去年の文化祭の夜から、昊が一緒に寝てくれなくなった。それまではどちらかのベッドで交代で寝ていたのに。眠くなるまでゲームをして話をして楽しかったのに。眠ったあとの昊の綺麗(きれい)な顔を見るのが楽しみだったのに。先に起きた昊が、俺の顔にイタズラをするのが嬉しかったのに。なのにどうして?文化祭の日に何があった?
理由を教えてほしいと何度聞いても、昊は「中学生にもなって兄弟で寝るのはおかしいだろ」としか言わなかった。
なんでだよ。今までそんな態度、微塵(みじん)も見せなかったくせに。急にどうして。
俺は嫌だとごねたけど、いつもなら最後には折れてくれるのだけど、昊は「だめだ」と言って部屋の扉を閉めたんだ。
翌日の休み時間に夏樹を見つけて昊に何かあったのかを聞いた。聞いた瞬間、夏樹の目が(かす)かに泳いだ気がしたけど、いつもの穏やかな表情で「何もないよ」と言う。

「ほんとに?」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「昨日から昊の様子がおかしいから」
「そうなの?昨日も今日もいつもの昊だけど?」
「だってさ…夜、一緒に寝てくれなくなった…」
「ふはっ!青はかわいいなっ」
「なに笑ってんだよ」

俺は夏樹を睨んだ。
夏樹は笑いながら手を伸ばして俺の頭を撫でる。

「青は昊のこと大好きだな。俺も青みたいな弟が欲しかったな」
「ちっ…」
「怒るなよ。俺は昊も青も好きなんだ。大切な友達だ。だから仲良くしろよ」
「別に喧嘩はしてない」
「そう?今朝の昊、元気がなかったぞ。青が喋ってくれないって」
「怒ってはいない…拗ねてるだけだ」
「そーゆーとこ」

夏樹が俺の頭から手を離して「あ」と声を出した。

「そうそう、昊が駅近くにできたカフェのフラペチーノ飲みたいって言ってたよ。サッカー部は今日も部活ないんだろ?一緒に行ってやれよ」
「夏樹は?」
「俺は部活あんの。あとな、昊は照れくさいだけなんだと思うよ、青と寝るのが。それにおまえ身体デカいじゃん。かなり窮屈(きゅうくつ)なんじゃねぇの?」
「でも…俺は寝相(ねぞう)悪くない」
「青は甘えんぼうだなぁ。別に一緒に寝なくなってもいいじゃん。同じ家に住んでるんだから、寝るまでお互いの部屋で話せるだろ?それに昊は、そろそろ真剣に受験勉強を始める。おまえより遅くまで起きてる。気を使ったんだよ、きっと」

まあ、知らないけど…と小さくつけ加えて、夏樹が離れて行く。
「気を使うってなんだよ」と呟いて、俺はポケットからスマホを出した。

放課後、昊と待ち合わせてフラペチーノを飲みに行った。
「わがまま言ったお()び」として俺が支払うと、昊は「悪ぃな」と笑った。
その笑顔を見て、()ねてることがバカらしくなった。そうだ、夏樹が言ったとおり、別に一緒に寝れなくてもいい。同じ家にいて毎日会えるんだ。目を見て話ができるんだ。それでいいじゃん。
本当は「好きだから一緒に寝たい、触れていたい」と言いたい。言えたらどれだけ良かっただろう。俺の気持ちを昊に知ってもらいたい。だけどそれをしてはダメだ。昊は優しいから俺を拒絶したりしないけど、軽蔑(けいべつ)の目で見るかもしれない。俺が近づくと怖がるかもしれない。だから俺の気持ちは、決して悟られてはいけない。

「これ甘さ控え目でうまいな。もう一杯飲もうかなぁ」

嬉しそうな昊の声に、俺は思考を止める。
俺もフラペチーノを半分ほど一気に飲んで「冷て」と額を押さえた。

「一気に飲むからだろ。味わえよ」
「喉かわいてたから止まんなかった。てか昊、あんまり飲むと腹壊すよ?」
「大丈夫」
「よく壊してんじゃん」
「最近は大丈夫なの知ってんだろ」
「まあ…そだけど」

