「火曜日の朝、母を呼び出して堤防まで連れていきましたよね。睡眠薬入りの飲み物を飲ませて、堤防から突き落とした。海に落とそうとしたけど、抵抗されたんじゃないですか? 母は陸側に落ちた。それとも突き飛ばした? そうなんでしょう」
 ちょっと待って、と京子さんは私を睨みつけた。口元が震えている。
「ひどいこと言わないで。私がそんなことするわけないでしょう。証拠でもあるの?」
「ありません。でも、わかったんです。京子さん、昨夜お通夜で私に言ったんですよ。『最後に親孝行もできたみたいだし』って。私、母が亡くなる二日前に一緒にお墓参りに行ったんです。お花見もした。母はあなたに嬉しそうに、その時のことを自慢したんじゃないですか? 私、昨日、進さんに確認したんです。母と私がお墓参りに行ったこと、誰かに話しましたかって。彼は誰にも言ってないって答えました」
 京子さんの顔は蒼白だったが、それでも不穏な笑みを浮かべていた。
「それがなんなの? 親孝行っていうのは、仲直りできたことを言ったのよ。……そう。私の言い方がまた気に入らなかったのね。ごめんなさい。ねえ、やめない? まどかさんのお葬式でこんな言い争い。彼女が悲しむわよ」
 私は彼女の顔をじっと見つめ、微笑んだ。
「わかりました。この話はもうやめます。ただ私、父の再婚には反対します」
 京子さんは口をわずかに開き、ぐしゃっと潰したように顔を歪めた。
「なんですって? あなたにそんなこと言う権利あるの? 孝彦さんと私の問題よ」
「わかっています。でも私の意見は父に伝えるつもりです。なぜ反対するのかも」
 彼女は醜いものをものを凝縮したような目で私を睨みつけた。
 私は待合室を出て行った。
 振り返りながら廊下を走る。途中で廊下に置いてあった長机にぶつかりながらも、階段を駆け下りた。
 ロビーに出ると、きょろきょろしていた父が私に気づき、顔をしかめながら近づいてきた。
「どこ行ってたんだよ。もう火葬場に行くってさ。京子は一緒じゃなかったのか?」
「上にいる。いたっ」
 さっきぶつかったところを見ると、ワンピースの腰のあたりが大きく裂けていた。長机の角にひっかけたようだ。
「怪我したのか? あっ、破れてるぞ」
 これから火葬場に行かなくてはいけないのにどうしよう。血は出ていないようだ。
「服はホテルにあるのか?」
「うん。着替えてこないと」
「俺のでよかったら貸すよ。ホテルをチェックアウトしてきたから、荷物は全部ここにあるんだ」
 ちょっと待ってて、と父は二階に向かった。
 五分ほどして戻ってきた父は怪訝な表情を浮かべていた。
「京子、いなかったよ。荷物もない」
 逃げたのか。別の階段を使って裏口から出ていったのかもしれない。
「とりあえず、これ、着替えておいで」
 服を渡されて私はトイレに向かった。
 喪服を脱いで父のデニムパンツとパーカーを着る。
 それから私と父は、葬儀社が用意した車に乗って火葬場に向かった。
 車中、父は何度も京子さんに電話をかけた。
「なんで出ないんだろう?」
 父は不思議そうにスマホを眺めて首を傾げる。
「帰ったんじゃないの」
「俺になにも言わずにか? そんなことしないよ」
「お父さん、京子さんと婚約したの? お通夜で彼女、そう言ってたけど」
 はあ、と父はため息をついた。
「婚約なんてしてないよ。彼女、最近変なんだよな」
「変ってどんなふうに?」
「仕事も辞めちゃって、毎日家にひきこもってるんだ」
「仕事辞めたの? いつ?」
「去年の夏頃かな。賛歌には言うなって言われたから黙ってたけど、体調が優れないとかで職場に行かなくなっちゃったんだ」
「じゃあ、なおさら再婚したいよね」
「それはわかるけど、付き合う時に俺はちゃんと言ったんだよ。俺は一度失敗してるし、娘もいるから、再婚は考えてないって。それでもいいっていう言うから……」
「お父さんの気持ちが変わると思ったんじゃない」
「そうなのかな。最近、なにかと突っかかってきて参るよ。『まだ、まどかさんのことが好きなんだね』って」
 火葬場に着くと、私と父は母と最期のお別れをした。
 火葬が行われている間、私と父は待合所のようなところでお清めのお酒を飲んで待った。
 不思議な感じがした。結局、私と父の二人で母を見送ることになってしまった。母はどんなふうに思っているのだろう?
 私はスマホを見ると、腰をあげた。
「ちょっとコーヒー飲んでくるね。すぐ戻るから」
「俺も行こうかな」
「トイレにも寄りたいから別行動にしよ。じゃ」
 エントランスに行くと、自動販売機で小さな缶コーヒーを買った。それを飲みながら、喪服姿の人々をぼんやりと眺める。
 コーヒーを飲み終える頃、黒のパーカーとズボン姿の女性が柱の影からこちらを窺っているのに気づいた。
 私はスマホを忙しく操作する。
 缶コーヒーを飲み終えると、後ろを振り返らずに施設の奥へと歩いて行った。
 トイレを行き過ぎると、細長い通路が現れた。この奥で母はいま骨になろうとしている。
 通路の床は黒く、両脇の壁は白い。私は真ん中あたりまで進んだところで振り返った。
 こちらに歩いてくる黒い服の女性も足を止める。彼女はグレーのリュックサックを左肩にかけていた。京子さんだ。
 たくさん泣いたみたいに、化粧がはがれて目の周りが黒くなっている。そのせいで異様な顔つきに見えた。
 数秒間、無言で見つめあったあと、彼女の方から口を開いた。
「さっきはごめんなさい。許してもらいたくて謝りに来たの。結婚に反対するなんて言わないで。いじわるしないで。私はもう……孝彦さんなしではやっていけないの」
 彼女はグレーのリュックサックを肩からおろし、中から携帯用魔法瓶を取り出した。それを差し出しながら、こちらにゆっくり歩いてくる。
「仲直りしましょう。これ、新しく入れなおしてきたから飲んでみて。落ち着くわよ」
 微笑みとは裏腹に、乱暴にリュックサックを壁に投げ捨てる。
 私は後ずさった。
「なんで母を殺したんですか? 嫉妬ですか? 母は別の人と再婚したんですよ」
 彼女は足を止めると真顔になり、じわっと目に涙を浮かべた。
「だって、彼女が生きてる限り、孝彦さんは私と再婚してくれないもの。こんなに尽くしてきたのに、まだ前の家族のほうが大事だなんて、ひど過ぎる。あなたも邪魔なのよ。娘だからって、特別扱いされるのは違うでしょ!」
 彼女は携帯用魔法瓶を振り上げると、ものすごい勢いで襲いかかってきた。逃げる間もなく私は額を殴られて仰向けに倒れた。
 京子さんは私にまたがり、携帯用魔法瓶を頭に何度も打ちつけてくる。
「やめて!」
 私は悲鳴をあげながら手で防ごうとする。握っていた防犯ブザーが手から吹っ飛び、彼女の方も手を滑らせて携帯用魔法瓶を床に落とした。京子さんは私の首に手をかける。
「あなたの言う通りよ。あの女を呼びだして、睡眠薬入りのお茶を飲ませたの。あのひと、べらべらとよく喋ったわ。いかにも幸せですって顔してね。でも、私が突き落とそうとした時の顔ときたら……見せてあげたかったわ。いい気味。あなたも死んで!」
 首を絞めあげてくる手を必死で引きはがそうとする。