君の生まれた日のことは、曖昧(あいまい)にしか覚えていないけど、俺がなぜこの世にいるのかという意味を、理解した。

君に会えるのを待っていたよ。

俺は、二年待ってやっと君に会えた喜びに、大きな声で泣いてしまったんだ。



(こう)、今年も桜が咲き始めたよ。俺が弁当を作るからさ、二人で見に行こうよ…」

青が、ベッドで眠る俺に話しかける。
毎日俺に会いに来てくれていることは、知っている。
そして、いつも俺に話しかけては抱きしめることも知っている。
俺も(こた)えたいとは思うけど、身体が思うように動かない。

担当医が話していた。
脳波に異常はない。
身体の傷も治り、どこも悪い所もない。
なのに意識が戻らないのは、何か精神的な要因があるのだろうって。

わかってる。俺は目を覚ますことが怖い。
起きて青と向き合うことが怖い。
だからごめん…青。
このまま、俺を眠らせて。



俺には、二つ下の弟がいる。
名前は青。
背が高くてかっこよく、とても優しい自慢の弟だ。

風呂場を出て洗面所で身体を拭き、ふと鏡に映る自分を見る。
白い肌に所々赤い点がついてることに気づき、大きく息を吐いた。

「なにこれ…。あれだけ(あお)はつけるなって言ったのに、バカなの?」

胸にある赤い跡を指で強く押して、隠すように急いでTシャツを着る。
適当に髪の毛を拭いて、タオルを洗濯機に放り込む。
すぐに自分の部屋に戻ろうとしたけど、喉が(かわ)いたので仕方なくリビングに向かう。
静かにドアを開けると、青がキッチンで食器を洗っていた。
無言でキッチンに入り、冷蔵庫から水を取り出す。
その時いきなり青が俺の腕を掴んで「これ、どうしたの?」と聞いてきた。
俺は、青の濡れた手の冷たさと、青に触れられたことに少し肩を揺らせて「なんでもない…離せ」とその手を振り払った。
目を合わせずにリビングを出て部屋に入る。
(ふた)を開けて飲むこともなくペットボトルを机に置くと、青に掴まれた腕を見つめて震える息を吐き出した。

青…容易(たや)すく俺に触れるな。触れちゃダメなんだ…。

ぽふんとベッドに寝転んで、俺はそっと目を閉じた。まぶたの裏に幼い青の顔が浮かぶ。
俺は昔のことを、ゆっくりと思い出した。



青を守ろうとして怪我をした日から、青が俺から離れなくなった。
元から俺にべったりな可愛い弟だったけど、以前よりも更に俺の(そば)にいる。
俺はそのことがとても嬉しかったけど、辛くもあった。
青が俺の傍にいるのは、負い目を持ってるからだ。
俺の怪我が、自分のせいだと強く思ってるからだ。
俺が何度も「青のせいじゃない」と言っても、納得しない。
風呂で俺の傷を見ては、悲しそうな顔をする。
青のそんな顔を見る度に、俺も辛くなるというのに…。
俺は、青の太陽のような明るい笑顔だけを見ていたい。

夏が来てプールの授業が始まった。
背中に傷のある俺は、両親が学校に頼んでくれたことから、特別にラッシュガードを着てもいいと許可されていた。
でも、着替える時にはどうしても傷跡が見えてしまう。
背中だから自分ではよく見たことはなく、当たり前だけど気持ちのいいものではないようだ。

プールの授業が始まって数日経ったある日、俺の傷跡を見た一人の男の子が、青い顔をして保健室に連れて行かれた。
そしてその夜、男の子の両親が、俺の家に苦情を言いに来た。

「息子さんの傷跡を見て、うちの子が具合が悪くなった」
「可哀想だとは思うけど、うちの子がトラウマになったらどうしてくれる」
「いっそのこと、プールの授業は休んだらどうか」
「そんな気持ち悪いもの、他の子達も見たくないだろうから、特別に休んだとしても皆納得すると思う」