昊は最後までスズっと飲み干すと「買ってくるわ」と席を立った。
俺は息を吐いて、レジに並ぶ昊を見つめる。
甘いものが好きなかわいくて綺麗な俺の兄。大切な人。前後に並ぶ女の子達よりも綺麗だ。
その時、昊が手に持ったスマホを見て険しい顔をした。だけど俺の視線に気づいてすぐに笑う。
どうしたのだろうと気になったけど、戻ってきた昊が、幸せそうにフラペチーノを飲む姿を見ているうちに、どうでもよくなった。
そして案の定、家に帰ってから昊は、腹を壊してトイレにこもることになる。

文化祭の後から一緒に寝なくなったこと以外にも、気になることがある。
昊が休みの日によく出かけるようになった。夏樹と塾に行ってると思っていたけど、塾がない日にも出かける。昊に聞くと、図書館で勉強してると言う。昊の言うことを疑う訳じゃないけど、俺は昊の様子がおかしいと感じていた。でも昊が追求してほしくなさそうだったから、突っ込んでは聞かなかった。
そして月日が過ぎ、昊は夏樹と共に志望校に合格して高校生になる。それと同時に俺の目標もできた。二年後、必ず昊と同じ高校に行く。
昊が高校生になって学校で会えないのは残念だけど、家では会える。寝る前には話をして休みの日には共に出かけることもある。春休み中には家族旅行に行った。夏休みにも行く予定だ。そんな風に昊との思い出が増えるだけで、俺は十分幸せを感じていた。
なのに、その幸せが壊れた。

七月頭の土曜の午後に、突然篠山が家に来た。コンビニに行こうとしていた俺は、モニターを確認せずに扉を開けた。目の前に嫌いな先輩がいて驚くと同時にイラついた。昊に会いに来たと思ったからだ。
俺は思いっきり嫌そうに「何か?」と聞いた。
しかし篠山は、俺じゃなくリビングから出てきた昊を見ている。

「俺は昊に会いに来たんだ。森野に用はない」
「は?昊に何の用だよ」

何コイツ。なんで昊って呼び捨てにしてんの?
篠山が昊に向けて嫌な笑顔を見せる。

「あれ?聞いてない?俺と昊は、去年から付き合ってるんだぜ」
「はあっ?」

なんだそれ!そんなの聞いてないっ。昊が?篠山と?昊はこんなヤツが好きなのか?
俺はショックと怒りで頭の中が真っ白になる。
いつかは昊に好きな人ができて俺から離れてしまうと思っていた。それは仕方がないことだとも思っていた。だけど…嫌だ。実際に()の当たりにすると耐えられない。なんで?なんでだよ…昊。俺だって好きなのに。ずっとずっと好きなのに。
ふと後ろで昊の声が聞こえた。

「……だ」

俺は振り返り「なに?」と聞く。自分でも驚くほどの冷たい声だ。
昊は、(おび)えたように俺を見た。そして伸ばした俺の手を避けると、玄関で靴を()き篠山を(ともな)って出ていった。
その間俺は動けなかった。出ていく昊を止められなかった。篠山の言葉がショックだったから。それに昊も否定しなかった。篠山が勝手に言ってることなら、昊は即座に否定したはず。なのに否定せず、しかも一緒に出ていった。

「嘘だ……くそっ」

俺はその場に座り込み、昊と篠山のことをグルグルと考えていた。しばらくしてポケットの中のスマホが震える。慌てて出して見ると、颯人から電話だった。重い腕を上げてスマホを耳に当てる。

「…はい」
「青?どうした?元気ねーな」
「なんか…どうでもいいっていうか」
「なんかあった?課題で解けない問題があったから聞こうと思ったんだけど、今から行ってもいい?それか俺ん家に来る?」
「動きたくない…から、来て」
「わかった。何でも聞くから話してくれよ」
「うん…」
「じゃあ後で」

