昊とセックスをした翌日、約束の時間に神山さんと会った。かなり精神的に参ってるかもと心配していたけど、顔色も悪くなく、元気そうで安心した。
俺は昊と早く会いたかった。神山さんの話を聞くと言いながら、昊のことばかり考えていた。
昊は今日、柊木と話をしてくると出かけた。大丈夫だろうか。柊木が怒って昊に乱暴しないだろうか。やっぱり俺も一緒に行くべきだっただろうか。心配でそんなことばかり考えていたけど、柊木は乱暴するような人じゃないとわかってる。見た目通りに優しい人だ。付き合う前はしつこく昊に迫ったみたいだけど、ダメだとわかれば潔く引くと思う。
それでも昊と柊木がどうなったか気になって、上の空で話を聞いていると、神山さんが静かに泣き始めた。

「えっ?どうしたの?」
「…青くん…私、怖くて耐えられない。だからお願い。少しの間でいいから、恋人のフリをしてほしい」
「…え?俺が?」
「うん…青くんがいい」

嫌だ。昊以外と、フリとはいえ恋人なんて無理だ。だから正直に言った。「俺には好きな人がいるから、フリでもできない」って。
神山さんは、断られると思っていなかったのだろう。ポカンと口を開けて俺を見ていた。でもすぐに理解して、更に大粒の涙を流し始める。

「どうしても…ダメ?」
「うん、ごめん」
「でもっ、このままじゃ、ストーカーに何されるか…」
「警察には言ったの?」
「言ってない。だって、まだ何かされたわけじゃないから…」
「でも相談した方がいいよ」

神山さんは、ハンカチタオルを顔に押し当てて、俯いていた。しばらくして顔を上げると、「わかった」と頷いた。

「明日、相談に行く。今日はもう、家に帰る。青くん、今日だけ、送ってくれる?ストーカーの人が見てるかもしれないから、今日だけでいいから、彼氏ぽくしてくれる?」
「…わかったよ」

ずっとフリをし続けるのは嫌だけど、今日だけならいいかと了承した。
俺は、この時の判断を、心底後悔することになる。
神山さんが泣いていたことで、多少の注目を浴びていたカフェを出て、神山さんの住むアパートに向かう。駅から十五分ほどの距離を、周りに注意をしながら歩く。俺の目視では、怪しい人の姿は見当たらない。でも神山さんが、見られていると怯えるので、アパートの前から部屋の中までは、神山さんに頼まれて、肩を抱いて入った。こんな場面、絶対に昊には見られたくないと苦笑しながら。
そしてすぐに帰ろうとした所を引き止められ、玄関で少しだけ話をして、アパートを出た。
俺は早く昊に会いたくて、足早に歩いた。途中で昊に電話をかけたけど、出なかった。メールを送ったけど、既読にならなかった。家に近づくにつれて走り出し、玄関に飛びついた。もう帰っていると思っていたのに、インターフォンを鳴らしても、誰も出てこない。もどかしく思いながら鞄から鍵を出して開け、中に入るなり「昊!」と呼ぶ。返事がない。静かだ。玄関に靴がない。

「え…まだ帰ってない?」

急に不安になった俺は、再び昊に電話をかけた。しかし、何度かけ直しても、昊が電話に出ることはなかった。
リビングに入って、もう一度「昊!」と呼ぶ。昊の部屋にも見に行ったけど、帰って来た様子もない。

「え…もしかして、まだ柊木といんの?揉めてるのか?」

ブツブツと呟きながらリビングに戻り、荷物を床に置いてソファーに座る。昊のことばかり考えて失念していたけど、ようやく母さんもいないことに気づく。
そういえば母さんの車が無かった。買い物に行ってる?こんな時間に?仕事が休みの日は、必ず午前中に買い物を済ませる母さんが?
俺は少し考えて、母さんに電話をかけた。でも母さんも電話に出ない。急に不安になり、鼓動が激しく動き始める。
…待って、もしかして、昨夜の行為を見られた?それで母さんは、先に帰って来た昊を連れ出してる?
胸騒ぎがする。母さんが昊を連れ出して、説教をしてるだけならいい。でも母さんは、俺達の関係を知って、おかしくなった時期がある。あれから昊が柊木を彼氏だと紹介したから、ようやく落ち着いたんだ。なのに昨夜の行為を見たなら、ずっと騙されていたのかとショックだっただろう。どうすればいいのかと深く悩んだだろう。そして出した答えは…。
俺は慌てて身体を起こし、三度(みたび)昊に電話をかける。でも出ない。母さんにかけても出ない。ヤバい。止めないと。でもどうやって?そもそも、車でどこに向かったんだ?
恐怖で俺の指が震えている。震える指でスマホをタップして、父さんに電話をかけた。すぐに父さんの声が聞こえた。