そう一方的にまくし立てて、帰って行った。
両親にリビングから出ないように言われていたから、青と二人でテレビを見ていた。だけどあの人達が興奮して大きな声で話すものだから、全部聞こえてしまった。
俺は、ただぼんやりと『そうか、俺の背中は気持ち悪いのか、そんなの見せて悪かったな』と心の中で思っていた。
すると突然、俺の身体が暖かいものに包まれた。
驚いて目を見開くと、青が必死でしがみついている。

「…青」

普通に出したつもりの俺の声が、震えていた。

「昊…泣かないで。あんなの、うそだよ。ちょっと赤くなってるだけだからっ。大丈夫だから…泣かないでっ…」
「あ…お…」

俺の肩に顔を埋めて、くぐもった声を出す青の言葉で、自分の声が震えている原因を知る。

俺、泣いてる?だめじゃん…。青が気にしちゃう…。

俺は、慌てて手の甲で()れた頬を(ぬぐ)うと、青の背中を優しく無でた。

「大丈夫…ちょっと驚いただけ。あの人達、怖いね。でも平気だ。あんなこと言われたのが青じゃなくって良かった。青が言われてたら、俺、あの人達に怒鳴ってたかも」

ふふっと笑うと、青がそっと顔を上げた。
その顔を見て、更にふふ…と笑う。

「…なんで青が泣いてんの」
「わかっ、わかんないっ…けど、昊のこと悪く言われて怒ってんのっ」
「そっか…ありがと、青」

再び顔を埋めた青の頭を()でていると、大きな手が俺の頭に乗せられた。
顔を上げると、父さんが、とても優しい目で俺を見ていた。

あの人達は、当然学校にも抗議をしていたようだ。
翌日、担任と校長が家に来て、注意されるのかと思いきや、俺と両親に(あやま)ってくれた。
そして授業は普通に受けていいと言ってくれたけど、傷跡のことで他人に責められるのに疲れてしまった俺は、プールの授業は出ないと決めた。
両親も俺の気持ちを尊重して先生に頼んでくれたので、プールの授業の間は、教室で自主勉強をすることになった。

週明けに教室に入ると、気分が悪くなったという男の子と目が合った。
男の子は、バツが悪そうに目を()らせたけど、俺は(かま)わずに彼に近づいた。
彼が、肩を揺らして俺を見る。

「な…なにっ?」
「…ごめん。俺の傷跡が怖かったんだろ?見せるつもりはなかったんだけど、嫌なもの見せちまって悪かったな」

それだけ言って、窓際の自分の席に着く。
頬杖をついてぼんやりと外を(なが)めていると、今度は彼が俺の(そば)に来た。

「あの…」
「なに?」
「俺の方こそごめんっ!っていうか、俺の父さん母さんがごめんっ!おまえん家に怒鳴り込みに行っただろ?俺…一応止めたんだ…。だけど怒って行っちゃって…。おまえの方こそ嫌な思いしただろ?本当にごめんな。それに…俺はもう大丈夫だからっ。ちょっと驚いただけだからっ。だから気にするな!」

俺は驚いて彼を見た。
もう俺とは話したくないと思っていた。
なんなら、俺の姿でさえ見たくないと思っていた。
それが、まさか謝られるなんて。
彼の両親は怖かったけど、彼は本当はとても優しいのかもしれない。

「わかった。ありがとう、夏樹くん」

俺は彼の名前を呼んでにこりと微笑(ほほえ)んだ。

この日から、俺と夏樹は仲良くなった。
中学高校と夏樹も含め数人が同じ所に行ったけど、親友と呼べるのは夏樹だけだ。
そして俺の本当の気持ちを知ってるのも、夏樹だけなんだ。


俺と青は、ずっと仲が良かった。
喧嘩(けんか)をしたこともなかった。
それは俺が青を怒れないということもあったし、青も俺を怒らせるようなことをしないからだ。
俺と青は、何をするにも一緒だった。
学校に行く時も帰る時も、ご飯を食べる時もお風呂に入る時も、そして寝る時もどちらかのベッドで一緒に眠る。
だけど常に一緒の俺達はおかしいのかもしれないと、中一の時に気づいた。

