鉄郎さんがうまく沢井さんを店から追い出すと、房子さんが私の背中をやさしくぽんぽんしてくれた。
「気にしないことよ」
私は頷いて仕事に戻った。オーブンの中を覗いてみるが、頭の中は沢井さんの言葉でぐるぐるしている。
「玉乃さんて人だと思うよ。また来たら僕がちゃんと対応するから、賛歌ちゃんはなにも心配しないで」
いつもの笑顔で鉄郎さんは励ましてくれる。
二人とも私の母が(予知会)という怪しげな団体に入っていたことは知っていた。まだ学生時代にお客として通っている時に私が話したのだ。でも、母と私が本当に予知できることは知らない。
「ご迷惑をおかけして本当にすみません」
「だめだめ。賛歌ちゃんはなにも悪くないんだから、自分のせいとか思っちゃだめだよ。それこそ、あのひとの思う壺だよ」
鉄郎さんの言う通りだ。
玉乃は私を職場に居づらくさせるのが目的で、ここに乗り込んできたんだ。
たぶん、手紙の返事を受け取って、話しても通じないと判断したんだろう。私を孤独に追いやって、つけ入る隙を作ろうとしている。
「大丈夫です。私、こんなことで負けませんから」
「そうよ。今度来たら営業妨害で通報してやるから」
房子さんもいつになく強気で憤慨したように言う。
「まあ、母さんも落ち着いて。あっちだって面倒なことになるのは嫌だろう。冷静に話せばおとなしく帰ってくれるよ」
大丈夫だと強がったものの、その日はミスばかりしてしまった。やっぱりひどく動揺していたんだろう。
今夜は真琴とバーに行く約束をしている。
家には帰りたくなかったので、仕事が終わると普段着のまま電車に乗った。
銀座で降りると映画館に行って、なるべくくだらなそうな海外のコメディ映画を観た。吹替だったのだが、主役の男性の声があまりに甲高くて、映画を観ている間、そのことがずっと気になって仕方なかった。それで、余計なことを考えなくてすんだ。
映画館を出るとお茶をしながら時間を潰し、日が暮れてから真琴と合流した。
軽くご飯を食べてからバーに行く約束をしていたので、駅から近いファッションビルの二階にあるピザ屋に入る。
マルゲリータと魚介がのったピザを食べはじめると、私はすぐに話を切り出した。
「真琴の家にしばらく私が泊まることについて、考えてくれた?」
真琴は心を決めてきたのか、あっさり頷いた。
「ひな祭りの前後三日間だけなら泊まっていいよ」
「よかった。ありがとう」
私はほっと安堵の息を漏らした。
「お礼を言うのはこっちのほうだよ。賛歌も危ない目に遭うかもしれなないのに……。仕事のほうはどうするの? うちから通う?」
「有給とるつもり」
「そっか……ごめんね」
「謝るのはなしだよ」
真琴は頷いてマルガリータにのっているバジルを皿の端に避ける。
「それと、これからは誰かを家に入れるときは必ず私に連絡して。たとえご両親でも」
「まだ一月だよ?」
「関係ないよ。事件が起こるまでは気を抜いちゃだめ」
わかったというように真琴は頷いた。
バーが開く時間になると、私たちは兎南子さんの店に向かった。
夜の銀座は賑やかだ。特に金曜の夜なので、仕事を終えた人たちで通りは歩きにくいほど混雑している。
兎南子さんの店は既に閉まっていたが、店内には明かりが灯っていた。ドアを開けると音を聞きつけたのか、奥から彼女が現れた。今日は白いショートダウンにグリーンのフレアパンツという、若々しいファッションだ。
店の明かりを消しながら、彼女はくすくすっと嬉しそうに笑う。
「若い友達のお出迎えっていいものね」
歌うように言うと、指で私たちの頬をつんつんと突いた。
「あら、冷たい。外、そんなに寒かった?」
「氷みたいです」
そう答えた真琴の腕に、兎南子さんは自分の腕をからめる。
「じゃあ、こうして行きましょうね」
康彦さんのバーは歩いて五分もかからない場所にあった。
目立たないシンプルなドアを開けると、そこはまるで別世界だった。ワインカラーの壁に黒の床。インテリアは洗練されたデザインで、モダンなシャンデリアが天井からぶら下がっている。カウンターには若い男女のバーテンダーが並び、客たちと楽しそうに談笑していた。まだ早い時間なのに、テーブルは半分以上も埋まっている。
兎南子さんはカウンターの奥に歩いていくと、空いている席に座った。若い女性のバーテンダーが近づいて来て、彼女に挨拶をする。
兎南子さんの隣に真琴、私は一番手前に座った。
すぐに茶色いシャツに黒ネクタイを締めた長身の白髪男性がカウンターの中に現れた。彼が康彦さんだと兎南子さんが私に紹介してくれた。
