「すみませんでした。もうお店に行くこともないと思います。さようなら」
もうひかるちゃんには会えない。
そう思うと、ただ悲しかった。
「お兄さんの幽霊の話も嘘だったの?」
ひかるちゃんはかすかに口元を震わせた。
「兄を見たとしても、それはただの夢ですから」
彼女はもう一度頭を下げた。
「さよなら」
8 動機
私が襲われたことを母にはすぐに電話で知らせた。
『じゃあ、無事にすんだのね?』
開口一番、母はほっとしたようにそう言った。
自分が予知で見た娘の危機はもう終わったと母は解釈したのだ。
「それがね……」
私は襲われた時の状況を詳しく説明した。
相槌を打ちながら聞いていた母は途中で沈黙してしまった。
母が見た予知では、私は白壁に黒い床の通路のような場所で襲われた。仰向けで犯人に馬乗りになられる。犯人の服装は黒いパーカーに黒ズボンで、私はグレーのパーカーにデニムパンツ。
でも、一月三十一日に襲われた時、私は室内ではなく建物の外にいた。仰向けではなくうつ伏せで、背中に乗ってきた藍さんは黒いシャツに黒いズボンの制服姿だった。グレーのリュックサックもなかった。しかも私は冬物の黒いコートに、水色のニットワンピースという恰好だった。
あまりにも違う部分が多過ぎる。間違い探しの問題にもならないぐらい。
「残念だけど、お母さんが見た予知じゃなかったみたい」
母は失望を隠さずに大きなため息を吐き出した。
『どういうこと? 玉乃以外にもあなたを狙ってる人がいるってこと?』
「そういうことになるね……」
私たちは重い空気のまま電話を終わらせた。
本当に、母が見た予知の犯人は誰なんだろう。
すっきりしない思いを抱えたまま日々は過ぎ去り、あっという間に二月も半ばになった。
典十さんと会う日がちょうどバレンタインデーに重なり、私たちは(波止場)でチョコレートフォンデュを一緒に作ることにした。
カセットコンロに小さな鍋を置いて、チョコレートを溶かし、用意した果物やクッキー、マシュマロなんかにつけて食べる。
バレンタインデーなのに、今日の映画は恋愛ものではなかった。
なぜかお堅い感じのお受験ものだった。恥ずかしいので典十さんはあえて恋愛映画を避けたのかもしれない。
会うといつも軽い話題からはじまるのだけど、途中からやっぱり予知の話になってしまう。
真琴の予知、そして私の予知。
「考えてみると不思議ですよね。真琴さんも賛歌さんも、犯人らしき人が浮かんでこない」
典十さんはバナナをチョコレートにたっぷりくぐらせながら言う。
私はチョコレートに浸した苺を食べながら頷いた。
温かいチョコレートと冷たい苺の組み合わせは最高だ。
「真琴の犯人は空き巣狙いなのかも。私の犯人は通り魔的なものとか」
バナナを食べ終えた彼は、マシュマロをチョコレートに沈めながら首を傾げた。
「あんな誰もいなさそうな通路で通り魔? 通り魔なら人通りの多いところを選ぶ気がしますけど」
確かにそうか。それに通り魔に私がたまたま遭遇するというのも、なんか変な感じはする。
「じゃあ、やっぱり私を狙っている人がいるんですよね」
「たぶん。でも、一番怪しかった玉乃さんは逮捕された。もしかして、(予知会)の他のメンバーが逆恨みで賛歌さんを狙っているとか?」
「どうなんでしょう。私は他のメンバーには面識がないんです」
チョコレートフォンデュを食べながら、私たちは予知した事件について意見を交わし続けた。
あれ?
せっかくのバレンタインデーの夜なのに、甘い雰囲気が皆無だ。これでいいんだろうか?
甘いのはチョコレートでべとべとの口の中だけ。
夕飯用に用意されたシチューやパンも食べ終えると、私はラッピングした袋を彼に差し出した。
「よかったらどうぞ……マフィンを焼いてきたので」
一応、バレンタイン用にチョコレートマフィンを作ってきた。
ピンクの小さなハート型の飾りをトッピングした、バレンタインデー仕様の特製マフィンだ。
「わぁ、ありがとうございます」
典十さんは嬉しそうにマフィンを見つめる。
「実はちょっとだけ、期待してました。もらえないかなって」
「喜んでもらえてよかったです」
お互い照れたようにはははと笑いあったあと、「あ」と彼が声をあげた。
「僕の予知って、見たことありますか?」
私は一瞬固まり、慌てて手を横に振った。
「いえ。ない、です」
「そうですよね」
もし私が見た予知を打ち明けたら、典十さんはどんな顔をするだろう?
