「そうですね。万が一違っていた場合、問題が大きくなってしまいそうですもんね」
「そうなのよ。まあ、満がいじめられてるとかじゃなくてよかったわ」
 すっきりしない気持ちで頷いていると、思わぬ人が店のドアを開けて現れた。兎南子さんだった。
「いらっしゃいませ。兎南子さん、来てくれたんですね」
「来ちゃった。まあ、いい香り」
 今日の彼女はカシミアっぽい黒のロングコートに真っ赤なロングスカートを合わせている。華麗な兎南子さんを前にして、真衣さんはぽかんと口を開いていた。
「可愛いお店のサイズ感はうちとおんなじね」
 兎南子さんはにっこり私たちに会釈すると、トレーを手にパンを選びはじめる。
 知り合い? と小声で真衣さんが訊ねるので、うんと私は頷いた。兎南子さんはクロワッサンをトングで掴んだまま振り返る。
「そうそう、このまえお友達がまたお店に来てくれたのよ。真琴さん」
「聞きました。お財布を買ったそうですね。弟さんにもお会いしたって言ってました」
「そうなのよ。ちょうど居合わせてね。私、真琴さんの脚本を読ませてもらったのよ」
「え、そうなんですか?」
「そう。私ね、昔から映画やドラマが大好きなの。それで彼女に、受賞した脚本を読ませてってお願いしたの。想像以上に面白くて一気に読んじゃった。あれは絶対映像化されるべきね」
 警戒心の高い真琴が他人に脚本を読ませるのは珍しいことだ。それだけ兎南子さんに心を開いているということだろう。
「弟とも話してたんだけど、よかったら今度、バーのほうに遊びに来ない? 若い方も入りやすい明るいお店なのよ。もちろん私もご一緒するから、どう?」
 私はバーには行ったことがない。でも、お酒好きな真琴なら喜ぶかもしれない。一人で居酒屋を開拓するような子だから。
「真琴に話しておきます」
「じゃあお名刺渡しておくわね」
 彼女はハンドバッグから革の名刺入れを取り出して、一枚私にくれた。携帯電話の番号が記されている。
「買い過ぎかしら」
 真衣さんが目を丸くするほど、兎南子さんはパンを山積みにしたトレーをレジに置いた。
 濃厚な香水の匂いを残して兎南子さんが店をあとにすると、私はふと思い出した。
 兎南子さんは真琴のおばあちゃんに似ている。
 真琴はおばあちゃん子で、高三の時に祖母を亡くした時はひどく落ち込んでいた。十日も学校を休んだぐらいだ。映画やドラマが大好きなおばあちゃんで、孫娘の脚本家になる夢を誰よりも応援していた。
 その夜、夕飯もお風呂もすましてのんびり映画を観ていると、典十さんからメッセージが届いた。

(こんばんは。なくなったスマホと脚本の件が気になっています。よかったら賛歌さんの都合のいい日に会いませんか?)

 メッセージの最後にはてんとう虫のマークがついている。すぐに返信した。

(典十さん、こんばんは。その二件のことでご報告と相談があります。私は火曜日と日曜日が休みです。来週の日曜は予定があるので、明日か、仕事が終わったあとの夕方からなら、いつでも時間があります。)

 数分後には返信が届いた。

(じゃあ明日の七時に僕の映画館で待ち合わせしませんか? 夕飯を食べながらお話を聞かせてください。)

 僕の映画館、という言葉に思わず笑顔になってしまう。では七時に伺います、と返信をした。
 そのあと、忘れないうちに真琴にメッセージを送った。
 今日、兎南子さんが店に来てくれて、康彦さんのバーで一緒に飲まないかと誘われたけどどうする? と。
 行く、とすぐに返事が返ってきた。
 それで私は兎南子さんにショートーメールを送った。二人でバーにお邪魔しますと。
 バーの定休日は月曜と火曜日で、それ以外の日ならいつでも大丈夫だという。
 それにしてもバーってなにを頼めばいいんだろう?
 映画に出てきたカクテルの名前がいくつか頭に浮かんだけれど、それを頼む自分の姿をうまく想像できなかった。


6 最悪の予知
   
 約束の七時より少し早く映画館に着くと、ロビーは人気がほとんどなかった。
 平日だからこんなものだろうと思いながらソファに向かうと、柱の影からひょこっと人が現れた。典十さんだった。
 いたずらが成功したみたいに笑いながら、こちらに歩いてくる。こんな可愛いことするひとなのかと意外に感じながら頭を下げる。
「こんばんは。いつから隠れてたんですか?」
 彼は白シャツにネクタイをしめてベージュのカーディガンを羽織っている。今日は黒ぶちの眼鏡をかけていた。お仕事モードという雰囲気だ。
「入口から入ってくるのを見て、慌てて隠れました」
 私は笑いをこらえながら訊ねた。
「ご飯、どこで食べましょうか」
「二階のカフェはどうですか?」
「いいですけど……まだ開いてるんですか?」
 確かカフェは七時までしかやっていなかったような。
「とりあえず行ってみましょう」
 彼に促されて階段を上がり、二階のカフェ(波止場)に行った。
 自動ドアの前には(closed)と書かれたボードが置かれているが、店内はまだ明かりがついている。
 普通にドアから入っていく彼のあとに続いていくと、椅子に座っていたエプロン姿の男性が振り返った。
「来たね。お好きな席にどうぞ」
 エプロンの彼は立ち上がるとにっこりと笑い、奥へ消えた。
「ここにしましょう」
 典十さんは真ん中あたりの席を指差した。
「映画が観やすいので」
「映画?」
 店内の明かりが消えると、白い壁に映像が映し出された。天井を見上げるとプロジェクターが設置されている。
「ここでたまにミニ試写会をするんです。今夜はこれから映像チェックをします」
 再び明かりがついて、さっきの男性が戻ってきた。エプロンはもうしていない。水の入ったグラスを置くと、私に笑いかけた。
「普段は僕がやるんだけど、どうしてもって中上君が言うんで代わってあげました。僕は瀬野航(せのわたる)といいます。よろしく」
「青柳賛歌です」
「よく聞いてますよ。パン職人さんなんですよね。グラタンはお好きですか?」
「好きです」
「それはよかった。今夜のメインがグラタンなんです。料理は厨房に用意してあるので温めて食べてください。じゃあ鍵はここに。しっかり戸締りして帰ってよ」
 瀬野さんは典十さんの肩を軽く叩くと、出口に向かって歩いていった。その背中に、おつかれさま、と典十さんは声をかける。
「じゃ、用意してきます」
「お手伝いします」
「そうですか? じゃあ一緒に行きましょう」
 奥の厨房は思ったよりもこじんまりとしていた。二人ぐらいで作業するのにちょうどいい感じの広さだ。
「そういえば嫌いな食べ物ってありますか?」
 彼はオーブンを覗き込んでから火をつける。
「特にないです。なんでもよく食べるんで」
「じゃあ、キャロットスープも平気ですね」
 典十さんが鍋の蓋を開けると、淡いオレンジ色のスープが現れた。ガスレンジにも火をつける。
「おいしそうですね」
「甘くておいしいですよ。冷蔵庫にサラダが入ってるんで、出してもらえますか?」
「はい」
 ラップがかかったお皿を二つ取り出しながら、私は訊ねた。
「今日はお仕事、早く終わったんですか?」