中一にもなると、クラスの男子の中には、ちらほらと好きな女の子が出来る子がいた。
話の話題も、誰が可愛いとかの話になる。
教室の窓際の俺の席で、俺と夏樹が、帰りに何か食べて帰ろうと話していると、隣に集まっていた三人の内の一人が、話しかけてきた。

「森野と宮下、おまえらは好きな奴いねぇの?」
「いないよ。昊は?」
「俺もいない」

その男の子は、どこか安心したような顔をした。

「そっかぁ。おまえらイケメンだからさ、彼女がいるのかと思ってた!」
「あはは!ありがとう。でも俺は別にイケメンじゃないけどな。それに今は部活してる方が楽しいし」
「夏樹、サッカー上手(うま)いもんな。俺も弟と遊ぶ方が楽しいかな」
「あー、昊は青と仲いいよな」

俺と夏樹の会話を聞いて、男の子は「えっ!」と驚いた顔をした。

「なんだよ。大きい声出して」
「いや…えっ?森野って弟と仲いいの?弟って何歳?」
「二つ下だけど…」
「俺、三個下の妹いるけどさ、喧嘩ばっかだぜ?それか男同士の方が喧嘩しないもん?」
「さあ…。他の家は知らないけど、俺は弟と喧嘩したことないよ」
「へえっ、(めずら)しいなっ」
「青は昊には素直だもんな。俺には突っかかってくるけど…」

俺は青のことが可愛い。たとえ青が我儘(わがまま)を言っても、きっと笑って許してしまう。
他の兄弟がいる人達も、皆そうだと思っていた。俺達兄弟は、他の兄弟よりも少し仲が良いかなとは思っていたけど、皆同じだと思っていた。
でもそうか…。もしかして俺と青みたいに仲が良すぎるのは、珍しいのかもしれない。
黙って考え込んでしまった俺に、夏樹が明るい声を出した。

「昊が優しくて出来た兄ちゃんだから、青も昊には素直なんだよな。おまえさ、妹には優しくしてるのかよ?」
「…してない。だってあいつ、我儘なんだよっ」
「妹の我儘なんて可愛いもんだろ。優しくしてたらさ、可愛い友達を連れて来るかもよ?」
「えー?小学生になんて興味ねぇ」
「まあ確かに…」

話してる途中で授業開始のチャイムが鳴った。話していた子は自分の席に戻り、夏樹も俺の肩を叩いて席に戻る。
俺は、ぼんやりと窓の外を(なが)めて、青のことを考えた。

青と仲が良い俺はおかしいのだろうかという思いが、常に胸の中に重たくのしかかったまま二年が過ぎて、青も中学生になった。
この頃には青の方が身体が大きくなっていて、二人並ぶと青が兄だとよく間違われた。
それに青の顔つきが精悍(せいかん)なものになってきて、とてもかっこいいと人気で女子にモテていた。

朝は青と一緒に登校し、帰りも青が教室まで迎えに来るから一緒に帰る。
そのせいで、クラスの女子に「弟を紹介して」としつこく頼まれて俺は困った。
あまりにもしつこかったので、そのことを青に伝えると、青はなぜか怒ってしまった。
怒って自分の部屋に入った青を追いかけて、俺も青の部屋に入る。
ベッドに寝転んでスマホを触る青は、俺をチラリと見ただけで、またスマホを触り始めた。

「青…ごめん。俺、何かまずいこと言った?」
「…わかんねぇの?」
「うん…わからない」

青は大きく息を吐きながら起き上がってベッドの端に座り、俺を手招きする。
俺が青の隣に座ると、青が俺の腕を掴んだ。

「俺はいろいろ昊に怒ってるよ」
「…え?そんなに?ごめん、言ってくんないとわかんねぇよ」
「はあっ…、そうゆう所も可愛いんだけどさ…」

兄に向かって可愛いはないだろうと不満に思ったけど、顔に出さずに青の次の言葉を待つ。
俺の腕を握る青の手に、力がこもる。

「一つは、中学に入ったからって、なんで一緒に寝るの止めるの?俺は昊の傍じゃないと眠れない」
「え…だって、男同士だしベッドに二人は狭くない?」
「姉や妹と一緒に寝たらまずいけど、男同士は全然いいと思うけど。それに昊も俺も寝相がいいから狭くない」
「う…そう…?」
「あと、女の話を昊の口から聞きたくない。てか何?その昊のクラスの奴ら。話したいなら昊に頼まずに自分で直接話しかければいいじゃん。まあ話しかけられたところで俺は興味ねぇ奴とは話さないけどな!」
「青…」