彼はやっぱり、(ラ・ピッコロ)に初めて行った時に見かけた人だった。でも康彦さんは私の顔を覚えていないようで、初めましてとにこやかに挨拶してくれた。
「姉さんが友達を連れてくるのは久しぶりだね」
兎南子さんは可愛らしく肩をすくめる。
「同年代のお友達は夜遊びに付き合ってくれなくなったものね」
「姉さんはこの年でまだお酒も強いからなぁ。さて、最初の一杯はなににいたしましょうか、お嬢様がた」
兎南子さんはブラックルシアンを注文し、真琴はウイスキーコークを選んだ。私はなにを頼んだらいいのかわらなかったので、飲んだことのあるカシスオレンジにした。
「ブラックルシアンてなんですか?」
お酒に無知な私が訊ねると、ウォッカとコーヒーリキュールを使ったカクテルだと兎南子さんが教えてくれた。
「二杯目はそれにしようかな」
真琴は軽やかに呟いた。店の雰囲気を楽しんでいるかのように笑みを浮かべている。
三人のお酒が出されると、まずは兎南子さんが真琴の脚本の感想を語りはじめた。
テンポのいい会話がとにかく面白かった。仕掛けも鮮やかで、最初から最後までまったく飽きさせない。早く映像化して欲しいと、熱のこもった褒め言葉を山のように連ねて、真琴の顔を紅潮させていく。
やがて話題は四人とも好きな映画の話に移り変わっていった。この作品は観たほうがいい、最近はこれがよかったなど、グラスが空になっているのも気付かないほど盛り上がった。
二杯目は真琴と私はブラックルシアン、兎南子さんはマンハッタンを注文した。
兎南子さんは康彦さんのことを(やすちゃん)と親し気に呼んでいた。彼は(姉さん)とやさしく呼び返す。
真琴はリラックスしたようにカウンターに肘をつき、喋りながらよく動く兎南子さんの手を見つめていた。目はとろんと半分閉じて、随分くつろいでいるように見える。
その目がぱっと見開かれたのは、兎南子さんの言葉のせいだった。
「そう、三月にイタリアに行くのよ」
「兄さんがうるさいらしくてね。そろそろこっちに戻ってこないかって」
康彦さんが内緒話のように小声で言う。
「でもお店があるから……譲る人もいないしね」
兎南子さんには子供が三人いるが、みんなイタリアで暮らしているらしい。結婚して孫もいるが、日本に住んでいる家族はいない。
康彦さんにも娘が二人いて、孫は四人もいるそうだった。
「気にしないことよ」
私は頷いて仕事に戻った。オーブンの中を覗いてみるが、頭の中は沢井さんの言葉でぐるぐるしている。
「玉乃さんて人だと思うよ。また来たら僕がちゃんと対応するから、賛歌ちゃんはなにも心配しないで」
いつもの笑顔で鉄郎さんは励ましてくれる。
二人とも私の母が(予知会)という怪しげな団体に入っていたことは知っていた。まだ学生時代にお客として通っている時に私が話したのだ。でも、母と私が本当に予知できることは知らない。
「ご迷惑をおかけして本当にすみません」
「だめだめ。賛歌ちゃんはなにも悪くないんだから、自分のせいとか思っちゃだめだよ。それこそ、あのひとの思う壺だよ」
鉄郎さんの言う通りだ。
玉乃は私を職場に居づらくさせるのが目的で、ここに乗り込んできたんだ。
たぶん、手紙の返事を受け取って、話しても通じないと判断したんだろう。私を孤独に追いやって、つけ入る隙を作ろうとしている。
「大丈夫です。私、こんなことで負けませんから」
「そうよ。今度来たら営業妨害で通報してやるから」
房子さんもいつになく強気で憤慨したように言う。
「まあ、母さんも落ち着いて。あっちだって面倒なことになるのは嫌だろう。冷静に話せばおとなしく帰ってくれるよ」
大丈夫だと強がったものの、その日はミスばかりしてしまった。やっぱりひどく動揺していたんだろう。
今夜は真琴とバーに行く約束をしている。
家には帰りたくなかったので、仕事が終わると普段着のまま電車に乗った。
銀座で降りると映画館に行って、なるべくくだらなそうな海外のコメディ映画を観た。吹替だったのだが、主役の男性の声があまりに甲高くて、映画を観ている間、そのことがずっと気になって仕方なかった。それで、余計なことを考えなくてすんだ。
映画館を出るとお茶をしながら時間を潰し、日が暮れてから真琴と合流した。
軽くご飯を食べてからバーに行く約束をしていたので、駅から近いファッションビルの二階にあるピザ屋に入る。
マルゲリータと魚介がのったピザを食べはじめると、私はすぐに話を切り出した。
「真琴の家にしばらく私が泊まることについて、考えてくれた?」
真琴は心を決めてきたのか、あっさり頷いた。
