立ち上がって、箪笥の上に置いてあるスマホを手に取る。その横には、女性ものの財布やキーホルダー付きの鍵も置かれていた。おそらく母のものだろう。
「母の物でなくなったものはないんですか?」
「なくなったものはありません。どうぞ」
 母のスマホはピンク色のカバーがついていた。状態は綺麗だ。画面も割れてはいない。
 電源ボタンを押すと、画面が表示された。
「ロックはかけてなかったんですか?」
「ええ。なにかあった時のために、かけないって言ってました」
 近々自分が亡くなると思っていたから?
 私は電話の履歴を調べた。亡くなった十二日の履歴はない。着信も発信も。
「連絡はいつもメッセージアプリの方を利用してたんですか?」
「僕とはそうでした」
 メッセージアプリを確認すると、やはり十一日までしかやりとりが残っていなかった。相手は進さんと私だけだ。
「近所の人やお客さんとの連絡は、家の電話を使ってました」
「亡くなった朝、母は誰かから連絡を受けてませんでしたか?」
「どうでしょう……僕は五時から仕事をするんで、まどかさんがまだ寝てる間に寝室を出るんです。あの朝もそうでした」
 私は頷きながら携帯電話を彼に返した。
 ロックがかかっていなかったのなら、誰でも履歴を削除することができただろう。
 私はゆっくりと部屋を見まわしてみた。前に来た時と特に変わったところはない。ただ母がいないだけで。
「睡眠薬の件がやっぱり気になります。朝に飲むのは変ですから」
 私の言葉に進さんも深刻な表情を浮かべた。
「僕もそう思います。そんなことは一度もありませんでしたから」
 私は先月鎌倉に来た時に、母と堤防に座って海を眺めたことを思い出した。
「母は堤防に座ることが多かったんですか?」
「ええ、海を眺めるのが好きで、一時間以上も一人で堤防に座ってることもありました」
 母が自分で睡眠薬を飲んで堤防に行き、ふらついて落下するところを想像してみた。
 まさか、死のうとした? 
 それはありえない。
 このまえの日曜に会った時、母におかしなところはなかった。ずっと楽しそうで、たくさん笑っていた。
 首を横に振る。
 ありえない。絶対にそんなはずはない。
「……賛歌さん?」
 心配そうな進さんの声に顔を上げると、私のスマホが鳴りはじめた。真琴からの電話だった。
 すみませんと進さんに断ってから電話に出る。
『もしもし、賛歌? もうすぐ着くよ』
 わかった、迎えに行くと伝えて、私は電話を切った。
「お友達ですか?」
 進さんが訊ねたので、私は頷きながら腰を上げた。
「迎えに行ってきます。では、のちほど会場で」
 私は葬儀場近くの駅に真琴を迎えに行った。
 彼女は既に改札の外で待っていて、私が近づいて行くと手を上げた。当たり前だが喪服を着ている。喪服姿の真琴を見るのは初めてで、なんだか変な感じがした。
「途中で着替えたの?」
「うん、服と荷物はロッカーに預けてきた」
「私はこれから着替えなきゃ。ホテルのチェックインもまだなの」
「じゃあ、一緒に行こ」
 駅前のビジネスホテルにチェックインして、私は喪服に着替えた。
 真琴は備え付けのデスクの椅子に座り、買ってきたペットボトルのお茶を飲んでいる。
「お母さん、お体が悪かったの?」
 真琴が聞きにくそうに訊ねた。
「心臓が悪かったの。余命宣告を受けていたぐらい。でも、死因は病気じゃなかった」
 母が亡くなった状況を説明すると、真琴も微妙な表情を浮かべた。
「睡眠薬を朝に……」
「おかしいよね?」
 鋭い視線を真琴は私に向けた。
「誰かが飲ませたと思ってるの?」
 私は頷いた。だって、あまりにも不自然過ぎる。
「誰が?」
「夫の進さんかも。彼は(予知会)の人間だったから」
 私は母と進さんのなれそめと、(予知会)をやめて結婚に至った経緯を説明した。
 真琴は黙って聞いていたが、ぴんとこない表情を浮かべた。
「だからって、なんで賛歌のお母さんを殺すの?」
「それは……進さんは裏でひそかに玉乃と連絡を取り合ってて、それがお母さんにバレて揉めたのかも。それか、玉乃が逮捕されて、進さんはお母さんや私に逆恨みの感情を抱いたのかもしれない」
「そうだとしたら、おかしくない? 彼はまどかさんが病気で長くないことを知ってたんでしょ。彼女に殺意を抱いていたとしても、自分が手を下す必要がないんじゃないの」
 私は言葉につまった。
 確かに真琴の言う通りだ。進さんに殺意があったのなら、彼はただなにもしないことを選んだだろう。
 通夜の時間が近づいていたので、私たちはホテルを出た。
 葬儀場は大きな立派な建物で、二階にある親族用の待合室は会議室のように広かった。
 奥のテーブルに進さんと父、京子さんが座っていた。見知らぬ老夫婦と中年の男女もいる。
 進さんがやって来て、初めて会う人たちを紹介してくれた。老夫婦は進さんの両親で、中年の男女は彼の兄夫婦だった。
 真琴は挨拶だけして部屋を出ていった。下でコーヒーを飲んで来ると。私も一緒に行きたかったが、父に引き止められた。
 父は私を部屋の隅に連れていって、怖い顔で訊ねた。
「賛歌は知ってのか? お母さんの心臓がだいぶ悪かったこと」
 進さんから聞いたのか。私は目を伏せて頷いた。
「お母さんに会った時に聞いた」
「まさか……自殺なのか?」
 え、と私はびっくりして声をあげてしまった。昨夜は眠れなかったのか、父の目は真っ赤に充血している。
「京子がそうなんじゃないかって言うんだ。病気の進行が怖くて、精神的に参ってしまったんじゃないかってさ」
 私は進さんと話している京子さんを見た。
「自殺なわけないでしょ。死のうと思って堤防から落ちる人がいる?」
「でも睡眠薬を飲んでたんだろ。堤防から海に身を投げようとしたんじゃないか?」
 私は唖然とし、頭に血がのぼった。
「軽々しく推測でそういうこと言わないでよ。お母さんのお通夜なんだよ!」
 部屋が静寂に包まれ、座っている親族たちみんなが私のことを見ていた。
 私は父を睨んで待合室から出て行った。
 階段を下りようすると、慌てて追いかけてくる足音が聞こえた。
「待って、賛歌さん!」
 振り返ると、京子さんだった。私は足を止めて、彼女の顔を見た。彼女は白いハンカチで口元を押さえていたが、泣いてはいなかった。ラメ入りのアイシャドウを塗っている。
「お父さんと喧嘩しちゃったの?」
「自殺じゃありませんから」
「え?」
「自殺なんて決めつけないでください」
 京子さんは殴られたようにハッとして、それから顔を歪めた。
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないの。私はただ……」
「すみません。私、動揺してるみたいです。失礼します」
 それだけ言うと、私は逃げるように階段を駆け下りていった。
 真琴はどこだろう。
 なんだか眩暈がする。
 ふらふらとロビーに向かうと、入口の脇にある自動販売機の前にいる真琴と典十さんを見つけた。
 二人はなにか話し込んでいる。
 意外な組み合わせに驚きながら、私は駆け寄った。
「真琴、典十さん」
 彼らは同時に振り向いて、あっという顔をした。
 二人は缶コーヒーを持っている。