考えは変わらないか、私たちは本当にあなたの力を必要としている、ということが短い文章で綴られていた。
 母の脅しはまるっきり効果がなかったようだった。最初からわかっていたことだけれど、やっぱりがっかりした。
 でも店に来たり、家に押し掛けたりしたわけではない。手紙を寄越すぐらいは我慢しなければいけないのかもしれなかった。
 そしてまた火曜日が来た。
 典十さんと(波止場)で会う日。
「賛歌さん、これ持ってて」
 典十さんは会うなり、私に防犯ブザーをくれた。
 鎌倉に行ったあとすぐ、私は自分で防犯ブザーを手に入れていた。でもそのことは彼には言わなかった。私のために、わざわざ買ってきてくれたことがすごく嬉しかった。
 彼がくれた防犯ブザーはキーホルダータイプだったので、私はグリーンのハンドバッグにすぐにつけてみせた。自分で買ったものは普段使いのリュックサックにつけている。
「そういえば、また玉乃さんから手紙が来たんです」
 私は彼に見せるために持って来た手紙を彼に渡した。素早く目を通した典十さんは、ちょっと意外そうな表情を浮かべた。
「なんだか随分あっさりしてますね」
「母が電話で脅したせいかもしれません」
「脅し……玉乃さんはどうやって賛歌さんの家と職場の場所を知ったんですか? 以前、お母さんから聞いてたんですか?」
「職場のほうは、娘がパン屋で働いてるぐらいは話したみたいです。この地域のパン屋の数はそう多くはないですから、調べればすぐにわかります。家の住所は、実家に電話して聞き出したみたいです」
 父親と同居している女性が教えてしまったことを説明した。
「京子さん、そのことをすごく気にしてて、このまえ父と一緒にうちまで謝りに来てくれたんです」
 ついでに、玉乃のことで鎌倉まで父が京子さんを連れて文句を言いに行った話までしてしまった。そのあと母は私が襲われる予知を見て、犯人は玉乃だと思い電話をかけた。そして、娘に関わるなと脅した。
「なるほど……お父さんとその京子さんは、随分長い付き合いなんですね。再婚はしないんですか?」
「京子さんはしたいみたいなんですけど、うちの父親がはっきりしなくて」
「でも仲はいいんですね」
「夫婦みたいに暮らしてます。京子さんができた人なんで、父の世話を全部みてくれてるんです」
「じゃあ、賛歌さんも安心ですね」
 壁には家族三人の映像が映し出されている。今日の映画は家族がテーマだった。両親と若い娘。三人には見えない悪魔が家に棲みつき、家族の絆をゆっくりと壊していく。
 私たちは茄子とベーコンのパスタを食べながら、しばらく真剣に映画を観た。
「そうだ、真衣さんの息子さんのスマホ、戻ってきたんですよ」
 昨日、真衣さんが報告してくれたのだ。日曜日に里那ちゃんの友達の母親が謝りに来たと。
 与えていないスマホを娘が持っていることに気づき、それはどうしたんだと問いただしたら「友達に借りた」と説明したらしい。慌てて返しに来たという。
 菓子折りを差し出して、何度も深く頭を下げるので、「子供同士のことですから」と真衣さんは謝罪を受け入れたそうだ。
「数年前に再婚してから、その娘さんが反抗的になったとぼやいてたそうです。家出もちょくちょくするみたいで」
「そうだったんですか……でも、スマホが戻ってきたのはよかったですね」
 今日は終業式だったはずだ。
 二年になったらクラス替えがあるので、その友達とはおそらく縁が切れるだろうと真衣さんは話していた。
「家族っていろいろありますよね。うちもそうだし」
 うちは特別かもしれないけど。
「うちもですよ。父親は仕事に没頭するとまったく家に帰ってこなかったですから。離婚危機も何度もあって、子供の時はずっとはらはらしてました」
 そうなんだ。
 さらっと家族の話をしてくれた典十さんの表情は、風が吹いているかのように涼しい。たぶん、いい距離感を保てているんだろう。
 食後のチョコレートケーキを食べながら、私は兎南子さんや康彦さんの話をした。真琴に年の離れたお友達ができそうだと。
 典十さんは映画館で新しくはじまった(バレンタイン特集)について話した。
 バレンタインデーが関係する映画について熱く語る彼を見つめていると、このまえ抱きついてしまったことを思い出した。
 あんなことがあったのが嘘みたいに、今夜はテーブルを挟んだ距離感に戻ってしまっている。
 私はほんの少しの物足りなさを感じたまま、典十さんとまた来週ここで会う約束をして、家に帰った。



 そうして、あっという間に一月最後の日になった。
 ひな祭りまでもう一ヶ月ぐらいしかない。
 一昨日の日曜日、私は電話で真琴に例の件を持ち掛けてみた。
 ひな祭り当日だけでいいから、真琴の家に典十さんとその友達を用心棒として招き入れてくれないかと。
 正直、私一人では犯人に抵抗するのは難しい。真琴も自分のことも救えないと思うと。
『ちょっと考えてみるよ』
 長い沈黙のあと、真琴は渋々といった感じにそう言った。
 すぐ断られるものと覚悟していたので意外だった。
 ただ、火曜日現在、まだ真琴からの返事はない。
 本来、誰も家にいれたくない彼女にとって、見知らぬ男二人を家に泊めろというのは、恐ろしすぎる要求だろう。
 気持ちはわかる。でも、これには人の命がかかっている。どうにか我慢して欲しい。
 休日に一人で家にいると、余計なことをあれこれ考えてしまうので、ショッピングに行くことにした。
 そろそろ春物の服を手に入れておかないと、典十さんに会う時にまた焦ることになる。
 二駅隣にあるファッションビルに行って、ギンガムチェック柄のワンピースと白いカーディガンを買った。
 カーディガンはパーカーのかわりに着るつもりだ。予知のせいでパーカーを羽織るのが怖くなってしまったから。
 疲れたので休憩しようとファストフード店に入った。コーラを飲みながらスマホを見ると、ひかるちゃんから電話がきていた。
 かかってきたのは一時間ぐらい前の十二時頃。買い物に夢中でまったく気づかなかった。
 ハンバーガーを食べながらメッセージを送ったけれど、返信はなかなか返ってこなかった。お店を出てから電話をかけてみたが、やっぱり出ない。
 家に帰ると、作り置き用のラタトゥイユを作りながら映画を観た。
 今夜も典十さんと(波止場)で会う約束をしている。
 映画館に着いたのは七時五分前だった。
 入口から入ってすぐに、スタッフの女性に声をかけられた。
「賛歌さんですよね?」
 顔を見ると、ひかるちゃんの従姉妹の藍さんだった。
 同じ中学の後輩で、私の過去を知っている人。
「はい、そうですけど」
「仕事で中上さんは少し遅れるそうなので、こちらでお待ちいただくようにと言付かっています」
 藍さんは笑顔でそう言うと、(波止場)のある二階ではなくスタッフだけが入れるドアのほうへ私を促した。
 もしかして今日はカフェを使えないのだろうか?
 私は藍さんの後について(STAF ONLY)と書かれたドアの中に入っていった。
 左手にドアがあり、右手にはスタッフ用のトイレ。短い廊下を歩いていくと、突き当りのドアを彼女は開けて振り返った。