プツと電話が切れ、ゆっくりと腕を下ろす。
ダメだ、ショックが大きすぎて頭が働かない。颯人に聞いてもらったら、少しは気持ちが楽になるだろうか。
俺は昊が戻ってくるかもと玄関の扉を見つめ続けていたが、昊が戻ってくるよりも先に、颯人が来た。

扉を開けた俺を見るなり、颯人の顔が曇る。「大丈夫かよ」と優しく俺の背中を押して玄関を上がる。

「今一人?昊やおばさんは?」
「母さんは仕事でいない。昊は……」
「わかった。とりあえず青の部屋に行こう」

颯人に腕を引かれて二階へ行き、俺の部屋に入った。
俺は力無く床に座り、颯人がガサゴソと机に置いたビニール袋をぼんやりと見つめる。

「飲み物買ってきたぞ。で、どうしたんだ?」

ビニール袋から炭酸水を出して、俺に渡しながら颯人が隣に座る。
俺はペットボトルについた水滴を指でなぞって、息を吐いた。

「篠山…って、覚えてる?」
「うん。昊に付きまとってた先輩だよな」
「今日、家に来た」
「えっ、もしかしてまだ昊に付きまとってんの?ストーカーじゃん」
「それならまだ良かった」
「へ?なんで?」

俺はTシャツを強く握りしめた。エアコンが効きすぎなのか、手足の先が冷たくて震える。
昊…今どこにいるんだよ。篠山と、何してる?
黙って俯く俺の肩に、颯人が手を乗せる。その手が温かくて、俺の凍えた気持ちが、ほんの少しだけ溶けた気がした。

「話すの辛い?」
「…いや、聞いてほしい」
「うん、で、篠山さんは何しに来たんだ?」
「昊に会いに来たって。去年から付き合ってるって」
「えっ!マジで?」
「たぶん…ホント。昊も否定しなかった」
「…それで?」
「そのまま二人で出ていった。俺はショックで…出ていく昊を止めることも追いかけることもできなかった」
「そう」

そう呟いて颯人が黙った。
あまりにも静かなのでソっと顔を上げて横を見ると、颯人が俺を見つめていた。

「なに…」
「なあ、確認だけど、青の気持ちは変わってねぇの?」
「うん…変わらない。俺は昊が好き」
「そっか。そのこと、昊は知ってる?」
「知らない…し、言うつもりもない」
「まあ、そうだよな。でもさ、自分の気持ちを隠してるの、辛くない?どうするかは青の自由だけど、俺は気持ちを伝えてもいいと思う」
「無理だ。昊に嫌われたら生きていけない」
「昊は、青の気持ちを知っても嫌わないと思うよ。羨ましいくらいに、おまえら仲良いじゃん」
「それは…俺が弟だから。だから優しくしてくれるんだ。でも、俺が昊に(よこしま)な想いを抱いてるって知ったら、きっと軽蔑(けいべつ)する」
「おまえの想いは邪じゃねぇよ。尊いよ」
「颯人…うん…ありがとう」

後ろめたく感じていた俺の想いが救われる。颯人にはいつも(はげ)まされ助けられている。颯人がいなければ、俺の気持ちは、口から出されることも無かっただろう。

「それで…青はどうすんの?」

颯人が手に持った水を一口飲んで、再び俺を見る。
俺はペットボトルを床に置くと、大きなため息をついた。

「…どうもしない。俺は何も言えないしできない」
「まあそうか。あ、俺が昊に聞いてみようか?」
「なんて?」
「篠山さんのこと、好きなのかどうか」
「いい。聞いて肯定されたら、立ち直れない」
「でもさ、このままじゃモヤモヤし続けるだろ?この際、はっきりさせた方がいいと思う。俺は青の気持ちを尊重してる。だけどもし本当に二人がつき合ってるなら、気持ちに区切りをつけて、青も前に進んでほしいとも思ってる」
「どういうこと?」
「青も誰かと付き合ってみたらってこと」
「…無理」
「ふはっ、想像通りの反応。わかってたけどな」
「じゃあそんな事言うなよ」
「そうだな…ごめん」

