電車のほうがよかったかもと後悔しはじめた頃、やっと真琴のマンションに着いた。
インターホンを押したが応答はない。真琴から聞いていたオートロックの解除暗証番号で中に入る。エレベーターで五階へ。
真琴の部屋は五〇三号室だ。
廊下を走り、真琴の部屋のドアを叩いた。
「真琴! 私来たよ! 賛歌だよ!」
応答はない。ドアに鍵はかかっておらず、あっさり開いた。
初めて入る真琴の家。
玄関を入ってすぐのところに、左右にドアがあった。正面のドアは半分開いたままになっている。明かりはついているが、話し声や物音は聞こえない。
私はドアを足で押さえたまま、左手に防犯ブザー、右手にスマホを握って奥に声をかけた。
「真琴、いる? 入るよ」
数秒待ったが、返事はない。
覚悟を決めて、靴を脱ぎ、部屋にあがった。
短い通路の奥の、半分開いたドアからそっと中を覗き込む。
そこはリビング兼仕事場のようだった。
パソコンが置かれた机。大きな本棚。
ローテーブルには、予知で見た光景が広がっていた。桃の花に白酒、菱餅にひなあられ。
どうして? まだ二月二十日なのに。
次の瞬間、私の視線は隣の部屋から飛び出している足を捕らえた。
「真琴?」
慌てて駆け寄ると、真琴がうつ伏せで倒れていた。
隣の部屋は引き戸タイプの寝室のようで、ベッドやドレッサーが置かれている。
「真琴! 真琴!」
大声で呼びかけても真琴は反応を示さなかったが、呼吸はしていた。
私はすぐに救急車を呼んだ。そして、家の中に誰か隠れていないか確認してから、玄関の鍵をかけた。
兎南子さんはどうしたんだろう?
まさか、彼女が犯人?
やがて救急車のサイレンが聞こえてきた。
迎えに出ようと靴を履いている時、靴箱の手前にあるシミに気づいた。
それは赤黒く濡れていて、血のように見えた。
*
翌朝、私が病室に入っていくと、真琴は暇そうにスマホをいじっていた。
病室は相部屋で、他に二人の患者がベッドの上にいた。年配の女性は眠っていて、三十代ぐらいの女性は右足を吊るされた状態でイヤホンをしながらスマホを眺めている。
真琴は私に気づくと、顔をしかめながら起きあがり、スリッパを履いてこちらに歩いてきた。
「おはよ。お見舞いのお礼にジュースでもおごるよ」
真琴の顔は赤紫色に腫れあがってひどい形相だ。でも本人の口調はいつも通り淡々としている。
真琴に自動販売機でオレンジジュースを買ってもらうと、その向かい側にあった長椅子に並んで腰をおろした。
「痛そうだね」
私は彼女の痛々しい傷跡を顔を近づけて見た。
口の中も切れていてしみるのか、顔をしかめながら真琴はジュースを飲む。
「痛いよ。でも痛み止めを飲むほどじゃないから」
真琴は右腕と顔を負傷した。
骨折はしていないが、顔を殴られたので、念のために検査をして一晩入院したのだ。
「さっき医者が来て、もう退院していいって。いま手続きしてもらってる」
私はほっとして思わず真琴の腕に触れそうになった。
「よかった。ご両親、これから迎えに来るの?」
「うん、母親が来てくれるって。しばらく実家に戻ることにした」
「そっか……」
事件があった自宅に戻るのは、いくら真琴でも抵抗感があるのだろう。怪我もしているし。
「昨夜、いったい、なにがあったの?」
昨夜は真琴と話すことができなかった。
病院に運び込まれて診察を受けた彼女は、幸いにも軽傷で命に別条がないことがわかった。それで、ご両親が駆けつけると、私は家に帰ったのだ。
「兎南子さん、康彦さんと不倫関係にあったみたい」
真琴の言葉に私は絶句した。
「不倫?」
「そう。兎南子さんが日本で一人で暮らしはじめてから、そういう関係になったんだって。頼りにしてるうちに、自然とそうなってしまったって言ってた。でも、最近は男女の関係もなくなって、元の家族に戻れたと彼女は思ってたみたい」
「康彦さんは終わったとは思ってなかったの?」
真琴は頷いて、痛そうに顔をしかめた。
「兎南子さんがイタリアで旦那さんと暮らすって話、康彦さんは反対してたんだって。ずっと日本にいるって約束したのに、話が違うじゃないかって」
昨日、二人は朝から一緒にゴルフに出かけていた。
帰りの車の中でまた言い合いになり、康彦さんはすごい剣幕で怒りだしたという。
