孝彦さんと再婚する話になったので、その前にご挨拶をしておきたい。まだ他の家族には話していないので、進さんにも内緒で、少しだけ会ってくれないか。
 早朝の電話に母は違和感を覚えたかもしれないが、彼女に言われた通り、進さんになにも言わずに家を出た。
 京子さんは海岸で母を待ち、二人は堤防に座って少しだけ話をした。京子さんは睡眠薬入りのハーブティーを母に飲ませ、母がふらつくと海に突き落とそうとした。抵抗しようとした母は、バランスを崩して陸側に落ちた。頭をひどく打ったのか、それきり動かなくなったという。
 その後、京子さんは母のスマホからやりとりの履歴を削除し、指紋を拭き取ってから自宅に戻った。
 お葬式で私に犯行がバレたことを悟った京子さんは、「孝彦さんに告げ口されたらまずい」と焦った。とにかく私を騙らせないといけない。脅すだけのつもりだった。殺意はない。彼女はそう言っているらしい。だが、私に飲ませようとしたハーブティーからは、大量の睡眠薬が検出された。
「賛歌、痛むの?」
 真琴に訊かれて、私は頭から手を離した。無意識に怪我をした箇所に触れてしまう。もうすっかり傷は治っているのに。
「ううん。触るの癖になっちゃって。真琴はまだ痛む?」
 真琴の怪我も見た感じはすっかりよくなっている。
「全然。さ、残りの片づけちゃおうか」
 休憩を終えて、私たちは残りのダンボール箱にとりかかった。部屋がきれいに片付いた頃には、五時を過ぎていた。
「中途半端な時間だけど、なんかお腹空いちゃった。デリバリーでも頼む?」
 真琴の提案に、私たちは頷いた。またおやつを食べるという気分でもない。
「ピザでもとろっか。もちろん、おごらせていただきます」
 ピザが届くのを待っている間、アイスクリームを食べて空腹を紛らわせた。
「今日は二人とも、タダ働きありがとう」
 真琴らしいお礼の言い方に、典十さんはアイスクリームを掲げる。
「ピザとアイスの報酬で充分です」
「ありがと。でも、ピザは床に落とさないでね」
 ピザが到着して食べはじめた時だった。
 あのさぁ、と真琴が照れくさそうに口を開いた。
「一応、報告しとくけど、冬に応募した脚本の賞で大賞もらえたんだ。今度のは実写化もされるみたい」
 私よりも早く典十さんが反応した。
「ほんとですか! すごいじゃないですか! あ……お祝いしないと」
 彼は勢いよく立ち上がり、手に持っていたピザから具をぼとっと床に落とした。
 唖然としている真琴の腕を私はばんばん叩く。
「よかったね! でも、なんですぐ言わないの?」
「いま言ったじゃん」
「会ったときすぐ言ってよ。もう」
「あっ、僕、お祝いのケーキ買ってきます」
 典十さんは財布を持って玄関から飛び出していった。
「君の彼氏、面白すぎ」
 真琴は床に落ちたピザの具を拭き取りながら吹き出す。
「まだ彼氏じゃないけど」
「ただのお友達? それは失礼」
 言い返す言葉もなく、私はぐっとコーラを飲んだ。
「一緒に帰らなくてもいいなら、今夜泊まってく?」
 聞き間違えたのかと思って、私は笑っている真琴の顔を凝視した。
「え?」
「泊まりたくないならいいけど」
「泊まっていいの?」
「いいよ」
「ほんとに?」
「ほんと」
 真琴はソファの上で膝を抱えた。
 目はつるりと輝き、表情は光に照らされているかのように明るい。
「こだわりを一つずつ捨ててきたいんだ。だから今日も、二人を家に呼んだの」
 私たちは一緒にベランダに出て夕焼けを見た。
 透明なオレンジの輝きが私たちを同じ色に染め、祝福してくれた。



 四月最後の日曜日、私は典十さんと鎌倉に行った。
 豆腐屋に寄って進さんに挨拶をしてから、花を買い、母が亡くなった堤防に向かう。
 その場所はすぐにわかった。
 花がたくさん供えられていたからだ。
 私たちも花を供え、手を合わせる。
 私は心のなかで母に話しかけた。
 予知をして、私を助けてくれてありがとう。お母さんが教えてくれた手がかりで、犯人を予測することができたよ。おばあちゃんのお墓参りもするし、お父さんのこともちゃんと気にかけるから安心して。進さんにもたまに会いに来て豆腐を買うからね。ここにもまた来るよ。なにも心配しないで。私は大丈夫。お母さん、大好きだよ。ありがとう。
 涙を拭いてから典十さんに頷いて、堤防を離れた。
 海へと向かう。
 休日なので海岸には多く人が出ていた。春の海は穏やかで、砂浜を歩くだけで心が軽くなっていく。
 ギンガムチェックのワンピースの裾を押さえながら歩いた。波打ち際まで行って、典十さんの青いシャツの袖を掴む。彼は問いかけるように私を見た。
「典十さん、前に訊きましたよね。僕の予知を見たことはあるかって」
「あぁ、そうでしたね」
「私、ないって言いましたけど、本当は見たんです」
「僕の予知を?」
 驚いて目を丸くした彼に頷いてみせる。
「クリスマスをお祝いしている予知を見たって言いましたよね。あれ、典十さんと二人でお祝いしてる予知だったんです。私の部屋で」
「賛歌さんの部屋で、クリスマスのお祝いを?」
「そうです」
 彼はちらっとシャツを掴んでいる私の手を見た。
「その予知、いつ見たんですか?」
「去年の十二月、クリスマスが終わったあとです」
「そのときはまだ僕たち、ちゃんと話したこともなかったですよね」
「ええ」
 私が笑うと、彼は不思議そうに私を見つめた。
「まだ知り合ってもない時にそんな予知を見て、驚いたでしょう?」
「驚きました。でも、嬉しかったんです。典十さんのことを意識するようになって、どんな人なんだろうって気になって、話しかけたくなりました」
 波が私たちの靴を飲み込もうとする。典十さんは私を守るように腕を掴んで波から遠ざけさせた。
「僕も同じです。映画館で賛歌さんを見かけた時、なんだかすごく嬉しかったんです。話しかけたくて、それで勇気を出して、パンフレットを渡したんです」
「そうだったんですか?」
 私たちは砂浜に並んで座り、海を眺めた。
 曇り空なので、久しぶりに安心して空を見上げることができた。
 青空はもう長いこと見ていない。
 予知はもうしたくなかった。
 辛い未来を知るのは苦しいから。
「賛歌さん、晴れた日はもう空を見上げてないんでしょう?」
 私は空を見ながら頷いた。
「できるならもう予知はしたくないんです。去年の冬からずっと苦しくて、まわりの人たちにも辛い思いをさせました。だからもう、青空とはおさらばです」
 そうですか、と彼も空を見上げた。
「僕が賛歌さんでも、青空を見ないことを選ぶと思います。でも……賛歌さん」
 典十さんは私の手をとった。
「帰りましょう」
「え?」
 私は彼に手をひかれて駅に向かった。
 なんか変なこと言ったかなと不安になりつつ、電車に揺られる。
 降りる駅に着くと、彼は映画館のほうを指差した。
「(波止場)に寄っていきましょう」
「いいですけど……」
 せっかく鎌倉に行ったのに、(波止場)でご飯か。
 ちょうど(波止場)が閉まる七時になっていた。
 連絡しておいたのか、店内は明るいままだった。