「青か?どうした?」
「なぁ、母さんと昊がいないんだけど。どこに行くとか聞いてる?」
「いや。買い物に行ってるんじゃないのか?」
「二人で?違うと思う。なんだか胸騒ぎがして心配なんだ」
「ははっ、大げさだな。すぐに帰って来るだろう」
「父さん」

父さんは軽く考えていたようだが、俺の低い声を聞いて、ようやく深刻な声になる。

「おまえは何を心配してるんだ?」
「…母さん、また情緒不安定になってる気がする」
「今朝は普通だったぞ」
「うん、俺もそう見えたけど…。なぁ、母さんが行きそうな所、わかる?」
「んー…、あっ、そういえば、あちらのお義母さんの体調が心配だから、近いうちに会いに行かなきゃと話してたな。だから実家に行ってるんじゃないか?」
「わかった。確認してみる」
「ああ、頼む。俺もなるべく早く帰るよ」
「うん」

父さんとの通話を切ると、母さんの実家の電話を探してタップする。五回目の呼出音で、ばあちゃんが出た。

「ばあちゃん!青だけど」
「あら、久しぶりねぇ」

優しい声に、少しだけホッとする。どうかそこに昊がいてくれと願いながら、口を開く。

「なぁ、母さんと昊、来てる?」
「え?来てないよ。今日来る予定なの?」

望んでいた答えじゃなかったことに、肩を落とす。そしてますます不安が増してきて、胸がつかえたように重くなる。俺は苦しい胸から絞り出すようにして、言葉を出す。

「…そっか。わかった。急にごめんな」
「なあに?どうしたの?」
「いや…どうもしないよ。ばあちゃん、体調はどう?よくないって聞いたけど…」
「青にまで心配かけてごめんね。元気になってきたから大丈夫」
「ならよかった。でも無理しないで。じゃあ切るよ」
「青も身体に気をつけるんだよ。また遊びにおいで」
「うん」

スマホを耳から離して電話を切る。そしてスマホをソファーに置くと、両手で顔を覆った。

「どこに行ったんだよ…くそっ」

こんなことなら昊のスマホにGPSを設定しておけばよかった。昊が柊木と付き合い出した時に考えたけど、ホテルに行った事実を目の当たりにしたら立ち直れないと思ってやめた。でもこんなことになるなら…。
呻き声をあげ、なんどもため息をついて、再びスマホを手に取る。そして夏樹の名前をタップして呼び出した。
夏樹はすぐに出た。

「青、どうした?」
「夏樹…昊から連絡来てない?」
「来てないけど。なんで?」
「昊と連絡取れないんだよ」
「バイトじゃねぇの?」
「違う。今日は無い日だし。…たぶん、母さんが連れ出した」
「じゃあ買い物にでも行ってるんだろ」
「それも違う」

助けてと言いそうになって、口を閉じる。俺達の問題に夏樹を巻き込んではいけない。でも、俺達のことを知ってる夏樹にしか、相談できない。
スマホの向こうから、夏樹の優しい声がする。

「青、何があった?俺には何でも話せ。俺にできることならするから」
「うん…あのさ、俺、昨夜、昊を抱いた」
「そう…そうか。よかったな、青」
「そんなこと言ってくれるの、夏樹だけだよ」
「俺だけってことない。颯人もおまえと昊の味方だろ」
「うん…」
「それで?」
「たぶん、途中で母さんが帰ってきて…見られたんだと思う。母さんは、一度、俺と昊のことで悩んで、心を壊してる」
「そうか」
「だから、先に帰ってきた昊を連れ出して…」
「青、悪いことは考えるな。本当にそうなってしまうぞ。俺からも昊に連絡入れてみる。連絡取れたら言うから」
「うん、頼むよ」
「落ち着かねぇなら、俺ん家に来るか?」
「いや、昊が帰って来るかもしれないから、ここにいる」
「わかった、じゃあな」
「夏樹、ありがとう」

通話が切れたスマホを眺めて、何度目かわからないため息をつく。苦しくて苦しくて、もう窒息しそうだった。

それからも昊に電話をかけ続けた。切れてはかけ切れてはかけて、まるで精密機械のように無心で動作を繰り返していると、夏樹から着信があった。慌ててタップしようとしてスマホを落とす。急いで拾ってタップして、夏樹が喋るよりも先に聞いた。