ちょっと興味はあったけど、まだ本当のことを話すことはできなかった。
*
「最近、ひかるちゃん来ないね」
翌週の月曜日、思い出したように真衣さんは私にそう言った。
「あぁ……そうですね」
私は素早く食パンを型から取り出していく。ひかるちゃんがもう来ないことはお店の人には話していない。
「他の店に浮気したのかな。なんか聞いてる?」
「いえ……」
「このへんに新しいお店はできてないよねぇ」
ぶつぶつ言いながら彼女はロールパンを五個ずつ袋に詰めていく。
真衣さん越しに見える窓から、明るい日差しが差し込んでいた。
今日は朝からよく晴れている。だから、私は空を見上げることができなかった。
そういう習慣にもいまは慣れつつある。予知を見ないことが私にとっては一番重要なことだから。
その日も無事に仕事を終えると、スーパーで買い物をして帰宅した。
おやつのパンを食べながら映画を観て、うとうとする。
目覚めた時には外は暗くなりはじめていた。
ちょっと早いけど、夕飯でも作ろうか。
今日の献立は鶏ひき肉のそぼろ丼だ。大好きな紅ショウガも買ってある。
ひき肉を生姜チューブ多めで味付けして煮ていると、スマホがけたたましく鳴りはじめた。
表示された真琴の名前を見た瞬間、嫌な予感がした。
落ち着いてガスレンジの火を消して、電話に出る。
『賛歌、ごめん』
緊迫した早口の第一声に心臓がぎゅっとなった。
「どうしたの?」
『いま、兎南子さんが家に来て一緒にいるの。泣いてたから断れなくて』
家に兎南子さんが?
「泣いてるって、どうしたの?」
『康彦さんと喧嘩したみたいだけど、詳しいことはわからない』
「そこに康彦さんもいるの?」
『兎南子さんだけ』
「帰ってもらえなさそう?」
『すぐには無理そう。いま、洗面所でお化粧なおしてる』
「じゃあ私、すぐ行くから待ってて。念のため防犯ブザー握っててね。電話も切らずにこのままでいて」
『わかった』
話しながら私は財布と鍵だけ持って家を飛び出した。
大通りに出てタクシーを拾い、千駄木にある真琴のマンションの住所を運転手に伝える。
「もしもし、真琴? いま、タクシーに乗ったから」
耳をすますと、電話は切れていた。真琴が切ったのか、それともなにかの要因で切れてしまったのかはわからない。
電話をかけなおしたが、つながらないまま留守番電話に切り替わる。
「すみません、緊急なんで急いでもらえますか?」
はやる気持ちを抑えながら運転手を急かす。ちょうど帰宅時間に重なってしまって、途中で道が混んできた。
もうひかるちゃんには会えない。
そう思うと、ただ悲しかった。
「お兄さんの幽霊の話も嘘だったの?」
ひかるちゃんはかすかに口元を震わせた。
「兄を見たとしても、それはただの夢ですから」
彼女はもう一度頭を下げた。
「さよなら」
8 動機
私が襲われたことを母にはすぐに電話で知らせた。
『じゃあ、無事にすんだのね?』
開口一番、母はほっとしたようにそう言った。
自分が予知で見た娘の危機はもう終わったと母は解釈したのだ。
「それがね……」
私は襲われた時の状況を詳しく説明した。
相槌を打ちながら聞いていた母は途中で沈黙してしまった。
母が見た予知では、私は白壁に黒い床の通路のような場所で襲われた。仰向けで犯人に馬乗りになられる。犯人の服装は黒いパーカーに黒ズボンで、私はグレーのパーカーにデニムパンツ。
でも、一月三十一日に襲われた時、私は室内ではなく建物の外にいた。仰向けではなくうつ伏せで、背中に乗ってきた藍さんは黒いシャツに黒いズボンの制服姿だった。グレーのリュックサックもなかった。しかも私は冬物の黒いコートに、水色のニットワンピースという恰好だった。
あまりにも違う部分が多過ぎる。間違い探しの問題にもならないぐらい。
「残念だけど、お母さんが見た予知じゃなかったみたい」
母は失望を隠さずに大きなため息を吐き出した。
『どういうこと? 玉乃以外にもあなたを狙ってる人がいるってこと?』
「そういうことになるね……」
私たちは重い空気のまま電話を終わらせた。
本当に、母が見た予知の犯人は誰なんだろう。
すっきりしない思いを抱えたまま日々は過ぎ去り、あっという間に二月も半ばになった。
典十さんと会う日がちょうどバレンタインデーに重なり、私たちは(波止場)でチョコレートフォンデュを一緒に作ることにした。
カセットコンロに小さな鍋を置いて、チョコレートを溶かし、用意した果物やクッキー、マシュマロなんかにつけて食べる。
バレンタインデーなのに、今日の映画は恋愛ものではなかった。
なぜかお堅い感じのお受験ものだった。恥ずかしいので典十さんはあえて恋愛映画を避けたのかもしれない。
会うといつも軽い話題からはじまるのだけど、途中からやっぱり予知の話になってしまう。
真琴の予知、そして私の予知。
「考えてみると不思議ですよね。真琴さんも賛歌さんも、犯人らしき人が浮かんでこない」
典十さんはバナナをチョコレートにたっぷりくぐらせながら言う。
私はチョコレートに浸した苺を食べながら頷いた。
温かいチョコレートと冷たい苺の組み合わせは最高だ。
「真琴の犯人は空き巣狙いなのかも。私の犯人は通り魔的なものとか」
バナナを食べ終えた彼は、マシュマロをチョコレートに沈めながら首を傾げた。
「あんな誰もいなさそうな通路で通り魔? 通り魔なら人通りの多いところを選ぶ気がしますけど」
確かにそうか。それに通り魔に私がたまたま遭遇するというのも、なんか変な感じはする。
「じゃあ、やっぱり私を狙っている人がいるんですよね」
「たぶん。でも、一番怪しかった玉乃さんは逮捕された。もしかして、(予知会)の他のメンバーが逆恨みで賛歌さんを狙っているとか?」
「どうなんでしょう。私は他のメンバーには面識がないんです」
チョコレートフォンデュを食べながら、私たちは予知した事件について意見を交わし続けた。
あれ?
