私はポケットからボールペンを取り出して、首にかかった彼女の手にペンを突きたてた。
彼女は悲鳴をあげて、もう片方の手で思い切り私の頬を殴りつける。衝撃に耐えながら、私は渾身の力を込めて彼女を突き飛ばした。
ごん、と鈍い音をたてて京子さんは頭から壁にぶつかった。脳震盪でも起こしたのか、そのままずるずると床に崩れ落ちる。
私は肩で息をしながら、ぐったりとのびている彼女を窺った。京子さんはうっすらと目を開く。焦点があっていない。
「京子さん、聞こえる?」
私は膝をつき、ゆっくりと立ち上がって彼女を見下ろした。
「お母さんは心臓病でもう長くなかったの。殺す必要なんてなかった。なにもしなくても、あなたの望み通りになったのに」
京子さんの目から涙がこぼれ落ちる。
私は目をそらして、母がいる通路の奥を見つめた。
「賛歌!」
真琴の声がして振り向くと、通路の入り口に長傘を持った真琴と典十さんが立っていた。血相をかえて走ってくる。
私はずきずきしはじめた頭を押さえながら、彼らに手を振った。
「なんでこんなに遅いの?」
訊ねながら頭を触った手を見ると、血がべったりとついていた。
真琴は傘を放り出して、ポケットから取り出したハンカチで私の頭を押さえる。
「ごめん、途中で職員に呼び止められた」
「長傘を預けなかったら、不審に思われたんです」
典十さんは倒れている京子さんにしゃがみこみながら説明する。
騒ぎを聞きつけたのか、通路の向こうには人が集まってきていた。
やがて職員らしき制服姿の人たちが、慌てたように通路を走ってきた。
*
それから約一ヶ月後の四月十六日の日曜日。
真琴は私が暮らす街に引っ越してきた。
ちょうど仕事が休みの私と典十さんは、彼女の引越しの手伝いに駆り出された。
典十さんと私は、大量の本をダンボール箱から取り出して本棚に並べていく。真琴はてきぱきとたくさんの服をクローゼットにしまっていった。
「日当たりがよくていい部屋だね」
窓からは明るい陽射しと心地よい風が入ってくる。
「それがよくて決めたようなもんだよ」
襲われた部屋に戻る気になれなかった真琴は、新しい部屋を探した。
でもまさか、私の家の近くに引っ越すとは思わなかった。
真琴の家は駅から少し遠いので、部屋が二つあるわりには家賃も安い。間取りは前に住んでいた部屋とほぼ同じだ。
「ちょっと休憩しよ」
ダンボール箱を半分ほど片付けた頃、真琴がコーヒーを淹れはじめた。私はおやつにと焼いてきたラズベリーのマフィンをお皿に並べる。
窓を開けっぱなしにしたままでも快適な陽気だった。空はよく晴れていて、新しいクリーム色のカーテンがふわふわと踊っている。
「ちょっと中上さん、ぽろぽろこぼし過ぎ」
コーヒーを飲もうとした真琴が鋭く典十さんの膝を指差す。彼はマフィンのくずを盛大にこぼしていた。
「あぁあ、すみません。僕、こういうの食べるのいつも下手で……」
私は笑いをこらえながら典十さんにティッシュペーパーを渡す。
最初はぎこちなかった二人も、いまでは多少うちとけてきた。
こんなに早く真琴が彼を受け入れたのは、やはりあの火葬場での出来事が大きいだろう。
二人は私を助けるために協力してくれた。
私はコーヒーを飲みながら、通夜の席のことを思い起こす。
あのとき、私は京子さんを疑った。
いや、ほぼ確信した。
彼女が母を殺したのだと。
通夜のあと、私はビジネスホテルの部屋に真琴と典十さんを呼んだ。そして、京子さんが母を殺めた犯人だと思うと告げた。
私は真琴に、母が見たという、私が襲われる予知の話をした。
「犯人は京子さんだよ。彼女は明日、火葬場で私を襲うはず」
母の通夜に行くことが決まったあと、私はすぐに調べた。
葬儀の会場に、長い通路があるのか。
私は直接、葬儀会社に電話して確認した。
葬儀場にはそういう通路はなかった。
次に私は、泊まろうとしたビジネスホテルにも同じ確認をした。やはりそういう通路はない。
だが、火葬場に連絡してみると、そういう通路があることがわかった。
「火葬場に行かないという選択肢もあると思うけど」
真琴はそう言ったけれど、私は首を横に振った。
「私は行く。これはもう決まっていることだから、行かないという選択肢はないの。ここで彼女と決着をつける」
私は二人に火葬場のフロアガイドを見せて、通路の入り口で待機しておくように頼んだ。私がそこに京子さんを誘い込むので、襲ってきたら取り押さえるのを手伝って欲しいと。通路の奥は火葬をするエリアになっていて、通り抜けはできない。
「武器が必要じゃない?」