「ひな祭りの前後三日間だけなら泊まっていいよ」
「よかった。ありがとう」
私はほっと安堵の息を漏らした。
「お礼を言うのはこっちのほうだよ。賛歌も危ない目に遭うかもしれなないのに……。仕事のほうはどうするの? うちから通う?」
「有給とるつもり」
「そっか……ごめんね」
「謝るのはなしだよ」
真琴は頷いてマルガリータにのっているバジルを皿の端に避ける。
「それと、これからは誰かを家に入れるときは必ず私に連絡して。たとえご両親でも」
「まだ一月だよ?」
「関係ないよ。事件が起こるまでは気を抜いちゃだめ」
わかったというように真琴は頷いた。
バーが開く時間になると、私たちは兎南子さんの店に向かった。
夜の銀座は賑やかだ。特に金曜の夜なので、仕事を終えた人たちで通りは歩きにくいほど混雑している。
兎南子さんの店は既に閉まっていたが、店内には明かりが灯っていた。ドアを開けると音を聞きつけたのか、奥から彼女が現れた。今日は白いショートダウンにグリーンのフレアパンツという、若々しいファッションだ。
店の明かりを消しながら、彼女はくすくすっと嬉しそうに笑う。
「若い友達のお出迎えっていいものね」
歌うように言うと、指で私たちの頬をつんつんと突いた。
「あら、冷たい。外、そんなに寒かった?」
「氷みたいです」
そう答えた真琴の腕に、兎南子さんは自分の腕をからめる。
「じゃあ、こうして行きましょうね」
康彦さんのバーは歩いて五分もかからない場所にあった。
目立たないシンプルなドアを開けると、そこはまるで別世界だった。ワインカラーの壁に黒の床。インテリアは洗練されたデザインで、モダンなシャンデリアが天井からぶら下がっている。カウンターには若い男女のバーテンダーが並び、客たちと楽しそうに談笑していた。まだ早い時間なのに、テーブルは半分以上も埋まっている。
兎南子さんはカウンターの奥に歩いていくと、空いている席に座った。若い女性のバーテンダーが近づいて来て、彼女に挨拶をする。
兎南子さんの隣に真琴、私は一番手前に座った。
すぐに茶色いシャツに黒ネクタイを締めた長身の白髪男性がカウンターの中に現れた。彼が康彦さんだと兎南子さんが私に紹介してくれた。
彼はやっぱり、(ラ・ピッコロ)に初めて行った時に見かけた人だった。でも康彦さんは私の顔を覚えていないようで、初めましてとにこやかに挨拶してくれた。
「姉さんが友達を連れてくるのは久しぶりだね」
兎南子さんは可愛らしく肩をすくめる。
「同年代のお友達は夜遊びに付き合ってくれなくなったものね」
「姉さんはこの年でまだお酒も強いからなぁ。さて、最初の一杯はなににいたしましょうか、お嬢様がた」
兎南子さんはブラックルシアンを注文し、真琴はウイスキーコークを選んだ。私はなにを頼んだらいいのかわらなかったので、飲んだことのあるカシスオレンジにした。
「ブラックルシアンてなんですか?」
お酒に無知な私が訊ねると、ウォッカとコーヒーリキュールを使ったカクテルだと兎南子さんが教えてくれた。
「二杯目はそれにしようかな」
真琴は軽やかに呟いた。店の雰囲気を楽しんでいるかのように笑みを浮かべている。
三人のお酒が出されると、まずは兎南子さんが真琴の脚本の感想を語りはじめた。
テンポのいい会話がとにかく面白かった。仕掛けも鮮やかで、最初から最後までまったく飽きさせない。早く映像化して欲しいと、熱のこもった褒め言葉を山のように連ねて、真琴の顔を紅潮させていく。
やがて話題は四人とも好きな映画の話に移り変わっていった。この作品は観たほうがいい、最近はこれがよかったなど、グラスが空になっているのも気付かないほど盛り上がった。
二杯目は真琴と私はブラックルシアン、兎南子さんはマンハッタンを注文した。
兎南子さんは康彦さんのことを(やすちゃん)と親し気に呼んでいた。彼は(姉さん)とやさしく呼び返す。
真琴はリラックスしたようにカウンターに肘をつき、喋りながらよく動く兎南子さんの手を見つめていた。目はとろんと半分閉じて、随分くつろいでいるように見える。
その目がぱっと見開かれたのは、兎南子さんの言葉のせいだった。
「そう、三月にイタリアに行くのよ」
「兄さんがうるさいらしくてね。そろそろこっちに戻ってこないかって」
康彦さんが内緒話のように小声で言う。
「でもお店があるから……譲る人もいないしね」
兎南子さんには子供が三人いるが、みんなイタリアで暮らしているらしい。結婚して孫もいるが、日本に住んでいる家族はいない。
康彦さんにも娘が二人いて、孫は四人もいるそうだった。