「しまいには(心中するしかない)って物騒なことを言い出したんだって。本気だからなって、ロープや睡眠薬をちらつかせたから、兎南子さんはびっくりして、慌てて車から降りたらしい」
「それで泣きながら真琴の家に逃げてきたの?」
「ひな祭りのお菓子や桃の花を持ってね」
兎南子さんの亡くなった娘さんは、誕生日が三月三日だった。
それで毎年、彼女はお墓参りをしたあと、娘の誕生日とひな祭りのお祝いをしていたらしい。
でも今年、兎南子さんは三月三日をイタリアで迎える。「ゴルフのあと、一緒にひな祭りのお祝いをしよう」と康彦さんに提案され、ひな祭りに必要なものを途中で買っておいたという。
「賛歌に電話したあと、兎南子さんが康彦さんや娘さんのことを話しながら、菱餅やひなあられをテーブルに並べはじめたの。よかったら食べてって。桃の花を飾りたいから花瓶も貸してって。私、怖くてたまらなかった。(ゴルフ)と(ひな祭り)のワードが出てからずっと、体の震えが止まらなかった」
防犯ブザーを握りしめながら、真琴は兎南子さんから聞いた話を電話で私に伝えようとした。でも動揺していたせいか、誤って電話を切ってしまっていた。
慌ててかけなおそうとしていると、玄関のドアがどんどんと叩かれはじめたという。「ねえさん、出てきてくれよ!」という怒鳴り声も聞こえた。
それが康彦さんの声だということは真琴にもわかった。毎週のように(アマンテ)に通っていて、何度も耳にした声だったからだ。おそらく住人のあとについてオートロックを突破してきたのだろう。
兎南子さんは「やめてやめて!」と我を失ったように叫びながら玄関に走って行った。
ドアを開けないで! と真琴は叫んだけれど、二人とも既にパニックに陥っていた。
兎南子さんは真琴や隣近所に迷惑をかけてはいけないと思ったのかもしれない。自分が出ていけば彼がおとなしくなると考えたのか、玄関のドアを自分から開けてしまった。
玄関で揉み合う声と物音がして、あぁっ! という兎南子さんの悲鳴が聞こえた。どたっと鈍い音が続く。誰かが走ってくる足音がして、真琴は咄嗟に目の前にあった桃の花の花瓶に手を伸ばそうとした。
真琴は背後にもう康彦さんが迫っているのがわかった。自分の頭上にゴフルクラブを振り上げていることも。
それで無意識に体を左によじった。右腕に鈍い衝撃が走った。
真琴は壊れるぐらい力をこめて防犯ブザーを鳴らした。振り返ると、自分の顔に向かってくる覆面男の拳が見えた。避けられなかった。
殴られて倒れ込んだ真琴は這うように寝室に逃げる。康彦さんが走って逃げて行く足音が聞こえた。
「兎南子さんは無事か、救急車を呼ばなきゃ、と思ったところまでは覚えてる。次に気づいた時は救急車の中で、目の前に賛歌がいた」
インターホンを押したが応答はない。真琴から聞いていたオートロックの解除暗証番号で中に入る。エレベーターで五階へ。
真琴の部屋は五〇三号室だ。
廊下を走り、真琴の部屋のドアを叩いた。
「真琴! 私来たよ! 賛歌だよ!」
応答はない。ドアに鍵はかかっておらず、あっさり開いた。
初めて入る真琴の家。
玄関を入ってすぐのところに、左右にドアがあった。正面のドアは半分開いたままになっている。明かりはついているが、話し声や物音は聞こえない。
私はドアを足で押さえたまま、左手に防犯ブザー、右手にスマホを握って奥に声をかけた。
「真琴、いる? 入るよ」
数秒待ったが、返事はない。
覚悟を決めて、靴を脱ぎ、部屋にあがった。
短い通路の奥の、半分開いたドアからそっと中を覗き込む。
そこはリビング兼仕事場のようだった。
パソコンが置かれた机。大きな本棚。
ローテーブルには、予知で見た光景が広がっていた。桃の花に白酒、菱餅にひなあられ。
どうして? まだ二月二十日なのに。
次の瞬間、私の視線は隣の部屋から飛び出している足を捕らえた。
「真琴?」
慌てて駆け寄ると、真琴がうつ伏せで倒れていた。
隣の部屋は引き戸タイプの寝室のようで、ベッドやドレッサーが置かれている。
「真琴! 真琴!」
大声で呼びかけても真琴は反応を示さなかったが、呼吸はしていた。
私はすぐに救急車を呼んだ。そして、家の中に誰か隠れていないか確認してから、玄関の鍵をかけた。
兎南子さんはどうしたんだろう?
まさか、彼女が犯人?