予知では京子さんは私の首を絞めようとしていた。また、武器を所持していないとも限らない。かといって二人が物騒な武器を持ち込むのは考えものだった。
そこで典十さんが提案したのが、長傘だった。すぐ手に入るし、武器としてもそこそこ役に立ちそうだと。
ところが当日、長傘を持って火葬場に入った彼らは、すぐに職員から声をかけられた。
どうぞ傘立てをご利用してくださいと。二人が頑なに拒むので、職員は不信感を抱いたのかもしれない。お預かりします、いえ大丈夫です、という押し問答が繰り広げられたあげく、焦った典十さんは正面突破で通路目指して走り出した。それに真琴も続く。当然、職員たちは騒ぎだす。
そして、通路に到着した時にはもう決着がついたあとだったというわけだ。
あのあと、京子さんは意識を取り戻して、おとなしく警察官に逮捕された。
なにも知らずに連行される京子さんを見た父は呆然としていた。
自宅にあった京子さんの私物はすべて、彼女の両親に引き取ってもらった。父は彼女に二度と会うつもりはない、と言っている。
母を殺害したのが京子さんだと知った父の嘆きは、相当なものだった。仕事に行く以外は家にひきこもり、私は週に一度は様子を見に通った。
一ヶ月たったいまは、少しずつ普段の生活を取り戻しつつある。
でも父はいまだに、なぜ京子さんが母に殺意を抱いたのかが、理解できていないようだ。確かに、父は直接母に復縁を迫ったことは一度もない。
自分のなにがよくなかったのか。再婚すればよかったのか?
父に訊ねられても、私には答えることができなかった。たとえ再婚したとしても、なにか不運が重なれば、また京子さんは誰かのせいにして、そのひとを恨んだかもしれないのだから。
その京子さんは母の殺害を認めた。
去年から彼女は週に二日、月曜日と木曜日に実家に泊まっていた。母親の足が悪いので、父親の負担を減らすために家のことを手伝いに行っていたのだ。
だから、母を殺害した朝、家に京子さんがいないことを父はおかしいとは思わなかった。前日の月曜日から実家に戻っているはずだったからだ。
でも実際は、京子さんは十三日に実家ではなく鎌倉のホテルに宿泊していた。
その数日前、京子さんと父は激しい言い争いをしたらしい。再婚のことで。京子さんは(このままじゃ不安でたまらない)と号泣していたそうだ。
鎌倉のホテルで朝を迎えた京子さんは母に電話をした。
彼女は悲鳴をあげて、もう片方の手で思い切り私の頬を殴りつける。衝撃に耐えながら、私は渾身の力を込めて彼女を突き飛ばした。
ごん、と鈍い音をたてて京子さんは頭から壁にぶつかった。脳震盪でも起こしたのか、そのままずるずると床に崩れ落ちる。
私は肩で息をしながら、ぐったりとのびている彼女を窺った。京子さんはうっすらと目を開く。焦点があっていない。
「京子さん、聞こえる?」
私は膝をつき、ゆっくりと立ち上がって彼女を見下ろした。
「お母さんは心臓病でもう長くなかったの。殺す必要なんてなかった。なにもしなくても、あなたの望み通りになったのに」
京子さんの目から涙がこぼれ落ちる。
私は目をそらして、母がいる通路の奥を見つめた。
「賛歌!」
真琴の声がして振り向くと、通路の入り口に長傘を持った真琴と典十さんが立っていた。血相をかえて走ってくる。
私はずきずきしはじめた頭を押さえながら、彼らに手を振った。
「なんでこんなに遅いの?」
訊ねながら頭を触った手を見ると、血がべったりとついていた。
真琴は傘を放り出して、ポケットから取り出したハンカチで私の頭を押さえる。
「ごめん、途中で職員に呼び止められた」
「長傘を預けなかったら、不審に思われたんです」
典十さんは倒れている京子さんにしゃがみこみながら説明する。
騒ぎを聞きつけたのか、通路の向こうには人が集まってきていた。
やがて職員らしき制服姿の人たちが、慌てたように通路を走ってきた。
*
それから約一ヶ月後の四月十六日の日曜日。
真琴は私が暮らす街に引っ越してきた。
ちょうど仕事が休みの私と典十さんは、彼女の引越しの手伝いに駆り出された。
典十さんと私は、大量の本をダンボール箱から取り出して本棚に並べていく。真琴はてきぱきとたくさんの服をクローゼットにしまっていった。
「日当たりがよくていい部屋だね」
窓からは明るい陽射しと心地よい風が入ってくる。
「それがよくて決めたようなもんだよ」
襲われた部屋に戻る気になれなかった真琴は、新しい部屋を探した。
でもまさか、私の家の近くに引っ越すとは思わなかった。
真琴の家は駅から少し遠いので、部屋が二つあるわりには家賃も安い。間取りは前に住んでいた部屋とほぼ同じだ。