「昊に連絡取れたっ?」
「青っ、昊がヤバいかも」
「えっ?どういうこと?」

やめろ、何を言うつもりだ?嫌だ、怖くて聞きたくない。夏樹…頼むから昊は大丈夫だと言って。
そんな俺の願いも虚しく、夏樹の言葉を聞いて血の気が失せる。

「昊から電話があった。明らかにおかしかった。俺に…ありがとうって言うんだよ…まるで最後の言葉みたいに」
「なにそれ…」
「すぐに折り返したけど、出なかった」
「わかった…ありがとう。昊にかけてみるっ」
「あっ、それと祖父母の家にいるって言ってたぞ。だから大丈夫かなとは思ったんだ。だけど…昊が不穏なことを言うから心配でさ。俺も昊にかけるよ。また何かあったら連絡する」
「うん」

夏樹との電話を切り、すぐに昊に電話をかける。呼出音を聞きながら、出てくれと強く願う。だけど昊は出ない。なんでだよ。夏樹に電話したんだから、俺にもかけて来いよ。
だんだんと腹が立ってきた。昊、何しようとしてんだよ。何一人で背負おうとしてんだよ。俺に相談しろよな。くそっ…。
俺はスマホの連絡先から、ばあちゃんの番号を探した。そしてタップしようとした時、メールの着信音がした。慌てて見ると、昊からだった。ドクドクと鳴る心臓が痛い。震える指でメールを開く。
青、愛してる。生まれてからずっと一緒で、幸せだった。ありがとう。父さん母さんのこと、頼むな。青も幸せになれよ。

「なれるわけないだろ…昊がいないと、なれないよ」

スマホをソファーに置いて、顔を両手でおおい、深く息を吐き出した。
なにこれ、最後の言葉みたいじゃん。なんでこんなこと言うの。なんで俺に相談してくれないの。
絶望してソファーに座っていたけど、すぐに立ち上がる。まだ間に合う。昊を助けに行く。昊が死ぬというなら、俺も一緒がいい。でもできるなら、二人で幸せになる方法を考える。
とりあえず昊と母さんは、母さんの実家にいる。駅前でレンタカーをかりて行こう。父さんの帰りを待つよりも早いから。
俺はスマホと鞄を手に玄関へ走り、靴を履いて鍵をかけ、駅に向かって走り出した。
しかし駅に着く前に着信がきて足を止める。母さんからだ。母さんにも連絡が取れなかったから安心した。昊が傍にいるなら、目を離さないよう頼んでおこう。そう思って電話に出た。俺が口を開くよりも先に、母さんの悲痛な声が聞こえた。
母さんからの電話で、昊が事故にあったと知る。スマホから聞こえる母さんの悲痛な声を、ぼんやりと聞いていた。まるでテレビから流れてくるニュースを耳にしているようだ。曖昧に返事をして、父さんと一緒に昊がいる病院へ行くとだけ伝えて、電話を切った。
スマホを握る手を下ろして、俺はその場に立ちつくす。
……え?待って。事故?なんで?俺…間に合わなかった?母さんは事故とだけしか言わなかったから、状況がわからない。昊は、たぶん、死ぬつもりだったはずだ。自分からぶつかった?でも母さんは、相手がいるような口ぶりだった。昊は、人に迷惑をかけることはしない。自分からぶつかったんじゃない。ということは、不運にもぶつけられたのか?
グルグルと頭の中で疑問が渦巻く。昊のことが心配で、早く傍に行かなきゃと思うのに、身体が重く動かない。まさかとは思うけど、絶対に無いとは思うけど、病院に行って、昊の状態を確認するのが怖い。
頭では早く行くべきだとわかっているのに、身体が固まって動かない状態に焦っていると、手の中のスマホが震えた。反射的に画面を見ると、父さんからの電話だった。急いでタップしてスマホを耳にあてる。

「父さんっ」
「青、母さんから聞いたか?いま会社を出た。俺が家に着いたらすぐ出れるよう、用意して待っててくれ」
「わかった」

父さんの声を聞いて、ようやく身体が動いた。
俺は家まで走り、父さんが帰ってくるのを玄関の前で待った。
父さんを待っている時間が、永遠のように感じた。でも実際には三十分ほどしか経っていなかった。待っている間に、母さんに電話をかけたけど出なかった。もっと詳しく聞きたいのに。今、どういう状況なのだろう。昊の状態は?どうか無事でいてと願うことしかできない。早く、早く昊の傍に行きたい。昊に会ったら、もう二度と離れない。ずっと傍にいる。どんなことからも俺が守る。
どうか神様、全ての災厄を俺に降らせていいから、昊を助けてください。
何度も何度も願っていると、ようやく家の前に車がとまった。俺は素早く助手席に乗り込み、「急いで!」とだけ叫んで、病院に着くまで無言で昊の無事を祈り続けた。

