絵の下には次のように書かれていた。
(黒い服の女。黒い床。長い通路のような場所。両側は白い壁。日時不明。)
 こういう場所に見覚えがないか、私は記憶を探った。
 白壁の黒い通路など、どこにでもある気がするが、思い当たる場所は浮かばない。
 この人は誰なんだろう?
 私の知り合い?
 なんで私にこんなことを?
 私はもう一度絵を見つめた。
 急に心臓がどきどきしてくる。
「私、死んでない? 絞殺されたあとなんじゃないの?」
 酸欠になったように頭がくらくらする。冷や汗が顔と首筋を伝う。
「違うわよ。だってあなた、息をしてたもの。なにか喋ってるように口が動いてたの。だから死んでない。しっかりして」
 母にぎゅっと腕を掴まれて、私は絵から顔を上げた。まっすぐな目で母は私を見つめている。
「もしあなたが死んでたなら、予知のこと言うはずないでしょ」
 私は頷いた。
 母の言う通りだ。
 私が死んでいたのなら、警告を与えても意味がない。予知で見たものは必ず現実になるんだから。黙っていることしかできない。
「襲われた時に対応できるように、備えてもらうために話したのよ。わかるわよね?」
「うん、わかる」
 頭では理解できるのに、体が拒絶反応を示しているかのように震えていた。どうしよう。
 母は腰を上げると、私の腕を掴んだ。
「出ましょう」
 店を出て少し歩くと、ここで待っててと言い残して母は小さな酒屋に入っていった。
 すぐに出てくると、手に持ったビニール袋からお酒を取り出した。偶然にも昨夜飲んだのと同じカシスオレンジだった。
「なんでカシスオレンジ?」
「私が好きだから」
「知らなかった」
 歩きながら私たちはカシスオレンジを飲んだ。
 甘くて冷たいお酒は、興奮した私の脳を落ち着かせてくれたのかもしれない。
 私は思い出した。
 私が予知で見た、クリスマスをお祝いしている私と典十さんの映像を。
 私は今年のクリスマスにはまだ生きている。
 クリスマスは約十一ヶ月後。予知はだいたい一年以内に起きる。
 私は誰かに襲われるけれど、死にはしない。おそらく。
「お母さん、あのね……」
 私はクリスマスの予知のことを母に打ち明けた。
 典十さんのことを教えるのは抵抗があったけれど、この際仕方がなかった。
「よかった。じゃあ無事にすむんだわ。安心した」
 心底ほっとしたように母は大きく息をついた。
 典十さんのことは気になったはずなのに、詳しく追及はしてこなかった。
 それよりも犯人のことのほうが気になっていたからだろう。
「犯人に心当たりはない?」
 母に訊かれて、真っ先に浮かんだのはやはり玉乃の顔だった。
「玉乃さんぐらいしか思い浮かばない」
「そうよね。だから私、彼女に電話したの。本人と直接話せば、なにかわかるんじゃないかと思って。かまもかけてみた。(思い通りにならなかったら、娘を殺すつもり?)って。彼女、笑ってた。(賛歌ちゃんまで死んだら、私たちも終わりよ)って」
 私と心中でもするつもりだろうか。
「犯人が玉乃だとすると、襲われるのはどこかしら? 賛歌は彼女の呼び出しには応じないでしょ。となると、玉乃はあなたのあとをつけて、隙をみつけて襲うしかない」
「そうだね。あんな長い通路は、ある程度大きな建物にしかないよね。普通のレストランとかじゃなくて」
「それに両側の壁に扉は一つもなかったの」
「ショッピングモールのトイレに行く通路が、ちょうどあんな感じだった気がする」
 私がそう指摘すると、母は頷いた。
「言われてみればそうね。買い物中に襲われるのかしら」
 ショッピングモールにはしばらく行ってない。
 でもなにか事情があって行くことになるのかもしれない。
 私たちは足を止めた。
 (しらとり豆腐店)は静かな通りにひっそりとたたずんでいた。店構えは驚くほど昭和の香りを残している。二十歳前後の若い女の子たちがちょうど豆乳ドーナツを買っているところだった。
 エプロン姿にダウンを羽織った男性が私たちに気づいて、にこっと会釈する。おそらく彼が進さんだろう。
 女の子たちがいなくなると、彼は笑顔で駆け寄ってきた。
「賛歌さんですよね? はじめまして、白鳥進です。お昼ごはん用意してあるんで、二階へどうぞ」
 店に入ると中央に大きな水槽のような物があった。水がはってあり、大きな豆腐がたくさん沈んでいる。スーパーで見る豆腐と違って、いかにもずっしりとして見えた。
 二階が住居になっているようで、日当たりのいい和室に通されると、年季の入った座卓に料理が並べられていた。
 湯豆腐や豆腐ステーキ、豆乳ドーナツなどの豆腐料理のほかに、昔私が好きだった料理まであった。チーズをのせたハンバーグに卵のサンドイッチ。母が覚えていてくれたことに驚いた。
 その居間には先客がいて、白と黒の兄弟猫が部屋の隅で寄り添っていた。しばらく不審者を見るような目で私を睨んでいたが、やがて彼らは一匹ずつ母と進さんの膝の上で丸くなった。
 持参したお店のパンの詰め合わせを渡すと、進さんは白い歯をぱっと見せて笑った。
 サーフィンをするらしく、冬でも肌は小麦色だ。肩まである黒髪をゴムでひとつに縛り、母とおそろいの茶色いパーカーを着ている。母が話すとなんでも面白そうに笑い、よく喋り、父とは正反対の性格のようだった。母は彼の隣にいると少女に戻ったように幼く見え、とても幸せそうだった。
「まどかさん、最近ずっと調子いいんですよ。この子たちもいつもぴったりはりついて見守ってくれてますから、安心してくださいね」
 母の事は進さんに任せておけばよさそうだった。
 食事を終えると私はすぐに腰をあげた。二人に引き止められたけれど、明日も仕事が早いのでと説明した。
 お土産に豆腐と油揚げ、豆乳ドーナツをもらった。
 母は駅まで送ってくれた。
「これから毎日連絡するから。いいわよね?」
 別れ際、約束させられた。
 駅のホームで空を見上げると、幸いにも曇っていた。
 こんな重い荷物を抱えて東京に戻らなければいけなくなるとは思いもしなかった。
 喉の奥にはまだ、カシスオレンジの甘さと苦みがへばりついていた。


7 告白

 鎌倉から戻ると、疲れていたのですぐに寝た。
 一度目が覚めたのは夜の九時頃だった。
 トイレに行って戻ってくると、スマホが点滅しているのに気づいた。着信を知らせている。
 確認すると、一時間前に京子さんから電話がかかってきていた。
 なにかあったのかもしれない、とすぐに電話をかけなおすと、彼女はすぐに出た。
『ごめんなさい、お休みのところ。ちょっと訊きたいことがあって』
 声を潜めているのは父に聞かれたくないからだろうか。
 どうしましたか、と訊ねると彼女は緊張のためか声を震わせた。
『今日、まどかさん会いに行ったの?』
 母は昨日、私が今日会いにくると彼女に話したのだろう。
「はい。昨日、父と一緒に母を訪ねたそうですね」
『孝彦さんがどうしても会って話をしたいって言うから……止めたんだけどね』
「父は一度決めたら頑固ですからね」
『まどかさん、気分悪くしてたでしょうね』
「いえ、そんなことは……」