颯人が軽く笑ったので、俺もつられて少しだけ笑った。
「でもなぁ」と颯人がベッドに背中を預けて天井を(あお)ぐ。

「俺が勝手に思ってるだけなんだけどさ、篠山さんって昊のタイプじゃない気がする」
「俺も…そう思ってた」
「だよな?篠山さん、チャラいところあんじゃん?昊は青みたいな(さわ)やか系が好きだと思うんだよなぁ」
「ありがとう。うん…、もし俺が弟じゃなかったら、俺にも可能性があったかな」
「ある!篠山より断然!ある!」
「ふっ、颯人にそう言われると、そうかなと思えてくるよ」
「あっ、なぁ、夏樹さんなら詳しいこと知ってるんじゃね?」
「あー、そうかも」
「聞く?」
「不審に思われないかな…」
「大丈夫だろ。夏樹さんも、青と昊が仲良いの知ってるし」
「うん…」
「じゃあ聞いてみるか」

颯人が床に置いていたスマホを手に取り、片手でタップする。
俺は慌てて颯人の腕を掴んで止めた。

「えっ、ちょっ!今?」
「今。早い方がいいじゃん。わかんないままだと、ずっと気持ち悪いじゃん」
「でも」
「ついでに暇そうなら来てもらおうよ」
「おまえ…強引だな」
「まあな」

明るく笑う颯人を見て、俺は苦笑する。
颯人は、昔から強引なところがある。困る時も多かったけど、助けられたこともあったなぁと懐かしく思って息を吐いた。

夏樹はすぐに来た。塾終わりで、昊に会うために近くまで来ていたらしい。
颯人が玄関で夏樹を迎え、部屋まで連れてきてくれた。

「よお。青が俺を呼ぶなんて珍しいな。どした?」
「塾で疲れてるのにごめん」
「大丈夫だ。どうせ昊に用事があったし。で、昊はどこ行ったん?」
「…篠山が来て、一緒に出てった」
「…は?」

夏樹が渋い顔をして、俺と颯人の前に座る。そして「マジかよ」と呟き、腕を組んで天井を(あお)いだ。

「夏樹は知ってた?」

「ん?」と顔を下ろして夏樹が俺を見る。

「なにを?」
「昊が篠山とつき合ってること。去年からだって」
「あー…まあな」
「なんで教えてくんなかったの?」
「いや…あんまり公にできる話でもないかなと思って…ごめんな」

夏樹が腕を(ほど)いて頭を下げた。年下の俺にも、夏樹は素直に謝ることができ、対等に接してくれる。根っからの良い人なんだと思う。
夏樹はもう一度、腕を組み直すと「でもなぁ」と再び呟く。

「なに?」
「昊さ、篠山があまりにもしつこくて、仕方がないからつき合うことになったみたいだけど、友達みたいな関係だったぞ?それに高校が離れたから、もう別れてるんだと思ってた。実際、会ってなかったはずなんだけど」
「そうなの?」

俺は少し安心した。つき合ったけど友達みたいな関係って、ただの友達じゃん。昊に確かめてみないとわからないけど、夏樹の話からすると、恋人のような深い関係ではなさそうだ。もしも二人の間に何かあったとしたら、昊の態度で気づく自信がある。二人がつきあい始めた頃から今まで、昊に変な様子はなかった…。あ、一度あったな。俺と一緒に寝なくなった日。そうか、あの日からつきあい始めたんだな。だから昊の様子がおかしかったんだな。
俺は納得して頷くと同時に、どうしてあの時、もっと深く昊に話を聞かなかったのかと後悔した。夏樹は、昊は仕方なく篠山とつき合うことになったと言った。何か弱味を握られているのかもしれない。俺が話を聞いていたら、昊を助けてあげられたかもしれない。でも、今からでも遅くない。昊が帰ってきたら聞いてみよう。昊を篠山から守るんだ。

「ねぇ夏樹さん。その、仕方なくって何か理由があるの?」

颯人が、俺が気になっていた疑問を口にする。
俺と颯人が夏樹を見たけど、「悪い。俺は知らない」と夏樹が首を横に振った。
そうか、と俺は肩を落とした。
しかし颯人は、夏樹から目をそらさずジッと見つめていた。