病院に着き、案内された病室で昊は眠っていた。生きていたことに安堵して、全身から力が抜けた。その場に座り込みそうになった。しかし医師の言葉に心臓が凍りつく。
昊の身体は、打撲やすり傷だけで、大きな怪我はない。でも頭を強く打ってるらしく、いつ目を覚ますのかわからないと言う。
泣き出した母さんを連れて、父さんが病室から出ていく。医師も父さんと話をするために、出ていった。病室には俺と昊だけ。
俺は、病室に入る前に消毒した手を、昊の顔に伸ばした。滑らかな頬に触れ、昊の名を呼ぶ。

「昊…昊…痛かった?怖かったよな。ごめん…傍にいなくて。もうこんな目には合わせないから…俺が絶対に守るから…だから、目を覚まして」

昊の白い頬に雫が落ちる。
昊が一人で思い悩んで、苦しんでいたことが辛く悲しい。俺に相談してほしかったのに、どうして一人で抱え込んじゃったの?何か理由があった?
でも今は、ただ昊の回復だけを願う。
そして昊が目覚めた時に安心して笑えるよう、ちゃんと両親と話をしようと、俺は涙を拭いて病室を後にした。



季節が巡り年が明けても、昊は目を覚まさなかった。
俺は時間の許す限り、昊の元へ通い続けた。昊に話しかけた。だけど昊からは返事がない。
事故の時に頭を強く打ったらしいけど、脳に異常はないと医師が話していた。だから目を覚まさないのは、本人が覚ましたくないのだろうとも。
でもさ、目を覚ましたくないくらい嫌なことがあるなら、起きて話してくれなきゃ、わかんないじゃん。話してくれたら、俺が全て解決してあげるのに。
事故の相手との話し合いは、父さんが済ませた。昊の入院費と治療費を全て払ってもらうことになっている。父さんと母さんのことも、もう不安に思わなくていい。俺の想いを伝え、昊が目を覚ましたら二人で家を出ると伝えた。俺が働いて、二人で暮らしていくと。父さんはずいぶんと悩んでいた。悩んで考えて時には怒って、でも俺の意思が強いことを知って、承諾してくれた。親の責任として大学の費用は出すから、きちんと卒業しなさいとも言ってくれた。俺は嬉しくて震えた。心から感謝した。いつか必ず学費は返すからと約束した。そして父さんは、泣く母さんに「子供たちが死ぬより、遠くで幸せに生きてさえいてくれた方が、断然いいだろう」となだめてくれた。
父さんが父さんでよかった。きっと心を苦しめているけど、俺は謝らないよ。でも感謝する。俺と昊の関係は、人の倫理から外れているのだろう。だけど、兄弟とか男同士とか関係なく、昊が好きなんだ。きっと昊もそう。離れてしまうと生きていけない。だから一番近い兄弟として生まれてきたんだ。

俺は勉強をがんばった。これから昊を守るためにがんばった。
そして三年の月日が流れた。俺は外資系企業に内定をもらっている。大学を卒業したら家を出る予定だ。もちろん、昊も連れていく。だからさ、昊、それまでには目覚めてよ。憂うことは何もないから、目を開けて俺を見てよ。笑ってよ。そしてその時にはっきりと伝える。

「昊を愛してる。ずっと俺の傍にいて」

肯定以外は受けつけないよ。俺の執着はすごいんだよ。生まれた瞬間から、昊が好きなんだから。そして昊からも聞きたい。「青を愛してる」という言葉を。

ふと窓の外が明るくなった気がして、顔を上げる。いつの間にか雨が止み、雲間から日が差している。
俺はベッドから離れて窓を開けた。その瞬間、桃色の花弁が舞いながら部屋の中に入ってきた。花弁を目で追う。花弁はひらひらとベッドまで届く。そして昊の頬に落ちた。

「桜も昊に見て欲しいってさ」

そう呟いて手を伸ばしたその時、伏せられた長いまつ毛が揺れ、ゆっくりと昊の目が開いた。


(終)