「ちょっと休憩しよ」
ダンボール箱を半分ほど片付けた頃、真琴がコーヒーを淹れはじめた。私はおやつにと焼いてきたラズベリーのマフィンをお皿に並べる。
窓を開けっぱなしにしたままでも快適な陽気だった。空はよく晴れていて、新しいクリーム色のカーテンがふわふわと踊っている。
「ちょっと中上さん、ぽろぽろこぼし過ぎ」
コーヒーを飲もうとした真琴が鋭く典十さんの膝を指差す。彼はマフィンのくずを盛大にこぼしていた。
「あぁあ、すみません。僕、こういうの食べるのいつも下手で……」
私は笑いをこらえながら典十さんにティッシュペーパーを渡す。
最初はぎこちなかった二人も、いまでは多少うちとけてきた。
こんなに早く真琴が彼を受け入れたのは、やはりあの火葬場での出来事が大きいだろう。
二人は私を助けるために協力してくれた。
私はコーヒーを飲みながら、通夜の席のことを思い起こす。
あのとき、私は京子さんを疑った。
いや、ほぼ確信した。
彼女が母を殺したのだと。
通夜のあと、私はビジネスホテルの部屋に真琴と典十さんを呼んだ。そして、京子さんが母を殺めた犯人だと思うと告げた。
私は真琴に、母が見たという、私が襲われる予知の話をした。
「犯人は京子さんだよ。彼女は明日、火葬場で私を襲うはず」
母の通夜に行くことが決まったあと、私はすぐに調べた。
葬儀の会場に、長い通路があるのか。
私は直接、葬儀会社に電話して確認した。
葬儀場にはそういう通路はなかった。
次に私は、泊まろうとしたビジネスホテルにも同じ確認をした。やはりそういう通路はない。
だが、火葬場に連絡してみると、そういう通路があることがわかった。
「火葬場に行かないという選択肢もあると思うけど」
真琴はそう言ったけれど、私は首を横に振った。
「私は行く。これはもう決まっていることだから、行かないという選択肢はないの。ここで彼女と決着をつける」
私は二人に火葬場のフロアガイドを見せて、通路の入り口で待機しておくように頼んだ。私がそこに京子さんを誘い込むので、襲ってきたら取り押さえるのを手伝って欲しいと。通路の奥は火葬をするエリアになっていて、通り抜けはできない。
「武器が必要じゃない?」
予知では京子さんは私の首を絞めようとしていた。また、武器を所持していないとも限らない。かといって二人が物騒な武器を持ち込むのは考えものだった。
そこで典十さんが提案したのが、長傘だった。すぐ手に入るし、武器としてもそこそこ役に立ちそうだと。
ところが当日、長傘を持って火葬場に入った彼らは、すぐに職員から声をかけられた。
どうぞ傘立てをご利用してくださいと。二人が頑なに拒むので、職員は不信感を抱いたのかもしれない。お預かりします、いえ大丈夫です、という押し問答が繰り広げられたあげく、焦った典十さんは正面突破で通路目指して走り出した。それに真琴も続く。当然、職員たちは騒ぎだす。
そして、通路に到着した時にはもう決着がついたあとだったというわけだ。
あのあと、京子さんは意識を取り戻して、おとなしく警察官に逮捕された。
なにも知らずに連行される京子さんを見た父は呆然としていた。
自宅にあった京子さんの私物はすべて、彼女の両親に引き取ってもらった。父は彼女に二度と会うつもりはない、と言っている。
母を殺害したのが京子さんだと知った父の嘆きは、相当なものだった。仕事に行く以外は家にひきこもり、私は週に一度は様子を見に通った。
一ヶ月たったいまは、少しずつ普段の生活を取り戻しつつある。
でも父はいまだに、なぜ京子さんが母に殺意を抱いたのかが、理解できていないようだ。確かに、父は直接母に復縁を迫ったことは一度もない。
自分のなにがよくなかったのか。再婚すればよかったのか?
父に訊ねられても、私には答えることができなかった。たとえ再婚したとしても、なにか不運が重なれば、また京子さんは誰かのせいにして、そのひとを恨んだかもしれないのだから。
その京子さんは母の殺害を認めた。
去年から彼女は週に二日、月曜日と木曜日に実家に泊まっていた。母親の足が悪いので、父親の負担を減らすために家のことを手伝いに行っていたのだ。
だから、母を殺害した朝、家に京子さんがいないことを父はおかしいとは思わなかった。前日の月曜日から実家に戻っているはずだったからだ。
でも実際は、京子さんは十三日に実家ではなく鎌倉のホテルに宿泊していた。
その数日前、京子さんと父は激しい言い争いをしたらしい。再婚のことで。京子さんは(このままじゃ不安でたまらない)と号泣していたそうだ。
鎌倉のホテルで朝を迎えた京子さんは母に電話をした。