やがて救急車のサイレンが聞こえてきた。
迎えに出ようと靴を履いている時、靴箱の手前にあるシミに気づいた。
それは赤黒く濡れていて、血のように見えた。
*
翌朝、私が病室に入っていくと、真琴は暇そうにスマホをいじっていた。
病室は相部屋で、他に二人の患者がベッドの上にいた。年配の女性は眠っていて、三十代ぐらいの女性は右足を吊るされた状態でイヤホンをしながらスマホを眺めている。
真琴は私に気づくと、顔をしかめながら起きあがり、スリッパを履いてこちらに歩いてきた。
「おはよ。お見舞いのお礼にジュースでもおごるよ」
真琴の顔は赤紫色に腫れあがってひどい形相だ。でも本人の口調はいつも通り淡々としている。
真琴に自動販売機でオレンジジュースを買ってもらうと、その向かい側にあった長椅子に並んで腰をおろした。
「痛そうだね」
私は彼女の痛々しい傷跡を顔を近づけて見た。
口の中も切れていてしみるのか、顔をしかめながら真琴はジュースを飲む。
「痛いよ。でも痛み止めを飲むほどじゃないから」
真琴は右腕と顔を負傷した。
骨折はしていないが、顔を殴られたので、念のために検査をして一晩入院したのだ。
「さっき医者が来て、もう退院していいって。いま手続きしてもらってる」
私はほっとして思わず真琴の腕に触れそうになった。
「よかった。ご両親、これから迎えに来るの?」
「うん、母親が来てくれるって。しばらく実家に戻ることにした」
「そっか……」
事件があった自宅に戻るのは、いくら真琴でも抵抗感があるのだろう。怪我もしているし。
「昨夜、いったい、なにがあったの?」
昨夜は真琴と話すことができなかった。
病院に運び込まれて診察を受けた彼女は、幸いにも軽傷で命に別条がないことがわかった。それで、ご両親が駆けつけると、私は家に帰ったのだ。
「兎南子さん、康彦さんと不倫関係にあったみたい」
真琴の言葉に私は絶句した。
「不倫?」
「そう。兎南子さんが日本で一人で暮らしはじめてから、そういう関係になったんだって。頼りにしてるうちに、自然とそうなってしまったって言ってた。でも、最近は男女の関係もなくなって、元の家族に戻れたと彼女は思ってたみたい」
「康彦さんは終わったとは思ってなかったの?」
真琴は頷いて、痛そうに顔をしかめた。
「兎南子さんがイタリアで旦那さんと暮らすって話、康彦さんは反対してたんだって。ずっと日本にいるって約束したのに、話が違うじゃないかって」
昨日、二人は朝から一緒にゴルフに出かけていた。
帰りの車の中でまた言い合いになり、康彦さんはすごい剣幕で怒りだしたという。
「しまいには(心中するしかない)って物騒なことを言い出したんだって。本気だからなって、ロープや睡眠薬をちらつかせたから、兎南子さんはびっくりして、慌てて車から降りたらしい」
「それで泣きながら真琴の家に逃げてきたの?」
「ひな祭りのお菓子や桃の花を持ってね」
兎南子さんの亡くなった娘さんは、誕生日が三月三日だった。
それで毎年、彼女はお墓参りをしたあと、娘の誕生日とひな祭りのお祝いをしていたらしい。
でも今年、兎南子さんは三月三日をイタリアで迎える。「ゴルフのあと、一緒にひな祭りのお祝いをしよう」と康彦さんに提案され、ひな祭りに必要なものを途中で買っておいたという。
「賛歌に電話したあと、兎南子さんが康彦さんや娘さんのことを話しながら、菱餅やひなあられをテーブルに並べはじめたの。よかったら食べてって。桃の花を飾りたいから花瓶も貸してって。私、怖くてたまらなかった。(ゴルフ)と(ひな祭り)のワードが出てからずっと、体の震えが止まらなかった」
防犯ブザーを握りしめながら、真琴は兎南子さんから聞いた話を電話で私に伝えようとした。でも動揺していたせいか、誤って電話を切ってしまっていた。
慌ててかけなおそうとしていると、玄関のドアがどんどんと叩かれはじめたという。「ねえさん、出てきてくれよ!」という怒鳴り声も聞こえた。
それが康彦さんの声だということは真琴にもわかった。毎週のように(アマンテ)に通っていて、何度も耳にした声だったからだ。おそらく住人のあとについてオートロックを突破してきたのだろう。
兎南子さんは「やめてやめて!」と我を失ったように叫びながら玄関に走って行った。
ドアを開けないで! と真琴は叫んだけれど、二人とも既にパニックに陥っていた。
兎南子さんは真琴や隣近所に迷惑をかけてはいけないと思ったのかもしれない。自分が出ていけば彼がおとなしくなると考えたのか、玄関のドアを自分から開けてしまった。
玄関で揉み合う声と物音がして、あぁっ! という兎南子さんの悲鳴が聞こえた。どたっと鈍い音が続く。誰かが走ってくる足音がして、真琴は咄嗟に目の前にあった桃の花の花瓶に手を伸ばそうとした。
真琴は背後にもう康彦さんが迫っているのがわかった。自分の頭上にゴフルクラブを振り上げていることも。
それで無意識に体を左によじった。右腕に鈍い衝撃が走った。
真琴は壊れるぐらい力をこめて防犯ブザーを鳴らした。振り返ると、自分の顔に向かってくる覆面男の拳が見えた。避けられなかった。
殴られて倒れ込んだ真琴は這うように寝室に逃げる。康彦さんが走って逃げて行く足音が聞こえた。
「兎南子さんは無事か、救急車を呼ばなきゃ、と思ったところまでは覚えてる。次に気づいた時は救急車の中で、目の前に賛歌がいた」