。めっちゃキモいけど、耳が悪くなるとかはないし、左か右かはランダムみたいだし、最初の方はあたしもビクビクして周りを見たりしてたけど、むしろあたしが不審者みたいな目で見られることに疲れた。ならもう、慣れるしかなかった。
中年のオッサンの幽霊でも取り憑いたんじゃないかな。そうとしか思えない。だってハァ……って毎回キモいし。なんかねっとりしてるし。でも、不思議とお風呂や着替えてる時はやられないんだよね。だからもう、どうでもいいって思うことにした。まだ慣れないのは──
「ッ……ひッ……」
小さく出た声に、慌てて口を押さえる。前に並んだ男子高校生が一瞬だけあたしを振り向いた。目があってたけど、何でもないですって顔を作って首を横に振る。彼は特に興味なさそうに顔を戻した。
──まだ慣れないのは、黒いアレ。黒いモヤモヤしたアレ。イラストにしようとするとまっくろなんとかの集合体ともちょっと似てるかもしれない。でもあんなに可愛くない。ひとつひとつに目はついてないけど、時々あの真ん中に充血した目がある。アレと目があったら死ぬかもってくらいには、まだ慣れない。
今あたしの視界の端にある黒のアレは、電車のホームの黄色い線の向こう側にいた。線路に落ちないで、マジでギリギリのところで浮いている。モノなら「ある」って言うけど、どう見ても、どう考えても、何らかの意思がありそうな、生き物にしか見えないから「いる」って感じなのが怖かった。
後ろの女子大生たちが今度は推しとやらの話で盛り上がったらしく、楽しそうにはしゃぐ声が聞こえる。その声があたしにはすごく遠い。アレがいる時、まわりの音が遠くなることがわかった。聞こえないわけじゃないけど、なんというか、壁の向こうからみたいな、プールで遊んだ時耳に水が入った時みたいな、ああいう聞こえづらさが出てくる。
つまり、あたしの世界にはアレとあたししかいなくなったみたいな感覚になるっていうか。アレがうごめくザワザワしたキモい感じとか、ぞわっとトリハダが立った自分の感覚だけが妙にハッキリしていて、マジでムリ。なんなのあれ。つきまとい罪とかで捕まえてほしい。あたしにしか見えてないみたいだから、本当の意味で無理だけど。
見ないように意識して俯くと、左上からモヤモヤと近づいてくるアレが無理矢理あたしが見えてる画角の中に入ってくる。ムカデみたいにたくさんの脚があるとは思えない姿をしてるのに、なんで動くの。1回それをちょっと確認しようとしたけど、そしたら目玉がグリュリュッて現れたからまともに見れなくなった。
アレが近づく気配がして、前髪の生え際からぶわっと汗が噴き出てくる。カバンの肩紐を掴む力を強くする。どっか行って。それか電車が早く来いよ。3分くらい早くきたところでキレる客の方がおかしいんだって。ネットでも見た、日本の電車は外国に比べて時間に正確すぎるって。だからみんな時間に厳しいんだよ。少しずつ遅れたりするのが当たり前になればいいじゃん、早く来いってば。マジでお願い。めちゃくちゃなことを考えながら目を瞑った。
「ええ!? まじで!!??」
ひと際でっかい声に、思わず体がビクついた。クリアに聞こえたその声は後ろからだったみたいで、「やだちょっとびっくりさせちゃったじゃん」「アンタうるさすぎ」「ごめんね?」と次々に声が続く。……全部、クリアに、聞こえた。
目を開けて顔をあげる。近づいてきていたはずのアレは跡形もなくなっていた。よかった、いなくなったんだ。じゃあとりあえず女子大生たちに反応しないと、謝ってくれてんのに感じ悪い女子高生だと思われる。制服を着てる時のあれこれはどこでOBやOGに見られてるかわかんないから、私服で街をブラつく時以上に気をつけなきゃいけない。
カンペキに笑顔を作って「大丈夫です、ちょっと驚いただけなんで」と振り返ると、目の前の3人の顔が、顔が、え、なにこれ? なんで、3人とも顔に穴が空いてんの?
「やだちょっと、大丈夫?」
ダンバルモリの女の人があたしに手を伸ばす。その顔の真ん中はぱっくりと穴が空いていて、反対側ホームの向こうにある看板が見えた。
「顔真っ青だよ? 救護室ってあったっけ」
「たしかあっちに」
金のインナーカラーを入れたヨシンモリの女の人と、深い青に染めたヨシンモリの女の人が顔を見合わせてなんか話してるけど、やっぱり顔の真ん中に穴が空いてて、あたしから見えるのは派手なピアスとかそのへんだけで、でもなんか話してて、なんか変な、なにこれ、なに、なんなの、なんでみんな普通に話してんの、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで
こっち見ないで