「(ラ・ピッコロ)のピッコロはイタリア語で(小さい)って意味なんだよ。姉さんが好きなものだけを集めた小さなお店。とっても大事な場所なんだから手放して欲しくないな」
 顎を触りながら康彦さんの話を聞いていた兎南子さんは、赤いマンハッタンをじっと見つめた。
「お店の名前には別の意味もあるのよ。亡くなった小さな私の娘のためにつけたの。とても小さく産まれてしまって、すぐに亡くなってしまったの。あの子のことを考えない日はいまもないわ」
 彼女は一気にマンハッタンを飲み干すと、人差し指の第二関節で唇を拭った。
「ここのお店の名前の意味はわかる?」
 明るく笑って、私と真琴の顔を見る。
 真琴は胸がいっぱいのような表情をしているので、私は慌ててさっき見た店の看板を思い出した。
「えっと、『アマンテ』でしたよね」
「アマンテってどういう意味かわかる?」
 私が首を横に振ると、兎南子さんは促すように康彦さんに手を向けた。
「(愛人)という意味ですよ。でもつけたのは僕じゃありません。母がつけてくれたんです。ちょっと色っぽい人だったんで」
「若い頃はいろいろあったのよね?」
 兎南子さんがからかうように言う。
「まあ、その話はまた今度」
 康彦さんは困ったように笑うと、私と真琴に新しいお酒をどうするかと訊ねた。グラスはもうほとんど空だ。
 私は明日も朝から仕事なので、そろそろお暇すますと言った。
 真琴は残るんじゃないかと思ったけれど、私も、とグラスをそっと押しやった。そして兎南子さんを見つめた。
「でもまたすぐに来ます。長く通えるお店をやっと見つけられた気分です。兎南子さん、また付き合ってくださいね」
 兎南子さんは黙って頷くと、真琴の腕をやさしくさすった。
 駅まで並んで歩きながら、巣鴨の居酒屋にはもう行ってないの? と真琴に訊いてみた。
 彼女は頷いて、ほのかに赤くなった頬を撫でた。
「今夜のお酒はおいしかったな。ほんとに通いつめちゃいそう」
 ブラックルシアンは少し強いお酒だったのか、私は真っすぐ歩くのが難しかった。それに気づいた真琴がくるくす笑う。
「賛歌は一杯にしとくべきだったね」
「いいのいいの。大人になった気分だよ」
「なら、また一緒に行こうか」
「次は休みの前の日にね……」
 玉乃のことがあったのに、その夜は夢も見ずにぐっすりと眠ることができた。



 鎌倉は東京から一時間ぐらい。
 母の住まいは鎌倉の静かな場所にあった。
 約束した小さな駅で待っていると、赤い自転車に乗った母が迎えに来てくれた。
「おはよう」
 ネイビーのダッフルコートにデニムパンツ。髪色は金髪から暗めのピンクになっていたけれど、それにはもう触れずに挨拶を返した。顔色は悪くなく、元気そうに見えた。
「ここから十分ぐらいだから」
 自転車を下りた母と並んで歩いていく。
 まだ朝の九時ということもあり、あたりはしんとしていた。空はよく晴れていて空気も澄みわたり気持ちがいい。
「朝ご飯食べてきた?」
 母に訊かれて、軽く食べたと答えた。売れ残りでもらったパンとカフェオレのいつもの朝食。
 一月の朝の海岸に人はほとんどいなかった。風が強くて余計に寒い。
 自転車を止めて砂浜を少しだけ歩き、堤防に腰かけて海を眺めてみたが、みるみる体が冷えていくのを感じた。のんびり話すどころではなかったので、近くの喫茶店に入ることにした。
 まだ十時前なのにお腹が空いていたので、モーニングを注文する。
 熱いコーヒーをすすって体を温めようとすると、母が意味ありげな息を漏らした。
「昨日、お父さんたちが来たのよ」
 すぐにはなんのことを言っているのかわらかなかった。
「玉乃さんのこと、聞いたわよ。なんで教えてくれなかったの?」
 昨日の午後、父と京子さんが(しらとり豆腐店)に現れたらしかった。二階にある自宅にあげて、一時間ほど話をしたのだという。
 鎌倉の豆腐屋としか教えてないのに、なんで場所がわかったんだろう? インターネットで調べたんだろうか。
「賛歌の家にまで来て、手紙も寄越したって本当なの?」
 仕方なく私は頷いた。
 トーストにマーガリンと苺ジャムを塗って食べる。母は食事には手をつけず、私の顔をただじっと見ていた。
「お父さん、なに言いに来たの?」
「玉乃のことをなんとかして欲しいって。賛歌になにかあったら承知しないって言われた」
「玉乃さんに連絡してないよね?」
「したわよ。お父さんたちが帰ってすぐ」
 せっかく縁を切ったのに、またつながってしまった。
「なんて言ったの? あのひとに」
「うちの娘に関わるなって。用があるなら私のところに来ればいいって」
「彼女はなんて?」
「ただ笑ってた」
 私たちは無言で見つめ合った。
「でも安心して。言うことは言ってやったから。(私はどうせもうすぐ死ぬし、刑務所に入ったってかまわないのよ)って」
 真顔で言う母を唖然として見つめた。
 昔の母を思い出す。やっぱり、まるっきり変われたわけじゃなかったんだ。
「やめてよ、そういうこと言うの。聞きたくない」
「脅してやっただけよ。あなたにひどいことしないように」
「脅すのもやめて。別の言い方があるでしょ」
「だって、オブラートに包んだってあの人には通じないもの。話してわかったでしょ?」
「脅して効果はあったの?」
「さあどうかな。でももう笑ってはいなかったよ」
 なんでみんな滅茶苦茶なんだろう。
 しばらく黙って私たちはトーストとゆで卵を食べ続けた。
「おかわりいかがですか?」
 柔和な笑顔のマスターが熱いコーヒーのおかわりを注いでくれた。薄くなった頭に派手な赤いバンダナを巻いている。
 二杯目のコーヒーを飲みはじめると、母が口をまた開いた。
「私が不安になったのは、お父さんから玉乃のことを聞いたからだけじゃないの」
 母は言いにくそうにそれだけ言うと黙り込んだ。
 その様子を見て、私はさあっと鳥肌がたった。
 まさか。
「どうしたの?」
 聞く前からわかっていた。
「予知したの。あなたのこと」
 やっぱり。
「どんな予知?」
「あなたがどこかで倒れてるの。顔の見えない女があなたにまたがって、首を絞めようとしている。そういう予知を見たの」
 誰かに馬乗りになられて、首を絞められる。殺される?
「いつ見たの?」
「昨日、お父さんたちが帰ったあと、買い物に出た時。すごく短い予知で、情報が少ないの。見ながらパニックになりかけたから、見逃してしまったものもあるかもしれない。でも、思い出せる限りの情報を書いてきたから、確認してみて」
「……わかった」
 真琴はこういう気分だったんだ。
 自分が襲われる予知を聞かされるのは、最低最悪のひどい気分だ。
 母が差し出したメモを受け取って読む。
 そこには私らしき女性が襲われている色付きの絵が描かれていた。
 私は仰向けでぐったりして目を閉じている。グレーのパーカーにデニムパンツ。私にまたがっている人物は黒いパーカーに黒ズボン姿で、こちらに背中を向けている。フードを深くかぶっているので顔はまったく見えない。体型は私と同じような平均的な成人女性の体つきをしている。壁際にグレーのリュックが投げ出されたように転がっている。