そこは住宅街の中にぽつんとある、不思議な空間だった。青々とした芝生が桜の木にぐるりと囲まれている。ベンチがいくつかあり、年配の男女がぽつぽつと座っている。芝生にレジャーシートを敷いてお花見している家族も何組かいた。
「賛歌としておきたいこと、二つも叶っちゃったなぁ。お墓参りとお花見」
 母は桜の木々を目を細めながら眺めて笑った。
 春らしい暖かな風にそよぐ髪は落ち着いた黒に戻っている。そのせいか、時が巻き戻ったかのような気がした。私はまだ子供で、母も若い。私は母のことが大好きで、母も私のことを愛してくれている。
 涙が出そうになって、なんとか堪えた。
 母はふと私を振り返ると、なにか奇跡を目にしたように嬉しそうな顔をした。
「風が気持ちいいね。ずっとここでこうしていたいな」



 それから二日後の十四日。
 お昼に進さんから電話がかかってきた。
 火曜日なので、私はのんびり家でお昼ご飯を食べていた。
「まどかさんが今朝亡くなりました」
 進さんは抑揚のない声でそう言った。
 彼の説明によれば、母は今朝、海の堤防の手前で倒れているのを発見されたそうだ。
 頭から血を流していたらしい。
 ランニングで通りがかった男性が見つけて通報し、救急車で病院に運ばれたが、死亡しているのが確認された。
 いま検視を行っているので、連絡があったら通夜や葬儀の日時と場所をお知らせします、と進さんは続けた。
 淡々とした事務的な話し方は、おそらくひどいショックを受けているからだろう。私も同じような返答をしていた。
 今夜はホワイトデーで、典十さんとの約束がある。
 私はメッセージで、都合が悪くなって今夜は会えないと伝えた。
(なにかありました? 大丈夫ですか?)
 そう返事がきたので、私は大丈夫です、また今度きちんと話します、と送った。すると(わかりました)とだけ返事が返ってきた。
 翌日の夜、また進さんから連絡があった。
 遺体が戻ってきて、通夜は明日、葬儀は明後日に決まったとのことだった。
「あの……死因はなんだったんですか?」
『脳挫傷です。堤防から落下した時に、頭を強打したらしくて……』
「じゃあ、心臓病とは関係ないんですか?」
 私は驚いた。てっきり発作を起こして亡くなったのだと思っていたからだ。
『心臓とは関係ないそうです』
 ただ、と進さんは続けた。
『彼女の体内から睡眠薬が検出されました』
「睡眠薬?」
『眠れないからって、まどかさんは睡眠薬を常用してました。でも、朝に飲むことはないんです』
 普通はそうだろう。なぜ外出する前に飲んだんだろう?
「散歩で堤防に行ったんでしょうか?」
『おそらく……』
「朝の散歩は毎日してたんですか?」
『たまにしてました。でも、行くのはいつも朝ご飯を食べてからだったんです。亡くなった日は、ご飯前の六時頃に出ていって……僕に『ちょっと歩いて来る。すぐに戻る』って声をかけて』
 電話を切ったあと、私は考え込んだ。
 眠れないまま朝方になって睡眠薬を飲んだ?
 眠気がこなかったので、散歩に出かけたんだろうか。
 とにかく私はすぐに鉄郎さんに連絡した。
 母が亡くなったことを伝え、鎌倉で通夜と葬儀に出席しないといけないので、明日と明後日は休ませて欲しいと頼んだ。
 鉄郎さんは絶句したあと、忌引きなので一週間休んでいいよ、と言ってくれた。そして丁寧なお悔やみの言葉をくれたあと、『力を落とさないでね。僕らがついてるから。なんでも相談してよ』と力強く励ましてくれた。 
 次に真琴にも連絡した。
 彼女は一瞬言葉を失い、『これからそっち行こうか?』と訊いた。
「大丈夫。明日はお通夜だし、今夜は早く休むよ。少し頭が痛いし」
『そう……私もお通夜に参列してもいい?』
「仕事はいいの?」
『終わらせてから行く』
 電話を切る前、真琴はやさしい声で言った。
『眠れなかったら電話して』
 ありがとう、と私はそっと電話を切った。
 典十さんにも連絡した。
 彼はまるで待ち構えていたかのように、ワンコール目で出た。
 母の死を伝えると、彼は重い息を漏らした。
『昨日、連絡があった時、そうじゃないかと思ったんです。お悔やみ申し上げます。賛歌さんは大丈夫ですか?』
「私は大丈夫です。お通夜とお葬式が終わるまではちゃんとしないと。きちんと母を見送ってあげたいので」
『僕もお通夜に行ってもいいですか?』
「でも、仕事が……」
『早番なので終わってから行きます』
「鎌倉なので、遠いですよ」
『そんなのかまいません』
 お通夜の会場の場所を教えて電話を切ると、すぐに父から電話がかかってきた。
 進さんから連絡を受けたようで、ひどく動揺していた。
『信じられないよ。まどかが亡くなったなんて』
 声が震え、泣いているようだった。
『お通夜行くんだろう? 俺と京子も参列するから、車に一緒に乗っていきなよ』
 私は重苦しい車内に三人でいる光景を想像した。
「友達と行く約束をしたから、あっちで合流しよう」
 悪いけど、一人でいろいろと考える時間が欲しい。
『そうか? じゃあ、あとでな』
 葬儀場近くのビジネスホテルを予約してから、近所の店に喪服を買いに行った。
 母の死の予知を見てから、何度か喪服を用意しようか悩んだことがあった。でも結局買えずにいた。
 シンプルなワンピースの喪服とバッグを買い、近くの靴屋で黒のパンプスも手に入れた。
 喪服を着たまま長時間電車に乗るのは疲れそうだったので、着慣れたスウェットとデニムパンツで行くことにした。天気がよく、気温は二十度近かったが、夜は冷えるかもしれない。カーディガンを持って家を出た。
 (しらとり豆腐店)に着いた時には、四時頃になっていた。
 お店の戸は閉まり、(臨時休業)という手書きの貼り紙が貼られている。
 鍵は開いていたので、私はそっと戸を開けて中に声をかけた。
 はい、という声が二階からして、すぐに進さんが下りてきた。
 彼は喪服姿で憔悴しきった顔をしていた。
 私たちは型どおりの挨拶を交わしたあと、二階に上がった。母の遺体は既に葬儀場に運ばれたとのことだった。
 お茶を淹れる進さんのそばで、白と黒の兄弟猫が寄り添うように座っている。異変を感じとったように、二匹とも緊張した面持ちで私を見つめていた。
「覚悟はしていたつもりですけど、やっぱりだめですね。これからどうしていけばいいのか……」
 白いほうの猫が進さんに近づいて体をこすりつける。彼は猫の体を撫でてやりながら涙を拭った。
 彼は本当に悲しんでいるように見える。
 そんな彼のことを私は心の中で疑っていた。
 進さんが母に睡眠薬を飲ませて、堤防から突き落としたんじゃないだろうか。
 父の言うように、彼はずっと玉乃とつながっていて、ひそかに情報を流していたのでは? 藍さんのように。それが母にバレて喧嘩になり、殺めてしまったのではないだろうか。彼はそれを事故にみせかけようとした。
「進さん、母の携帯電話を見せてもらえますか?」
 私がお願いすると、彼は涙をティッシュペーパーで拭き取りながら頷いた。