青はいつもそうだ。
俺と話す時は、いつも優しい顔をする。
青の友達と話す時は、楽しそうにしている。
俺の友達と話す時は、少し(にら)みつけながら。
その他の、特に青に群がる女子達には、とても冷たい顔をする。
そんな、俺だけが特別みたいな態度は困るんだ。勘違いしそうで困るんだ。
だって、この頃にはもう、俺は青が特別だって自覚してたから。
でもたぶん、青が生まれた瞬間から青は俺の特別だった。ずっと良い兄でいなきゃと頑張ったけど、ダメだった。
俺は、青が好きだ。
こんな(よこしま)な想いを抱いていることを、青に知られてはいけない。
青の中で優しい兄の俺が、気持ち悪い兄になってしまう。青が離れてしまう。

俺の想いは届かなくてもいいんだ。
青に嫌われさえしなければ、それでいい。


俺は幼い頃からよく女の子に間違われた。
それは大きくなった今も同じで、私服で出かけた時などは、ナンパされることもある。
たいてい、青のひと睨みで皆逃げてしまうけど。
学校では制服を着てるので、さすがに俺を女と間違える人はいない。
なのになぜか、男によく告白をされる。
俺は青が好きだから、当然断った。
でも皆は、俺が男とつき合うことに抵抗があるから断ったと思うらしく、一度断ったくらいでは諦めてくれない。
そんな中で、特にしつこい人がいた。
俺の隣のクラスの篠山海音(しのやまかいと)。サッカー部で青の先輩だ。
青の忘れ物を届けに部室に来た俺を見て、一目惚れしたらしい。
篠山に告白されたのは、二学期に入ってすぐのこと。
夏休み前に俺に一目惚れをして、夏休み中ずっと悩んでいたと言った。
自分は女の子が好きなはずなのに、この気持ちはなんだと。弟の青を見ても何も思わないのに、俺のことを考えるだけで胸が苦しくなると。夏休み中に一度、街で俺を見かけた。その時にすごく嬉しく幸せな気持ちになったと。ああそうか。俺は森野が好きなんだと認めたら、世界が明るく見えるようになったと。
これらのことを聞かされて、好きだといきなり抱きしめられた。
俺が断ろうと口を開く間も与えずに「好きだ」と連呼する。
俺は篠山が落ち着くまで待って、身体を離した篠山の目を見て、はっきりと「無理」と言った。

「えっ!なんでっ?俺が男だからっ?そんなの取っぱらって俺を見てくれよ!」

俺の肩を掴んで力説する篠山から、顔を背ける。背けた視線の先に、怖い顔をした青がいた。

「とにかく俺は好きな人がいるんだ。だから青山の気持ちには応えらんねぇ。ごめん」

そう一息に言うと、俺は青の方に向かって走った。

「あっ!森っ…昊っ!」

篠山が俺の名前を叫ぶ。
俺は壁の陰に消えてしまった青を追って、壁を曲がった。
その瞬間、何かにぶつかり抱きしめられた。

「いってぇ…あっ、青っ。大丈夫か?」
「俺は大丈夫…。てか、あいつに何言われたの?」
「あー…告白された…」
「ちっ!またかよっ。どいつもこいつもムカつく!昊も呼び出されたらすぐに俺を呼べよ」
「えー。だって今日のは待ち伏せされたんだから仕方ねぇよ」
「…昊はなんて言ったの」
「無理って言った。だって青山のこと、そういう風に見てないし。はあ…本当に困るよ。なんで男にばっかモテるんだろ。俺も青みたいに鍛えた方がいいのかな…」

俺の頬に当たる青の硬い胸を、ゲンコツで軽く叩く。
青がその手を掴んで「ダメだ」と怖い顔をした。