せっかくのバレンタインデーの夜なのに、甘い雰囲気が皆無だ。これでいいんだろうか?
甘いのはチョコレートでべとべとの口の中だけ。
夕飯用に用意されたシチューやパンも食べ終えると、私はラッピングした袋を彼に差し出した。
「よかったらどうぞ……マフィンを焼いてきたので」
一応、バレンタイン用にチョコレートマフィンを作ってきた。
ピンクの小さなハート型の飾りをトッピングした、バレンタインデー仕様の特製マフィンだ。
「わぁ、ありがとうございます」
典十さんは嬉しそうにマフィンを見つめる。
「実はちょっとだけ、期待してました。もらえないかなって」
「喜んでもらえてよかったです」
お互い照れたようにはははと笑いあったあと、「あ」と彼が声をあげた。
「僕の予知って、見たことありますか?」
私は一瞬固まり、慌てて手を横に振った。
「いえ。ない、です」
「そうですよね」
もし私が見た予知を打ち明けたら、典十さんはどんな顔をするだろう?
ちょっと興味はあったけど、まだ本当のことを話すことはできなかった。
*
「最近、ひかるちゃん来ないね」
翌週の月曜日、思い出したように真衣さんは私にそう言った。
「あぁ……そうですね」
私は素早く食パンを型から取り出していく。ひかるちゃんがもう来ないことはお店の人には話していない。
「他の店に浮気したのかな。なんか聞いてる?」
「いえ……」
「このへんに新しいお店はできてないよねぇ」
ぶつぶつ言いながら彼女はロールパンを五個ずつ袋に詰めていく。
真衣さん越しに見える窓から、明るい日差しが差し込んでいた。
今日は朝からよく晴れている。だから、私は空を見上げることができなかった。
そういう習慣にもいまは慣れつつある。予知を見ないことが私にとっては一番重要なことだから。
その日も無事に仕事を終えると、スーパーで買い物をして帰宅した。
おやつのパンを食べながら映画を観て、うとうとする。
目覚めた時には外は暗くなりはじめていた。
ちょっと早いけど、夕飯でも作ろうか。
今日の献立は鶏ひき肉のそぼろ丼だ。大好きな紅ショウガも買ってある。
ひき肉を生姜チューブ多めで味付けして煮ていると、スマホがけたたましく鳴りはじめた。
表示された真琴の名前を見た瞬間、嫌な予感がした。
落ち着いてガスレンジの火を消して、電話に出る。
『賛歌、ごめん』
緊迫した早口の第一声に心臓がぎゅっとなった。
「どうしたの?」
『いま、兎南子さんが家に来て一緒にいるの。泣いてたから断れなくて』
家に兎南子さんが?
「泣いてるって、どうしたの?」
『康彦さんと喧嘩したみたいだけど、詳しいことはわからない』
「そこに康彦さんもいるの?」
『兎南子さんだけ』
「帰ってもらえなさそう?」
『すぐには無理そう。いま、洗面所でお化粧なおしてる』
「じゃあ私、すぐ行くから待ってて。念のため防犯ブザー握っててね。電話も切らずにこのままでいて」
『わかった』
話しながら私は財布と鍵だけ持って家を飛び出した。
大通りに出てタクシーを拾い、千駄木にある真琴のマンションの住所を運転手に伝える。
「もしもし、真琴? いま、タクシーに乗ったから」
耳をすますと、電話は切れていた。真琴が切ったのか、それともなにかの要因で切れてしまったのかはわからない。
電話をかけなおしたが、つながらないまま留守番電話に切り替わる。
「すみません、緊急なんで急いでもらえますか?」
はやる気持ちを抑えながら運転手を急かす。ちょうど帰宅時間に重なってしまって、途中で道が混んできた。