冷静に語る青紫に腫れた真琴の顔を見ていたら、涙がこぼれてきた。
 彼女は痛むのに無理して笑う。
「賛歌のおかげで助かったんだよ。教えてもらってたから、避けることができたし、防犯ブザーで撃退もできた。ありがとね」
 私は首を横に振り、彼女の左手を握りしめた。
「助けられなくてごめん」
「あれは無理だよ。私だってまさかと思ったもん。三月三日じゃないのって」
 真琴は苦笑してから真顔に戻った。
「兎南子さんも入院してるんだって。でも軽傷らしいよ」
「無事だったの?」
「うん。乗り捨てられた車の中で発見されたんだって。手を切られて出血してたけど、傷は浅かったみたい。康彦さんは自分から交番に出頭したんだって」
「そう……」
 兎南子さんが無事だとわかって安心した。
「ここの病院にいるの?」
「ううん、違うとこだって」
 じゃあ、玄関にあった血は兎南子さんのものだったのだろう。刃物で脅されて連れ去られたのかもしれない。
「あぁ、でもほっとした。やっぱりずっと怖かったんだよね。いつ襲われるのかって、ずっとびくびくしながら生活してたから。それがもう終わったと思うと……よかった、ほんとに」
 そう言う真琴の気持ちが、私にはよくわかった。
 真琴の予知は終わったけれど、私はまだこれからだ。
 傷ついて痛々しい真琴の顔はいつしか自分の顔にすり替わる。
 私は目をぎゅっとつぶり、恐怖心を必死に追い払おうと努めた。



 その夜、いつものように(波止場)に行った。
 典十さんは脚立にのって、天井のプロジェクターをいじっていた。
 私が声をかけると、すまなそうに下りて来る。
「なんか調子が悪くて映らないんです。修理に出さないといけないかも」
 私の顔を見た彼は、あれ、と小さく声を出した。
「なにかありました? 顔色が……」
「昨夜、真琴が襲われたんです」
「襲われたって……覆面男にですか?」
「ええ。でも無事です。怪我はしましたけど」
 その夜のメニューはイカと菜の花のパスタだった。デザートは生クリーム付きのシフォンケーキ。
 私は白ワインをもらった。お酒が飲みたい気分だったから。彼も付き合ってくれた。
「意外な犯人でしたね」
 すべて話して聞かせると、典十さんは考えこんでしまった。
「真琴さんが狙われてたわけじゃなかった。巻き込まれたんですね」
「だから犯人が思い浮かばなかったんです。真琴まで襲ったのは、兎南子さんを連れ去るのを邪魔されると思ったのかな。でも、なんで覆面なんて持ってたんでしょうね? 心中するつもりだったんなら、覆面なんていらないはずなのに」
「心中なんてするつもりなかったのかもしれませんよ」
 典十さんは言って、ワイングラスをじっと見つめた。
「兎南子さんには心中をほのめかしながらも、実は彼女だけを殺そうと考えてたんじゃないでしょうか。兎南子さんは夫の主彦さんに不倫のことを打ち明けると、康彦さんを脅したのかもしれない。あまりにも彼が執着するから。兄に不倫がバレるのを恐れた康彦さんは、兎南子さんの口を封じようとした。だから覆面が必要だった。犯行がバレないように」
 私はカウンターの中で、穏やかな微笑みを浮かべていた康彦さんを思い浮かべた。
「だとしたら、真琴は殺されかけたんですね。目撃者だから」
「かもしれません。やっぱり防犯ブザーが役にたったんじゃないかな。音を聞きつけて人が集まって来たら困るから、とどめを刺す前に逃げるしかなかった」
 それならば、私の予知も少しは役にたったことになる。
 典十さんはデザートのシフォンケーキを一口食べた。口の端に生クリームがついてしまう。
「ついてますよ」
 気づいてない彼にティッシュペーパーを差し出して、自分の口の端を指差した。彼はお礼を言いながら受け取り、恥ずかしそうに生クリームを拭きとる。
「私、まだ話してなかった予知があるんです」
 典十さんは丸めたティッシュペーパーから顔を上げた。
「去年の十二月に見たんです。母が死ぬ予知を」
「お母さんの……」
「母のお葬式に出席している予知でした。私と父と、父の恋人の京子さんが参列してるんです」
 言葉が見つからないような彼はただじっと私を見つめた。艶やかな瞳が悲しそうに揺れている。
「亡くなる理由はわかってるんですか?」
「母は心臓の病気を抱えていて、医師から余命宣告を受けているそうです」
 母とレストランで再会した時のことを話して聞かせると、典十さんは自分のことのようにうなだれた。
「予知って残酷ですね。知らなくていいことまで知ってしまう」
 私もずっとそう思ってた。
 でも、残酷なことばかりではない。
 いい予知だって見ることができる。
 典十さんとの未来がそうだ。
 コーヒーを飲み終えると、彼はちらっと腕時計を見た。まだ八時を少し過ぎたくらいだった。
「今日は朝から病院に行って疲れたでしょう。そろそろ帰りましょうか」
「そうですね」
 後片付けをしようと皿に手を伸ばすと、彼が「あ」と声を出した。
「まだ早いんですけど、三週間後の火曜日、会えますか?」
「三週間後、ですか?」
 見ると、典十さんは耳を赤くしている。
 三週間後というと、ホワイトデーではないだろうか。
「わかりました」
 お返しでもくれるんだろうか。それとも、もっと別のものを考えてくれている?
 たとえば、告白とか。
 私たちはいつもより静かに後片付けをして、さよならをした。
 


 そのまま平穏に二月は終わり、三月もゆるゆると過ぎていった。
 真琴は実家に戻ったままだったが、仕事は再開した。顔の傷を隠すために大きなマスクをつけながら。
 彼女は兎南子さんが店をたたんでイタリアに行ったことを教えてくれた。
 電話で一度だけ話をしたという。泣きながら謝っていたそうだ。私にも謝罪と感謝と別れの言葉の伝言があった。
 火曜日になると私は(波止場)で典十さんと会って、映画を観ながら食事をした。
 なにか変わったことはないかと訊かれると、同じ返事をした。
 変わったことはなにもない。お風呂の中にも防犯ブザーを持ち込むぐらい気をつけている、と。
 それでやっと彼は安心してくれるのだった。
 最近は、長い通路がありそうな建物に行くことを、無意識に避けるようになった。知らない場所にも近づかない。もし、危なそうな場所に行かなければならなくなったら、必ず典十さんに連絡してついてきてもらう約束をしていた。
 十二日の日曜日、私は母に誘われて祖母のお墓参りに出かけた。
 祖母は生前、きちんと自分のお墓を用意していた。
 お墓は祖母が住んでいた家から近い、小さくて掃除の行き届いたお寺にあった。
 お墓をきれいに掃除してからお花を供え、お線香をあげて手を合わせた。 
「私が死んだら、かわりにたまに来てあげてね」
 母はそう言って冗談みたいに笑い、私は困惑しながら頷いた。どういう表情をしたらいいのかわからなかった。
 近くに桜が咲いている広場があったので、お花見をすることにした。
 通りがかったお店でお弁当を買って、芝生の上に座って食べた。