そのカフェは映画館の二階にあって、クリーム色の壁にカモメの絵が描かれていた。下の映画館よりも人が多く、特に若い女性客の姿が目立つ。
「このカフェ人気みたいですよ。映画観ない人も利用するみたいで」
「ここ、昔はなかった気がする」
「三年前にできたそうですよ」
 もしかすると、カフェの収入で映画館を支えようとしているのかもしれない。(ガッビアーノ)はいつ来てもお客が少ないのに、よく潰れてないなと不思議だったのだ。
 ハンバーグがのったオムライスが人気らしいが、私たちはお昼をすましていたので、チーズケーキと紅茶だけにした。
 ひかるちゃんは主演の俳優が気に入ったらしく、彼のルックスと演技だけを褒めた。残酷なシーンには触れなかったので私はほっとした。手の震えはもうおさまっている。
 今日のひかるちゃんはとても明るい雰囲気で、このまえ温泉で幽霊が見えると告白した時の思いつめた様子とはまったく違っていた。
 彼女はいろいろと深い悩みを抱えているようだけれど、藍さんのような従姉妹がいることがわかって、私は安心した。
 とても親しくしているようだし、いろんな相談もしているかもしれない。夢枕に立つお兄さんのことも。
 そう考えると、私はちょっと気が楽になった。



 翌々日、仕事がはじまって日常が戻ってきた。
 午後からやってきた真衣さんは浮かない表情だった。
 お客さんが途絶えると、ねえ聞いてよとため息まじりに息子さんの話をはじめた。
「年賀状に書いたでしょ。満(みつる)がスマホなくしちゃったこと」
 満君というのは真衣さんの息子さんで、いま中学三年生だ。下に中学一年生の妹の里那(りな)ちゃんがいる。
「見つからなかったんですか?」
「川に落としたらしくて」
「川ですか」
「ココの散歩で土手に行って、写真撮ってる時に手を滑らせて落としちゃったらしいの。信じられないでしょ」
 スマホは高価だし、買ってあげて間もなかったのならなおさらショックだ。
「でも私も洗濯機で洗ってだめにしたことありますよ」
「洗濯機? なんでまた」
「コートのポケットに入れっぱなしで、帰宅してすぐに洗濯しちゃったんです」
「あら……」
 真衣さんは紙袋の補充をしはじめたが、また大きなため息をついた。
「元気だしてください。今度はスマホの保険とかに入ってみたらどうですか?」
 彼女は曖昧な表情を浮かべた。
「本当は満、嘘ついてるんじゃないかと思って」
「嘘?」
「なんとなくそんな気がするの。川に落としたっていうのもなんか変だし、本人があんまり悔しがってないように見えるのよね。普通、欲しかったスマホをだめにしちゃったら、すごくショックを受けるものでしょ? でも、新しいのを買ってくれとも言わないし、スマホのことはもういい、みたいな態度なの」
 確かにそれは少し妙だ。
「でも、すごく反省してるだけかもしれませんよ。スマホが高いことはわかってるでしょうし、すぐに別のを買ってもらうのは悪いと思ってるんじゃないですか?」
「うちの子、いじめられてるんじゃないかしら」
 ぼそっと真衣さんは呟くように言った。
「スマホをなくしてから、なんか様子がおかしいのよ。口数が少なくなったし、あんまり笑わなくなって……」
 満君は受験生だが、引退するまではサッカー部の部長だったと聞いている。明るくて勉強もでき、クラスの中心的人物で友達も多いと、前に真衣さんは自慢していた。
「いじめはどうなんでしょう……満君、お友達は多いんですよね?」
 真衣さんは口を押さえてこくこく頷いた。ずずっと鼻をすする。彼女は泣きだしていた。
「真衣さん、大丈夫ですか? 奥でちょっと休んでください」
 私が慌てて彼女を奥に連れていこうとすると、タイミング悪くお客さんが入ってきた。まずいと思いながらいらっしゃいませと振り返ると、典十さんだった。
 彼は驚いたように私と真衣さんを見ている。
「大丈夫ですか? ご気分でも……」
 典十さんが言い終わる前に、真衣さんはスタッフルームに駆けこんでいった。ぼうっと立ち尽くす彼に、すみませんと私は頭を下げる。
 彼は頷いて、いつもと同じ三点セットをトレーにのせていった。今日はリラックスした服装をしている。スウェットパンツに黒いニット帽。これはこれでおしゃれだ。
「今日はお仕事じゃないんですか?」
 私が訊ねると、彼はにっこり笑いながらレジにやって来てトレーを置いた。
「今日まで休みなんです。大晦日まで出ましたからね」
「ゆっくり休めました?」
「ええ、だらだらしてました。賛歌さんは?」
「私も同じです」
 彼はちらっとスタッフルームの方を見た。真衣さんはまだ戻ってこない。
「あのかた、大丈夫ですか?」
「ええ、心配しないでください」
 典十さんからお金を受け取り、お釣りを渡す。エコバッグにパンをつめる彼の手はほっそりとしてとてもきれいだった。
 あの、と私は声をかけていた。
「私、もう仕事が終わるんですけど、よかったら一緒にパンを食べませんか? 前日の売れ残りのパンをいつも多めにもらうので」
 彼は驚いたように私を見たけれど、すぐに笑った。
「じゃあ、外で待ってますね」
「はい、じゃああとで……」
 典十さんが出ていくと、そっと奥から様子を窺うようにしながら真衣さんが戻ってきた。
 目は赤いがもう涙は止まっている。彼女は照れ笑いを浮かべていた。
「ごめんね、急に泣いたりして」
「いいんですよ。もう大丈夫ですか?」
 真衣さんの腕をさすると、彼女はぎゅっと私の手を掴んだ。
「ちょっと気弱になっちゃった。私としたことが。明るくいないとね」
「そうですよ。私、いつでも話聞きますから」
「ありがと。今度ちゃんとあの子と話してみる」
「それがいいですよ」
 休憩から鉄郎さんと房子さんが戻ってきて、私は急いで帰り支度をして店を出た。
 典十さんは店の前でコーヒーを飲みながら待っていた。
「すみません、お待たせして」
「いえいえ。ご苦労様です。はい、これどうぞ」
 彼は私にもコーヒーをくれた。わざわざコンビニで買ってきてくれたようだ。
「どこで食べましょうか?」
 彼はきょろきょろと周囲を見まわす。
 考えなしに誘ったのを早くも後悔していた。
「寒いけど、公園でもいいですか?」
「もちろん。今日は日差しも暖かいし」
 確かに晴天で風もないが、一月上旬の気温はさすがに低い。
 それでも他によさそうな場所が思い浮かばなかったので、私は彼を近くの小さな公園に連れていった。
 寒いせいか公園には誰もいなかった。すまない気持ちになりなりながら、彼と並んでベンチに座る。
 そのときにしまったと青ざめた。
 私、スウェットにデニムパンツだ。
 せっかくワンピースやスカートを買ったのに、よりによってこんな格好のときに会うなんて。しかもぼろいリュックだし。
「やっぱりいつもお昼はパンなんですか?」
 彼は買ったばかりのカレーパンを齧りながら訊ねた。
「ええ、前日の売れ残ったパンを食べることもありますし、自分でサンドイッチを作ってくることもあります。簡単なものですけど」